「サヤカちゃんは、いいなぁ…」
「…は?何が?」
「ピアノ、すっごく上手。…いいなぁ。」
「こんなの、練習すればみくにだって出来るって。」
「だって、サヤカちゃんみたいに綺麗で柔らかい音出せないよ…両手も器用じゃないし…」
「やる前からあきらめてどーすんの。」
「だって、絶対無理だよ…」
「私だって、小さい頃からこんなに弾けてたわけじゃないし。
そりゃ、手にまめ出来るぐらい弾いてたりはしてたけど。」
「ほら…」
「でも、いきなり出来ましたーなんて人間いないじゃん。」
「それは、そうだけど…」
「出来ない出来ないって、頭ごなしに否定してるから出来ないじゃん?
出来る、って少しでも思えば、後は手が勝手に動いてくれる。
気持ちと行動が一緒になれば、どんな無茶だって出来るんだよ。」
「…それ、なら…ボクにも、出来るかな…?」
「みくが弾きたい!って強く願って、ピアノを触ったら、ね。」
「……っボクにも、出来る…えへへ…」
「…じゃ、何弾こうかなー?みく、何かリクエストある?」
「えっ、うーんと…じゃあ、サヤカちゃんのお気に入りのあの曲!」
「アレ?…あー、ドビュッシーの『月の光』?」
「うん!」
「分かった、…今度のコンサートも上手く弾けたらいいなぁ。」
張間みくが授業に出なかった。
学習態度の真面目な張間みくが数学の授業に一向に姿を現さず、そのまま授業が終わってしまった。
クラスメイト達はまたトイレで虐められているのだと冷やかしながら、たいして彼女に気をかけず、
いつものように次の授業の準備をしていた。
そんな矢先に教室に飛び込んできたのは、今話題となっていた少女であった。
けたたましい音を立てて扉を開いた彼女は、今走ってきたばかりなのか肩を上下させながら荒く息を吐いており、
その表情は強張っていた。いつもの怯えた様子は微塵も感じさせない張間みくを見てクラスメイト達はしばし固まっていたのだが、
彼女は近くにいた女子生徒を見つけると、ぶつかりそうな勢いで駆け寄った。
「サ、サヤカちゃん知らない…!?」
「サヤカ…?」
サヤカ、と聞き彼女の中で思い当たる人物はいなかったので、知らない、とだけみくに答え、さっさと教室を出ていってしまった。
みくはすぐに別のクラスメイトを見つけると先ほどと
同じように彼へ声をかけたのだが、やはり同様の答えを返され、そして避けられた。
しかし、彼女はあきらめずまた次に、また次へと教室にいるクラスメイトに声をかけていく。傍らでその姿を見ていた冬也はただ事ではないと悟り、
慌てふためくみくを掴んで、ようやくその行為を止めた。
「ちょ、ちょっとハリマさん!いきなりどうしたの?というか、なんで授業サボって…」
「じゅ、授業サボったのはごめんなさい…!でも、っでもサヤカちゃんの姿が、朝から見えなくて…!」
冬也がその名前を聞き真っ先に浮かんだのは、数日前、手に包帯を巻いた黒髪の女子生徒の姿であった。
いじめの主犯であろう彼女を、どうして張間みくはこんなに必死な様子で探しているのか。
そういえば、彼女もまた朝から姿を見せておらず、てっきり取り巻き達と一緒になってみくを虐めているものかと冬也は思っていた。
だが、そのいじめられっ子がこの場に五体満足でいるのであれば、それは間違いであろう。
サヤカとその取り巻き達は一体どこへ…その答えを見つけ出すべく、冬也は考え始めたのだが、とある男子生徒の一言によりその思考は遮られてしまったのであった。
「自業自得、じゃねーの?」
「えっ?」
「…ユズリ君。」
ユズリと呼ばれたヘアバンドをした彼は机の上に足を乗せながら、さも目の前の光景をうっとおしそうに眺め、そう呟いた。
何故そんなことを、と冬也が問いかける前に譲の隣にある机に座っていた彼の友人が、その場にはいささか似つかわしくない笑顔を浮かべながら、
彼へフォローを入れた。
「まぁまぁ、もしかしたらサボりとかなんじゃないの?ここじゃそんなの普通だし…」
「じ、自業自得って何?…どういうことなの…?」
しかし、みくはその言葉を意に介することなく、譲に近付くと、臆する事無く彼へ問いかけた。
不機嫌で、近付く者は皆斬りつけると言わんばかりの雰囲気を出しているにも関わらず、だ。
尋ねられた本人は、大きくため息をつく。
「…さっき、サヤカの取り巻きの奴らが鞄持って、女子トイレから出ていくとこ見たんだよ。
ハリマの虐めが最近上手くいかねーからって、対象変えたんだろうな。」
「えっ?…え、虐めが、って…え…?」
戸惑うみくを余所に譲は足を下ろして立ち上がると、おおげさに額に手を当てながら大きな声で言い放った。
