「む……おりん、いかんぞ。またそんなに残して……」
――何故妾は、それに気付いてやれなかったのだろうかと、後悔せずにはいられない。
「好き嫌いはいけないぞ。そんなに野菜ばかり食べては……育ち盛りなのだから、ちゃんと肉も食べなければ」
――秋山の家に来てからずっと、「りん」は肉を食べていない。口にするのは野菜や米ばかりじゃ。「りん」はただでさえ、細身であるから、もっと肉になる物を食べねばならん。そう思って、何とか食べさせようとするのじゃが……
「な、何も泣く事ないではないか……仕方ないのぅ……よいよい。そこまで嫌がるなら、無理に肉を食べなくとも良い。お主の食べたい物を食べれば……しかし、好き嫌いはいかんから、おいおい直していくのじゃぞ?」
――「りん」は、肉を口にする事を頑なに拒んだ。それは徹底していて、間違って口に入ろうものなら吐き出す程に。食べる事を強要すれば、首を振って泣きながら嫌がっていた。
――妾は愚かじゃ。何故その様子が、妾には奇異に映らなかったのじゃろう。何故ただの好き嫌いに過ぎないなどと、思ってしまったのだろうか。
――・――・――
「おりんちゃんが来てから、大分経ったね」
「ええ、そうですのぅ……」
庭で遊ぶ「りん」の姿を眺めながら、春美と
タマモは話をしていた。
「警察の人達も、まだ見つけられないって?」
「ええ。方々を掛け合って貰ってはいるのですが、おりんの親に関する情報は全く見つからず……」
「そう……」
「申し訳ありません、主……」
「え? ううん、別にいいんだよ? おりんちゃん一人くらい……まぁ、私が良くても、おりんちゃんのお父さんとお母さんはそうじゃないけど……」
困ったなぁ、と春美は苦笑した。
「もういっその事、おりんちゃんも家の子になっちゃえばいいかな。タマモにも懐いてるみたいだし」
「あ、主。それは……」
「分かってるよ、もちろん冗談。だけど、タマモは正直、それも悪くない、って思ってるんじゃない?」
「う……」
春美が意地悪そうな笑みを浮かべ、タマモは思わず頬が引き攣った。
それは確かに、彼女の本音である。本当の親がいるのであるから、あまり情が移ってはいけないとは思っていたが、しかし彼女と「りん」は一時の関係としては長く触れ合い過ぎた。
タマモの本心を代弁させて貰うなら――「りん」を手放すのが、惜しくなってしまっていた。
「まぁ、その話は置いておくとして……おりんちゃんの偏食は、いい加減直した方がいいよね……」
「あ……」
春美の眼差しが、少し鋭くなった。十二歳と呼ぶにはあまりにも大人びた顔付きで、彼女は「りん」を見つめている。
パッと見では、「りん」に変わったところは見られない。しかしよく観察してみると、肌はやや青白く、若干やつれているようにも見える。
「おりんちゃん、一度もお肉食べてないよね?」
「はい……少なくとも、妾が目にしている限りは……」
「育ち盛りなのに、お肉を食べないのは良くないよね……どうしたら食べてくれるかなぁ……?」
「あの嫌がりようは、かなりのものですからのぉ……何か、肉にまつわる事で、トラウマにでもなったのでしょうか……?」
「……鶏をシメるのとか?」
自分で言って嫌そうな顔をする春美に、思わずタマモは苦笑した。確かに、あれを直接目にするのは、あまり気持ちの良いものではない。かつての日本ではありふれた光景であったのに、随分この国も丸くなったものだ、などとタマモは思った。
「……ところでタマモ。最近この辺り、動物の気配がしない気がすると思うんだけど……」
「……一応、妾もノラも、動物ですが」
「あぁ、うん、そうだけど……そう言うのじゃなくて、野生の動物のね」
言われてみれば、とタマモは思った。
ここ数日、寺の境内で一匹も野良猫を目にしていない。それまでは皿に残飯を乗せて置いておけば、すぐに数匹が群がって来たと言うのに、だ。それどころか、雀一羽も見かけていない気がする。まるで、秋山の寺を中心に動物達がいなくなってしまったかのような……そんな感じだ。
