――ある日、とある三佐は悪夢を見た。


自分は妻を愛していた。
妻も自分のことを愛してくれていた。
そして互いに愛を誓い、結ばれた。
その気持ちに嘘はないし、自分は妻と子ども達の為に一生懸命働いた。
全ては愛する家族に幸せに生きて欲しいからだ。
妻が亡くなって久しくなった今でも、その気持ちは変わらないと自負している。
そして、それは例え肉体が朽ち果てても未来永劫消えない物と信じていた。



だから目の前の光景はあり得ないはずだった。
最初は信じていなかった、目を擦ってみた。
しかし自分が見ている物が変わることはない。
男、ゲンヤ・ナカジマは凍り付いていた。
理由は単純、愛する妻であるクイント・ナカジマが両腕を見知らぬ男の腕に絡めながら軽い足取りで歩いていたからだ。
見知らぬ黒髪の男は若々しく、クイントと年齢はほぼ同じに見える。

「さあクイント、次はどこへ行く!?」
「どこでも良いわ! 私はあなたと一緒なら例え地の果てまでも行くって決めたから!」
「そうか、ならばあの夕日に向かって競争だ! この音也様についてこ~い!」

言うか早いか男は絡まれている両腕を解き、朱に染まる太陽に向かって走り出した。

「あ~ん、待ってよ~! あ・な・た~!」
「はっはっは、俺を捕まえたくば全力で走るがいい!」

満面の笑みを浮かべるクイントは自分のことに気付かないまま、甘い声を出しながら見知らぬ男の跡を追う。
その笑顔は娘たちを引き取る前の新婚時代、自分に見せたそれに近い。
そもそも妻は死んだはずだ。それなのに何故あんなに眩しい笑顔を浮かべるのか。
そしてそれを何故、見知らぬ男に向けるのか。
やがてゲンヤは無意識のうちに妻の元へ駆け寄った。

「おい、クイントっ!」

ゲンヤは怒鳴るように大声をあげる。
それに気付いたのか、二人はこちらを振り向く。

「お前クイントだよな、何だその男は!?」

動揺が込められた声でゲンヤは言うが、二人は怪訝な表情を浮かべる。
先に口を開いたのは男の方だった。

「おいおい、何だこのしょぼくれた変なオヤジは? クイント、お前の知り合いか?」
「え~? こんな人知らな~い」

直後、ゲンヤの全身に雷が走る。
愛する者が向けたその言葉は、ゲンヤを凍らせるのに充分な威力を持っていた。

「そういうことだオヤジ、クイントはお前のことを知らないとさ。さあ帰った帰った、この紅音也様がクイントと奏でる愛のハーモニーを邪魔するんじゃない!」

男は虫を払いのけるように手を動かしながら、ゲンヤに言う。
それによって我に返ったゲンヤは、再びクイントに向き合った。

「って違う! 俺だ、ゲンヤだ! お前の夫のゲンヤ・ナカジマだ!」
「え……?」

クイントはぽかんとした表情を浮かべると、ゲンヤの顔をまじまじと見つめる。
すると彼女は握り拳を作った左手で右手をポンと叩く。

「………あ~! 見覚えがあると思ったらゲンヤさんじゃないですか!」
「そうだ! ようやく分かってくれたか!」

ゲンヤの顔に光が戻る。
良かった、妻は自分のことを忘れていた訳じゃなかった。見知らぬこの男と歩いていたのも何か訳があるはず。
彼が思考を巡らせていると、クイントは再び満面の笑みを浮かべて口を開いた。

「ゲンヤさんごめんなさい。実は私、今までの人生を捨ててこの人と新しい愛を生きることを決めました! きゃは♪」

満面の笑みでクイントはパチリとウインクをする。
再度、ゲンヤの身体に雷が走った。しかしそれでもゲンヤは何とか意識を保ち、両腕をクイントの肩に乗せる。

「何でなんだ、クイント!?」
「だって、私もうゲンヤさんと一緒にいること出来ませんし」
「何故だぁ!?」
「やだなあ、お腹の中に妊娠三ヶ月になるこの人の赤ちゃんがいるからに決まってるじゃないですか!」

