数分後、男の応急処置と通報を終えたエリオは、雨に濡れた地面を駆ける。
 消えかけていた血痕を追って走った先で、融合体は待ち受けていた。先ほどの場所から少し離れたそこはやはり裏路地で、人の気配はない。
道幅はそれなりにあり、立ちまわるだけの広さは十分にあった。
 じっくりと敵を観察する。貫かれた太腿を右手で押さえ、肩を上下させている。目は雨の中でも爛々と光り、殺気が目に見えるようだった。
 睨み合うこと数秒、弾かれるのは一瞬。
 突進する融合体はこれまで同様に右からの打撃。
 ならば、とこちらも同じやり方で対処する。拳を引きつけ、直前で上体をずらす。
 直撃すれば顔面が砕けても、これならエリオには避けられる自信があった。
 足を踏み込み、脇腹を切り裂いて左に抜ける。ここまでは予想通り。
 だが手応えが薄い。斬撃は思ったよりずっと浅かった。それに気付いた直後、

「うあああああ!!」

 右から凄まじい衝撃。声を出した時には、既に身体は縦に横に回転し、地面を滑る。受け身を取る間もなく、エリオは倒れ伏した。
 顔も身体も泥に塗れて目が霞む。だが、それ以上に右腕が燃えるように熱く、痛かった。身体を支えようにも右腕は言うことを聞かず、最悪折れたかもしれない。
 何が起きたのか分からなかったが、攻撃を受けたことだけは確か。 飛ばされた瞬間、敵の足が見えた気がする。ということは、回し蹴り。
右から振り上げた打撃の勢いを殺さず、身体を回転させ、左足で蹴った。
 攻撃を受けて見せたのも含め、全てがこの一撃の為の誘導。とてもこれまで子供のように単純な攻撃しかしなかった相手とは思えない。
 侮っていた。融合体との戦闘では一撃が命取りになると知りながら完全な油断。手負いの獣の恐ろしさをエリオは初めて実感した。

 驚いたのはそれだけではない。泥の入った目を拭ったエリオは、目を疑った。
 一瞬のことですぐに消えたものの、目を開けた時、見慣れた魔方陣が融合体の足元に見えた気がした。
 忘れかけていた疑念が膨れ上がるが、融合体は迷う時間を与えない。ゆっくりと向き直り、真っ直ぐに突っ込んでくる。
 起き上がるのに十数秒を要した自分を待ったことといい、もはや敵ではないと判断したのだろう。
 こちらはようやく身体を起こしたばかり。使えない右手で構えもままならない。
 エリオは必死に考える。片手で十分な威力を持つ攻撃を。
 逃げる時間は無い。疾走する融合体は眼前に迫る。路面の水を激しく撥ねながら。
 その姿から、この状況でこそ最大の効果を発揮する術をエリオは思い出した。それは自分の生来の武器を必殺の武器まで練り上げたもの。
これなら、今度はこちらが敵の慢心を突くことができる。
 エリオは迷わずストラーダを短く持ち、振り上げた。

「おおおおおっ!!」

 素早くフォルムチェンジ、カートリッジロード。完了を待たず、地面に突き立てる。
 サンダーレイジ――閃光が迸り、ストラーダから発生した電撃が濡れた路面を伝わって広がる。融合体は止まらず、自らそこへ踏み込んだ。 
 直後、融合体の姿が消えた。電撃を受けると同時に、その姿が歪み、文字通り跡形もなく消滅した。
 倒れるではなく消滅。これと同じ現象をエリオは知っていた。知る限りでの使い手はただ一人。同じフォワードを務めるティアナの得意とする術だ。

