スバル・ナカジマはその日、最高に浮かれていた。訓練後だというのに息を切らして、病院へと走る。手に握りしめたカードは、ティアナのデバイスであるクロス・ミラージュ。
 スバルも同席するという条件で、持ち出しは許可された。難しいかと思ったが、なのはもシャーリーも意外にもすんなりと快諾してくれた。
ティアナからの頼みだと聞くと、なのはは困ったような、寂しいような、複雑な顔をしていたが。
 病院の玄関を通り、一直線にティアナの病室へ。少し遅れてくるというエリオとキャロには差し入れを頼んでおいた。
 自分は一分でも一秒でも早くティアナにクロスミラージュを会わせたかった。

「ティアー、クロスミラージュ持ってきたよ……って、あれ?」

 ドアを開ければすぐにベッドが目に入る。しかし、いつもそこにいるはずのティアナの姿がない。これは初めてのことだった。
てっきりティアナも早く対面したいだろうと思ったのだが。
 室内に入り、見回しても姿はない。

「どこ行っちゃったんだろ……出かけてるのかな」

 沈黙すると微かに音が聞こえる。これまで声で掻き消されていた小さな物音は、入り口横の個室からだった。そこにはトイレと洗面台が備え付けられている。

「ティアー、いるの?」

 といっていきなり入るわけにもいかず、ノックをするが返事はない。しばらく耳を澄ましていると、蛇口から水の流れる音が延々と続いている。
 その音に隠れたほんの僅かな声をスバルは聞き逃さなかった。
 正確にはそれは声というより、喘ぎ。誰に対してでもなく、ひたすら荒い呼吸音が繰り返される。

「ティア!? 大丈夫!?」

 鍵は掛かっていなかった。思い切って扉を開け放つと、ティアナは洗面台の横で座り込んでいた。こちらに気付いた様子も無く、俯いて肩を上下させている。

「ティア!!」
「……スバル?」

 跪いてティアナの肩を揺すると、小さく返事を返した。
 肩を掴んだだけで異常な熱が伝わってくる。喉が乾いて水を飲みに来たが、途中で力尽きたのだろう。

「待ってて、今人を呼んでくる!」
「やめて!!」

 立ち上がろうとしたスバルの服をティアナが掴んだ。どこにこんな力が残っていたのか、不思議なくらいの強い力で。
 横顔は真っ赤に上気し、全身にびっしょりと汗を掻いている。呼吸は未だ治まらず、それでも掴む手は緩めない。
 スバルはその場に縫い止められた。それは腕力によってではない。彼女の発した叫びが、動くことを許さなかった。

「スバル……傍にいて。さっきから見えるの……ずっとあたしを見てる」
「ティア……」
「融合体が……デモニアックがずっと……! あたしを笑ってるの……!」
「ティア!!」

 服を掴む手は小刻みに震えていた。背中合わせに戦ってきた彼女が、背中を預けてきた彼女が、今はこんなにもか細く怯えている。
 ひょっとしたら、あの日の記憶がフラッシュバックしているのかもしれない。ただ自分が気付いてやれなかっただけで、これまでも何度もあったのかもしれない。
 それが無性に切なくて、瞳から涙が零れた。思わず抱き締めたくなる衝動に駆られる。そして自分が付いていると言ってあげたくなる。
 でも駄目だ、それでは何の解決にもならない。大事だからこそ、このまま放ってはおけない。
 スバルは大声で人を呼ぶ為に、息を吸い込んだ。
 突然掴まれた手が動き、直後に身体が引き倒され天井が映る。掴む力より更に強く、不意を突かれたこともあって抵抗もできなかった。

 ティアナが馬乗りになり、首に手が添えられる。細い指がゆっくりと滑らかに絡みつく。
 その光景はどこか現実味に乏しく、金縛りになった。

「ティア……どうして……?」

 荒い息も、体の震えも変わらない。なのに、ティアナの纏う雰囲気は別種のものに変わっている。
これまで感じたことのない異質な気配。目の前の少女は自分の知るティアナではないように思えた。
 包帯の下の目を窺うことは叶わず、その目が何を見つめているのかは分からない。

