果てしなく続く闇の中にいた。黒一色の退屈な世界だった。
これからはこの闇と付き合わなければならない。そうとわかっていても、好きにはなれない。
「大丈夫」
「きっと良くなる」
誰もが異口同音にそう言うが、誰より自分で理解できた。夢は潰えたのだと。
兄の果たせなかった夢。自分で見つけ出した目標。それは最早手に入らない幻想。
光が欲しい、夢を再び掴むために。その為なら何を犠牲にしてもいいとすら思う。
他者を顧みない夢など、あの人は否定するだろう。似た境遇を経てもなお、それは変わらない。彼女は現に這い上がった。そして強く立っている。
彼女はきっと協力を惜しまない。絶対に諦めずに力を貸してくれる。でも、それが重い。
自分は彼女のように諦めない意志を持てるのか。諦めたその時、彼女は失望するのではないか。そんなことはないとわかっていても、それが怖い。
仲間たちに気を使わせて、重荷を背負わせて。それも辛い。
彼らの力になりたい。また、一緒に戦いたい。そんな当たり前だったことさえ、今は果てしなく遠い。
もしも今、光を与えてくれるのなら悪魔だって構わない。
光を、光を――闇の中でがむしゃらに手を伸ばす。
そして手は握られた。
第二話
融け合う絶望
ティアナは手に伝わる感触から覚醒した。夜も昼も無く、時間の感覚が無いに等しい。
ただ場所だけは分かる。聖王医療院の病室だ。この一週間余り、ほとんどこの場所から動いていないのだから。
「大丈夫? ティア、すごくうなされてたけど……」
声を掛けられてすぐにスバルだと分かった。どうやら夢にうなされて手が伸びていたらしい。
「スバル……来てたんだ」
「今来たとこだよ。さっき出動から帰ってきたところ」
「スバル……手……」
右手にしっとりとした温もりが伝わる。ほっとして懐かしい、優しい手だ。
手を握りっぱなしであることを指摘すると、スバルは気付いていなかったのか、慌てた声で手を放した。
「あ……あはは。ごめんね、つい」
「別にいいけど……」
ティアナには、これが目の代わりであるように思えた。光のない世界で、言葉よりも直接語りかけてくるもの。それは彼女の両手から染み込んでくる優しさと慈しみだった。
それ故に自分がもどかしかった。彼女が何か無理をしているのではないかと不安になる。
「あんたも毎日来なくていいのよ? 出動や訓練の後で疲れてるでしょうに」
リモコンを使わずベッドから身体を起こすと、隣から声が返ってきた。いつものように明るく元気で、疲れを感じさせない。
「ティアは何も心配しなくていいよ。仕事も順調で上手く回ってる。私が来たくて来てるんだし。許可も貰ってるし、ね」
それが辛いということを、多分彼女は分かっていない。毎日見舞いに来ては甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるが、その度に申し訳なさで一杯になる。
今も一人になると大声で泣きたくなる。夜になって周りが完全な静寂に包まれた時、これからのことを考えると、怖くて堪らない。
そこに彼女の優しさは危険すぎるのだ。優しさに溺れてしまう。いつか、それが失われた時、自分はどうなってしまうのだろうと考えると不安になる。
それを考えたくなくて、つい遠ざけるようなことを言ってしまう。
「いいから帰りなさいよ。明日も早いでしょ」
「まだ大丈夫だよ。あ、そうだ。ティア、テレ――ラジオとかどう? 今日のバイクレースの結果が確かやってるんじゃないかな」
「チャンプが出てないからいいわ」
「そっか……」
スバルは自分の前で文句一つ、泣きごと一つも言わなくなった。いつだって明るい声で隣にいてくれる。
でも、それはこれまでの関係とは違う。どこか無理がある明るさ。緊張を含んだ空元気だった。
自己満足の優しさではないと思いたい。でも、信じきることができない。それは態度にも表れる。
「あんた、そろそろ帰りなさいってば」
「ティア、身体拭いてあげよっか? それとも――」
「いいから帰れって言ってるの!!」
つい、声を荒げてしまった。言った後で激しく自己嫌悪する。それなのにスバルの態度は変わらない。
「っ……そうだね。ごめんね、うるさくして。今日はもう、帰るね」
謝るより早く謝られてしまった。どう考えても怒るようなことではなかったのに。
彼女は無理に明るく振る舞って、そそくさと立ち上がる。
「じゃあ、お休み、ティア……」
「あっ……」