「幻術!?」

 あの十数秒で詠唱を終え発動させたのだろう。やはりあの魔方陣は錯覚ではなかった。
 入れ替わったとすれば、ストラーダに意識を集中させた瞬間。ならば本体はどこに行ったのか。
 雨音に交じって、微かに頭上から風を切る音が聞こえた。本体の場所を探す思考よりも、身体は先に反応する。培われた直感が自動的に上を向き、ストラーダを構えさせた。
 咄嗟にストラーダの柄を支えると、そこへ重力と全体重を乗せた融合体の踵が落ちてきた。
身体ごと地面に沈みそうな重みに、腕に衝撃と痺れが走る。
 へし折れるかと思う程の衝撃にストラーダは耐えてくれた。しかし、限界に近いのは使い手の方だ。上がらない右腕と、それを庇う左腕によって、かなり不格好な体勢になっている。
 絶えず掛かり続ける体重によって徐々に押し負けていく。力尽きれば頭を踏み砕かれる。死の恐怖に抗い、左手が、全身の筋肉が限界を超えて震える。
 対する融合体は、振り下ろした左足はそのままに、空いた両手を広げた。光と共に現れたのは二挺の白い拳銃。
 その照準はゆっくりと、しかし躊躇なく、無防備な頭を晒すエリオへ定まる。
 それは、こんなところにあっていいものではなかった。

「ティアナさん!!」

 融合体の肩が震えた。信じたくはなかった。しかし、まさかとも考えていた。
 クロスミラージュだけなら否定もできただろうが、幻術と合わせると該当するのはティアナしかいない。

「ティアナさん! ティアナさんなんですか!?」

 何度も名前を叫ぶ。知ってしまった以上、槍を向けることはできなかった。
 ヴァイスの死んだあの日、ティアナの戦った融合体は人間の意識を取り戻したという。
 賭けてみたいと思った。取り戻せる可能性がほんの少しでも残っているのなら。

「聞いて下さい! ティアナさ――――」

 引き金が引かれ、銃声が言葉を遮って響いた。
 オレンジ色の魔力弾がBJを貫通し、エリオの肩と膝を撃ち抜いた。じわりと血が広がり、その場に崩れ落ちる。
 仰向けになり見上げたティアナの表情は読めず、自分の額に銃口を突き付ける姿は融合体としか思えなかった。

※ 

 ティアナという名前が心を揺さぶる。
 このまま引き金を引いていいのか? どの道後戻りなどできない。
 この少年は自分にとって大事な人間ではないのか? これは自分を殺そうとする狩人だ。
 相反する思考が脳内でせめぎ合う。警鐘は頭痛となって鳴り響く。それを無視して、身体は勝手に、決定的な選択を行おうとしていた。
 エリオに抵抗を期待しても無理だ。誰か、誰でもいい。自分を止めて欲しい。
 引き金に力が入ろうとした時、ティアナの目に光が映った。
 それはいつか見た光、ライトグリーンの魔力光。この光を見たのはいつだったか――とても綺麗で輝いて見えたのを覚えている。
これが人生最後に見る光なら、それでもいいとさえ思った。
 それは一条の光の束となって真っ直ぐに飛び、吸い込まれるように眉間を撃った。
 これでいい――衝撃で思考が止まる。
 しかし、それも一瞬のこと、魔力弾は衝撃で、ティアナをよろめかせただけだった。
 額を押さえてもなんともない。非殺傷設定、しかも繊細な威力調整がなされ、精々がゲンコツ程度の痛み。
 だが、それで十分。威力が強ければ殺しきれなかった時、また暴走する危険が大きい。
 敵意と狂気はなりを潜め、驚きと戸惑いが支配した。光の正体を思い出そうとすると同時に、自分が何者であったかが蘇ってくる。
身体の自由が徐々に戻ってくる。

「ティアナ、ちょっとは目が覚めたか?」

 光の来た方向に停まった一台の赤いバイク。そこからの声、その姿によってティアナは完全に理性を取り戻し、代わりに言葉を失った。
 彼はライフル型デバイス『ストームレイダー』を肩に担ぎ、あの日と同じヘリパイロットとしての輸送隊の制服を着ている。

「ヴァイス陸曹……」

 正確には二階級特進しているが、既にこれが彼を指す呼称として定着してしまっている。
 彼――ヴァイス・グランセニックは死んだはずだった。二週間前のあの日、自分のせいで。