「どうして? ねぇスバル……あんた、あたしに何か言うことがあるんじゃないの?」

 吐息混じりの一言がスバルを撃ち抜いた。目が見開かれ、表情が強張る。
 思い当たることは一つしかない。それはずっと胸に秘めていたこと。それを見抜かれた驚きで、スバルの心は大きく揺さぶられた。
 本当は、ティアナが目を覚ましたあの時、最初に言うべきだった。何度でも懺悔して許しを請うべきだった。そうすればこんなことにはならなかったのに。
 実際、ティアナの前でこそ平静を装っていたが、毎日病室を訪ねる前に深呼吸をしていた。
 自分が奪った彼女の夢は両手に余るほど重く、謝罪は鉛のように胸に沈んで出てこなかった。
 日に日に重みを増す罪悪感。責めてくれれば楽もなっただろうが、彼女は自分を労ってくれさえした。
 彼女はきっと気付かない。いつも自分が、彼女の眼を覆う包帯を直視できなかったことに。そして今、それは目の前にあった。
 ティアナの指に力が入り、首が絞められる。スバルは抑えていた手でティアナの手を撫でた。
 こんなことは自己満足に過ぎない。彼女を救うことにはならない。でも、この手を振りほどくこともできそうにない。それがティアナの答えなら、甘んじて受けようとさえ思う。

「あたしの……」

 ティアナに応え、スバルの弾丸も装填される。
 それは他でもない、自分自身を撃つ為の銃弾。もう逃げることは許されない。たとえ、それが心を砕いたとしても。



 何か言いかけるスバルに、ティアナはゆっくりと力を掛けていく。抵抗しようと思えば簡単なはずなのに、彼女は受け入れようとしている。
 それを俯瞰的に見ているもう一人の自分がいた。それは完全に乖離した存在ではなく、あくまで同じもの。冷静でいようとしている自分だった。
 冷静な自分は今も叫び続けている。

(馬鹿スバル! 早く逃げて!)

 スバルを認識した途端、身体と心の制御が利かなくなった。融合体の姿がスバルと重なり、沸々と熱いものが込み上げ、被害妄想と強迫観念が自我を歪めていく。
 それを見つめる自分は、封印していた闇が曝け出される痛みに悲鳴を上げている。
 それは心の奥深くに確かに眠っていたもの。それ故に恐ろしかった。暴走し、増幅された怒り、憎しみ、嫉妬がスバルを殺めようとしていることが。

(馬鹿! なんで! なんでそんな……!)

 スバルは子供をあやす様に優しく手を撫でる。それが意味するものは分からないが、彼女が何かを受け入れ、諦めていることは理解できた。
 瞼の裏で融合体が踊る。愚か者二人がすれ違い、食い違う様が最高に楽しいとでも言うかのように。
 たとえ幻でもそれが我慢ならなかった。自分の人生を歪め、最も見せたくないものを最も見せたくない人に見せる、最悪の拷問。
 胸の中からどす黒い炎が燃え上がる。それは、これまで冷静でいようとした自分すら呑み込み、そして狂っていく。
 融合体の姿がスバルに完全に重なった時。
 ティアナの口は"ティアナ自身"に止めを刺す為に言葉を紡ごうとしていた。

「あんたの……!」


 上下に向き合う二人。しかし、ティアナはスバルを、スバルはティアナの目を見ることはない。
 互いの目に映るのは、相手ではなく自分。ティアナは瞼の裏で蠢く無数の融合体の中に、スバルは罪の象徴であるティアナの目を覆う包帯に、それぞれ目を背けてきた鏡像を見つけた。
 ティアナにとってそれは、絶対に言いたくなかった言葉。言えばスバルを傷つけ、自身の醜さと弱さを露呈することになる。
 それでも、その言葉は心の底で澱のように凝り固まって、スバルから寄せられる優しさでも溶けることはなかった。
 スバルにとってそれは、言わなければならなかった言葉。でも言えなかった言葉。沈黙の理由を問われた時、その言葉を肯定された時、この関係は壊れてしまう。
 何度病室に通っても言い出せず、どれだけ献身的に尽くしても罪悪感は消えなかった。
 言ってしまえばもう戻れない。言葉は矢となって突き刺さり、鎖となって心を縛る。例え相手が許したとしても、自分自身を決して許せなくなる。
 それは呪詛。沈黙、吐露、どちらを選ぼうとも苦しみ、己を苛むことになる呪い。そうと知っていても止められない。胸の内に渦巻く激しい感情の波に飲み込まれ、
急きたてられ――そして呪いは放たれた。


