人は誰かを愛さずにはいられないのと同様に、誰かを憎まずにはいられない。
感情とは不条理なものである。
悲しいと想う時に涙が出ない。泣きたい時に、しかし心そのものが凍りついている時がある。
反対に、
殺人出来る程の炎を、誰もが胸に抱いている。その身を焼きかねない程の激情を、時には心に抱いている時もある。
誰もが気付いていない。
多くの人間が、己の感情を制御出来ているのだと思い上がっている。
考えてみてほしい。
それは制御しているのではない。
押し殺しているだけなのだ。
認めなければいけない。
人は、誰でも汚れているのだ。
生きるとは、その汚れを認識する事だ。
認めなければいけない。
己が弱い部分と向き合っている人間などいない。
誰もが、己が醜い部分に対して、
見て見ぬ振りをして、騙し騙し生きているのでしかないのだ。
――・――・――
「ねぇ、聞いた? また殺人事件だって」
「いかせのごれも、急に物騒になったねぇ」
「これで何人だっけ?」
「五人だよ、五人。全部アベック狙ってるみたい。一人だけ生き延びたんだって」
「やだ、怖いー」
クラスメイト達の話を、アッシュは自分の席から聞いていた。
ちら、と視線を
シスイの方へと向ける。彼もまた自分同様に注意を払っているのが、アッシュには分かった。
(おいおい、兄さん。アースセイバーの出る幕は無いぜ? これは人間の事件なんだからさ)
お節介焼きの彼の性格を考え、彼が一体何を考えているのかをアッシュは思考する。大方今彼は、その連続殺人犯に対する憤りを覚えている事だろう。
(……難儀な性格だよな、兄さん)
「怖い」とか、「許せない」とか。そう思ったところで、そんなものは一過性の感情だ。例えそのような想いを抱いたとしても、それはその場限りだ。すぐに新しい感情に上書きされる。多くの人間が、それを自分に関係のあるものとして捉えないからだ。
所詮、そんなものだ。もし感情が持続する者がいるなら、それは犠牲者に近しい者でしかない。いや、人によっては、例え縁者であってもそのような感情を覚えない者だっているだろう。
文明の発達につれて、人は不感症になってしまった――否、不感症は間違いか。
ただ単に現代人が、かつての人間よりも心が脆くなった。不感になったのは、脆くなった心を守る為なのではないだろうか。
(全く、どうでもいいものまで背負い込んじゃってさぁ……早死にするぜ、そのうち)
都シスイの様に「他人事ではなく、まるで自分の事のように」受け止められる人間は、稀有な存在だと言ってよい。だが果たして、その重みにヒトは耐えられるだろうか。
自分一人立って歩くのがやっとのこの世界で、己の身一つ立たせる事もやっとの人間が、他人の死や悲劇、不幸を背負いきれるものだろうか。許容量を超えると、それは苦痛となってその人自身に負荷をかける。身を裂くような悲しみであったり、重過ぎた愛情であったり、燃え滾る憎悪であったり。
(身の程を知れ、ってやつだよね)
アッシュは、シスイを内心に鼻で嗤った。
終わった出来事を悔めば、それが無かった事になるのか。
亡くなった者を想えば、その者が帰ってくるのか。
ましてや、自分とは何も関係の無い出来事を。
(馬鹿馬鹿しい)
無意味で無価値な行動だ。そう、アッシュは吐き捨てる。
所詮人間は、自分一人の為に生きているのだ。他人の為に動くのは、そいつの為などではなく、「自分がそうしたい」からだ。そうしたいのだと、己が感情が訴え、それによって行動するのだ。
本当の善意など、この世のどこにも無い。誰もがエゴイストなのであり、その行動は結果的に自分のものとして完結する。「誰かの為」だとか、「見返りの無い奉仕」だとか、そんな言葉はすべて絵空ごとにして、自分の行動を美化する為の方便に過ぎないとアッシュは思っていた。
だが、
「…………っ」
ぎゅう、と、アッシュは胸を抑えた。そこが痛むように、彼はシスイから目を背け、苦しげな表情を浮かべる。
(だから僕は……お前を認めたりしない……絶対に……!)