一瞬引き留めそうになる。少し躊躇ってから、行き場の無くなった右手をベッドに落とした。
これでいい。いつまでも自分などに構う暇があるなら、身体を休めるべきだ。
このままではスバルに対して、いつか酷い暴言を吐いてしまいそうだった。
大事な人に拒絶されること。自分は何よりそれを恐れている。だから距離を置いた方がいい。矛盾していると思うが、他に思いつかなかった。
それでも一人になると思う。明日も来てくれるだろうか、と。そして本当は期待している自分がいることに気付く。これも矛盾している。
考えるのが嫌になり、ティアナは静かにベッドに身を横たえた。
※
ミッドチルダは時空管理局地上本部。ここは今日も議論で紛糾していた。
「何度も申し上げている通り、今最も警戒すべきなのは、融合体が複数での作戦行動を取ったという事実です。これは先日の融合体大量発生を辿れば明らかです」
XAT隊長やレジアス中将他、数名の各部隊長の目を見据えながら、はやては意見を述べた。
はやての視線と、はやてを見る何人かの視線は不機嫌そのもの。それらが空中で交差して火花を散らす。
「融合体はミッドチルダ郊外も含め東西南北に出現し、最終的にはクラナガン中央区、街の中心部に出現しています。これは明らかな陽動です。
そしてビル内に誘い込み、六課隊員四名とXAT隊員二名の六名を罠に掛けた。これは高度な知能を持った者でなければできない」
「しかし八神一佐、では何の為に融合体――それを操っている何者かでもいい。融合体はたかだか六人を殲滅する為に、そんな大掛かりなことをしたというのですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。そこは自分自身理解できない部分なのだ。
反論したのはXAT隊長、ウォルフ・ゲイリグ。彼はいかにも叩き上げと言った風な、屈強な褐色肌の男性である。
往々にして、はやてはこのタイプと相性が悪い。レジアスもその一人だ。
現場は十分理解しているつもりだが、他人はそうは見てくれない。このタイプでそれを知るのは、一緒に仕事をしたゲンヤくらいだろう。
「仮に私が作戦指揮を取るとするなら、もっと大きな作戦。例えば地上本部の制圧のような時までは、烏合の衆を装うのが得策だと思うのですが?」
「ウォルフ隊長の仰ることも尤もですな」
何人かがウォルフの意見に賛同した。はやての意見を取り入れようとする者も何人かはいる。
しかし何人が賛同しようと、協同歩調を取るべき肝心のXAT隊長のウォルフと、レジアスの賛同が得られなければ意味がない。
「二週間前の戦闘で、融合体が一時的に理性を取り戻したという報告もあります。元々兵器を融合し操ることもできる訳ですから、融合体が知恵を持ち、
意志の疎通を行う可能性も考慮すべきではないでしょうか」
正直こんなことに時間は掛けていられない。自分達が戦うべき敵はこんなところにはいないのだから。
しかしはやての思惑とは別に、ウォルフは更にはやてを刺激してくる。
「私が気になるのは、融合体を一体倒したという魔力射撃の方です。半径約100m圏内は建物の屋上まで警戒していたにも拘らず誰も狙撃手を見ていない。
これはつまり、その外側から狙撃したということです。しかも落下する融合体の頭部のみを、一撃で確実に。そんな芸当が可能な魔導師がいるとすれば、
地上では六課くらいしかありえない」
「しかし、六課の隊長達はその日全員が各地の融合体の殲滅に当たっており、そんなことが可能な者は……」
第一なのはにせよ、フェイトにせよ、そんな事をする意味がない。
一つ心当たりはある。だが、答えられなかった。それにしても辻褄の合わないことが多すぎるのだ。
「あ~、待って下さい。確かに先日の狙撃も気になりますが、それよりも優先して調べるべきことがあります。同じく先週のサーキットの件ですな。
融合体を攻撃した融合体がいるとのことですが、その辺どうなってるんですかね、XATさん?」
言葉に詰まっていると、ゲンヤ・ナカジマが挙手。助け船を出してくれた。
先週、バイクレース中のサーキットで融合体が出現。十人を超える死傷者が出た。直接は見ていないが、XATの二班は出動している。
融合体を撃破したのはXATではなく、突如現れた蒼い鬼のような融合体。その後はどさくさに紛れ厳戒の警備の中、忽然と姿を消している。
「その件に関してはまだ調査中だ。報告すべきことがあれば最初にしている……!」