「あんたのせいで……!」
「あたしのせいだ……!」


 二度と引き返せない決別の台詞は、二人、計ったように同時に放たれた。
 一度堰を切ってしまった思いはもう止められず、荒れ狂いながら全てを押し流していく。


「あんたのせいであたしの目は……!!」
「ごめん……あたしのせいでティアは……! 本当にごめんなさい……!」


 それきり言葉は途絶えた。水の流れる音と、ティアナの吐息、スバルのしゃくりあげる声、それだけだった。たったそれだけでも、二人はお互いの言いたいことを痛いほど理解していた。
 どれだけ嘆いても時は戻らない。だが、止められなかった。諸刃の剣で傷つけ合う行為に意味などないと分かっていても。

 膠着は長くは続かなかった。やがてティアナに限界が訪れる。
 ドクンと胸の奥深くが疼く。心臓が更なる暴威を以て胸を締め付ける。血液が沸騰しているのではないかと思うほど身体を巡る熱は高まり、
渇いた喉からは呻きすら出てこない。犬のように舌を突き出し、必死に酸素を取り込もうと喘ぐ。
 体中の細胞が作り変えられていくのを感じる。全身を襲う痛みは目を抉られる比ではない。
皮膚が張り裂け、肉を食い破って何か別の生き物が体内から生まれようとしている気がした。
 全ての自分が焼き尽くされていく感覚。激しい頭痛で思考はままならず、視界が赤く染まり、無数の融合体がケタケタと声を上げてティアナを嘲笑する。
 それら全てが相まって、比喩でなく発狂を予感させた。


「ティア……ごめん」

 掛けられる言葉は無く、ただ名前を呟く。どんな言葉でもティアナを救うには至らないだろう。
 それが何に対しての謝罪なのか、最早分からない。人を呼ぼうにも、身体が動かないことか。苦しみを和らげてやることすらできないことなのか。
そもそも彼女が自分を庇ったことか。或いはその全てなのか。
 意識が朦朧とし、視界がぼやける。喉を締め付ける力は増すばかりで、とてもティアナの力とは思えない。
 残された力でそっと右手を伸ばし、ティアナの頬に触れる。その腕も凄まじい力で握られ、立てられた爪が食い込む。それでも撫でる手は止めない。
 彼女の痛みは想像するしかないのがもどかしい。分かるのは何かにしがみつかないと耐えられない苦しみだということだけ。
 できることなら代わってあげたいと思う。その原因を作ったのは自分だから。せめてこれで彼女の痛みの何分の一かでも自分に刻まれればいい。
 抗おうとする身体を意志で捩じ伏せ、意識を失うまで、スバルはずっとティアナを見つめていた。


 後悔も激情も完全に消え去り、残ったのは痛みと苦しみ。じきにそれすら麻痺していく。このまま死ぬか狂ってしまえば解放されるのだろうか。
 緩やかに消えていく意識に触れるものが一つ。とうに触感も無くなっているのに、それだけは感じられた。
 それは以前にも悪夢から救い出してくれた手だった。
 その手を握る。固く強く握って、絶対に離れないように。離れればもう二度と帰れない気がした。
 手は無意識を漂うティアナを導く。向かう先には光が見えた。光は膨らみ、その中へと入っていく。
 ずっと待ち望んでいた。悩み、苦しみ、それでも渇望し続けた光。自分はようやく帰ってこれた。これで戻れる、取り戻せると思った。
 眩い光が目を刺激する。これまで形容できなかった光は、気づけば蛍光灯の光に変わっていた。滲むようだった視界は徐々に鮮明に変わっていく。
 まだ実感が湧かないが、地獄のような悪夢から自分は現実に立ち帰っていた。あれほど苦しかった身体は嘘のように楽になっている。
 そして、現実に帰ってきても手が消えていないことに気付く。左手に伝わる感触――自分を導いてくれた優しい手。これのおかげで帰ってこれたのだ。
 やがて完全に光に慣れた目に、最初に飛び込んだもの。
 それは自分の右手の下で動かなくなった優しい手の主。
 目が見えるようになった暁には極上の笑顔を見せてくれるはずだった、スバルの姿だった。