――・――・――
「トキコちゃーん、一緒に帰ろ~♪」
「イヤ」
放課後、下校するタイミングを見計らってトキコの前にアッシュが現れた。もはや毎度の事である。スザクがいない時を狙って現れる辺り、実にあざとい。
「そんなつれない事言わないでよ~」
拒否されながらも、アッシュはトキコの後をついてくる。彼女は(鬱陶しそうな表情を浮かべながら)歩き続ける。
「……ねぇ、パチモン」
「なぁに?」
人気の無い路地に入ったところで、トキコは話しかけた。アッシュにとって「紛い物」を意味する単語はNGの筈だが、言われ過ぎて慣れてしまったのか、彼は眉一つ崩さない。
「あんた、何で私に付きまとうの?」
「そんなのもちろん、君の事が大好きだから」
「嘘だ」
苛立ちと怒気を孕んだ声。
「あんたが私にしてくる事なんて、嫌がらせしか無いじゃない。一角君傷付けたり、私の事からかったり……私の事が好きって言うなら、当然知ってるよね――私、嘘付きは大嫌いなんだよ」
ぞくり、とアッシュは背筋に冷たいものを感じた。首筋にナイフが突きつけられたか、或いは指がかけられたと思う位に、明確な殺意。ゆらゆらと陽炎のようにトキコの周囲にオーラが見える。
人気の無い場所。それは下手をすれば誰にも助けて貰えない状況ではあるが――逆に言えば、何が起きても邪魔は入らない。
「……おお、怖い怖い。そんな目で睨まないでよ。せっかくの可愛いお顔が台無しだ」
殺意も敵意も丸出しのトキコに対して、アッシュは至って自然体だ。困ったように肩を竦めている。その余裕はトキコと戦っても勝てると言う事なのか、それとも別の何かなのか。
その時、自分達の背後から足音が聞こえた。
「――!」
「…………」
音に反応してトキコは即座に。それに対してアッシュはゆったりと、それこそまるで「誰がやって来たのか知っている」かのように、緩慢な仕草で首を向けた。
そこにいたのは、自分達と同い年くらいの少女だった。いかせのごれ高等学校とは異なる制服を着ている。髪は長く、腰元ぐらいはあり、その髪と俯き加減な様子のせいで、どんな顔をしているのかは伺えない。
とんだ邪魔が入ったとばかりに鼻を鳴らし、トキコは能力を解除した。だがアッシュは、まだ女子生徒の方を見つめている。
「――トキコちゃん」
「え?」
ドン、と突き飛ばされ、トキコは路地の壁に倒れ込んだ。その際頭をぶつけてしまい、痛みに顔が歪む。
「いったぁ……! ちょっとパチモン、何すんの――」
文句を言い掛けるトキコの目の前で、刃が空を切った。
「…………え?」
アッシュの刃ではない。何時の間に踏み込んで来たのか、自分達のすぐ傍には女子生徒の姿がある。その手には包丁が握りしめられており、位置から考えて後数秒アッシュに突き飛ばされるのが遅ければ、その刃が自分に刺さっていたのだと言う事が、トキコには理解出来た。
「……まさか、こんなにすんなり引っ掛かるとは思ってなかった」
言いながら、アッシュは自分に向かって突き出される包丁を避ける。その動きは技術も何も無い、それこそただ振り回しているだけの滅茶苦茶なものであったが、異様に速い。振り回していると言うより、包丁に引っ張られているのだと錯覚する程だ。
速いが――超能力者と戦うには、それでも少々力不足だ。
「ふんっ」
唐突に始まったその戦いは、終わるのも唐突だった。それはあっと言う間の出来事だった。アッシュの掌底が女子生徒の腹を捉え、それからすぐに手から包丁を奪う。最後に足払いが入って、女子生徒は地面に叩き付けられた。まさに瞬く間の出来事だった。
「危ないなぁ。刺さって怪我でもしたらどうするの、君?」
器用に包丁を玩びながら、アッシュは這い蹲っている女子生徒を見下ろしていた。怪我どころか殺されるところだったと言うのに、その様子は全く乱れていない。一方襲い掛かって来た女子生徒かと言えば、一体何が起きたのか分かっていないようだった。
「え……? え?? ええっ???」
トキコの方も、まだ状況に認識が追いついていないようだった。アッシュと這い蹲っている女子生徒との間を、視線が何度も行ったり来たりを繰り返している。
「一体何が……」
「トキコちゃんは、最近噂になってる殺人鬼の話、知ってる?」
「え? ……それって、恋人ばっか狙ってるって言う……」
「そ。で、僕は彼女を誘き出したかったんだけど、実に光栄な事に、この子は僕らをアベックと勘違いしてくれたようだ」
「アベ……っく……」
「……そこまで嫌な顔する事ないじゃない、まるで泥の臭いでも嗅いだような……」