「それは失敬」
ウォルフの頑固な態度に対し、ゲンヤはやや飄々とした態度。相性が悪いのも無理はない。
ウォルフが忌々しげにゲンヤを睨みつける。ここ最近は、集まってもこういった雰囲気になることが多い。
XATとの溝が少しずつ、しかし確実に深まっていた。
「ともかく、私が言いたいのはもっと人員を増やすべきだということです。六課に限らず、本局から応援を呼んででも……」
「魔導師よりもXATの機動部隊の消耗が激しい。我々としては、人員の補充はもとより、装備の強化が必要です」
ウォルフがはやての意見を遮る。取り方によっては魔導師を軽んじた発言にも取れる。
これには流石に、はやても怒りを露わにした。 こんなことをしても空気を悪くするだけだと分かっていても抑えられなかった。
「それは魔導師の補充は必要ないということですか!? 六課にも犠牲者は出ています!」
「そういうことではなく! 人員の補充、装備の強化はこちらの方が比較的容易、早くに実現できるという意味です」
確かに、ウォルフの言うことは正しい。しかし、何か釈然としない。だから、はやても退くに退けなかった。
睨み合うこと数秒、沈黙を破った者がいた。痩身だが眼光鋭く、まるでライオンを思わせる初老の男。XAT長官、ヴィクター・シュタッフスである。
「静粛に! 今最も優先すべきことは、市民の安全である。これはいつでも変らん。だがその為に何が必要であるか、それが問題だろう」
机を叩き、手振りを交えた、やや芝居がかった口調。
「生きたまま融合体に感染する可能性もあるという八神一佐の発言を考慮して、融合体と接触、感染の疑いのある者は48時間厳重に監視、監禁する。
これはXATも魔導師、市民も全て同様にだ。我々も例外では無い。
死亡者もこれまで以上に、少しでも疑わしければ隔離、必要であれば強硬手段も厭わない。以上だ。各自警戒を怠らず事に当たってほしい」
ヴィクターは言いたいことだけ言ってしまうと、勝手に会議を締め切ろうとする。
「よろしいでしょうか、中将?」
最後にとって付けたようにレジアスの顔を立てて。
しかし、レジアスはヴィクターの雰囲気に飲まれたのか、たった一言それに応じたのみだった。
「ああ、構わない……以上、解散だ」
融合体に関して、本部の方針と指揮のイニシアチブは、完全にヴィクターが握っていた。これに限ってレジアスはほとんど外野扱いである。
ヴィクターは本局から派遣された男だが、その素性ははやてもよくは知らない。
否、経歴は明らかなのだ。とある管理世界の生体工学の研究部署。そこで研究者を取り纏める所長であったらしい。そこから様々な部署を転々とし、ここに至っている。
しかし、いずれもミッドと関係のない部署からの人事であり、何故彼なのかは不明。それどころか、クロノに聞いても確かな答えは返ってきていない。
彼に関しては、その多くが謎である。
それでも、優秀なのは疑いようのない事実。ヴィクターこそがXAT設立の立役者であり、強引ながらも功績を上げてきた。
しかし、はやては違和感を感じずにはいられなかった。 まず、融合体に関して以前から知っていたのではないかと勘ぐりたくなるほどの対応の早さ。
これだけなら特別優秀というだけかもしれない。 だが、それなら察することもできそうな事柄を幾つも見送っているようにも感じられる。
まるで適度に被害を出そうとしているかのように。
勿論、すべては憶測の域を出ていない。終わってから勝手に理由を当て嵌めたに過ぎない。言い掛かりとも言える強引な論旨。
結局、分かっていることは、今回の会議も取り立てて収穫は無いこと。今は独自の判断で警戒するしかないということだけだった。
※
「あー! むかつく!!」
カランと乾いた音を立てて、三本目のコーヒーの缶がゴミ箱に叩きこまれる。それでも手は四本目に届こうとしていた。
はやては荒い息と共に憤りを吐き出した。このところストレスは鰻登り。胃薬の量も増えている。
ティアナが倒れたこと、手術の結果、その後の検査。それぞれ現場には立ち会えず、又聞きばかりだが、その度に目の前が暗くなる思いだった。
なのはもフェイトも守護騎士達も、外見は平静を装っているが、傍から見れば相当参っている。それぞれに責任を感じているのだろう。
感染の疑いのある者は48時間の隔離、監視。これはティアナも例外ではなかった。流石に独房に入れる訳にはいかないので、病室に結界、