※ 

 おかしい。そんなはずはない。そんな言葉が最初に浮かんだ。
 混乱し、纏まらない思考を必死に整理していく。まず自分は薬を飲んだ。そして水を求めて洗面所へ――駄目だ、ここから先が思い出せない。
 誰かが来た気がする。多分、自分にとってとても大事な人物。

「……スバル!」

 ティアナは全てを思い出した。スバルに馬乗りになり、首を絞め、そして責め立てたこと、その全てを。
 すぐさまスバルから降り、肩を掴んで身体を揺らす。脱力したスバルは人形のように首をがくがくと揺らすだけで、目を覚ます様子はない。

(まさか――)

 全身に悪寒が走る。六課に戻れなくてもいい。もう一度、光を失ったとしても――構わない。
 スバルを失うことが怖かった。他の何を取り戻しても、対価に彼女を失えば意味がなくなってしまう。

「起きて! 起きてよ、スバル!!」

 願いを込めて名前を呼ぶと、微かに呻き声が聞こえた。口に手をかざすと息が当たる。
 生きている。生きていてくれた。喜びのあまり身体を抱き締めようとする寸前、ティアナは違和感に気付いてしまった。
 まずスバルの肩を抱く手。黒いグローブが嵌められている。BJのものと見た目は近いが、それは肘の辺りまでをすっぽりと包んでいた。
 自分はいつの間にこんなものを付けたのだろう。記憶を辿ってみても、やはりそんなことはしていない。
 見た目はグローブであるにも関わらず、触感は皮膚に近い不思議な感触だ。
 続いて声。ヘルメットやマスク越しのようなくぐもった声に聞こえる。そのくせ、エコーが掛かったように不自然に響く。
 もう何度目か、急速に不安が膨らんでいく。ざわめく胸を押さえても柔らかさはなく、早鐘を打っているはずの鼓動は感じられない。
鎧のようでもあり、甲殻のようでもあり、ざらついて乾いている。
 ティアナはふらつきながら立ち上がり、正面を見据える。そこにはいるはずのないものが立っていた。

「なに……これ……」

 数秒間、思考が止まった。
 色合いを濃くしたオレンジの髪は後ろへ放射状に流れ、ライオンのたてがみを思わせる。
 双眸は左右に鋭く吊りあがり、明らかに人とはかけ離れている。瞳の色は髪よりも濃い朱。髪の色、鼻から下を覆うマスクと合わせて燃え盛る炎のようでもあった。
 上半身には、胸元から体のラインを浮き彫りにする白のドレス。青く発光する線で縁取られている。衣服という感覚は無く、露出した肩と二の腕と同じく質感は硬い。
肌はまるで石像のようで、やはり人のそれではない。
 下半身は更に異常だった。スラリとした人間的な上半分と正反対の怪物的な姿。太腿から下は本来の脚より一回りは太く、より鎧に近い。
 金属の体毛とでも言うべきか、黒光りする突起に覆われ、尖った爪が並んだ脚は強靭な肉食獣の後肢という印象を受ける。
 人のようで人でなく、獣のようで獣でない。通常の融合体とは違うが、紛れもなく融合体である。
 瞬間、ティアナは拳を振り上げた。
 これが融合体ならスバルを守らなければ、と咄嗟に考えた。或いは、そう考えることで自分を守る為の方便としたかったのかもしれない。
 ともかく、融合体目がけて拳を叩きつける。この心を蝕む不安と恐怖が消えることを願って。
 結果、融合体は目の前から消えた。しかし同時に、自分の中でも何かが壊れた。
 ガラスが割れる音と共に拳は白い壁にめり込み、亀裂を生じさせた。割れた鏡の破片が水に流されて耳障りな音楽を奏でている。
 普通の人間ではないスバルを失神させることができたのは、この力のせいだ。あの声も、手のグローブも、それで全てが繋がる。
 おそるおそる後ろ髪を触ると、隠れて二本、螺旋に捻じれた角が並んでいた。
 全てが理解できた。自分は融合体に――デモニアックになってしまったのだと。

