その日は、何もないはずだった。
いつも通り店の前に打ち水をし、ふうっと息を吐きながら咲埜子は汗を拭った。
「よっしゃ、今日もいつも通りやな。最近色々と心配しとうたけど、なにもなくてよかったわ。」
彼女は微笑み、店の中に入ろうとした。
直前。
「もしもし、ちょっといいかな?」
不意に肩を叩かれ、振り返った。
後ろに立っていたのは、爽やかな青空には不釣合な黒一色の姿。
出会ったことはないが、彼の正体を彼女は直ぐに察した。
「な…何の御用ですか?」
無意識に声が震える。
眼の前の男は肩に手を置いたまま問うた。
「この辺で人外が出たらしいんだけど、君、知らない…?」
口元が笑ってる。
この男、最初から自分が「半妖」であることを知ってて声をかけたらしい。
早く逃げなきゃ。そう思っても、足が動かない。
男の開いている手が懐に入った。
一瞬見えた金属光沢。
危ない、このままじゃ私…!
肩をつかんでいた手が離れた。
眼の前を誰かが遮り、それ越しに黒ずくめの男が吹き飛ばされ、近くの木にぶつかる。
それが全て眼の前の景色として映し出された後、音が纏めて耳に届いた。
地面とすれる音を鳴らして降り立ったそれを見、咲埜子は声を上げた。
「かっ…、
幹久朗はんっ!」
「間にあったようだな。ギリギリだったけどよ。」
肩越しに彼は咲埜子を見る。その眼の色は既に血の色に染まっていた。
「間におうたて…何で、襲われてるて分かったんですか…?」
「
カイムの能力だよ。」
彼は、地面に落ちた小さな紙を指さした。
「以前此処に訪問に来た時から、ずっとそのメモ仕舞ってたんだろ?」
「あ、確か連絡先が書かれた…。」
「主の知恵でな。普段と明らかに違う行動をとった際、メモが反応してこっちに『音』が届くようになってたんだ。たまたま近場を通ってたのも運が良かった。」
幹久朗は咲埜子を立ち上がらせた。
「直ぐに店に避難しろ。九十九さんにも伝えておけ。」
「わ、わかりました!」
咲埜子は直ぐに走って行った。
「…さぁて。お前が
シン・シーだな?こうして面合わせんのは初めてだな。」
咲埜子を見送った幹久朗は、おもむろにシンの方を向いた。
叩きつけられたシンもゆっくりと立ち上がる。
「そのオーラ…。君も妖怪だね?」
「なんてことをしてくれるんだい?あのまま行けば2人も人外が成敗できたのに。」
「こっちの台詞だ。人外だからって誰かれ構わず傷つけるな。命の価値は同じだ。」
シンはナイフを取り出した。幹久朗はそれを見、袖をまくった。
ナイフが鋭い光を纏って襲い掛かる。
常人では回避不能なスピードのナイフを、幹久朗はかわしながら間を詰める。
「近距離型か。なら、間を開けた方がよさそうだね。」
シンは足元にナイフを放つ。その場に幹久朗がとどまったのを見計らい、シンは更に間を広げた。
「ちっ…、近づけさせないつもりか。」
前に進む度に足元に放たれるナイフに、幹久朗は舌打ちをした。
「近距離型の君は、このくらい距離を離せば何とかなるかなと」
「力は使いたくなかったんだが…仕方ねぇ。」
「勘弁してくれよなっ!!」
勢いをつけて幹久朗が右腕を振り下ろす。
直後にシンは僅かに風を感じ、反射的に伏せた。
後ろの塀が音を立てる。振り返ると細い木の枝が数本、コンクリート塀に深々と突き刺さっていた。
「赤いオーラ…。成程、あれが能力ってことだね。」
シンが前を向いた。目隠し越しの視界には、赤いオーラを右腕にまとう妖怪。
褐色の腕は指先から徐々に枝へ、幹へと変形していた。
(能力を「見る」能力…。ということは当然、弱点も見抜いてくる。その前に…!)