出入り口にXATの見張りを立てるということで合意した。
なにせ聞くところによると、見舞に来たなのはに睨まれた隊員は、その眼光が夢にまで出てきたというのだから、なのはのフラストレーションもかなりのもの。
はやてが見舞いに行ったのは一度きり。想像はしていたが、その痛々しい姿を見ると言葉が出なかった。
"入院中のことは何も心配しなくていい。 これからのことは主治医とも相談して落ち着いたら話そう。"
話したのは、ほとんどこの二言のみだ。それきり忙しさを理由に逃げ続けている。
しかし、はやては純粋に身を案じるばかりではいられない。ティアナの抜けた穴を何らかの形でカバーしなければ。
取りあえず、ゲンヤからギンガを借り受けることは決まっている。だが、まだ足りない。これまでのフォーメーションや、チーム内でのポジションを考慮すると、
ティアナの穴はそう簡単に埋まるものではない。だというのに――。
「なんやの! ウォルフ隊長のあの態度は!!」
非協力な態度。六課への侮辱。これらは今に始まったことではない。現場で堅実にキャリアを積み重ねてきたであろうウォルフが、六課を嫌うのも無理はない。
XATは犠牲も出しているが、それでも一部の精鋭たちは驚くべき功績を上げてもいる。それは間違いないことだ。
「だからこそ協力したいって言うてんのに、あの頑固親父は! 実際ああいうのに限って×××!! ベッドでは××××!!」
「は、はやてちゃん! 誰かに聞かれちゃいますよ!?」
八神はやてのストレスは鰻登りである。隣で宥めるリィンフォースⅡの声も聞こえない程に、だ。挙句、女性としてあるまじき発言すら飛び出す始末。
彼女が怒鳴っているのは陸上本局の自販機の前。誰か来ないか、リィンは気が気でないようだった。
「ハハハハハハッ!」
突然自販機の陰から笑い声が響いた。陽気な男の声だ。誰もいないと思っていたが、自販機の間に死角があったらしい。
「面白いもん聞かせてもらったぜ。あのウォルフ隊長を頑固親父とはねぇ……」
ひょっこり顔を出したのは、赤毛の若い男だった。そのレザースーツのような隊服からして、XATの人間であることは一目瞭然。しかも、悪いことに声は一つではなかった。
「ちょっと、ヘルマン! あなた……」
「なんだよ、アマンダ。お前だって笑っただろうが」
どうやら男の名前はヘルマン。そしてもう一人、続けて姿を現したのはヘルマンと同じ隊服を着た女性だ。
ピンクの髪を束ねた美人、しかも抜群のプロポーションの持ち主である。なんせ胸元のジッパーが上がりきらず豊満なバストがちらついている。なんとも扇情的な服装だった。
「悪いな、聞くつもりはなかったんだが。しかしクックククッ……」
アマンダの制止も聞かず、ヘルマンは堪えきれない含み笑いを漏らしながら、はやてに近づく。
「あの~、つかぬことをお聞きしますが……どこら辺から聞いてました?」
「缶コーヒー2本目あたりからだな」
カァッと顔が見事な朱に染まる。ほとんど全部聞かれていた。
「もう、はやてちゃんったら。みっともないです」
リィンも自分のことのように顔を抑えて恥ずかしがっていた。主従揃って穴があれば入りたいくらいの醜態。
しかし、当のヘルマン達は隊長を侮辱されたというのに、怒ってはいない。
「まぁ、別に怒ってるわけじゃねぇさ。頑固親父は本当のことだしな。しかし、あの隊長によく言ったもんだって思ってな」
「はぁ……」
「それで? あんたはうちの隊長にどんな不満があるんだ?」
ヘルマンは缶コーヒーを三本買うと、はやてとアマンダに投げて渡し自分も栓を開けた。見た目チンピラのようにも見えるが、意外と気さくで兄貴気質かもしれない。
はやてはヘルマンの雰囲気に乗せられ、ぽつりぽつりと愚痴をこぼしだす。
「別にウォルフ隊長が嫌いなわけやないんですけど……。もうちょっと私らのことも信頼してほしいって言うか……」
「あれで俺達には気安いところもあるんだがなぁ。飲みに行ったりすりゃ冗談も言うんだぜ?」
ヘルマンは、はやての愚痴を聞きながら相槌を打ち始める。すると、すっかり飲み屋の一画と化する自販機前のベンチ。リィンとアマンダは互いに顔を見合わせると、溜息をついた。
「そりゃあ隊長からすれば私らはヒヨッコ扱いで、あてにならへんやろうけど……」
「俺やアマンダもたまに命令違反やらで怒鳴られるが、話して分からねぇ相手じゃない。だとすれば、あのオッサンにも譲れないところがあるんだろうよ。あんただけのせいじゃないさ」