「ヴァイス陸曹……どうして……」

 呆気に取られているのはエリオも同じようだった。今は身体を起こし、地面にへたり込んだまま、ティアナとヴァイスを交互に見ている。

「大丈夫か、エリオ。応援は呼んであるんだろ?」

 ヴァイスの様子、言動はまるで変わっていない。いつも通りの、きさくな態度だ。
 突然のことに状況認識が追い付いていないのか、目を丸くして、ただ言われたことにコクコクと頷くエリオ。無理もない、状況認識が追い付いていないのは自分も同じだった。
 遠くからサイレンの音が近づいてくる。XATがここに向かっているのだろう。ヴァイスはそれを確かめると、

「じゃあお前は急いで手当を受けろ。それと悪いが、こいつのことは俺に任せてくれ」

 ティアナを指差した後、親指でリアシートを指した。

「ティアナ、乗れ」
「は……はい」

 何故かティアナに対してだけ語気が強い。とぼとぼと近寄ると、頭を軽くはたかれた。そういえば、今の自分は融合体の姿だったのだと気付く。

「その姿で乗せられるか。人間に戻れ、人間に」
「でも……」
「戻ると念じろ。BJやデバイスと同じ、要はイメージだ」

 やり方も分からなかったが、ヴァイスの言うとおりに念じてみる。
 心を落ち着かせ、本来の自分の姿を心から強く願った。光に包まれ、身体が一瞬で元の姿に戻る。意外と簡単なことだった。
 渡されたヘルメットを被ってヴァイスの後ろに跨る。
 ヴァイスはバイクをゆっくりと発進させた。去り際にエリオに手を振って、

「じゃあな。できれば追わないでくれると助かる。皆にもそう伝えておいてくれよ」
「エリオ、ごめん……」

 たった一言、ヴァイスに倣った。
エリオを直視する勇気は無く、聞こえたかどうかも分からない。それでも、バイクはエリオを残して走り出す。
 とても謝った程度では許されないだろう。罪が重いと思えば思うほど、謝罪には途轍もない勇気が必要になる。
 ティアナには、もう一人謝らなければいけない人がいる。あの時、絞り出すような声でスバルは謝っていた。
雰囲気に呑まれたとはいえ、さぞ苦しかったことだろう。今はその気持ちが痛いほど理解できる。
 自分も謝りたいと思う。否、土下座してでも謝らなければならない。スバルにもエリオにも。
 しかし、いつかそんな機会が来るかどうかさえ、ティアナには分からなかった。


「このバイク、お前が預かってくれてたんだろ? 悪かったな、こっそり勝手に取らせてもらった」
「あ……いえ……」

 ヴァイスはティアナを乗せて走り続ける。冷たい雨に打たれながら、どこへ向かうのかも分からない。
 しばらく沈黙が続いたが、ティアナは思い切って口を開いた。

 「ヴァイス陸曹……あたし……」

 ヴァイスの身体に手を回したままでティアナは呟いた。
 何から話していいのか分からなかった。話さなければいけないことも、聞きたいことも山ほどあるのだが、
あれから色んなことがあり過ぎて、とても言葉にできそうにない。

「まぁ、大体のところは察しがつく。無理に話さなくてもいい」
「あの……ヴァイス陸曹はどうしてたんですか? というか……」
「どうして生きてるのか、だろ?」

 ヴァイスは頬を掻いて考え始めた。夜の風を切る音と、車の音だけが残るが、ティアナは返事が返るまでずっと待ち続けた。

「わかってるかもしれないが、俺もお前と同じ身体になっちまったらしい」

 ヴァイスは、あの姿、あの状況で全く動じていなかった。それどころか、人間への戻り方まで教えた。よくよく考えれば、そんなアドバイスは同じ境遇の者しかできない。

「よく覚えてないんだが、ヘリと同化しようとした融合体と揉み合って、倒したのは良かったんだが、
ストームレイダーを外したせいでオートパイロットも利かないし、腹を深くやられた。扉の無くなった操縦席から滑り落ちたような気もするんだが……」
「じゃあその時に……」
「それからのことは覚えてない。ただ、ヘリの落下した付近――ちょうど封鎖を抜けた辺りか、
気づいたらそこにいて、目の前には男が立っていた。その男に連れられて現場から離れたんだ」

