ブランカ・白波の一日は割と忙しい。
学校に通っているわけでもなく、かといってウスワイヤにいるわけでもない。それでも忙しいのは、家の中ですることが多いからだ。
父親はいきなり帰って来たと思ったらまたしても音信不通。事実上一人でこの家に住んでいるランカは、当然の如く家の管理も一人で行っている。
「あぅ~、次なんだっけ……掃除機片付けて、窓開けて、それから……」
元来身体の弱かったランカは、事あるごとに体調を崩しては入退院を繰り返していた。そのため、主不在のこの家は塵やホコリが積もりに積もり、シドウが帰って来た当初は丸一日かけて掃除しなければならなかったほどだ。
そのトラウマなのか、現在のランカは事あるごとに掃除や片付けを行っており、結果家の中は非常に整頓された清潔な空間となっている。
「はふ~、コレでおしまいっと」
クイックルワイパーを片付けて棚を閉め、大きく息をつく。と、
「?」
玄関の方から何やら声がするのを聞きつけた。自慢ではないが、耳はいい方だ。
(お客さん? 誰かな)
掃除用のエプロンをつけたまま、ぱたぱたと玄関に向かう。そして、近づいた所で扉の向こうの声がはっきりと聞こえた。
かりかりと何やら引っかくような音と共に、
久しく聞いていない声が、そう言った。
「! アズール!?」
ドアを開けて出迎えると、そこにいたのは、青に近い毛並みを持った、狐。
「どうも、お久し振りです」
「アズール……よかったぁ、心配してたんだよ~」
「すんません、マスター。御心配かけまして……」
申し訳なさそうに沈むアズールに、ランカはとりあえず中に入って、と促す。さすがに玄関先で狐と話しているのは、傍から見るとかなり変だった。
「お掃除したばっかりだから」と言われて人型をとったアズールを伴い、リビングに腰をおろして落ち付く。
口火を切ったのはランカの方だった。今まで何があったのか、ぽつぽつと話して行く。
「―――それでね、前に綾ちゃんがお見舞いに来てくれた時は……」
「……何と言うか、偉う難儀な人ですな、相も変わらず」
スザクとゲンブも一応アズールとの面識はあるのだが、保護されてから「スザク」「ゲンブ」を名乗ってしばらくの間しか会った事がない。
「おぉ、そういえば」
「?」
「いや、来る途中で……えぇと、どっちの名前でお呼びすれば?」
「ん~……『スザク』にしてあげて。今はそっちで通ってるみたいだし」
「はい。えー、そのスザクさんと途中で会うたんですけど、何や雰囲気変わってましたな。御淑やかと言うか、物静かというか。あの人、どっちか言うたらアクティブな方やった気がするんですが?」
首を傾げるアズールの言葉に、ランカはピンと来た。まあ、彼女のことはアズールが知らなくても仕方がない。
「あはは、それは綾ちゃんじゃないよ、アズール。綾ちゃんの妹さんで、ええと、アオイさんって言うんだよ」
「へ? スザクさんの? 確かあの人、天涯孤独やったと……」
「全くそうでもなかったみたいだよ。ちょっと前まで島根にいたんだって」
「遠いような、近いような……」
ちなみにランカが呼び捨てにするのは、どちらを向いてもアズール一人である。
そうして話していると、話は自然、近況に移る。スザクの恋、退院間近になって起きた大騒動、旅行の土産話、最近だとゲンブの大失態……。
「……もう、あの時ほど腹立ったことないよ。何考えてるんだろう、大さん」
「組織の人間としてはわからなくもないんですが……やっぱ、マスターは怒りますな、それは」
「うん、当たり前だよ。せっかく綾ちゃんが幸せになろうとしてるのに、水差すなんて」
「……それは許せませんなぁ。ウチが馬やったら蹴り飛ばしてますがな」
「人の恋路を邪魔する奴は~、ってやつ?」
「そうそう、それですわ」
言って、お互い何となくおかしくなって笑いあう。しばらくそうしていたあと、ふと思い出したようにランカが席を立った。
「? マスター?」
「ごめん、ちょっと忘れてた。お母さんに報告しとかないと……」
「………あぁ、アカネさんですか」
得心し、わずかに頷くアズール。彼女にとってもランカにとっても、「その人」の存在は大きかった。
白波 アカネ。ランカの母親に当たる彼女は、不治の病に蝕まれた身体を能力で補い、外でも中でもバリバリと働いていた。それでいて家族には優しく、時に厳しく当たった、まさに良妻賢母を地で行く女性だった。
