【3】
恐怖に追われ、暗闇に怯え、安息を求めることも許されず、ただ逃げ続けていた。
もうどれ程の間、そんな生活を繰り返して来たのだろう。
なぜこうなってしまったのか、少女には分からない。
たしかに、あの日の夜まで少女はどうしようもなく幸せだったのだ。
少女の誕生日を祝うために、食卓には母の手料理が並んでいた。家族は笑みを浮かべ、そして感謝をしていた。安寧な日々を与えたくれた、慈悲深き神に。
暖かな家、湯気の立つスープ、優しい両親。安らかな日々は、このままずっと続くのだと思っていた。――そう、信じていた。
終わりは唐突だった。
ガラスの砕け散る音。訪れた<何か>に怯えたように、家族を包む光は消えた。少女には何が起こったのか理解できなかった。母の胸に抱きしめられたまま、暗闇の中に響く父の声を聞いた。
ただ、恐かった。
何がということではない。なぜ恐怖を感じるのか、少女自身にも分からなかった。
理解することは出来ず、もっとも原初的な、人間の根底に刻み込まれた血の恐怖。
混乱さえ押さえ込んだそれに、少女はただ身を震わせた。抑えようのない、止め処なく溢れる身を削るような恐怖に、少女は耐えられなかった。気付く間もなく、意識は沈んでいた。
――目覚めた時、全ては終わっていた。
変わらぬ暗闇に、静寂だけがあった。
抱きしめていた母に呼び掛けた。倒れ伏していた母の腕から抜け出し、その傍らに座り込んだ。
床に着いた手に、びちゃりと、生暖かい液体が触れた。
微かに響く、母の声を聞いた。
いつも通りの、優しくて、暖かい――大好きな母の声だった。
どこに行っても、どこまで逃げても、<アレ>は執拗に追ってくる。ひとつの町に留まることも出来ず、駆けずり回るように逃げて来た。
ただ、母の願いを叶えるために。
それを必要とする人に届けるために。
誰に届ければいいのか、少女には分からない。分かるのはひとりの名前。
それが何の意味を持つのか、少女は知らない。ただ、<アレ>と戦うための武器であることだけ。
それは、死の間際に両親から託されたものだから。届けてと、お願いされたものだから。逃げなさいと、言われたから。
苦しみの中で浮かべられた優しい笑みと、だんだんと暖かさを失っていく柔らかな掌を、忘れる事はできない。
安息はない。友達を作ることさえ出来ない。きっと、ひとりぼっちのままだろう。
あの頃のような、安らぎと暖かさに満たされた家には、もう帰れない。
それでも、これは渡せない。
両親が必死で守っていたものだから。
それを自分は託されたのだから。
これは誰かを救う力になるから。
だから。
<悪魔>には、渡せない。
/
――今日もまた、静かに夜が明ける。
闇は退き、再び人の住まう世界にふさわしい明るさが訪れる。
浅い眠りから覚醒した少女は、寝起きとは思えない動きで立ち上がった。いつしか、深い眠りに身を委ねることはなくなっていた。
だからなのか、よく夢を見る。
両親と過ごした安らかな日々。母との他愛のない会話。友だちと駆け回った故郷の山。眠る前に傍らで父が話してくれた、人を救った魔剣士のお話。
もうどこにも在りはしない、色褪せた思い出。決して消えることのない、大切な記憶。
あれから変わったことと言えば、傍らに居てくれる存在を得たこと。草原の中で、地面で、眠りにつくのに慣れたこと。ひとりで生きることに、疑問を持たなくなったこと。神を、信じなくなったこと。
暗闇の中で生きるには、少女は強くならなければならなかった。理想に頼るには、不確定な存在を信じるには、闇はあまりにも残酷だった。
吹けば消えてしまうような小さな灯火は、襲いかかる闇に必死で抗っていた。もう戻らない、暖かな過去を拠り所にして。
「フリード、そろそろ行こっか?」
少女が追われるように里から逃げ出して、すでに3年の月日が経とうとしていた。
/