「――――!!」

 声にならない叫びが病院中に響いた。しかし、それを悲鳴と思う者はいまい。聞けば誰もが、怪物の咆哮だと恐れるだろう。
 発した本人でさえそうだったのだから。


 院内はあっという間に混乱に陥った。原因は突然院内に轟いた咆哮。逃げ惑う人波に逆らって走る少年が一人。エリオ・モンディアルだった。
 キャロと共に差し入れを買い、スバルに遅れて病院に来たエリオは、咆哮の時には既に院内に入っていた。幼い顔は途端に精悍に変わり、キャロに先んじて声の元を探す。
 階段を駆け上がり、人の流れを頼りにその階を目指す。走りながらも、ティアナの病室に近付いていると感じていた。
 違っていてほしいという願いも空しく、ティアナの病室の前に辿り着く。
 扉の前には小さな人だかりができていた。異変を感じても、それを確かめる勇気がないのだろう。

「通してください、管理局の魔導師です! 扉から離れて、すぐに避難してください!!」

 蜘蛛の子を散らすように人だかりが崩れる。やがて完全に人が消えたのを確認すると、ストラーダを構えて扉を開け放つ。
入り口から見る限り姿もない。しかし水の流れ出る音と、気配から何かがいることは確か。
 ゆっくりと入口横の個室を覗き込んだエリオは、思わず声を抑えられなかった。

「スバルさん!!」

 瞬時に身体を乗り出す。そこには朱色の髪をした何者かが昏倒したスバルを抱きかかえて立っていた。声に反応して振り向く顔は想像通り、人ではない。
 融合体はスバルを手に掛けようと、彼女の首を指でなぞっている。もう片方の左手はスバルの手を握っていた。
 言葉よりも動く方が速いと、ストラーダを融合体目がけて突き出す。融合体は抱えていたスバルを背後に突き飛ばし、遅れて自分も回避行動を取るが、
一瞬速くストラーダが右腕を貫いた。
 叫びも上げず、鮮血が飛び散るより先に融合体は傷口を押えて、エリオの脇を走り抜ける。下手すると自分でも追いつけない速度で。
爆発的な瞬発力に限っては完全に上回っていた。
 エリオが振り向いた時、既に融合体は窓ガラスを突き破って逃走していた。

「エリオ君!」
「僕は融合体を追いかけるからスバルさんを!」
「エリオ君、一人で追っちゃ駄目だよ!」
「でも放ってはおけない。この下は通りなんだ! 大丈夫、無茶はしないから! ロングアーチへの連絡もお願い!」

 追いついてきたキャロと一通りのやり取りを済ますと、エリオは窓から通りを見下ろす。民間人の悲鳴は、融合体の逃走経路を示すかのように順番に上がっている。
 それを見たエリオは顔を歪め、忌々しげに舌打ちした。

「許さない……! 絶対に許さないぞ、融合体……!」

 無茶はしないとキャロの手前は言ったが、守りきれる自信は無かった。今、この瞬間も融合体への怒りが爆発しそうになる。
 ヴァイスを殺め、ティアナを傷つけ、スバルまで――次から次へと自分の大事なものを奪っていく。
こんな気持で戦ってはフェイトに叱られるだろうが、今はこの感情が力になる。全ての融合体を殺し尽くすまで戦える。
 ティアナが抜けてからというもの、戦闘はなかなか思うようにいかず、三人全員がストレスを内に抱えていたように思う。
しかし、その中で支えになったのは間違いなく融合体への怒り。少なくとも自分はそう思っていた。
 首を振って迷いを振り払う。すぐさまエリオも飛び降り、再び悲鳴を頼りに走り出した。あの融合体を必ず仕留めると暗い決意を誓って。