……まぁ、割と抜けているところが玉に傷ではあったが。
幼いランカが傷ついたアズールを拾って来た時も、反対したシドウを一喝で黙らせ、
『うちに置いてもいいわよ、ブランカ』
『ほんと? ありがとう、お母さん』
『そ・の・か・わ・り! きちんと面倒見ないとダメよ? 足りないところは手伝ってあげるけど、生き物を育てるっていうのは責任が付いて来るんだから』
『せきにん?』
『そ、責任。……もう少し大きくなったらわかるわよ。この子の手当てはしておくから、お風呂入って来なさい』
『はーい』
ぱたぱたと駆けて行ったランカを見送ったあと、アズールは襲ってきた眠気に目を閉じる。途切れる意識に、こんなやりとりが聞こえた。
『アカネ、本気か!? 犬や猫ならともかく、狐だぞ? 何か病気でも持っていたらどうするんだ、ブランカの体の事を知らんはずはないだろう』
『ただの狐だったら、ね』
『は?』
『この子、普通の動物じゃないわよ。よくわからないけど』
『??? ……まあ、お前がそういうのなら、大丈夫か……い、いや、しかしな、痛い目を見てからでは遅いぞ!』
『痛い目見なきゃ、痛いってわかんないでしょ!? ……チャンスなのよ、これは。身体が弱くて、万事に引っ込み思案だったブランカが、初めて自分から外に働きかけたんだから。どうなるにしても、これはあの子が成長するいい機会だと、私は思ってる』
『だがな……』
『だがも佐賀もないッ! 本当に万が一の時は、私が何とかするから、文句ばかりのダメ亭主はすっ込んでなさい』
ビシッと言い切るアカネに、さしものシドウも黙るしかなかった。
――――正体不明の男が訪れ、アカネが命を落とすのは、それから4ヵ月後のことである。
ランカの後をついて行ったアズールは、主亡き部屋に辿りついた。
今はもう、そこで日々を過ごしていた女性はこの世界にいない。彼女の読んでいた本、着ていた服、使っていたものは、全て当時のままになっている。
まるで、時間があの日から止まってしまったかのように。
机の上には読みかけの本が返され、畳んである服は仕舞われることもなく、ベッドの上は畳む途中の布団がそのままになっている。
ただ一つ、部屋に入って正面の机に置かれた、一枚の写真立てだけが、当時と違っている。そして、アカネしか育て方を知らなかった窓際の花は、枯れてしまって今はもうない。
「……相変わらず、ここだけは変わりませんなぁ」
「うん。お母さんがいた、証みたいな場所だから」
言って、ランカは正面の机に歩み寄る。椅子には座らない。そこは、アカネだけの場所。一度勝手に座って叱られた―――理屈でなく、感情をぶつけて「怒る」ということを、アカネはしなかった―――時から、ランカは母親に言わずにここに座るということは、一切しなくなった。
そんな彼女は、写真に映る女性―――墨色の髪と薄緑の目をしてジーンズとTシャツでまとめた、快活な女性に向けて、笑う。
「お母さん。アズールが帰って来たよ。まだ聞いてないけど、色んなことがあったみたい」
写真の中で微笑む母に向かって、ランカは語りかける。
「アカネさん、お久し振りです。色んな所歩いて、多くの事を知りました。ウチ、少しは強うなれたでしょうか? ……今のウチやったら、アカネさんを守れたでしょうか」
どこか悔いるように、アズールも続く。と、
「アズール、そんなこと言ったらお母さんに叱られるよ?」
『過ぎたことにいつまでもくよくよしないッ! どんなに頑張っても昨日は帰って来ないんだから、昨日より今日、今日より明日をよく出来るように頑張りなさい』
「……って」
「……確かに。アカネさんなら、そういうでしょうなぁ」
母の口調と物腰を真似て言い放ったランカの背後に、思わず苦笑するアズールはアカネを……主の母である、もう一人の恩人の姿を幻視していた。
(アカネさん。マスターもウチも、元気です。だから、どうか……)
(空の上から、ウチらを見とって下さい)
再会と、思い出と
(再びの邂逅は喜びに)
(振り返る思い出は寂寥に)
(見つめる視線は、優しさに)
「……ねぇ、アズール。そういえば、今まで、何してたの?」
「そうですなぁ……まずは……」
最終更新:2011年06月10日 22:22