蹴りだした幹久朗は左手に数本の枝を握り、それを振り下ろした。
防いだシンのナイフと擦れ合う。
幹久朗は幹と化した右腕を振り上げ、塀にシンを押し付けた。
「…っ!」
尚もナイフを放とうとする腕をつかみ、幹久朗はそこに意識を集中させた。
シンの腕から力が抜け、ナイフが足元に落ちる。
つかんだところから色が変化し、関節が曲がらなくなる。
「ぐっ…!」
「安心しな。変化させてるのは表皮細胞だけだ。中まで殺しはしない。」
敵であろうと命を消すことをためらう。そこが幹久朗とキムナの決定的な違いであった。
「こんな目にあっても、お前は人外を襲うことを止めないんだろうな。」
冷静に、しかし激しい怒りも込めながら幹久朗は言う。
「どうして人外を襲う?確かに人を襲った人外なら成敗する必要がある。俺だってそうだ。だが、普通に生活をしている人外を襲う理由なんて何処にもねぇ。」
腕を握る左手に力がこもる。
「お前に何があった?人外を恨む理由は何なんだ?」
「…理由、か。」
シンは俯いた。
「初めてだよ、そういう風に追及してくる人外は。」
幹久朗は驚いてシンを見た。
「…でも。」
「話す義理はないな。」
風を切る音が幹久朗の耳に届いた。シンを放し、素早く下がる。
上から放たれたナイフは、シンの動かない腕に突き刺さった。
「あーっ、惜しい!」
そういいながら電柱から降りてきたのは、シンと全く同じ姿の少女だった。
「ごめんよ、『君(ボク)』。捕えたと思ったけど逃がしちゃった。」
シンに近づく少女を見、幹久朗は愕然とした。
(最悪だ。こいつ、前にキリが言ってたパニ・シーとかいう…!)
「いやいや、寧ろいい働きだったよ。」
シンが持ち上げた自らの腕には刺さったはずのナイフが消え、様子も元に戻っていた。
「なっ…!?」
「それで、今日はあの人外かい?」
「そうさ。さっき別の人外を取り逃がしたし、ちゃんと責任は取ってもらわないとだし。」
二人の目隠し越しの目線が此方を向く。
暫く対峙していた両者だったが、やがて幹久朗の口元が緩み、警戒を解いた。
「…何がおかしいんだい?」
シンが問う。幹久朗の腕も少しずつ元に戻って行き出した。
「いや、まさかこのタイミングで来るとは予想外だったが…。」
「金緑色」の眼を二人に向け、幹久朗は言い放った。
「想定の範囲内だったんだよ。」
一陣の赤い風のように、シンには見えた。
しかし、それに反応する間もなく二人の眼の前が真っ暗になった。
揃って前に倒れる二つの黒い姿の後ろには、白い布を纏った少年とも少女ともつかない子供。
白い肌、薄い黄緑の長髪とは裏腹に、瞳の色とイヤリングの飾りは血の如く赤かった。
「…よかった、うまくいったみたいだね。」
鈴のような綺麗な声が、その口から洩れる。
幹久朗はそちらに微笑んだ。
「上出来すぎるよ。頑張ったんじゃねぇの?」
「とりあえずこいつらは人気の少ない所に運ぶか。」
幹久朗は慣れた手つきで二人を背負いあげた。
「あ、僕も手伝うよ。」
「いや、いいよ。このくらいどうってことねぇし、お前もまだその姿に慣れてねぇだろ?」
「…まぁ、確かにね。」
「しかし驚いたな。お前の事主に相談したら、ものの見事に当てるんだもんな。」
「僕も吃驚したよ。本当に動ける日が来るなんて、感動だなぁ。」
「もう少し体力がついたら、少しずつ人間とも接するようにしよう。」
「うん!楽しみだなぁ…!」
「…さて、このあたりでいいかな。」
幹久朗は人気の少ない森でできるだけ静かに二人を下ろした。
「さて、早めに戻るか。人気がないとはいえ、東の平原の巨木がなくなってりゃ誰かが気付くかもしれねぇ。」
「そうだね。早く行かないと…あっ。」
ふらつく子供を幹久朗は咄嗟に抱きかかえる。
「おっと。やっぱり体力が限界近かったらしいな。」
「…ごめんね。」
「いいんだ。俺が背負ってやる。早く帰ろうぜ。」
「…うん。」
「やっぱり吃驚するほど軽いんだな、お前。今までの姿からじゃ想像もつかねぇ。」
「そうかなぁ?まぁ、確かに軽いなぁとは自分も思うけれど。」
「その体に慣れるのには、時間がかかりそうだな。ま、急ぎはしねぇよ。確実に慣れて行け、」
最終更新:2011年08月16日 13:58