「あー、だっせぇ。虐めてた奴が虐められなくなったからって、また相手変えて同じ事繰り返して…ほんっと飽きねぇんだな、なぁ?」
その言葉はみくに問いかけられたものではなく、その場にいるクラスメイト全員に問いかけられたものであった。
そして、その問いかけに対し彼らは、ただ口を噤んでは無関係を装い、沈黙したままで、彼の問いに答える者は誰もいなかった。
つまり、サヤカがいじめにあっている、という事実をはっきりさせるものであった。
みくはショックを受けた様子で胸を押さえ俯くと、譲はまだ嘆くのかと面倒臭そうに頭を掻き上げた。
「まぁ、因果応報って言うじゃねぇか。自分のしてる報いは、いつか自分に返ってくるって。…あいつも悪い事してたし、これで懲りるんじゃ、」
「っ違う!!!」
彼女の突然の否定に、譲だけではなく、その場にいた全員が驚いた。
顔を上げた彼女の表情にはいつもの怯えた様子はなく、譲を見る眼の色は誰が見ても分かる通り、怒りであった。
突き刺さるようなその視線に、彼は逆上し、真っ向からみくと向かい合って、怒鳴った。
「何が違ぇんだよ!?」
「サヤカちゃんは、悪くない…っサヤカちゃんは何も悪いことなんてしてない!!」
「してただろうが!!現にそっちが被害者だろ!?」
「違う、っサヤカちゃんは最初だけで、あとは全部違うんだ!!!」
「!?」
「だから、っだから…サヤカちゃんを虐めるなんて、っおかしいんだよ…!!なんで、っなんでサヤカちゃんが虐められなきゃ、いけないんだ…!」
「…お前…」
「ボク、サヤカちゃん探してくる!!」
「あっ、ハリマさん!」
勢いよくみくが教室を飛び出すと、続けて冬也も出て行き、彼女を追いかけた。
恐らく、目的地は女子トイレだろう。彼の話が正しければ、間違いなくサヤカはそこにいるはずだ。
既にチャイムが鳴り、授業が始まったにも関わらず、みくは
振り返らずに走り続けている。
本当に彼女を想っているからだ。
(それなら、どうして…?)
冬也の脳裏にちらついたのは、サヤカの腕に巻かれた真っ白い包帯。
やはりあれは、彼女らを引き裂いた原因なのかもしれない。
サヤカと初めて邂逅したあの後、冬也は
緑音ののかや氏型環といった一年生を中心に「張間みくとサヤカ」に関する情報を集めていた。
一見関係性のない二人に見えるが、サヤカのあの態度は、いじめられれば誰でもよかった、とは解釈しがたかった。
だから冬也は思い切って、二人は友人だと前提して調査を始めた。
結果、彼の推理は、みくの幼馴染である
カイリの話によって、正解だと確信されたのであった。
冬也の予想通り、いかせのごれ高校に入る以前まで彼女達は友人関係にあった。
まるで姉妹のようだった、と周囲の人間は評価していたらしいが、とある出来事をきっかけにその関係は瓦解してしまった。
それは、おぞましい化け物が襲ってきたという話ではなく、日常のありふれた一場面、体育の授業中、誤って飛んできたボールがサヤカが庇っただけであった。
たったそれだけのことなのに、抱きしめるようにして庇った彼女の身体から何故か赤い棘が無数に突き刺さっていたと、目撃した人達は言う。
何が起こったか分からないサヤカはそのまま倒れ、病院へと運ばれた。
意識不明の重体の末、奇跡的に一命を取り留めたものの、代わりに両手を失ってしまった。
彼女の晴れ舞台であるピアノのコンサートが開かれる、僅か数日前のことであった。
それ以来、みくとサヤカは疎遠になり、何の因果か高校で再会し、そしてまたいじめが始まった。
これほどまで事情を知っているなら何故、と冬也は問い詰めようとしたが、今に至ってようやくその態度に納得した。
カイリはみくの気持ちを汲んで黙っていたのだ、と。
誰もいない静かな廊下を冬也とみくが走り続けていると、中央に転がっている何かが視界に入り、近付くとそれは明確に形を現した。
初めは通学鞄、次はカードらしきものが周りに散乱した財布、ボロボロに破かれた教科書、ノート…
そして女子トイレの前に最後に落ちていたのは、はらわたを裂かれた、小さな熊のぬいぐるみであった。
「サヤカちゃん!!」
みくが叫んでトイレの中へと入ったがその直後、ヒッ、と彼女の短い悲鳴が聞こえてきた。
それを聞きつけ、恥を忍んで冬也も追って中に入ると、目の前に広がった光景に愕然とした。
トイレの奥では、いつの日かのみくと同じようにサヤカが床に倒れていた。
それだけなら、まだ良かった。
彼女の腕の包帯からにじみ出ている血は何だ?