赤を基調とした皮製のコートを風になびかせながら、ダンテは人混みの中をゆったりと歩いていた。
真紅のコートが風に揺れる度に、ぶら下がっている大量の純銀製のアクセサリーがジャラジャラと音を掻き鳴らす。活気溢れる市場の喧騒の中に紛れたその音に、ダンテは心地良さを感じていた。
無意味に思えるほど大量のアクセサリーは、フェイトにはあまり好まれていない。
ダンテに言わせれば、それらは全て魔除けのお守りということらしい。事実、古来より銀には魔を払う力があると信じられて来た。
魔力を効率的に蓄えることが出来る銀は、人の生み出した魔具にも使用されている。
もっとも、悪魔を狩ろうとする者が魔除けのアクセサリーを身に付けるというのは、矛盾を抱えたおかしな話である。
単にダンテの趣味によるものなのだが、心配性な金色の美女が手を加えたそれは、ただの装飾品という枠では括れなくなっていた。
それがダンテにとってどんな要因となったかは定かではないが、以前よりも愛着が湧いたことは確かだ。
ジャラジャラと鳴る銀の音色を聞きながら、ダンテは視線を巡らした。
「やれやれ。まさか、いきなり放り出されるとは思わなかったぜ」
絶え間なく行き交う人の流れに乗りながら、全く見覚えのない街並みを眺める。当然だ。初めて来たのだから。
この世界に来て早々、フェイトはダンテを置いてさっさと行ってしまった。
「どうせ、私がいたら邪魔なんだもんね。いいよ、私は勝手にやるから」
別れ際、フェイトの放った言葉である。
ダンテが調子に乗ってからかい過ぎた結果、案の定フェイトは拗ねてしまった。予測に難しくないことだったが、楽しいことには歯止めが効かないのがダンテである。これもまた、よくある光景だった。
どうせすぐに機嫌を直すだろうと、ダンテは特に心配はしていなかった。連絡が入るまで観光でもしようかと思ってさえいる始末である。
ひとりで仕事を片付けてもいいのだが、悪魔が姿を表すのは闇が世界を覆う頃と相場が決まっている。
日の高いうちに出来る事と言えば、せいぜいが情報集めだ。そして、伝手も何も持たないダンテにとって、悪魔の情報集めなど出来るわけもない。
となると、刺激のない退屈な時間だけが残りそうだった。
「良い女、はいねェしな。さて、どうしたもんか」
肩に掛けたギターケースを担ぎ直し、ダンテは右と左との分かれ道で立ち止まった。
先に何があるのかは知らないが、どうせなら楽しい方がいい。
その期待に応えるように、ダンテの耳に届く微かな声があった。
「右か。いいね、俺もそう思ってたところだ」
不敵な笑みを残し、ダンテは歩き出した。
数分も経たずに、道の先に出来た人だかりを見つける。
男が多いところを見るに、どうやらむさ苦しい騒動が中心で起きているようだった。その推測に答えるように、目の前には酒場がある。
まっ昼間っから酒に溺れていた馬鹿が、つい気が大きくなって馬鹿をやり、外で衆人の目を集めるような大馬鹿になった、と。
有り触れた話は、予想に難しくない。
同時に、興味を惹かれるほど面白い話でもなさそうだった。普段なら目もやらずに通り過ぎている。しかし、無駄に暇を持て余すよりは幾分かマシかもしれない。
比較的人の薄い所を狙って、ダンテは野次馬に混ざることにした。
その先にあったのは、良くも悪くもダンテの予想を越えたものだった。
「チンピラに婆さんにガキ……おいおい、どこの劇団だ?」
座り込んだ老婆を庇うように、鮮やかな桃色髪の少女が男を睨みつけている。
子供が放つにはふさわしくないその迫力に、男はたじろいでいた。しかし、集まった周囲の目に押されてか、一目に無理と分かる虚勢を張り、声を上げる。
「な、なんだよお前は!」
大の男に怒鳴られれば、萎縮するのが普通である、大人ですらそれが当たり前なのだから、子供となれば尚更だ。
しかし、男の前に立つ少女は、良くも悪くも「普通」という枠組みには入らない子供だった。