 忘れたことを思い出す様に、唸りを交えながらヴァイスは話した。どうやら肝心な点はヴァイス自身にも分からないらしい。

「で、そいつから色々教わったんだよな。自分が融合体になったってことも含めて。ただ大事なところは何一つ教えちゃくれなかった。
名前も、俺はこれからどこに行けばいいのか、何をすればいいのかも。2,3日は一緒にいたが、その内置いて行かれちまった」

 嫌われたのかもな、と冗談めかしてヴァイスは笑う。それきりヴァイスの話は止まった。話したくないこともあるのだろう。
 きっとあの日、自分を助けるまでにも、それからも色々なことがあったのだと思う。見知ったこの街で、けれどたった一人で。

「酷い人ですね……」

 そして強い人だ。ヴァイスの面倒を見たというなら、その男も同類なのだろう。なのに、ヴァイスを置いて去ってしまった。
 ティアナはヴァイスの背中に顔を密着させた。革越しでも温もりや匂いが伝わってくる。
 孤独は怖い――ここ数日、特に今日一日で嫌と言うほどそれが分かった。家族を失ってこれまで、これ以上はないと思っていたのに、
種というコミュニティからも弾かれた時は、心底震えが止まらなかった。
 なのに、その男はヴァイスを一人置いて、自分もたった一人で、どこへ行こうというのだろう。

「どうかな……あの御仁は何と言うか、怖いんだろうな。自分が他人の人生背負うのも、左右するのも。そんな資格がないと思ってる。俺の勝手な推測だけどな」

 本当にそうだとしたら、その男の心の拠り所は何なのか。
 こんな身体を抱え、他者にも頼れないのなら、何を頼りに生きているのだろう。
 ティアナはそんなことを思わずにいられなかった。

「それより、今後のことだが――」
「は、はい」

 自分の世界に入りかけていたティアナは、ヴァイスの言葉に飛び上がりそうになる。ヴァイスは訝しげに背後を振り返った。

「ちょっと会ってみたい人がいるんだが」
「え……誰ですか?」
「お前……ニュース見てないのか?」

 そう言われても、自分は数時間前まで盲目だったのだ。それにここ数日は色々と精一杯で、世間の事などほとんど関心なく過ごしていた。

「お前も知っている人だ。いや、ミッドでバイクに乗ってて知らない奴はいないだろ?」

 もう分かったか、とヴァイスは背後のティアナを振り返り、ニヤリと笑う。
 ティアナもすぐに察しがついた。尤もその理由までは見当もつかなかったのだが。
「まさか……!?」

 白い風の異名を持ち、チーム『Phoenix』の不死鳥伝説を築きあげ、不屈の英雄と賞賛されたトップレーサー。それこそが不敗のチャンピオン、ゲルト・フレンツェンその人である。
 先週レース中に融合体の出現に巻き込まれ、両足を負傷したとしか知らなかった。

「会えるんですか? でもなんで……」
「まあそれは明日だ。とりあえず今日は……」
「今日は……?」
「お前の服と靴だよ。いらないのか?」

 言われてハッとなった。自分の姿は病院から飛び出した時のまま。つまりパジャマに裸足である。
 そういえばどことなく周りを走る車の視線も痛い。

「いえ、いります! お願いします!」

 頬が熱い、きっと顔中真っ赤になっていることだろう。今まではそんなことにも気付かないほど切迫していた。
 そして、恥ずかしいと思える余裕ができたのは間違いなく、彼のおかげ。 たったそれだけのことが、今は涙が出そうなくらい嬉しい。

「それで飯を食ったら手持ちが無くなるから、取りあえず今日は野宿かな……。ここまで来たら付き合って貰うぜ?」
「……はい!」
「いや、まだ俺の預金は下ろせるのか……? それならなんとか……」

 などと頭を悩ませているヴァイスをよそに、ティアナは今日初めての笑顔を浮かべていた。
 まだ抜けきらない様々な感情が邪魔して、それは固くぎこちない。そう思ってみないと分からないだろう。だが、確かに笑っていた。
 明日をも知れない現状だが、少なくとも独りではない。それだけでも、最悪のどん底から一歩は踏み出したと、今なら言える。
 ヴァイスの腰に回した手に、力一杯の感謝の気持ちを込めた。離れないように、強く。