 恐怖――思考はそれ一色に染まっていた。
 逃げて、逃げ続けて、無数の人間とすれ違った。その内、自分を恐れなかった人間は一人もいなかった。誰もがデモニアックと呼び、恐れ戦いた。
 ひたすら走り、いつの間にか姿は人間に戻っていた。それでも走り続けた。行く当てなどないというのに。
 どれだけ走っても息が切れず、裸足なのに痛みもほとんど感じない。エリオに刺された傷はもう出血が止まっていた。
こうなると、自分は本当に融合体へと変貌してしまったのだと実感する。
 ティアナは、エリオに理解を求めようとはしなかった。こんな自分を見られたくないというのもあったが、怖かったというのが一番の理由。
問答無用に自分を狩ろうとするエリオ。恐怖と憎悪の視線を送る人達。そして何より自分自身が怖い。このまま何もかもから逃避したかった。
 ポツリと雨粒が顔に当たる。曇天だった空は、いつの間にか泣き出してしまったらしい。ふと頬に触れると、雨でないもので濡れていた。
 やがて雨は本降りとなり身体を濡らす。ティアナは途方に暮れた。目が見えるようになったなら、こんな天気も喜んで眺めていられると思っていたのに、今は孤独を助長するだけ。
 しかも自分は寝間着姿だ。道行く人が、今度は好奇の視線で見ていることに今更気付いた。
 人の流れから弾き出されるように、ティアナは裏路地に逃げ込む。
 暗く湿気た壁。ゴミや様々なものが入り混じった異臭が鼻についた。
 転がるように、どこかの店の裏口、非常階段の下に座り込む。臭いが気になるが仕方無い。近くて雨が防げて、なるべく死角になる場所と言えば、ここしかなかった。
 そういえば、と握り締めていたものに今になって気付く。
 一枚の白いカード。相棒であるデバイス、クロスミラージュ。スバルが握っていたのを思わず持ってきてしまっていた。 
 今、自分の右手には、デモニアックの証である黒い紋章が刻まれている。皮肉にも人でなくなった証と、それから人々を守る為の力だったものが両手にあった。
 病院で鏡に映った姿と同じ。いくら半身に魔導師としてのBJの名残を残しても、もう半分はデモニアックそのもの。
 どちらでもあるが、どちらでもない。人間には戻れず、かといって悪魔にも堕ちきれず、孤独に怯えている。

「なんで……なんでこんなことになったんだろう」

 全てが怖くて堪らなかった。人を守るはずだった自分が無力で守られる立場になり、一転して今は狩られる立場にある。
訳も分からず、人という種から弾き出された戸惑いは、誰にも理解できるはずがない。
 エリオの判断は正しい。頭ではわかっていても、同僚に化け物扱いされて追い立てられるのは悲しくて、辛かった。

「仕方無いか……ほんとに化け物だもんね」

 これまで特に神の存在を信じたことは無かった。でも今はほんの少し信じてみようと思う。きっと神は自分が疎ましいのだろうと。
 両親を失い、兄を失い、夢を、同僚を失った。守ってきた人や共に戦った人々には拒絶され、そしてこの有様。
 分かっている。真に呪うべきは己の愚かさであるということも。
 だが、言わずにはいられない。この仕打ちは無いだろうと。もう自分には生き場所もない。
 誰かに寄りかからず、他人のせいにもしない。起こった事実を受け止め、自分の糧とする。常に前を見て上を目指す。
それがティアナ・ランスターだったはずなのに。
 ただ取り戻したかっただけ。単に視力でなく、ねじ曲がったティアナ・ランスターという自分を含めた全てを。無い物ねだりだと知っていた。
でもそれの何が悪い。願いは――そんなに我がままなことなのか。
 待機モードのクロスミラージュを回しながらティアナは溜息をついた。昨日、スバルに頼んだ時にはこんなことになるとは思ってもみなかった。
ただ別れを言いたいだけだったのに、何の因果か、今となってはこれだけが自分の唯一の味方である。
 話したいと思った。クロスミラージュと別れて一週間と少し、話したいことは山ほどある。
 だが、ティアナはぐっと飲み込んで堪えた。今、こんなところで会話していては誰かに気付かれてしまう。ただ傍にいてくれるだけでいい。それだけで少しだけ安心できた。
 膝を抱えてひたすら雨が過ぎるのを待っていると、安心したからか急に睡魔が襲ってきた。そういえば、昨日からろくに睡眠をとっていない。
融合体でも眠くなるのか、などとどうでもいいことを考えた。
 抗おうとしたが、動くのも面倒だったので、次第に身を任せていった。
 目が覚めたらまた暗闇でもいい。それでもいいから、この悪夢が終わってほしいと思いながら。


 うたた寝を初めて数分後、ドアが開閉し、誰かが階段を下りてくる音で目を覚ました。即座に、近くのゴミ箱の影に隠れる。
 じっと息を殺して通り過ぎるのを待つ。そうすることで余計に緊張が増した。
 何故隠れたのだろう、突然の不意打ちで驚いたのだろうか。ただ怖いと思ったら自然と身体が動いていた。
 まるで怪我をした野良猫そのもの。暗がりを選んで潜み、惨めにも身体を震わせている。

