―――邸内
内部は奇妙なつくりになっていた、通路は僅かに身体を斜めにしなければ通り抜けられないような狭さで、
不必要に折れ曲がっていた。この屋敷の主人が誰かの襲撃を恐れ続けている証明だった。その誰かとは
自分の職場だろうと市川は判断した。市川が通されたのは16畳ほども有りそうな応接室だった、
そこは冷房がしっかりと働いておりひんやりとしていた。ソファに腰をおろした市川は室内を見回した。
内装は極めて豪華であり、金を用いた装飾品や彫像があちこちに置かれていた。この部屋の飾りつけにかかった金だけで
自分の家の土地が4つほども買えそうだった、彼は好みでない豪華さの中で30分待たされた。
そして分厚い扉が開いた。最初に入ってきた男は庭で市川が話し掛けた男だった。リンデマンという名前で、
口元から微笑が消えることはないが、ふくらんだ印象のある瞼の陰に光る目には墓石のような冷たさがあった。
続いて何かを記憶する必要が認められない筋肉が発達しただけの男が二人入室し、そして主人が入室した、
仕立ての良いダークスーツを着ている。リッチェンスは市川の対面に置かれた一人がけのソファに腰をおろすと
天然木の形状を利用したテーブルに両手をつき、深々と頭をさげた。
深みのある声だった。市川よりもさわやかな声だと言ってよかった。リッチェンスは顔を上げ市川と視線をあわせる。
ほっそりとした印象の男だった。額は高く、知性すら感じさせるひとみを持っている、しかし、そこには
同時に常識で推し量れないものも存在していた。
「こちらこそ娘を預かってくれて感謝している」
「御預かりしているわけでは有りません、娘さんが自分の意思で私の元へとやってきたのです」
「貴方の見解はそうなわけだ」
「見解ではありません、全くの事実です」
「おそらくそうなのだろう、だが、納得できない、せめてのこと、彼女と二人きりで話す事が出来なければ」
「ええ、本来ならそうすべきであると私も思います。親御さんとして当然な判断です」
「ならばこの場合はどうだと?」
「娘さんは貴方にお会いしたくないと言っております。以前に、貴方の女性の友人が訪ねてこられたときも同じでした。
そして私は彼女の意志を尊重しなければならない、誠に残念でありますが」
「貴方の許しが得られるのならば、一言、二言私から話し掛けてみたい。娘の気持ちも変わるかもしれない」
リッチェンスの背後に立っていた筋肉の塊が一歩踏み出そうとするが、リンデマンが視線を向け彼を押しとどめた。
「御気持ちはよく分かります、しかし、ここは私の家なのです」
リッチェンスは深く頷いて見せた
「成る程…なら私は失礼しよう」
市川は答えた。
「一杯やってゆきませんか」
リッチェンスは言った、彼の視線の先には封の切られていない酒瓶だ、驚いた事に97管理外世界
の高級スコッチ・ウィスキーだった、だがあまり市川は好きな銘柄ではなかった。
「この4年酒を一滴も口にしていない。できる事ならば、健康の為にこのまま禁酒しようかと思っている。
恐らく無理だろうが。それに何より、私は酒を口にする環境に五月蝿い方なのでな」
「ではお帰りください」
リンデマンは扉を開けて誰かを呼んだ。市川は室外に出た、扉が閉められた。リッチェンスは何か
から解き放たれたように深いため息をついた、もしスーツを取ったらシャツは冷や汗でずぶ濡れと
言ってもよいだろう、クラナガン警察上層部や管理局本部上層部を買収する時に比べ凄まじいほ
どに消耗しきっていた。
「どうしますか?」
リンデマンが尋ねた。
「たいした男だ…流石、あの娘の父親だけのことである」
「だから殺す?」
「そこまでしなくていい」
「あんな奴―――」
先ほど市川を恫喝しようとした筋肉の塊が言った。
リッチェンスは煙草を加えた、表の慈善事業の裏家業である不正時空間密輸で入手した
ボロワーズだった、リンデマンが金色のライターを差し出して火をつけた。
「その莫迦を壁に立たせろ…左腕を水平にしてな」
リンデマンが顎を動かした。もう1人の筋肉の塊が片割れを壁に押し付けた。リンデマンが左腕を掴み、それをまっすぐに伸ばす。
リッチェンスは立ち上がった。
「リンデマン、最近若い者の扱いが甘すぎるんじゃないのか?」
「申し訳ありません」
「その通りだよ。まさか俺の下に、本当の男を見ても敬意を抱けない奴がいるなんて想像もしていなかった」
リッチェンスは壁に押し付けられた男の顔をみつめた。
「俺の顔を見ろ」
怯えた瞳が彼に向けられた。
「あの女の父親は、以前下らない正義感でこちらの事業を妨害しようとして、俺を逮捕しようとして捕まった挙句に
『親がいない妹がいるんだ、許してくれ!』とほざいたが、体重の倍にさせる程銃弾を撃ち込んできた・・・
確かランスターと言ったな、
その他の屑連中と違う本物の兵士だ。いいか、俺も管理局でいたことがある。
貴様より若い頃にな。その時もあんな上官がいた。有能で、慈愛に溢れ、知性と教養を持っている。
勇気については口にするまでもない。まさに理想の管理局の職員、醜の御盾なるべく生まれたような男だった。
そいつをすべて合わせると何になるか分かるか、オイ!どんな男が出来上がるか想像がつくか?」
怯えた男は蒼白くなった顔を横に振った。
「悪魔だ…あのエースオブエースと呼ばれこちらの同業者では悪魔と呼ばれているあの高町なのはという
女と比べ物にならない本当の悪魔だ」
リッチェンスは言った。
「地獄の門番にこそ相応しい勇気としぶとさを持った悪魔だ。たしかに奴は管理局に雇われた狗かもしれない。
しかし、魂まで支配されているわけじゃない。奴は何処までも自分自身だ。自分にとって最も大事な何かを守る為ならば、
管理局本部・・・いや本局にでもアルカンシェルをぶち込むような奴だ、ええ?わかるか?どうなんだ?
お前が莫迦な脅しをかけようとした男はそんな怪物なんだぞ」
リッチェンスは男の懐から銃を取り出し装弾しているか確認する。そして彼は再び男に言った。
「俺の顔を見ろ!分かっているな?お前があの男とは比べ物にならない屑だということは?
だが、その屑でも責任と言う言葉の意味を知っているだろう」
リッチェンスは壁に押し付けられた男の左手に銃を突きつけた、そして引き金を引く、銃声、絶叫、
壁に飛び散る血飛沫、筋肉の固まりの左手小指の第1関節から先がなくなっていた。
「リンデマン」
リッチェンスは振り向いて言った。
「あの男に警告を与えてやれ、決して殺すな。あれは、尊敬出来る男だ。むしろ俺はあいつのことが好きだよ」
「すぐにですか?」
「当然だ」
「分かりました」
リンデマンは部屋から飛び出した。リッチェンスは相棒を壁に押し付けている男に言った。
「後5分そのまま立たせていろ。そいつの身体からいくらかでも毒気が抜けたら、医者を呼んでやれ」
リッチェンスは上着のポケットから札束を取り出し、テーブルへ放り投げた。
「医者にはこれで払え、残ったら二人で女でも買いにゆけ、お前たちの毒気は血の中にだけ有る訳でもあるまい」
リッチェンスは男の傷口にタバコを押し付けて火を消した。再び屋敷に悲鳴が響き渡った