男の怒声に怯むどころか、負けじと声を張り上げた。
「ぶつかったのはあなたじゃないですか! おばあさんは悪くありません!」
なるほど、そういうタイプか。
どうやら、酒場の前だから酒に関わりがあるだろうと考えたダンテの予想は裏切られたようだった。
「見ろよ、この服。そのババァのせいで汚れちまったんだぜ?」
「で、でも、あなたがわざとぶつかるのを見ました!」
途端、少女の不思議な迫力はどこへやら。見た目相応の、どこか気弱な雰囲気が少女を包む。それに安堵した男が、我が意を得たとばかりに言葉を続けた。
「見た? そんなの知らねえよ。現に、俺はこうやって被害を受けてんだ。それ相応の責任を取るのが当たり前だろ? それとも何か? お前が弁償してくれんのか? 高かったんだぜ、この服よお」
「そ、それは……」
返す言葉が見つからない。
仕方のないことではあるだろう。そもそも、大人と子供がやり合って勝てる方が珍しいのだ。口も、拳も。
なにより、こういう輩は性質が悪い。どんな正論を持ち出しても意味が無いのだから。ダンテにさえ「言葉が通じねェ」と言わせるほどである。
それでも、今こうして野次馬となって遠目に見守るだけや、ちらりと目をやって、巻き込まれまいと足早に立ち去る人間よりはマシだろう。
個人的な価値観を押し付けるわけではない。ダンテ自身、そういう輩には近寄らないようにしている。
しかし、それに立ち向かえる人間を、ダンテは好きな方だった。
威勢を取り戻しつつある男と、それに反論できない少女を前に、ダンテは思案した。
例えば、ここにあの金髪がいたとしよう。アイツならどうするだろうか、と。
――足し算よりも簡単な問題だった。
間違いなく、首を突っ込む。ピンチになりつつある少女の前に立ち、男を並々ならぬ迫力で睨め付け、理路整然と正論を並べ立てて論破し、追い返す。
そして少女に向き合い、子供好きしそうな笑みで優しく頭を撫で、「よく頑張ったね、えらいえらい」とでも言うだろう。
座り込んだままの老婆には手を貸し、「大丈夫ですか?」と。そして、周りからの拍手と賛美の声に、照れつつも足早に立ち去る――。
あまりにも有り得そうな情景に、ダンテは苦笑した。
その姿に重なることは遠慮したいが、偶にはヒーローを気取るのもいいかもしれない。
暇というのは恐ろしいものだと思いつつ、ダンテは人の輪から一歩前へ踏み出した。
突然の乱入者に、その場にいた全員の目が集まる。
観衆の好奇の目を背中に受けつつ、ダンテはもったいぶるようにゆったりと中央へ歩み寄った。
「よお、良い天気だな?」
予想だにしない言葉に、身構えていた男は呆けることになった。
何なんだ、このド派手なヤツは。それが男の第一印象だった。
無理もない。大量の純銀製アクセサリーのぶら下がった真紅のコートに、背中には大きなギターケース。ただでさえ人目を引く格好だというのに、それを纏う男は見事な銀髪を持ったモデル並の色男だ。
これを派手と言わなければ、派手という言葉を使う機会はそうそう訪れないことになる。
良い意味でも悪い意味でも、自ずと人の目を集めてしまうダンテを前に、男は一歩たじろいだ。
明確は理由はない。ただ、そう、格の違いというものを、知らず理解しただけだった。役者が違う。それを、ひどく自然に男は理解していた。
ここに、既に勝敗は決まったようなものだった。
「なあ、お前もそう思うだろ?」
「あ、ああ、そうだな」
長い付き合いの友人に問い掛けるように、ダンテは男へ笑いかけた。
あまりに親しみ深いその笑みに、しかし男は安心できなかった。その笑みに、こちらに友好を求めるようなものが一切ないことは、向けられた男自身が一番分かっていた。
「こんなに良い天気なんだ。つまらねェことでカリカリすんのはやめようぜ? 男なら服の染みのひとつやふたつ、笑って許せるだろ?」
それは男に対する問い掛けだったが、男の返答を求めるものではなかった。