「はぁ……魔導師に対する根本的な不信があるんですかねぇ……」
魔導師と言う言葉に、反応したヘルマンは首を傾げた。そこでようやく、何かが違っていることに気付いたらしい。
「ん? 魔導師?」
「あ、申し遅れました。私、機動六課部隊長の八神はやてって言います。さっきの会議でちょっとウォルフ隊長とやり合ってしまいまして……」
「何ぃ!? 機動六課の部隊長!?」
当然XATの一隊員よりも階級はかなり上に位置する。そんな相手に軽いノリでタメ口を聞いていたことに、ヘルマンの顔色が変わった。
「あ、気にせんでもええですよ。年下やし、別に構いませんから」
「あ、いや……俺はてっきり事務か何かかと。アマンダ! お前知ってたのかよ!」
「知ってるわよ、有名人だもの。止める前にあなたが行ったから……。失礼しました、アマンダ・ウェルナーといいます、八神一佐」
アマンダははやてに軽く敬礼しウィンク。ベンチから落ちそうな勢いでヘルマンもそれに続く。その慌てぶりが面白くて、軽く吹き出す。
不思議と胸が軽い。XATの人間はほとんどウォルフしか知らなかったので、実際にどのような人間が働いているのか知ることができたのは幸運と言えた。
しかもまるで予想だにしない形で。
「ええ、よろしく。アマンダさん、ヘルマンさん」
はやてもヘルマンとアマンダに敬礼を返す。その表情は明るく、清々しい。身近な人間に愚痴をこぼせないはやてにとって、いいストレス解消になった。
XATに顔見知りができたのも、今後何かの役に立つかもしれない。
「いや、こちらこそ。失礼しました」
「また腹が立ったらお願いします」
冗談めかして言うと、ヘルマンは困ったように苦笑する。はやて含む三人は声を上げて笑った。
なんだ、面白い奴もいるじゃあないか。これだけでも、今日ここに来た意味がある。そう考えることにした。
※
夕暮れの病室。陽は落ちかけ、院内の空気も夜のそれに変わっていく。尤も、ティアナにはそれを音と匂いでしか感じることはできないのだが。
そろそろ来る頃だろうか。プレゼントを待つような気持ちで、内心胸を弾ませる。彼女が、スバルが元気よくドアを開けて名前を呼んでくれるのを、今か今かと待ち侘びていた。
スバルを拒絶してから、もう三日になる。それでも彼女は来てくれた。次の日も、その次の日も。 まるで変わらない様子で声を弾ませるスバルに、もう拒むことはしなかった。
それどころか、次の日スバルが姿を現した時は、正直安堵した。 嫌わないでいてくれたことが、変わらず自分を気遣ってくれることが、本当は嬉しくて堪らなかった。
きっとそれが自分の正直な気持ち、自分の望み。考える時間だけは山ほどあった。
ならば、今はそれに甘えてしまおうと思った。危惧したとおりに自分は優しさに溺れている。だが、言い換えればそれは優しさに包まれているとも言える。
言葉にできない力。それが少しずつ浸透して心が癒えていく。
残念ながら、今の自分が仲間達にできることはない。強いて言えば早く良くなることくらいか。無論、それは視力の回復という意味ではない。
訓練をして、生活できるようになって――そして、彼らから離れていくことだ。
時間を掛けて、ようやく辿り着いた。これまで直視することから逃げ続け、封印してきた結論。この目はもう戻らない、もう戦えないのだということに。
その勇気を与えてくれたのは、紛れもなく代わる代わる見舞いに来てくれた同僚、上司、そしてスバル。だからせめて、スバルを労うことくらいはしたい。
故に今日もスバルを待ち続ける。その裏に、"もう少しだけ"という甘えを潜ませて。
「ティア起きてるー?」
声に合わせてドアが軽く叩かれる。心臓もそれに合わせて高鳴る気がした。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
なるべく努めて平静に返事を返す。それでも隠しきれない期待で声が上ずってしまう。
ガラリとドアの開く音が聞こえ、それが閉まりきる前に待ち望んだ声が届く。今日も元気そうでなによりだ。
「お疲れ様。今日も出動したんでしょ? 身体は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。全然平気だよ。私も他の皆もね」
少しずつだが、お互いにぎこちなさも緩和されてきている気がする。見方が変われば、こんなに気分が変わるものだとは思わなかった。
