それはとある偏狭に置かれた未開の世界での出来事であった。
何処までも、地平線の向こう側にまで広がる茶色の岩肌。右を見ても左を見ても、岩石層で形成された地面だけが延々と、それこそ限り無く続いている。
青色に透き通った空には、太陽に似た恒星が一つ、二つ、三つ。上空からは容赦のない、異常なまでの熱線が降り注いでいる。
加えて硬質の地面からの照り返しも累乗。
それら条件が相俟った所為か、この岩壁の世界は逆に笑えてくる程の異常な高温に包み込まれていた。
「無理無理無理無理無理無理無理ィ!! ちょっとこれはさすがに無理だってぇ!!」
人っ子一人、植物の一本たりとも存在しやしない、そんな世界に、ヴァッシュ・ザ・スタンピードはいた。
その身に纏うは何時も通りの真紅。疾走と共に吐き出すは腹の底からの絶叫。
彼は逃げていた。全力で、脇目も振らず、両手両脚をフルに活用して。兎にも角にも、逃げていた。
『GyaOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!』
その後方には甲殻類を思わせる風貌を有した巨大な魔獣が一匹。全長はゆうに十数メートルを越え、その身体は茶色の殻に包まれている。
余りにデカい。ヴァッシュが住む世界にもワムズという巨大虫が存在したが、それらよりも更にデカい。ヴァッシュが持つ大口径がまるで豆鉄砲に感じてしまう程だ。
身体の至る所からは、緑色の触手が伸びており、不規則に動いては足元を走るヴァッシュへと叩き付けられる。
その度にヴァッシュは跳んだり、跳ねたり、撃ったりして回避しているのだが、どうにも反撃の機会は掴む事はできない。
涙目で逃亡を続ける事しか、ヴァッシュは出来ないでいた。
「だぁーーーー!! だから、お前はでしゃばんなって言ってんだろうが!!」
そんなヴァッシュに救済の手を差し伸べたのは、炎の如く赤色を三つ編みに結び、ゴスロリドレスを着込んだ少女―――ヴィータ。
両手に握った鉄槌を振り被り、ヴァッシュを執拗にいたぶる魔獣の顔面へと振り下ろす。
足元にてちょろちょろと騒ぐヴァッシュへと気を取られていた魔獣は、防御の体勢を取る事すら出来ない。鉄槌は魔獣の眉間を的確に捉え、その動きを止めた。
「あああ、ありがとう! あ、あのままじゃ死ぬところだったよ!」
「うるせぇ! 勝手について来て、勝手に突撃してって、何が死ぬところだっただ!! さっきからゴキブリみたいにちょろちょろちょろちょろとウゼーんだよ!!」
「ゴ、ゴキブリって……」
そう言うヴィータの瞳には、ウンザリとした色がありありと溢れていた。
面倒くさい。何故、私がこんな男のお目付役をやらなくてはならないのか。そもそも、どうしてこんな状況になっているのか。
……ヴィータはどうしても苛立ちを隠す事ができない。
苛立ちの表情はそのままに、ヴィータはヴァッシュへ背中を向け、油断なく魔獣と相対する。
(くそっ、何でこんな事になってんだよ……)
そもそもの始まりはこの男の謎の決断からであった。
管理局の一員であった筈の男―――ヴァッシュ・ザ・スタンピードが見せた謎の謀反。
それは守護騎士達を驚愕させ、当惑させた。ナイブズから何を吹き込まれたかは知らないが、それは余りに唐突すぎる展開の変化だった。
勿論、その言葉を信用する者は居なかったし、守護騎士達は反対した。だが、幾ら反対の言葉を飛ばしても男は飄々とした笑みを崩す事すらなく、頑なに自分の意見を通した。
それどころか自分を蒐集作業に協力させなければ、全ての情報を管理局側にバラすとさえ言い始めたのだ。
脅迫としか取る事が出来ない発現に、思わず守護騎士達は口を閉ざしてしまう。実力行使による排除も頭をよぎったが、それもまた困難。
敵はシグナムを圧倒した男であったし、はやてとの間に交わした『不殺』の約束も足枷となっている。それにどう足掻いたところで、その口を塞ぐ術がないのだ。
今夜の出来事に関する記憶だけを奪う―――などといった都合の良い魔法も存在しない。
一番手っ取り早い方法は情報を有するヴァッシュを殺害する事だが、上記の理由によりそれだけは出来ない。
何処かに軟禁しておく、という手段も考え付いたが……それも余りに非人道的。人間の心を入手し始めた今の守護騎士達には、そんな非情な手段を選択する事は出来なかった。
―――結局、守護騎士の面々はヴァッシュの提案を受け入れざるを得なかったのだ。
(くそっ、くそっ、くそっ……! あと少しだっていうのに何でこんな邪魔ばっか入んだよ!!)
