「これこれ、おりん。どこへゆく?」
小さな幼子の手が、妾の手を引っ張る。
おりんは何かを見つけたらしく、その眼をキラキラと光らせ、
早く、早く、と急かすように足を急がせた。
一体、何を妾に見せたいのやら。
「……ほう、これは…」
おりんが連れてきた場所、そこにはぽつりと桜の木が立っていた。
アカノミに負けず劣らずの黒い幹の巨木は、空を覆い尽くさんとばかりに淡い桃色の染井吉野を咲かせていた。
風が柔らかく吹けば、雪のように花弁がひらひら、と地面へと舞い落ちる。
俗世から切り離されたかのような、実に幻想的な光景であった。
「よく見つけたのぉ、おりん。」
そう言っておりん頭を撫でれば、彼女は、にはっ、と明るく笑った。
妾とおりんは手を繋ぎながら、その桜の周りを一周する。
桜の天井はどこまでもどこまでも続いていて、時々、妾の頭にぽと、と花弁を落とした。
それを振り払おうと狐の耳を動かしていたら、おりんに目撃されてしまい、妾は誤魔化すように苦笑した。
笑われるかと思ったが、おりんはむしろ表情を固くして、妾にかかろうとする花弁を手で払い除けたのであった。
その頼もしくも妾より背の小さい後姿を微笑ましく眺めていると、つい口元が緩んでしまった。
「おりん、今度はそれを集めておくれ。秋山寺院の皆の手土産にしよう。」
そう声をかければ、おりんは意気揚々と桜の花びらを集め始めた。
妾はおりんの姿を眺めながら、桜の木の幹に腰掛けた。
彼女ははらはら、と落ちてくる花びらを空で掴もうと、あっちに行って、こっちに行って、
…とぴょんぴょん跳ね回っている。
飛び跳ねる鞠のように、ぽんぽんと。
「…元気じゃのぅ、おりんは。」
妾の頭に浮かんだのは、赤色に塗れたおりんの姿。
抱き上げた身体は異様に軽く、中身なんて何もないんじゃないかと思わず疑ってしまうほどであった。
どこか"人"から離れたような小さな幼子の姿は、まるで空から舞い降りた天人のようにも思えた。
いや、死人であり、巫女であるおりんならば、むしろ天女と言っても差し支えはないだろうな、
…なんて独りで考え、微笑んだ。
「……ん?」
―…死人であり、巫女である?
「……っ!?」
血相を変え、木の幹から立ち上がった。
おりんは不思議そうにこちらを見る、…いや、おりんは今、あの男に連れ去られた筈。
妾はそれを追っていたのだ、…ここはどこだ?妾は何をしている?
夢を見ているのか、ならば早く眼を覚まさねば。
早くおりんを追わなければ、妾がおりんを助けなければ!
「無理だよ。」
「な、」
いつの間にか、目の前にはおりんがいた。
その黒い眼で妾を見上げながら、口元に無邪気な笑みを浮かべている。
…しかし、その口の端が不自然に、ぷつり、と切れる。
「無理だよ、
タマモは、救えない。過去も今も、人間を謀り、欺き、騙し、そうして貶めることしか出来なかった畜生が、」
赤い線が浮かび上がり、耳元まで裂けていく。
顔だけでなく、身体のあちらこちらから傷が浮かび上がり、あの夜のように、おりんの身体を紅く染めていく。
「***を見殺し、契りを破り、地獄に落とした化生の者が、」
桜の花弁が紅く染まり、妾とおりんの着物に落ちる度にそこを紅く染めていく。
まるで、血が飛び散ったかのように痕を残していく。
嗚呼、やめてくれ、やめてくれ。
「オマエガ、ワタシヲ、タスケルコトナンテ、」
ぼとぼと、と何かが落ちていく。
目の前にいるのは、おりんであった只の___死体。
「 デ キ ナ イ 。」
露出した歯牙が、ニヤリ、と妾を嘲笑った。
「っ!?」
飛び起きれば、そこはどこかの路地裏であった。
まだ日の出を迎えておらず、青白く輝く月が不気味に通りを照らしている。
当然、おりんの姿はどこにも見当たらなかった。
「……おりん…」
必死に何かを叫んでいた彼女と、夢の中で妾を責めた彼女が重なる。
「………」
壁を伝いながら立ち上がると、全力疾走をして酷く疲労した身体を引きずり表へと出た。
元々、妾の格好は走るのに適していない。着物は重たく、中の襦袢は汗で肌に張り付いているし、
下駄は鼻緒が食い込んでいて、豆が潰れているのか足袋のあちこちが紅く滲んでいる。
それでも妾はおりんを求め、走った。
『***を見殺し、契りを破り、地獄に落とした化生の者が、』
「っはぁ、…はぁ、っはぁ…!!」
嗚呼、そうだ、そうだとも。
妾はかか様を見殺しにし、約束を破り、そして地獄に落とした。
妾が小さな頭を捻ればひとつでもふたつでも、何かしら出来たであろうに階段から落ちたかか様を助ける事が出来なかった。
私を理由に誰かを恨んだり、殺したりしてはいけない。
そう、生きている間に約束したかか様との契りを妾は破り、あの遊女も、遣手も、禿も、
忘八も、関係の無い町人も商人も皆皆殺した。
そして、死後の世界でかか様と再会したが、地獄に堕とされる妾を庇い、代わりに彼女が地獄へと堕ちた。
嗚呼、そうだ、そうだとも。
妾は誰も助けられぬ、そればかりか関わった者皆に不幸という毒を移し、最後には殺してしまう最低な毒婦よ。
じゃが、あの子は、助けなければならぬ。否、助けたいのだ。
「っおりん、…っおりん…!!」
既に下駄はどこかへ脱ぎ捨てた、重い着物も煩わしい部分は破り捨てた。
何を犠牲にしても、誰を犠牲にしても、果てには妾自身を犠牲にしてでも死人である彼女を助けたいのだ。
何故ならば、
「待っておれ、今…っ妾が……『お輪』が、っ助けに行く…!!」
―――おりんは、『妾』だからだ。
本当に、本当の話だよ
人の恨み辛みから殺された花魁と狐は、死後の世界で再び出会いました
太陽のような彼女は、泣きながら謝った狐の罪をすべて許しました
けれども、その罪を地獄の王様が許すはずがありませんでした
『殺生、邪淫に妄語、邪見…その獣は量りし得ぬ罪を犯した、許されるべき存在ではない。』
生きている間に悪い事をしたのだから、当然のことでした
狐もそれは分かっていて、大人しく地獄の王様の元へ行こうとしました
けれども、それを花魁は引き止めたのでした
『お待ちくんなまし、それはわっちが行いんした。…地獄におちるのは、わっちでありんす。 』
もちろん、彼女は嘘を付いたのです
人を殺したことも、騙したこともありません
狐を庇う為に、初めて罪を犯したのでした
『…それは真か。』
『はい、まことでありんす。』
『………』
地獄の王様は、花魁を連れて行きました
狐は泣きました、叫びました、噛み付いてでも引きとめようとしました
二人の足取りが止まることは、ありませんでした
そして、花魁は最期に狐にこう言いました
『”お輪”』
それは、花魁がヨシハラに来る前の名前でした
『今日からそれが、あなたの名前。…あなたが、私よ。』
そして、花魁と狐は永遠に引き裂かれたのでした
百物語第88話「遊女の狐」
(それは妾と"お輪"しか知らぬ)
(本当に、本当の話だよ)
最終更新:2013年02月17日 18:53