痛々しく頬に濡れた髪が張り付いているのは、どうしてだ?
彼女の顔が青いのは、何故だ?
「こんなの、って…」
絞り出すように冬也は呟いた。
恐らく、彼女は腕を足で踏まれた。
恐らく、彼女は頭から水をかけられた。
恐らく、度重なる暴行と水責めに体温が低くなっている。
しかしこれではまるで、魔女裁判で摘発された魔女に対する仕打ちだ。
いじめの主犯だからといって、こんなのが許されるのか、否、許されてはならないはずだ。
「サヤ、カちゃ……」
みくが震えながらサヤカに近付き、彼女の肩に触れる。
幸い、彼女に別状はなく、小さく、呼吸を求めるように肩が上下に動いていた。
みくが何度も彼女の名前を呼び、優しく肩を揺すると、ようやくサヤカは目を覚ました。
「サヤカちゃん…!よかった…」
「……なに、みく…笑いに、きたの…?」
安堵の表情を浮かべるみくとは対照的に、サヤカは青い顔のまま彼女を睨み付けた。
その態度に、冬也は憤慨した。
「そんな言い方ないだろう!?ハリマさんが君のことどれほど心配して…」
「…心配、すんのは…そっちの、勝手でしょ……助けてイイ気になりたいなら、他当たれよ…」
二人を余所に立ち上がろうとしたサヤカに、みくは手を差し伸べたが、それを彼女に振り払われてしまった。
そして思わず、みくはこの言葉を口に出してしまったのだった。
「ごめ、んなさい……ボクの、せいで…」
サヤカは、一瞬固まったかと思えば、力が入らないにも関わらずみくの両肩を掴み、険しい表情で怒鳴った。
「っあんたは、あんたはいつもそう!!自分のせい自分のせいって!!
悪くないのに全部自分が悪いせいにして…っ何よ、善人でも気取りたいわけ!?」
「ち、ちがうよ、ボクはただ、」
「頼って欲しいの!?力があるからって!?前と違って、たくさん人がいて、庇ってくれる人達がいるから!?
力のある人達がいるから!?それで罪滅ぼしのつもり!?ふざけんじゃねえよ!!!」
サヤカが勢い任せに身体でみくを押すと、彼女はその力に従って後ろに倒れ尻餅をついた。
人形のように感情を揺れ動かさない彼女だったからこそ、これほどまでに激昂する姿を初めて見て、ただ冬也は圧倒されていた。
サヤカは尚も、訴え続けた。
「皆して力があるからって正義ぶって、弱い奴救って、いい気分になって…報いを受けてるあたしを助けて、それで何?英雄でも気取りたいわけ?
あんたら、勘違いすんなよ!!いじめてる奴は、憂さ晴らしたいからって奴だけじゃない、あんたから被害を受けてるからやってんのよ!!
あたしみたいに!!どうして、っどうして…もう…!!!」
そしてサヤカは、ぜぇ、ぜぇ、と息を吐き、みくを睨み付けて、こう言い放ったのであった。
「あんたなんか、死ねばよかった…!!」
「―――」
その言葉に、みくは呼吸を止められ、表情は絶望を浮かべたまま彼女を見ることしか出来なかった。
しかし対するサヤカもまた、今にも泣き出しそうな表情でみくを見つめていたのであった。
言葉を交わすことのない、長く、身を突き刺すような静寂が訪れる。
その長い沈黙を突き破ったのはサヤカで、何も言わず顔をそらすと、彼女達の横を通り過ぎ、
トイレから出て行ってしまったのであった。
後に残されたのは、みくと冬也。
「…ハリマさ、」
「…行こう。」
「え?」
「…このままじゃ、ダメなんだ…」
声をかけた冬也の予想に反して、みくはすくっと立ち上がり、スカートをほろった。
いつものような泣きそうな表情にはなっていたものの、そのまま嘆き悲しむことなく、踵を返し、トイレから出て行ってしまった。
「っハリマさん!!」
冬也の制止を、やはり聞かないで。
臆病と力の無い子
『…対象Aは?』
「今、学校を出ました。」
『そう、手筈通りね…もう一方は?』
「もうすでに。」
『分かったわ、そのまま背後から追いかけて。私は先に目的地に行くわ。』
「……分かりました。」
『ふふ、イイ子ね……ハナマル。』
最終更新:2012年11月11日 12:53