心中の苛立ちをぶつけるかのように魔獣の巨体へと突撃と離脱を繰り返すヴィータ。その表情は苦悩に歪んでいた。
闇の書の完成まではあと少し。ここ数日は先の負傷によりシグナムが戦線を離脱していたが、ナイブズの手助けもありペースは良好。
いや、寧ろそのペースは以前のそれよりも上昇している。シグナムが復帰すれば完成の時は更に近いものとなる筈だった。
上手くいけば12月24日―――クリスマスイブ前の完成すら有り得る。
はやてがずっと楽しみにしていたクリスマスイブ……それを皆で、元気になったはやてと一緒に迎えられるのだ。それはどんなに楽しい時なのか、想像するだけで頬が緩む思いであった。
だが、だというのに―――また、難題が立ち塞がる。
まるで自分達の願いを踏みにじるかのように、ヴァッシュ・ザ・スタンピードが現れたのだ。
(何で……何でだよ……何でこんな事ばっか……!)
ガシャン、という音と共に、鉄槌から三個の空となった薬莢が排出される。
カートリッジから溢れ出る魔力を糧にグラーフアイゼンの姿が変化、最強の形態へと強化されていく。
瞬きの間に鉄槌は何倍何十倍と巨大化し、遂には魔獣と比肩する程の大きさに成長した。
「ギガントォォオオオオオ―――」
非殺傷設定を解除した、文字通り手加減なしの全力全開の一撃。
足元にて慌てふためくヴァッシュの事など全く憂慮していない、寧ろ巻き込んでしまおうかという思いが透けて見える、最大の一撃。
ヴィータはギガントフォルムのグラーフアイゼンを、渾身の力で振り上げる。
「―――シュラアアアアアアアアアク!!!」
そして、振り下ろす。
巨大な鉄槌が魔獣を包む硬質な皮膚と接触し、周囲の空気を震撼させる。
発生するは耳を覆わざるを得ない轟音と、地面に浮かぶ砂埃を巻き上がて形成された砂塵。音が聴覚を支配し、砂埃が視覚を支配する。
茶色に包容される世界にてヴィータは勝利を確信しながら浮かんでいた。
そして、その確信は決して間違いでは有らず。魔獣の瞳から光が消失し、その巨体がゆっくりと傾いていく。
「わお! 凄い凄い凄い! やるじゃんヴィータ!!」
力無く頭を垂れる魔獣の横では、苛立ちの原因が歓喜に騒ぎ立っていた。
重く、暗い、感情が、ヴィータの心に流れ込む。苛立ちと焦燥感と失望とが組み合わさって造形されるどす黒い感情。
その感情の正体についぞや気が付く事はなく、ヴィータは唇を噛んだ。今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、次の獲物を求めて移動するヴィータ。
喧しい紅服も慌てた様子で地面を蹴り、必死に追走してくる。そんなヴァッシュの様子を見て、ヴィータは大きな舌打ちと共に加速する。
男を振り切るように、身体に宿る苛立ちを振り切るように、風を切って進んでいく。
□ ■ □ ■
無機質な茶色の世界を、それぞれの想いを胸に駆ける真紅の魔導師と真紅のガンマン。
そんな二人の様子を空から見下ろす影が一つあった。
影の正体はナイブズ。この不可思議な事態を引き起こすきっかけを造った男である。
ナイブズは何処か遠い目でヴィータ達を見詰め、思考に没頭していた。
『……ナイブズ、そっちの様子はどうだ?』
唐突に、前触れなくナイブズの脳内に自宅で待機しているシグナムの声が響いた。
念話通信によってもたらされた言葉に、ナイブズは思考を打ち切り現実へと意識を引き戻す。
光が戻った瞳で遠方にて魔獣と戯れる二人を確認し、心の中で言葉を紡いだ。
『……いや、今のところは何もない』
『……そうか。奴が少しでもおかしな真似をしたら頼むぞ』
『ああ、心配するな』
今現在ナイブズに化せられた使命はヴァッシュ・ザ・スタンピードの監視であった。
現在戦闘に出れる守護騎士は負傷中のシグナムとサポーターのシャマルをの除いた三人。その中でヴァッシュに対抗できるだろう存在はヴィータとナイブズのみ。
だからこそ、この三人組で数多の魔法生物が眠るこの次元世界へと派遣されたのだ。
『ザフィーラの方はどうなっている?』
『少しばかり苦戦しているようだが、シャマルのサポートが効いている。一、二匹は撃破して帰還する筈だ』