ダンテの目を見た時、男は反論するための言葉を失った。その目に宿るものは、常人の持つそれではなかった。
裏の世界に関わりを持つからこそ、半端者の男にはダンテの恐ろしさが理解できた。凄みはない。敵対心すら持っていない。しかし、だからこそ男は恐怖を感じた。
本気のダンテを前にして、無事に済むわけがない、と。
そしてそれは、至極正しい判断だった。
「それに」
逃げよう。
男がそう決意したとき、すでに手遅れだった。
ダンテは男へ歩み寄り、その腕をシャツへと伸ばした。
元々は純白であっただろうそれは、汗と埃に薄汚れ、おまけとばかりに赤い染みがいくつも出来ていた。男が言うところの、ババアのせいで汚れた証拠、である。
それを指でなぞり、ダンテは不敵に笑いかけた。
「俺は良い色だと思うぜ?」
知らず息を止めていた男が、ダンテの声に呼吸を取り戻す。
背中に流れるとめどない冷や汗を感じながら、男はまず、自分が生きていることをしっかりと確かめた。
「あ、あはは、そうですよね! 俺もそう思ってたんですよ! はは、は……じゃ、じゃあ俺急いでますんで!」
形振り構っていられる状況ではなかった。
なんの事はない、ただ、ダンテが歩み寄っただけ。しかし、男はそこに明確な死を感じた。なぜかは分からない。ただ、自分の奥底で叫ぶものがあったのだ。逃げろと。近寄ってはいけないと。
訳のわからない恐怖に突き動かされて、情けなさも、恥ずかしさも捨て去り、男は逃げるように走り去った。
「なんだよ、俺とは世間話も出来ないって? つれねェな」
それを見送ったダンテが、からかうように言い放つ。決め台詞には嫌味が多いが、それでも観衆は喜んだようだった。
囃し立てる声と鳴らされる口笛を聞きながら、ダンテはこちらを見つめて呆けていた少女に向き直った。
「ん? どうしたお嬢ちゃん。俺があんまり良い男だからってそう見つめるなよ」
「……え? あ、ご、ごめんなさいっ」
「いや、謝ることでもないさ。気にすんなよ」
大きく頭を下げて謝罪する少女に、ダンテは不敵に微笑んで見せた。どこか人を安心させる、不思議な力を持った笑みだった。
そのお陰か、少女は謝罪を重ねることもなく、今度はお礼を言うために礼儀正しく頭を下げる。
「あの、ありがとうございました。助けていただいて」
「さて、一体なんのことだ? 俺はあの男と、天気とシャツの話をしただけだぜ? まあ、俺の目つきは少しばかり悪かったかもしれねェけどな」
悪戯をたくらむ子供のように無邪気な笑みで、ダンテはひとつウインクをして見せた。
それを見て、少女もくすくすと控えめな笑みをみせる。
「そうですね。少しだけ悪かったです、目つき」
「おっ、言ってくれるね」
少女から返って来た軽口に、ダンテは楽しそうに口の端を吊り上げた。
しかし、その笑みも長くは続かなかった。
「でも、お話の中の騎士さまみたいで、かっこよかったです」
少女から放たれた言葉に、ダンテは目を丸くした。
騎士さま? 誰が? この俺が?
意味を理解したところで、ダンテはたまらず声を上げて笑った。久々の大爆笑だった。ひどく面白い冗談を前にしたときのように、遠慮のない、心の底からの笑い。おかしくて仕方がなかった。
「え、え? わたし、なにかおかしなことでも言いましたか?」
「いや、ただ、俺には騎士サマなんて似合いやしねェと思っただけさ」
未だ収まらない笑いを気合で抑えつつ、ダンテは少女に言った。
「それより、婆さんはいいのか? 寂しそうに待ってるぜ?」
「え? ……あ!?」
ダンテの登場も相まってすっかり忘れていたのか、少女は慌てたように、座り込んだままの老婆へ駆け寄り声を掛けている。
それを眺めながら、ダンテの笑いの渦はようやく治まっていた。
そして、少女の指に輝くものに、ダンテの目は留まる。
(アレは……おいおい、ガキが持つには危ないオモチャだぜ?)