「何だか、ヘンな感じがする……タマモも、気を付けてね?」
「はい、分かりました。妾も用心します」
――・――・――
――なぜ、あの瞬間になって気付いたのだろう、気付いてしまったのだろう。
――もっと早く気付けば良かったのにと、思わずにはいられない。
――・――・――
「む……?」
布団から「りん」の抜け出る気配に、タマモは目を覚ました。
おそらくはトイレであろう。そう思い、特に気にも留めなかった。だが、布団を抜け出してから十数分。用を足しているにしては長いと思い、彼女は様子を見に行った。
「……おりん?」
トイレには、誰もいなかった。「りん」は一体どこへ行ったのか。彼女の匂いを手繰ると、どう言う訳か、「りん」はどうやら庭へ出たらしかった。地面には、小さな足跡が薄らと残っている。
「……こんな夜更けに、履物も履かず……!?」
寝間着の上に上着だけを羽織ると、タマモは宵闇の中へと飛び出した。
「おりん……どこじゃ、おりん!?」
冷たい夜気の中に香る、「りん」の匂いを辿って彼女は走る。もし走る彼女を見た者がいたなら、それはさながら人の姿をした獣が駆けているかのように映った事だろう。
元が狐だけに、タマモの嗅覚は優れている。間もなく、彼女はとある場所へと行き着いた。それは、とある空き地の一角だった。暗がりの中で、小さな体がもぞもぞと動いている。
「はぁ……はぁ……そこにいるのは、おりんか?」
タマモが呼びかけると、
闇の中にいるモノがびくりと反応した。それを見て、タマモはホッと肩を落とす。
「全く……こんな夜中に抜け出して、何をやっておるんじゃ、お主は……遊ぶのなら、日が昇ってからじゃろうて。さ、戻るぞ」
タマモが手を差し出す。だが、暗がりの中から「りん」は出てこない。
「……っ……!?」
その様子は、奇妙だった。月に雲がかかっているせいで、「りん」の様子はよく見えないが、彼女は何だか、暗闇の中でもがいているように見える。或いは、何かに怯えて震えているようにも。
「何をしておるのじゃ? ほれ、こっちへおいで。妾は怒ってなどおらぬぞ?」
自分に見つかった事に驚き、怒られるのだと怖がっている。タマモはそう思って、優しげに声をかけた。実際この時、タマモはこれっぽっちも怒ってなどいなかった。ただ、無事に「りん」を見つけられた、その安堵の気持ちだけだった。だから早く彼女を連れて一緒に帰りたいと思っていた。だが、そんなタマモの気持ちとは裏腹に、「りん」はこちらへ出てくる気配が無い。
「……! ……っ!!」
「……お、おりん……?」
タマモには、「りん」が何かを言おうとしているように思えた。闇の中で、「りん」は必死に声の出ない喉から声を出そうとしている。
それに――タマモの嗅覚を、とある匂いが刺激した。それは数日前にも、彼女が嗅いだ匂いだ。
その匂いは、どろりとした鉛の強い――
「待っておれ、おりん。今、妾が――」
ただ事ではない。そう思って、タマモが暗闇の中に踏み込もうとした。
その時だった。雲が割れて、空き地に月明かりが差し込んだ。銀色の光が、二人の身体を照らす。
「な――」
その光景に、タマモは思わず息を呑んだ。
月明かりの中に浮かんだのは、
「――! ――っ!!」
今にも泣き出しそうな顔の、「りん」と、
「お……りん……お主……何をやって……」
その口元を濡らす、赤黒い液体。膨大な量の血液は、「りん」の全身を汚している。
そして、
そしてそして、そして――
彼女の傍に転がっているのは、
人間の、首、だった。
「――これで八人」
「りん」の背後に立っていた人物が言った。まるで暗闇と同化しているかのように、男はそこにいる。黒色の法衣。真深く被った網代傘。
「お主は……」
「これで会うのは二度目だな、妖狐」
<黒が再び朱で染まる>
(その男はまるで、)
(死の使いであるかのように、)
(不吉さを纏って、)
(そこに存在していた)
最終更新:2013年01月20日 15:10