直後、全ての力がゲンヤから無くなっていく。
その言葉はゲンヤをどん底に叩き落とすのに充分な威力を持っていた。
ナンダッテ?
赤ちゃん。
あかちゃん。
アカチャン。
ベイビー?
やがて、ゲンヤの中である単語が浮かび上がる。
妊娠。
自分とではなく、何処の馬の骨ともわからんこの男との間に?
不意に、ゲンヤは視線を落としクイントの下腹部に目を向ける。見ると、その部分は不自然に膨れあがっているのが見えた。
それが意味することを察知した彼は、自然と崩れ落ちるようにへなへなと地面にへたり込んだ。

「私は私で幸せになりますから、ゲンヤさんもお元気で! さようなら!」
「そういうことだ、オヤジ。じゃあな」

言うか早いか、二人は軽く手を振るとゲンヤに対して踵を返すように走り出した。

「行きましょうあなた! 今度は私が逃げるからあなたが鬼ね!」
「良いだろう! しかしこの俺は千年に一度の天才、お前なんかすぐに捕まえてやるさ!」
「へっへ~ん、捕まりませんよ~だ!」

二人は眩いほどに笑顔と歯を燦々と輝かせながら、夕日の元へ駈けていく。

「待ってくれ、クイント! 俺のことを捨てないでくれ!」

ゲンヤは叫ぶが、クイントは屈託のない笑顔を浮かべながら男と共に脱兎の勢いで逃げるように去っていく。
いくら妻の名前を呼んでも、その後ろ姿は遠ざかるだけで止まる気配はない。
無論、ゲンヤは追った。しかし元々運動能力の高い妻と違い、自分の体力は年齢的に衰えの一途を辿っている一方だ。
そのような要因で、ゲンヤが二人に追いつける道理など存在しなかった。
やがて体力の限界が来てしまったゲンヤは足を止めてしまい、自らの喉が震える――

「クイントーーーーーー!!」






「――っ! ――さんっ! 父さん!」

悲鳴を上げるような女性に叫び声と共に、世界が揺れる。それによって目が開き、身体が勢いよく起き上がった。
ゲンヤの呼吸は荒く、大量の汗を流している。

「父さん、凄くうなされてたけど大丈夫!?」
「……………………」

ベッドの脇には六姉妹の長女、陸士部隊の制服を着たギンガ・ナカジマが困惑したような表情でゲンヤを見ている。
普段なら二人は朝の挨拶を交わすだろうが、部屋の壁に視線を向けているゲンヤは黙り込むだけだ。

「えっと……具合でも悪いの?」
「……………………」

ギンガは尋ねるが、ゲンヤは相変わらず口を閉ざしている。
娘には言わなかった。いや、言えなかった。愛する妻が家族を捨てて見知らぬ男との子どもを身ごもっていた悪夢のことなど。
ゲンヤは心配してくれている娘に顔を向ける。その瞳に、亡き妻の面影があった。

――ゲンヤさんごめんなさい。実は私、今までの人生を捨ててこの人と新しい愛を生きることを決めました! きゃは♪
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」

夢の中で聞いた妻の言葉が突如として蘇る。
その途端、ゲンヤは声にならない叫びをあげ、ベッドから飛び出す。
背後からギンガの声が聞こえた気がするが、気にする余裕を持っていなかった。

――やだなあ、お腹の中に妊娠三ヶ月になるこの人の赤ちゃんがいるからに決まってるじゃないですか!