そこれからは取り留めのない話を時間の許す限り話した。
同僚達は何をしているか、何か変わったことはないか等の真面目な話。
最近楽しかったこと、美味しいお菓子の店、お勧めの曲、他愛のない雑談。
会話に以前のような気安さが混じり、ティアナの顔も綻ぶようになる。それに気付いた時、ようやくティアナ・ランスターと言う存在が元に戻りかけている実感を得ていた。
「ねぇスバル、お願いがあるんだけど、クロスミラージュを持ってきてもらえない?」
「クロスミラージュ?」
小一時間ほど話した頃、そろそろスバルが帰ろうとする雰囲気を察し、ティアナは本題を切り出す。
ティアナのデバイス、クロスミラージュは現在六課で保管されている。かれこれ一週間程手にしてないことを思い出したのだ。
「ちょっと身体も鈍ってるし、魔力の操作の練習とか、ここでできる範囲でやってみたいの。それでクロスミラージュのナビがあれば安全だし、助かるんだけど」
スバルは思案するように沈黙する。やはり無理な頼みだっただろうか、と少し不安になってくる。
スバルには話せないもう一つの理由。それはもう一度クロスミラージュに触れたいと、単純にそう思ったからだ。もう触れる機会も、話す機会も無いかもしれない。
だからもう一度クロスミラージュを感じたい。別れを、感謝を伝えたい。
これからどんな人生を歩むことになるか知れないが、少なくとも手にして戦うことはもう二度と無いだろう。
長いようで短い付き合いだった相棒、せめて名残を惜しむくらいのことはしたかった。
「でも、OKしてもらっても待機モードでロックされると思うけど……」
「わかってるわよ。練習に付き合ってもらうだけだからそれで十分」
あのグリップの感触を感じられないのは残念だが、流石にそれは贅沢というものだろう。安全面も考慮すれば、無茶を言ってるのは分かっている。
それでも、叶うならもう一度だけ会いたい。
ティアナは祈る思いでスバルの返事を待つ。
「うん、わかった。なのはさんとシャーリーさんに頼んでみる」
「いつもありがと、頼りにしてるわ」
これまで言えなかった言葉が驚くほど自然に口から出た。そんな程度のことが嬉しかった。
どうしたって取り戻せないものは厳然としてある。それでもこうして話せる友と、友と思える自分、これだけは失うことなくいられた。
「うん!!」
廊下にまで響く声でスバルが頷いた。
きっとこの上なく嬉しそうな、極上の笑顔を浮かべているのだろう。ああ、やっぱりそれが見られないというのは惜しい。
もし、もしもこの目が見えるようになったなら、その時は絶対にその笑顔を見せてくれるだろうに。
「明日はエリオとキャロも連れてくるね! 私達も付き合うから、クロスミラージュと一緒に話そうね! 絶対!!」
「はいはい、あんまり大きな声出さない。他の人に迷惑でしょうが」
「それじゃまた明日! おやすみ、ティア!」
そう言ってスバルは去って行った。ティアナは扉の方を向いて呆然と見送る。後には台風の後のような静けさだけが残された。
「まったく……」
呆れ混じりの微笑みが浮かぶ。彼女はいつも元気で、他人に笑顔と活力を振りまいている。そのバイタリティは全くもって羨ましい限りだ。
スバルも、エリオもキャロもそうだ。いつか必ず優秀な魔導師になれる。いつの日か、今を思い出し、懐かしむ日が来るだろう。
年の割に枯れた考えだと言われるだろうと、ティアナは自嘲する。
ふと、廊下からの風が吹き抜ける。冷たい夜の空気がひんやりと心地いい。浮かれたスバルがちゃんと閉めていかなかったに違いない。
喧騒を遠くに感じるのは、もうじき夕食の時間だからだろう。少し寒いが、今日は最高に気分がいい。もうしばらくこのままでもいいと思った。
「ねぇ、今日も来てたの?」
聞き慣れた看護師の声。扉が閉まっていないからか、雑談も割とはっきりと聞こえてくる。
「あの魔導師の女の子でしょ? 勿論。いつも元気よねぇ、ほんとうるさいくらい」
「もうちょっとした名物ね」
スバルを肴に笑い話が弾みそうな勢いだ。何故かこっちが恥ずかしくなってくる。明日来たら注意しておかなければ。
ティアナが火照ってきた頬を押さえていると、
「でも今日も生傷が増えてたわ。随分疲れてるみたいだし、やっぱり魔導師って大変なのねぇ……」
「そうそう、この間来てた男の子も、右足をちょっと引きずってた。でも皆、あの娘の前だとそんな素振り全然見せないのよ」