あからさまな嫌悪を露わにするトキコに、アッシュも苦そうな表情を浮かべた。
「その制服……ロクブツ学園の生徒か。正直驚いた。こんな超能力も何も無い、しかも十代の一般人が、まさか連続殺人事件の犯人だったなんてね」
「超能力も何も無い……? そんな訳無いでしょ、パチモン。この人、凄い速さで切り掛かって来たじゃない」
「人間を興奮状態にするアドレナリンだけどさ……あれって異常に分泌されると、人間が本来身体に施しているリミッターが外れるんだよね……聞いた事あるでしょ、火事場の馬鹿力ってやつ」
「それって……」
「そう、そう言う事」
アッシュは、地面に座り込んでいる少女に再び視線を向けた。
「今のはあくまで『人間業』。この子は本当に、超能力者でも何でもない、普通の人間だよ」
――・――・――
――私には、最愛の人がいました。
血の繋がりは無いけれども、両親と同じ位に愛しい、そして大切な人。
彼が傍にいるだけで、私は幸せでした。
彼が笑っているだけで、私も笑顔でした。
彼と肌を合わせていると、ドキドキする。ドキドキが止まらなくなって苦しくなるけど、同時にそれが心地良い不思議な感覚。
ずっと。ずっとこの幸せが続くと思っていました。いえ、信じて疑いませんでした。
だけど。
ある日突然、唐突に終わってしまいました。
私の彼は、通り魔に殺されてしまいました。
本当に、突然の出来事でした。
何時ものように、当たり前のように、二人で並んで歩いていました。
突然、彼が私を突き飛ばしました。
そのすぐ後に、赤い飛沫が上がりました。
何が起きたのか、すぐには分かりませんでした。
彼の身体が、ゆっくりと倒れていきます。地面には、血だまりが。
気が付くと、私は叫び声を上げていました。いえ、もしかしたら気付いた頃には、もう声を上げていたのかもしれません。
遠くに、逃げていく人影が見えました。
何で。何で。何で。
霊安室で彼の遺体を前にした時、そればかりが頭の中を過りました。
彼は何も、悪い事なんかしていないのに。私だって何も、悪い事なんかしていないのに。
私達が、何かをしたのだろうか。例えそうだとしても、その報いに命を奪われるなんて、酷過ぎる。
通り魔は捕まりました。ですが失われたものは、彼の命は帰ってきません。
憎い、憎い、憎い。
煮え滾る憎悪が、私の中で暴れます。
私は復讐を決意しました。どれだけかかっても、彼の命を奪った憎き犯人に同じ苦しみを与えてやろうと。
――ですが、
それを上回る程、私の心を捕らえるものが、ありました。
町のあちこちに見える、人と人。誰もが幸せそうに、寄り添いあっている。幸せそうな、本当に幸せそうな恋人達。
思わず、唇を噛みました。血が流れるくらいに、私は強く噛みました。
本当なら、私も貴方達のようであった筈なのに。彼と一緒に隣り合って、身を寄せ合っていたのに。
妬ましい。妬ましい。妬ましい。
私の目的は、別のものへと変わりました。
私はこんなにも苦しい思いをしていると言うのに、お前達は何故そんなに笑っていられるのだ。
理不尽だ、不条理だ、不公平だ。
だから私は――
「彼らにも、同じ苦しみを味わわせてあげたのよ」
――・――・――
「う…………」
彼女から話を聞き終わって、トキコはあからさまに嫌悪の色を浮かべた。
ホウオウグループに所属しているとは言っても、彼女は比較的良識のある方の人間だ。目の前の、同じ年頃の少女が放つどす黒い悪意は、トキコにとっては毒にも近かった。物理的な影響力などある筈無いのに、その場の空気が一気に重く、そして肌に纏わりついてくる。
そんな悪意に晒されながら、アッシュは眉一つ動かしていない。彼は涼しい顔で、女子生徒を見つめていた。
「そ。じゃ、好きにすれば?」
そう言うと、アッシュは背を向けた。あまりの反応にトキコも女子生徒も「え?」と驚きを露わにする。
「ちょ、ちょっとパチモン!? 何してんの!?」
「何って、帰るんだよ、家に」
「家にって、あの子は!?」
「あれ? まさかトキコちゃん、僕があの子を捕まえるとか考えてた訳?」
そう言うアッシュの口元が、悪戯っぽい笑みを形作っていく。
「んな訳無いじゃん。何で僕がそんな事するの、警察じゃあるまいし。僕はね、この子が一体何を考えているのか、興味があったから接触しようとしただけだよ」
ブラフではなく、本当にそう言っているようだった。トキコはアッシュを追いながら、少し不安そうな表情で少女の方を何度も振り返っている。それは、どうすればいいのか分からず、困っているようだった。