妻の言葉が再度蘇る。
途中、新聞を片手にコーヒーを喉に流すチンク・ナカジマ、白いエプロンを身体に纏い台所で朝食を作っているディエチ・ナカジマ、腰に手を当てて紙パックから直接牛乳の喇叭飲みをしているノーヴェ・ナカジマ、ポテトチップスを口に含みながら朝のニュースを見て大笑いしているウェンディ・ナカジマとすれ違うがいずれも無視した。
今の彼はただひたすら走りながら叫びたいという欲求に駆られていた。
広い自宅の中を駆け回ると、庭に辿り着く。呼吸が荒いままのゲンヤは、青空を見上げる。
そして、彼は自身の中に溜まった思いを吐き出した。

「音也って誰なんだーーーーーーーーーー!!」

青空には夢に出てきた妻を奪い取ったあの忌々しい男が親指を立てながら、太陽すらも怯ませてしまうように笑顔と歯をキラキラと輝かせていた。
男の叫びはミッドチルダ首都クラナガンを駆け巡ったと言われる。
ナカジマ家は今日も平和だった。
ちなみに遠く離れた管理外世界に跳ばされたスバル・ナカジマは、家族がこのような愉快な毎日を送っていることを知らない。





Side 1986


「へっくしゅん!」

喫茶店、カフェ・マル・ダムールの小綺麗な空間で、麻生ゆりと向かい合うように座りながらコーヒータイムを楽しんでいるクイント・ナカジマは愛嬌を感じさせるクシャミを出してしまう。
それを見たゆりは口に流しているコーヒーの勢いを止め、カップをテーブルに乗せる。

「どうしたんだクイント、風邪か?」
「いや、最近なんかよくクシャミが出るんですよゆりさん。別に具合が悪いって訳じゃないのに……」
「いや違うぞ、クイント! あんたのそれは立派な風邪だ!」

クイントの言葉を遮るかのような大声が店内に響き、紅音也がどこからともなくと現れた。
音也は変なオーラを纏う笑みを浮かべながら、クイントに顔を近づける。

「い~かよく聞け! クイント、あんたは今とんでもない病に冒されている! しかし安心しろ、そんな病気などすぐに治せる特効薬を俺は知っている!」
「え?」
「それはな……俺の愛だ!」

自身満面の笑顔とガッツポーズを作りながら音也は豪語すると、眩いほどにその歯が輝きを放つ。

「……はい?」
「いいかクイント、あんたの中に入り込んだ忌々しい病原菌はいずれあんたの身体を蝕む。だが心配することはない! 俺が付きっきりで看病をすればそんなのは一日、いや十秒で治る!」

誇らしげに語る音也に対して、ゆりとクイントは黙り込むしかできない。
クイントは唖然とした表情を浮かべるのに対し、ゆりは呆れたような溜息を漏らす。

「いやむしろ俺こそが特効薬! その病原菌を俺に移せ! あんたの病は俺の病、愛と同じように俺が全て受けとめてやる! さあ移せ、移すんだ! さあ、さあ、さあ――!」

ゴンッ。
突如聞こえてきた鈍い音と共にその勢いは止まる。次の瞬間、音也は白目を剥きながらフローリングの床に倒れ込んだ。
背後には仏頂面で握り拳を作っている男、次狼が立っていた。

「……次狼、よくやった」
「ゆり、クイント、神聖なるこの店で騒ぐバカは何処に捨てればいい?」
「そうだな、適当にその辺のゴミ捨て場にでも捨てといてくれ」
「承知した」

ゆりの言葉に応えた次狼は気絶している音也を抱え、店を出る。
意識を失いながらも音也は、何処までも満ち足りたような表情を浮かべていた。

「良いんですかゆりさん? いくら音也とはいえ、あれはちょっと……」
「あれくらいがちょうど良いんだ、つけあがらせるとロクな事にならない」
「はぁ……」

ゆりは何事もなかったかのようにカップを再び手に取り、コーヒーを口に流し込む。
何処か疑問を抱きながらも、クイントは今の出来事を何とか忘れさせるかのようにカップを唇に付けた。




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最終更新:2009年06月25日 22:24