 雨が降りしきる夜の街。傘も差さずに彷徨う。ふらふらと満身創痍といった体で、壁に手を突きながらそれでも歩き続ける。
 表情は暗く、十二日前に聖王医療院の手術室前で見せた顔と同じ。不安定に張りつめた、らしくない表情。
 病院のベッドで目を覚まして、真っ先にティアナの姿を捜した。横に付き添ってくれていたキャロは、スバルは融合体に襲われて気絶していたと説明したが、
ティアナに関しては捜索中だと言う。
 スバルは制止するキャロを振り切って、何も言わず病院を飛び出した。
 気を失う直前に見た光景――ティアナがデモナイズする瞬間。
 話すべきか迷ったが、結局何も言えなかった。言えば、自分で認めることになる。それが怖かった。
 もしかしたら。もしかしたら自分の幻覚という可能性もある。そう信じたかった。せめてもう一度、この目で確かめるまでは。
 通行人を捕まえては空振りを繰り返す。
 分かっている、見つかるはずがないのだ。自分の目が確かであれば、デモニアックの証言を辿らなければならないのだから。
 だが、スバルはこう尋ねていた。
"オレンジ色の髪をした女の子を見ませんでしたか?"と。
 何よりそれがスバルの求める真実だったから。
 雨足が強くなり、道を歩く人間も少なくなってきた。暗く人気のない夜道で雨に打たれていると、もう会えないかもしれないという不安が募り、スバルの顔に影を落とす。
それでも、もう少しだけ探してみようと歩くうちに、聖王教会の前に出た。
 本部ほど豪奢な造りではないが、慎ましく建った小さな教会。その前の広場、屋根のあるベンチに一人の男が座っていた。
 寂しく照らす街灯が、その男と、傍らのバイクだけを闇に浮かび上がらせている。

 「あの……女の子を見ませんでしたか? 私と同じくらいの年で……オレンジ色の髪の長い子なんですけど……」

 この人で最後にしよう。そう思って男に声を掛けた。
 黒髪に黒いコート。顔の右半分には刺青だろうか、青い線が縦に走っていた。赤い目はどこか視線を引き付ける。

「いや……見ていない」

 男はスバルを一瞥すると、たった一言ぽつりと呟いた。それきり、スバルを見ることも無く、手元の作業に戻る。
 男は小刀で木像を彫っていた。女性の像のようだが、何の像かは分からない。

「あの……多分パジャマで、靴も履いてないかも……」
「すまないが……」

 話しているうちに、無性にティアナに会いたくなった。
 そんな恰好で、この雨の中たった一人なのかと思うと、あまりに悲し過ぎる。一言紡ぐ度に、諦めようとしていた気持ちが奮い立っていく。

「私の友達で……会って何をすればいいのかわからないし……ちょっと会わせる顔がないんですけど」

 男は顔を上げて、無言でスバルの目を見つめた。煙たがるでもなく、同情するでもない。ただ何も言わず聞いていた。

「その子……一人で泣いてると思うんです。嫌われた私が傍に行ってもいいのか分からない。でも……話したい。どうしても放っておけないんです!」

 スバルは感極まって、少し泣きそうになる。
 語気を強めて声の震えを隠し、滲んだ涙はびしょ濡れの服で拭った。それでも男は無表情のまま、スバルを見ていた。
 言い終わってから余計な事まで喋ってしまったと気付く。きっとこの男の瞳、そして男の纏う雰囲気のせいだ。
 例えるなら――夜の湖。それが第一印象。
 一見して暗く、冷たく、近寄り難い。
 しかし、穏やかで落ち着く。包み込むような深さを併せ持っている。そんな気がした。
 何も言わずに聞いてくれるせいで、何でも話してしまう。懺悔の経験は無いが、きっとこんな雰囲気なのだろう。