上手く抑えられているが、意識を向けてみれば、その指輪から感じられるのは並みの魔力ではない。完全に解放すれば、それこそ、ダンテが持つ魔具にも劣らないだろう。
だが、同時にそれは大きな危険を持っている。
一定のレベルを超えた高位の魔具は、大抵が悪魔などの霊的な存在がその姿を変えたものだ。姿形は変わろうとも、そこに宿る魂が消えるわけではない。
破壊。殺戮。死合。生贄。強者。血。
それぞれが、不気味で危険なモノを欲して止まない。武器自身が、自らを持つべき資格のある者を選ぶのだ。
そして、その力を、悪魔もまた求めている。
魔具であると同時に、大きな魔力を秘めたそれは、力を欲する悪魔にはどうしようもない魅力となる。魔具自身がそう易々と悪魔の血肉にされるわけではないが、その持ち主まで無事とは限らない。
となると、少女もまた狙われることになるだろう。いつまでも隠し通せる力ではない。
そしてその時は、少女もまた、悪魔の影に散ることになる。
けれど、不可解なことがひとつ。
魔具は持ち手を選ぶ。ならばなぜ、指輪は少女の手に収まっているのか。
覚醒していないのか。それとも、信じられないことだが――人間を、この少女を、持ち手として認めているのか。
そうだとすれば、信じられた話ではない。高位の存在が、人間を、身を委ねるに値すると認めるなど。
しかし、そんな考えをダンテは苦笑に伏した。
自らもまた、半身は人間だ。そんな自分が言えたものか、と。
それに、人間を救うために同胞を裏切った悪魔がいるのだ。そんな存在がいても、おかしくはない。
兎にも角にも、面白そうなお嬢ちゃんだ。
ダンテの感想はそんな所で落ち着いていた。
「あの」
ダンテの前に、老婆を連れ添った少女が立つ。
「本当にありがとうございました」
「いやぁ、本当にお世話を掛けまして、感謝の言葉もありませんで……」
ふたり揃って頭を下げられ、ダンテは顔を顰めた。
「だから俺は何もしてねェって言ったろ?」
「でも、わたしは嬉しかったです。だから、ありがとうございます」
笑顔でそう言われてしまえば、ダンテには返す言葉がない。
柄じゃねェのに、と、肩を竦めて見せるのが精一杯だった。
そんなダンテの様子を、少女はくすくすと笑って見ていた。
「えっと、それじゃ、わたしはこれで」
笑いを収めた少女は、傍らに置いてあったバッグを背負い上げ、ダンテと老婆に向けて口を開いた。
親しく会話を交わす間柄ではない。別れは当然のことだった。
「ああ。ガッツあったぜ、お嬢ちゃん。将来は良い女になる。俺が保障してやるよ」
「え、えっと、ありがとうございます」
照れたように笑う少女に、ダンテはふと思いついた。
歩き出そうとしていた少女を呼び止める。
「あっと、ちょいと待ちな」
「はい?」
不思議そうにこちらを見上げる少女を前に、ダンテは真紅のコートにぶら下がるアクセサリーを物色する。
歪んだ髑髏の顔に十字架に。鎖に怪鳥。ダンテの感性でも、さすがにコレはマズイだろうと思うようなものばかりの中で、ダンテはようやくそれらしいものを見つけた。
コートから取り外し、指で銀の輝きを拭う。
「ほら、クリスマスには早いがプレゼントだ。良い子にしてたからな」
「え? あの、くりすます、ってなんですか?」
差し出された銀色のアクセサリーとダンテの顔を交互に見つめ、少女は不思議そうに尋ねた。
少女の言葉に、ダンテは今更ながらに思い出した。
(そういや、こっちには、んなモン無かったんだったな)
なんだかんだで、こっちに来てからのクリスマスは中々波乱に満ちていた。
主に金髪美女やらが深く関わっていたりするのだが、その金髪もクリスマス文化は知っていたおかげで、ついついあっちとの違いを忘れてしまっていた。