ドクンと心臓が跳ねた。嫌な汗が背中を伝う。
それから看護師達は物騒な世の中だとか、引っ越しがどうだと話していたが、ティアナの耳には届いていなかった。
「なんで……」
何でスバルは嘘を吐いて怪我を隠したのだろう。何で上手くいっている振りをするのだろう。何で自分はそれに気付かなかったのだろう。疑問符ばかりが脳裏を掠める。
何故嘘を吐き、順調を装うのか。それは心配を掛けない為だ。考えればすぐに分かるはずだった。
では何故気付かなかったのか。それは自分がスバルを盲信していたから。優しくされることに慣れ、目を理由に寄り掛かっていた。
互いの間に横たわるぎこちなさを解消したくて、関係が修復されてきていると感じていたからこそ、何でも話してくれると盲目的に思っていた。
ほんの一週間前ならこんなことでショックを受けやしない。裏切られたなんて思うわけがない。しかし、自分は変わってしまった。
今は口を開けて餌を待つだけの雛鳥と同じ。何も与えず、与えられる愛を享受するだけの存在。それでもいいと思っていた。
スバルにせよ、エリオにせよ、キャロや隊長達には隠さなかっただろう。
隠せるものでもないだろうし、何より戦いの中で命を預け合う関係で、身体の異常を隠せば他の者を危機に陥れることになりかねない。それがチームというものだ。
やっと対等に戻れたと思っていた。求めていたのは母親ではない。保護者でもない。相棒であり、戦友であり、同僚であり、仲間であったのに。
"離れていく"ではなく、既に離れていた。気付いていなかったのは自分だけ。彼らにとって、自分はとっくに守るべき無力な庇護の対象であり、既に対等など望むべくもなかったのだ。
「くっ……うぅっ……」
悔しくて食い縛った歯の間からは漏れ出るのは声にならない声。目からは止め処なく涙が溢れた。
自分が抜けた穴が何事も無く埋められ、全てが順風満帆だと聞いた時は内心面白くなかった。その程度の戦力でしかなかったのか、と。
だが、今になって苦しいと知ったところで何ができる? 六課の為にできることはもう無い。厳しい現状を皆が隠す以上、愚痴や苦労を聞くことさえ必要とされていない。
ティアナは自分が酷く滑稽な存在に思えた。どこまでも無力で、それなのに力になれると思い上がって足を引っ張っていた。身勝手に嫉妬する、甘えた子供。
一週間――たった一週間少々で自分の魂は見る影もなく弱くなってしまった。開き直って、それを受け入れていた自分。それに気付いた時、それが情けなくて、恥ずかしくて、悔しかった。
胸に黒い感情が芽生えた。疎外感と一抹の不信感。そして激しい自己嫌悪。それらは以前から自己の内に潜んでいたものを糧として生まれたもの。
千々に掻き乱された心の隙間に蛇は入り込み、それらはゆっくりと毒に醸成されていく。
※
三日前も昨日も、きっかけはほんの些細な出来事だった。しかし、その些細な出来事が考え方を大きく左右することもある。ティアナにとってはまさにそうだった。
まどろみと覚醒を繰り返し、光を取り戻すのは唯一悪夢の中だけ。食事も取らず、気づけば朝が来ていた。
人々が目覚めだす朝の雑然とした空気が今は煩わしい。誰もが活動を始める中で、ティアナの時間は昨夜から停滞していた。眠ることを諦め、数時間も同じ姿勢で座ったまま動かない。
諦める決心をしたはずなのに諦めきれず、燻り続ける未練をどこにぶつけていいのかも分からない。
朝食も断り、ただひたすら頭の中で堂々巡りを繰り返す。スバル達が来るとしたら夕方だろう。どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
恨み事を言うのは筋違いだし、惨め過ぎる。彼女は何も悪くない、勝手に期待して失望したのは自分の方。だからといって、もう今まで通り笑い合える自信はない。
何一つ結論が出ないまま、時間だけが過ぎ去る。何時間経ったのか分からなくなった頃、扉が軽くノックされた。
「誰ですか……? 今気分が悪いんで……」
看護師なら適当に追い返そうと思った矢先、鼻腔を香りがくすぐった。こんな強い香水を付けている看護師もいないだろう。
あまりその方面には明るくないが、ムスクか何か――動物系の香水だ。
「こんにちは。ティアナ・ランスターさんですね?」
香水から想像はしていたが、やはり女の声だった。落ち着いた雰囲気を持つが、同時に艶やかさも併せ持つ声。記憶には無い。
「あの……どなたですか?」