「受け入れるばかりが全てじゃない。時として選択を迫られることもある」
「え……?」
「いや……何でもない。悪いが本当に見ていないんだ」

 男はそれきり何も言わない。言葉の意味を問いたかったが、知らないというのをこれ以上聞くのも流石に気が引けた。

「ありがとうございました。あたし、もう少しだけ探しながら帰ってみます」

 一礼して走り去るスバル。自然と足が速くなる。その頭には選択という単語が渦巻いていた。
 いつか、ティアナに対して選択を迫られる時が来るのか。
 それはどんな問題で、その時自分は何を選ぶのだろう。そんなことばかりが浮かんでは消えた。
 振り向くと、男は変わらずベンチに座って教会の方を眺めている。その姿はどこか儚く、とても寂しそうに見えた。
 男の不思議な雰囲気のせいか、ふと思う。彼はいつからあそこにいるのだろう、と。
 闇に独り浮かんでいる姿は、まるで教会にも神にも拒絶されたよう。それでも敬虔に祈りを捧げ続けている――そんな風に見えた。
 彼はずっと祈り続けるのだろうか。たとえ、その祈りが神に届かなくても。


 何故自分は、あんなことを言ったのだろう。ただ彼女の目を、涙を見ていると自然と口を衝いていた。

「麗しい友情だわ。あなたとあの男との間にもあんな関係があったのかしら?」
「エレア」

 バイクのハンドルにホログラムが映った。そこに映ったのは、人形ほどの大きさの少女。こめかみからは、一対の悪魔の角が後ろへ生えている。
 少女――エレアは茶化すような口調で語りかけてきた。

「ねえ、さっきの言葉は自分のこと? あなたは何を選んだのかとても興味深いわ」
「さあな……」

 自分でも分からないことを説明はできない。なので、答えを返すことはしなかった。
 きっと彼女もそれは理解しており、まともな返事が返るとは期待していない。
 教会の窓からは幽かな明かりが漏れ出ており、その灯は闇の中を歩く者にはこの上なく温かく見えることだろう。
 こんなところに来ても自分は教会の前を選んでいた。
もう遠い昔のことのように思えるが、それでも思い出すことができる。祀る神は違えど、懐かしいと感じられる。
 雨が音を吸収し、深々と降りしきる音と冷気が闇に染み込むように届く。
 その静寂を切り裂いて悲鳴が上がった。大きくは無かったが、聞こえたということは、ここから然程遠くない。
そして、その中にデモニアックという単語が混じっていたのを聞き逃すはずがなかった。

「また……ね。最近明らかに多くなってるわ」

 エレアの言う通り、融合体の出現は急増している。
 そろそろXATも、誰かが操っていると気付き始めているだろう。だが、その正体を知る者は自分だけだ。

「ザーギン……」

 呟いた言葉には何の感情も籠らなかった。それでも身体は自然と立ち上がる。

「行くの?」
「ああ」
「またなんの収穫も無いかもしれなくてよ?」
「構わない」

 少しでもあの男に近付けるなら。そして彼を否定することに繋がるのなら。
 コートと同じ、黒い大型バイクに跨る。アクセルを吹かすと、それに応えて『ガルム』のエンジンが唸りを上げる。
 意識を集中することで、自分の身体が変異していくのを感じる。
 変異は一瞬で完了し、黒と蒼の鬼のような姿を現す。右目だけが一際赤く輝いた。
 ガルムと己を同調させることで、ガルムも異形の戦闘形態へ変形。
 バイク自体が展開しつつ、前輪部が大きく突き出した形となる。完全に変形が終わると全長は1.5倍近く膨れ上がった。
その他にも随所が禍々しく変貌を遂げ、地獄の魔犬の名を冠したマシンは真に怪物と化した。

「ああ……やっぱりあなたにはその姿がよく似合う。美しくてよ、ジョセフ」

 陶酔するようなエレアの賛辞に一片の興味も示さず、黙ってアクセルを回す。
 ガルムは地獄からの咆哮を轟かせ、雨を物ともせず後部両脇のスラスターから炎を吐く。
 そして、ガルムと一体になったジョセフはミッドの夜空へ飛び立った。



冷たい独房は音を、光を、心を閉じ込め反射する。思いを受け、閉ざされた箱は万華鏡の如く色を変える。
唯一変わらず映るものは、欺瞞という名の自らの鏡像。

第3話 凍てつく炎

偽善の汚泥に塗れながら、それでも翼は羽ばたくことを望むのか。

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最終更新:2010年03月11日 20:13