「おい、こんなところで何してるんだ?」

 低く太い男の声がして、ティアナはビクンと身体を跳ねさせた。縮こまり、固く目を瞑って聞こえない振りをする。
 しかし見逃してはくれなかった。足音は徐々に近づいてくる。
 目を開けると、そこにはイメージ通りの屈強な男が立っていた。

「嫌……来ないで!!」

 叫んでも男は聞いてくれず、それどころか手を伸ばしてきた。
 一瞬で恐怖が加速する。視界が赤く染まり、またも融合体が視界の端からちらついてきた。耳鳴りが酷く、キーンと甲高い音で全ての音が掻き消されていく。
 この男の目的は暴行なのか保護だったのか、どんな理由だろうと関係ない。今のティアナにとっては、近づく者全てが恐怖の対象だった。
 ティアナは首を振って最後まで抵抗を試みたが、男が腕を掴むと同時に、男の姿は完全に融合体と化す。その瞬間、声にならない悲鳴が突き上げ、理性の針は振り切れた。

※ 

 件の融合体を目撃証言を頼りに追跡するエリオ。それも途中で途切れ、見当もつかなくなってしまう。
 全力疾走を歩きに変え、冷静さを取り戻したエリオの頭には幾つも疑問符が浮かぶ。 何故あの融合体は誰も襲わないのか? 負傷しているからなのか? 
 それに越したことがないとはいえ、なんとも不気味だった。
 もう一つ、あのスピードなら回避は十分できたはずなのに、何故余計なアクションを挟んだ? スバルに構わなければ反撃までできたのに。
 あの病室にはティアナがいなかった。スバルが逃がしたのかもしれない。その際に融合体に攻撃され気絶したと考えれば一応の辻褄は合う。
咆哮からの時間差――殺すにせよ逃げるにせよ時間はあったはず。争った形跡もほとんどない。腑に落ちないことだらけである。
 本当にあの融合体はスバルを殺そうとしていたのだろうか。ふと、そんな有り得ない考えが過るが、一度芽吹いた疑惑はそう簡単に消えてくれない。
 そうだとして一つ可能性はある。だが、それはエリオにとって最悪の可能性であるが故に、考えることを拒否したかった。
 でも、まさか――そんな考えを繰り返していた時、遠くで轟音が響いた。ざわめきは波紋となってエリオの元まで届く。推理を中断し、エリオは再び走り出した。
 とある店の裏路地、そこに朱の髪の融合体はいた。4~5メートル先の壁には男が白目を剥いて叩きつけられていた。おそらく殴られただけで死んではいない。

「やっぱりお前は……! やっぱりお前も同じだ!! 人殺しの悪魔!!」

 胸に再び怒りが灯る。荒れ狂う感情に任せて怒りの言葉を叩きつけても、融合体は反応しない。しかし、今度は先程とは違い、明らかな殺気が感じられた。
 エリオはストラーダを構える。同時に、殺気は急速に膨れ上がり、形を成して襲ってきた。
 脇腹、紙一重を拳が掠める。咄嗟に身体を捻らなければ確実に鳩尾に叩きこまれていた。
 後ろへ跳躍、距離を取る。融合体はその距離を一跳びで縮め、回し蹴りが頭上を通過。
エリオはまたも距離を取った。
 今度も紙一重。同じ紙一重でも、今度は確実な紙一重だった。
 エリオには融合体の動きが見えていた。厳密に言えば、視認は追い付いていない。
 しかし、その動きは完全な直線。点と線の攻撃しかない。しかも大振りである為、軌道の予測は容易だった。病室で見た動きは気のせいだったのかと思うほど、単調で単純。
 融合体は両手を垂らし、腰を落とし身を低く保つ。その髪、その下半身からも四足の獣を連想させるが、はっきり言えば獣にも劣っている。
 エリオは目を凝らし、融合体の動きに最大限の注意を払う。動く瞬間さえ分かれば勝てる確信があった。
 じりじりと距離を開いて攻撃を誘う。対する融合体はそれを逃げると思ったのか、一気に迫る。それも右腕を大きく振りかぶりながら。
 思わず笑いが零れそうな程に単純な打撃。エリオは加速しながら前に踏み出す。お互いが猛スピードで走る為、激突は一瞬だった。
 その瞬間、エリオは小さい身体を僅かに逸らした。右の耳を突風が駆け抜ける代わりに、ストラーダは融合体の右脚の大腿を深々と貫いていた。
 本来は腹を狙ったつもりだが、激突があまりに速く狙いが定まらなかった。
 ストラーダの穂先を半ばまで脚に埋め込んだ融合体は苦悶の叫びを上げ、エリオごと強引にストラーダを引き、投げた。
 それも予想内と、エリオは軽々と受け身を取る。猫のように器用に空中で態勢を立て直し、これで止め――と思いきや、融合体は負傷しているにも関わらず、背を向けて走り出した。