「……トキコちゃん、君はどうしたいんだ?」
アッシュは振り返ってトキコの方を見た。光源から逆光になって、アッシュの表情は伺えない。しかしなぜか、パックリ弧を描いた口元だけは、見えたような気がした。
「セオリー通り、警察にでも突き出しちゃえば? でもおかしいよね、それ。まるで『正義の味方』のやる事だ。僕達ホウオウグループがやる事じゃない。だから正しいかどうか決めあぐねている。そんな感じかな?」
「う…………」
「僕は別に、やればいいと思うけど。君が『正しい』と思っているなら、さ」
「わた、しは……」
「決めるのは君だ。よぉく考える事だ、何せゲームみたいにリセットは効かない……あぁ、だけど早い方がいい。じき、『手遅れ』になる」
路地の奥を覗き込むように目を細めながら、アッシュが言う。「手遅れ」。それが何を意味しているのだろうかと、思わずトキコは振り返った。
見れば、路地の奥から新たな人影が現れていた。いかせのごれ高校の制服を着た女子生徒だ。女子生徒はゆっくりと、こちらの方へと歩いてくる。
その途中で、それまで自分達が相手をしていた少女がいる訳だが、
「え――」
その少女の左腕が、不意に無くなった。
「あ――」
ロクブツ学園の女子生徒は、肘から先が無くなった自分の左腕を見て、ポカンと口を開けている。その目は大きく驚愕で見開かれており、一体何が起きたのか分かっていないようだった。ややあってから、その傷口から噴水みたいに血が噴き出す。
「…………」
いかせのごれ高校の女子生徒は、目の前の相手を見つめている。静かに、ただ、静かに。常軌を逸した光景が目の前で起きていると言うのに、驚きも慄きもしない。まるで、それが「当たり前の光景」であるかのように。
「え……あ……あぁ……!?」
ようやく認識が追いついたのか、腕を失った少女が声を上げた。血の噴き出す腕を押さえ、苦痛に身を捩る。その少女を見下ろすいかせのごれ高校の女子生徒の手には、何時の間にかナイフが握られていた。
「いけな――!!」
彼女が一体何をしようとしているか気付き、トキコは思わず手を伸ばした。
「『もう遅い』」
冷淡な表情で、アッシュはその場から動かずに成り行きを見届けた。
左腕を失い、蹲っていた少女の首が切られた。パッと赤い鮮血がほとばしり、制服や路地の壁を赤く染める。
「――…………」
トキコは伸ばしていた手を引っ込めた。
相手の返り血を浴びながら、少女は動かなくなったもう一人の少女を見つめている。それはまるで、どちらも同一の人物であり、見下ろしている方は死んでしまった自分の身体を見つめる幽霊にも見えた。
「行こう。彼女の殺意が僕らに向いてしまう前に」
トキコの手を引き、アッシュは路地の外へと連れて行く。トキコが振り返った時、少女はまだそこに佇んでいるのが見えた。
――・――・――
その後、アッシュに聞かされたところによれば、後から現れたあの少女は、先の少女に恋人を殺された「生き残り」だったのだそうだ。
「正に因果応報ってやつだよね」
そう可笑しげに笑うアッシュであったが、トキコには全然笑えなかった。
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて地獄に落ちろ、ってね。もっともこの場合はナイフで切られた訳だけど」
「うっさい、パチモン。人の恋路だったらあんたもそうでしょ」
「心外だな。少なくとも、僕は君達の邪魔をした記憶は無いよ……何はともあれ、八つ当たりじみた憎悪は時に恐ろしい事をしでかすよね。おお、怖い怖い」
『八つ当たりじみた』。少し前の自分を思い浮かべ、トキコは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。自分が以前しでかした事と彼女がやった事。どちらも同じ殺戮だ。
恨み。妬み。嫉み。それは、誰もが抱く感情だ。そう、「誰もが」。
誰もがあの少女のような殺人鬼になってもおかしくはないのだ。
≪ある少女の復讐劇≫
(その後トキコは新聞で、あの路地裏で二人の少女の死体が発見されたと言うニュースを目にした)
(どうやらあの少女は復讐を遂げた後、自らの命を絶ったようだ)
(「つまらないな。ここで終わりか」)
(アッシュがそんな事を言っていたので、彼女は一発ぶん殴ってやる事にした)
(自分も、)
(スザクやシスイを誰かに殺されたら、ああなるのか?)
(思わずそんな事を考えかけて、)
(トキコは思考を中断した)
最終更新:2013年04月06日 16:16