「………」
ヴァイスが去った後も、私はその場に佇んでいた。私にとっては、距離も、場所も、壁も関係ない。波動を遮れるものは存在しない。見つけさえすれば、すぐにでもそこに行ける。
だけど、あいつの能力は厄介に過ぎる。見つけても見つけても、影武者のことがほとんど。今日みたいに本人を捕捉できるのは、奇跡と言っていい。
(……あの男さえ、いなければ……)
思いだすのは、10年前。
―――私の家族は、お父さんと、お母さんと、お兄ちゃん。
静かに、平穏に、毎日を過ごしていた。それが壊れたのは、あの日。
雨風の強い、ある日だった。
『すみません、ちょっと屋根を貸していただけませんかね』
そう言って家を訪れた、眼鏡をかけた、神経質そうなスーツ姿の黒髪の男。お人好しを絵にかいたようなお母さんは、その人を快く受け入れ、家に上げた。
その人は何度も礼を言いながら、いやに畏まっていた。―――思えば、その時点で疑うべきだった。
『ありがとうございます、困っていたもので』
そう言ったその人は、ちょうど帰って来たお父さんに挨拶した。
『ああ、お邪魔しています』
私はその人がどんな人なのか、よく知らなかった。だから、ただ無心にその人の所に行って、
『こんにちは』
なのに、そこから狂い始めた。
『ああ、こんにちは。……』
『? ……何、これ』
その人の目を見た瞬間、私は体に違和感を覚えた。妙に体が軽くなった、そんな感じがしたのだ。
だけど、幼い私にはそれを伝えるだけの語彙が足りなかった。その意志も、出て来なかった。ただ、首を傾げるばかりで。
『……ふむ。なかなか興味深いですが……これはダメですね』
そう言ったその人は、すっくと立ち上がり、部屋から戻って来たお父さんに向き直った。
『では、そろそろ始めますか』
『……?』
私には、その人が何を言っているのかよくわからなかった。
そして、次の瞬間には、始まっていた。
その人が突然、がくり、と糸が切れたように倒れ込んだ。慌てて駆け寄るお母さんの体が、突然宙に浮いた。
『おかあさんっ!?』
叫んだ私の声を聞きつけたのか、上の階からお兄ちゃんが飛んで来た。
『マナ、どうし……母さんっ!? 父さん、何を……』
お母さんを吹き飛ばしたのは、誰あろう、お父さんだった。なのに、振り返ったその顔には、私の知る穏やかな笑みはなく、凍りついたような嗤いが張りついていた。
(な、に、これ……!?)
立ちつくす私の前で、お兄ちゃんが動いた。その左腕が牙の様なものに覆われ、変異する。
『うおおっ!』
今にして思えば、お兄ちゃんはその時、お父さんがお父さんでなくなったことに気付いていたのだろう。
だけどその時の私は、何も分からずにただ怯えていただけだった。
『おや、先天性ですか。速いですね』
お父さんの顔をした「そいつ」が、お父さんと違う声でそう言って、お兄ちゃんの攻撃をかわす。
振り回される左腕は、異様な素早さの「そいつ」には当たらない。そうしている内に、
『はぁ、はっ……ぐ、ぅっ』
お兄ちゃんが左腕を押さえ、膝をついた。
『使い過ぎるとバックファイアが来るわけですか。それでは使えませんね……』
「そいつ」が呟き、ちらりと私を見る。
『ひっ……』
『……これも使えませんか。ですが、新しい人形は頂きました。ククク、一般人とは思えないポテンシャル……楽しめはしませんでしたが、いい拾い物をしました。では、ごきげんよう』
そう言うと、「そいつ」は悠々と玄関から出て行ってしまった。
『く、待てっ!!』
お兄ちゃんも「そいつ」を追って飛び出し、そのまま戻って来なかった。
後には、もう息をしていないお母さんと、立ちつくす私だけが残されていた。
忌まわしき思い出
(一つの思いやりが悲劇を生んだ)
(引き金は人形遣いの道化師)
(少女はその日、全てを奪われた)
(そう、「全て」を)
最終更新:2011年04月16日 16:20