この年の暮れよりパリ市内でコレラが流行し、ガロアは刑期を1ヶ月残して1832年3月16日、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。その後、そこで失恋を経験したようで、5月25日には今後の予定を記しつつ、絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。そして29日夜から30日未明にかけて、「つまらない色女」に引っかかって2人の愛国者に決闘を申し込まれたために、別れを告げる旨の共和主義者への2通の手紙、およびポアソンから返却された論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想(ガロア理論の「原始的方程式」への応用や楕円関数に関するモジュラー方程式の考察、リーマン面理論の超越関数理論への応用と推察されている)を断片的に書いた手紙を、「時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたためている。そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その結果ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。
Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans! 泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、相当の勇気が要るのだから。
それが最後の言葉となり、夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った。彼の葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。1982年、没後150年を記念した墓碑がブール・ラ・レーヌに建てられている。
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