「あー、そうだな。赤い服の妖精が、良いことをした子供にご褒美をやる文化のことさ。ほら、ピッタシだろ?」
僅かな思案の後にダンテが出した結論は、当たらずとも遠からずなものだった。
しかし、ダンテ自身は中々気に入った答えらしく、自慢げにその真紅のコートを揺らした。
「はあ。そんな文化があるんですか?」
「ああ、俺の住んでた所じゃ誕生日は皆で仲良くお祝いしましょうってのと同じくらい辺り前のことだぜ?」
「そうなんですか」
感心したように相槌を打つ少女に、ダンテは満足げに頷いた。
だからな。そう置いて、ダンテはアクセサリーを差し出した。
「良いことをしたお嬢ちゃんに、やるよ」
「わ、わたしにですか!?」
ようやく意味を理解したらしい少女は、ダンテの手にあるものを見つめて、ダンテの顔を見つめて、と。焦ったようにそれを繰り返しながら、小さな両手を体の前で揺らして、断ろうとする。
「いえ、あの、そんな、申し訳ないですっ!」
「おいおい、子供は遠慮しないもんだぜ? それにせっかく用意したんだ。貰ってくれないと俺のカッコが付かない。な? 俺のためにも貰ってやってくれよ」
その言葉に、うーとか、あーとか、えぅーとか、特色ある声を上げながら悩んでいた少女は、ゆっくりと両手を差し出した。
「いただき、ます」
ダンテは笑みを浮かべて、その手にアクセサリーを置いた。
自らの手に収まったそれを、少女はじっと見つめた。
銀色に輝くのは、三日月と翼を広げた鳥の姿だった。精巧に彫りこまれた銀細工に、少女は魅入られていた。
単純な構図だが、なぜだろうか。神話のワンシーンを切り取ったかのような不思議な魅力が宿っていた。
気に入った。気に入ってしまった。すごく。
そんな少女の姿を、ダンテは満足げに見ていた。
「あの、いいんですか? こんなに素敵なものをもらってしまって……」
「なに、代わりはいくらでもあるからな」
少女に見せ付けるように、ダンテはコートを揺らした。
その動きに合わせて、ジャラジャラとアクセサリーが歌う。
それを見て、安心したのか納得したのか、少女はもう一度深く頭を下げてお礼を言うと、ダンテに背を向けて歩いて行った。
人混みのなかに消える小さな背中を見送り、ダンテは感嘆した。
「最近の子供も馬鹿にできねェな」
本当なら、ここでダンテと少女の縁は切れただろう。もう2度と会うこともなく、いつしか少女のことも記憶の底に埋もれていくことになったはずだ。
けれど、もう少しだけ、2人の縁は繋がることになる。
「じゃあな、婆さん。チンピラと良い男には気を付けろよ?」
えらく口数の少ない老婆に声を掛け、ダンテはその場を後にした。
少女の姿はもう見えないが、自分の魔力が宿ったアクセサリーは、しっかりとその存在を感じられた。
/
ダンテが立ち去ったその場所に、老婆は変わらず佇んでいた。
途絶えることのない人の流れを、老婆は変わらず眺めていた。
誰もがそこに立つ老婆を見ることもなく、そしてその存在に気付きはしない。
老婆を包む暗闇に、誰も目を向けることはない。
切り取られた異端の領域の中で、老婆はしわがれた声で呟いた。
「へえ、へえ……あんた方も、せいぜいお気をつけ下さいな……」
老婆は、その皺だらけの顔に歪な笑みを浮かべた。
「無駄とは、思いますけどねえ……ヒッ、ヒッ……」
風が吹く。
――そこにはもう誰も存在していなかった。
もっとも、そこに老婆がいたことさえ、誰も気づいてはいない。迫り来る深き闇の住人にも、また。
忘れてはならない。
光の届かぬ深き闇の中に、身を隠して爪を研ぎ、機会をうかがっている<何か>がいることを。
to【4】
最終更新:2008年02月18日 18:33