「逃がすか!!」

 と、追いかける寸前で踏み止まる。融合体に殴られたらしき男を放っておくわけにもいかなかった。おそらく命に関わる程でもないだろうが。
 あの傷ではそれほど遠くにはいけない。この男の傷の確認を早々に終わらせてから追うことにした。


 恐怖で狂乱状態に陥っていたティアナは、更なる恐怖と痛みによって冷静さを取り戻しつつあった。しかし、依然として理性は戻っていない。
 むしろ狂気はそのままに、狩人を排除することにのみ知恵を絞り、意識を研ぎ澄ませる。ある意味ではより悪化したと言えた。
 未だ心は人ではなく、獣のままで言葉と狩りの仕方を思い出しただけに過ぎない。
 今のティアナにとって、エリオは"エリオという名の敵"でしかなく、それが自分にとってどんな存在だったかは完全に吹き飛んでいた。
或いは、ここまで堕ちてしまえば思い出さない方が幸いと、心が拒否しているのかもしれない。
 単調な攻撃では、どう足掻いてもエリオには勝てないと、ティアナは考えた。せめて武器さえあれば、身体能力に分のある自分が有利になるのだが。
 周囲を見回しても武器になりそうなものはなかった。かといって鉄パイプや角材では話にならない。
 何か武器はないのか。武器は――あった。手に握りしめたカード、切り札はずっと自らの手の内にあった。
 クロスミラージュ――これは自分の武器。使い慣れた武器だ、とそれだけは覚えている。

「あんたで……。あんたがあれば、あいつを殺せる……!」

 手放す時、別れを告げたいと思ったほど苦楽を共にした愛器。
 十数分前まで唯一の心の拠り所だった相棒。
 ティアナの、十二日振りに再会したクロスミラージュへの第一声はそれだった。

 変わり果てた主に対し、クロスミラージュは困惑の言葉を返した。

『マスター、相手はライトニング03ですが、本当によろしいのですか?』
「うるさい!! あんたまであたしを裏切るって言うの!?」

 ティアナは、クロスミラージュに激昂で返した。たかが武器でさえ意のままにならない。その憤りを一方的にぶつける。
 本当は誰もティアナを裏切ってなどいない。それでも、ティアナは誰よりも孤独に打ち震えていた。

『……現在、待機モードでロックされています。解除の許可は出ていません。解除にはスターズ01と――』
「そんなことなら……あたしがあんたを解き放ってあげる」
『マスター!?』

 クロスミラージュを握り締める。青い光が瞬くと、クロスミラージュは掌に吸い込まれるように埋もれた。
 頭の中に無数の情報が流れ込んでいく。クロスミラージュの構造、その全てがそこにはあった。
 ロック、リミッター、出力etc――全てが自由自在。これまでより、そしてこれから何年掛けて共に戦うよりも深く、ティアナはクロスミラージュを理解し、一体となった。
 とはいえ、あまりに乱雑に弄り過ぎては修正できない。そもそも専門家でないティアナには知識が不足していた。
 その為、今回はロックの解除に留め、融合を解除。ついでにうるさいAIも少し黙らせておく。

「行くわよ、クロスミラージュ」

 準備は整ったとばかりに、ティアナはそこでエリオを待ち受ける。
 融合によって、デバイスとのシンクロはより高度なものとなった。
 しかし、それはクロスミラージュを託したシャーリーやリィンの意思である同調ではなく、支配と呼べるものだった。
 今のティアナは獣ではない。狂戦士か或いは戦鬼か――少なくとも人でないことだけは確かだった。
 術も叩き込まれた戦技も全てを思い出した。その理念、理由、それを教えてくれた人の顔を除いて。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年03月11日 18:21