扉が閉まり、足音が近づくにつれ香りもより強まる。靴音はベッドの側で止まった。
「突然失礼します。実はあなたに渡したい物があって伺いました」
「渡したいもの……?」
失礼、と一声あって、ティアナの手が取られ、何かが握らされた。手の中で転がすと、すぐに察しがついた。
ここに来てからも何度か手にした覚えのある感触。カプセルの入った包みだ。
「単刀直入に申し上げます。それは私が開発中の新薬。まだ試験もされておらず、当然認可も下りていません」
「はぁ……」
意図が飲み込めず、間の抜けた相槌を打つティアナ。それがおかしいのか、女はクスリと軽く笑った。
「それを飲めばあなたの目は完全に回復します。これまで通り、いえ、これまで以上に見えるようになりますよ」
「えっ……」
続く女の言葉は驚くには十分だった。俄かに信じられる話ではない。それでも回復という言葉にはそれだけの魔力があった。
「但しリスクも生じます。急激に増殖する神経細胞の副作用。それによって高熱を発し、幻覚症状を起こすことも。最悪の場合は死に至ります」
そこまでを一気にまくしたてると、女は黙った。反応を待っているのだ。
「そんな話……信じられると思ってるんですか?」
「信じる、信じないはあなた次第。苦しみを味わうこと、それを耐えきれば回復。これだけは約束できます。なんの証拠もありませんけど」
「でも……そんな……」
この女の話はあまりに胡散臭すぎる。こんな怪しい薬を渡されて信じろと言う方が無理な話だと、まともな人間なら言うに決まっている。
それでもティアナは迷った。薬がもたらすという結果の前では、どんな理性的な判断も吹き飛ばされそうになってしまう。それほどまでに甘美な誘惑だった。
「でも……何で私に?」
「失礼かと思いましたが、あなたのことを少し調べさせてもらいました。まだお若いのに視力を失われては大変でしょう? 武装隊員となればなおさら。
これからどうなさるおつもりですか?」
「それは……」
分からない。どの道管理局、しかも六課にはいられないだろう。あらゆる意味で"お先真っ暗"だなんて洒落にもならない。
「そんなあなただから、これを試してくれると思ったんです。是非とも魔導師の方にお願いしたいとも思っていましたし」
「本当にこれで何もかも元通りに……?」
「私は視力の回復といっただけですが……」
ふわりと香水の香りが舞うと、女が近づいたのだと分かった。女の声が一瞬、背筋が寒くなるほど冷たく妖しい響きに変わる。
まるで香りや美しさで獲物を誘い捕食する動植物。女からは何故かそんな印象を受けた。
「必要なければ砕いて捨ててください。それと……このことはくれぐれも他言無用にお願いします。それでは」
女は結論を待たずに立ち去った。残されたティアナは、手元のカプセルを遊ばせる。
あれから一週間余り、視覚が利かない分、聴覚には随分と敏感になった。いつでも相手の声色に注意して、感情を読み取ろうともしてきた。
特にあの女の場合は、最大限真偽を読み取ろうとしたつもりだ。
嘘は言っていないと思う。しかしあからさまに怪しいのもまた事実。だが、何の為に自分をだます必要があるのだろう。なんのメリットも無い。
ティアナは大きく深呼吸して天井を仰いだ。結局、考えるための材料が少なすぎるのだ。
悩んでも仕方がない。死を覚悟で試すか、それとも忘れるか、二つに一つ。
或いはもう一つ、これを医者に渡して分析してもらうか、だ。
ティアナは頭を振ると、その選択肢を切り捨てた。そんなことをすればあの女は自分を殺す。
あれはそれができる声だと、僅かに残る戦士の勘が告げていた。
昼が過ぎ、夕方に差し掛かってもまだ、踏ん切りがつかない。女の言葉を、自分の言葉を何度も何度も反芻する。
何もかも元通りに。とっさに出たそれは偽らざる本音。
これさえあれば、もう一度六課に戻れる。執務官という夢を追うこともできる。居場所を、仲間を、強い自分を取り戻せる。
利口な人間なら決してしない選択。少なくとも普段の自分なら絶対にしない。やはり、今の自分は利口ではないらしい。
「これで、これさえあれば……」
これで取り戻せる。これで終わる、たとえ死んだとしても。このまま夢の残骸に埋もれていくくらいならいっそ――。
一杯の水でティアナはカプセルを飲み下した。じっとシーツを握り締めてその時を待つ。
負けないように強く固く、手に力を込めた。
最終更新:2010年03月11日 17:45