残るザフィーラとシャマルは二人で組み、他の次元世界で蒐集を行っている。
このような事態に於かれて尚、彼等は蒐集の効率化を優先したのだ。それも偏に、一早く主を救済したいとの思いが影響しているのだろうか。
『……一つ、聞いていいか?』
『……何だ?』
不意に変化したシグナムの声色に、ナイブズの眉がほんの少し吊り上がる。
その視線の先では二人の真紅が新たな獲物を発見したようであった。
獲物は先程の魔獣と同種のものに見える。
『あの時、お前とあの男は何を話していたんだ? 何故あの男は唐突にあんな事を言い始めた?』
先ず最初に獲物の前に躍り出たのはスピードに優る鉄槌の騎士。
攪乱の動きも無しに真っ直ぐ、一直線に突撃していく。その速度も累乗された一撃は重く力強い打撃であった。
顔面に叩き込まれた鉄槌に、魔獣が怯んだかのように身体を震わす。
『……俺達の目的……はやての事を全て話した』
『……なに……? 貴様……自分が何をしたのか分かっているのか!』
続いて攻撃を行ったのは地を這うガンマンであった。
鉄槌の騎士が打ち貫いた箇所を、右手に握られた拳銃で寸分違わず狙撃する。
それも一発ではなく何発も。弾が切れれば直ぐさまリロード。大口径からの速射が十何、何十発と間断なく突き刺さる。
……が、その巨大さ故か、魔獣にダメージは見られなかった。
『主の正体が管理局にバレれば、奴等は絶対に主を拘束する! 闇の書も奪取されてしまうんだぞ!』
しかしながら、ガンマンの攻撃が何ら意味を成さないのかと問われれば、またそれも違う。ガンマンは魔獣に多大な影響を与えている。
払っても無視しても突っ込んでくるその小蠅の如き攻撃に、魔獣は徐々に苛立ちを募らせているようだった。
明確な害敵である真紅の守護騎士に集中したくとも、足元の虫螻がチクリチクリと邪魔をする。その状況は魔獣にとってもなかなかに不快なようだった。
『そうなれば主の身体が回復する手だては無い! 主は……主・はやては死んでしまうんだ! それを分かっているのか、貴様は!』
そして、遂には魔獣の攻撃対象はガンマンの方へとすり替わる。先ずは鬱陶しい雑魚を倒してしまおうとしているのだろう。
ガンマンの頭上から急迫する緑色の触手。だが、ガンマンは冷や汗をダラダラと垂らしながらも、その一撃を全力疾走+横っ飛びで回避。
続けて振り下ろされる追撃の触手も、ガンマンは猿回しの猿のように器用な動きで避けていく。
―――この瞬間、勝負は殆ど決したようなものであった。
魔獣の敗因はズバリ地面を這い進むガンマンに気を取られ過ぎた事。
ガンマンが三発目の触手を回避すると同時に、再び巨大化した鉄槌がその隙だらけの脳天に突き刺さった。
『そう熱り立つな……俺もそう考え無しじゃない、奴の性格を利用したんだ……』
戦闘の結末を見届けると同時にナイブズはシグナムへと返事を返した。
呆れを含んだその表情を見る者は居ない。
『奴の性格を……利用……?』
『そうだ、俺は奴の性格を知っている。奴は人の死をとことんまでに忌避する。
どんなに腐った心を持つ人間だろうと殺そうとはしない。それがどんな状況であってもだ。
何時までも決断をしようとせず、全てを救おうと行動を続ける』
そう、ナイブズは完全に把握しているつもりであった。
ヴァッシュの性格を。誰もが鼻で笑う理念を貫き通そうとするその性格を。把握しているつもりであった。
だから、はやてと守護騎士の於かれている状況を全て告白した。
世界の為に罪無き少女を殺すか、罪無き少女の為に世界を殺すか―――その選択を迫る為に。
理想と現実の狭間で苦悩する弟を見たくて、そして現実を知る事で弟が目を覚ますと期待して―――全てを話した。
だが、見誤った。
ナイブズは、ヴァッシュが掲げる信念の深さを完全には見切れていなかったのだ。
ヴァッシュは易々と決断した。少女を犠牲にするでもない。世界を犠牲にするでもない。だが、最も過酷で困難な道をヴァッシュはノータイムで選択した。
世界を救い少女も救う……そんな魔法のような選択肢をヴァッシュは選んだのだ。
『寝返ると予測していた……と、いう事か』
『端的に言えばそうだ。此処まで上手くいくとは、思っても見なかったがな』
虚言を吐き出し続けながらも、ナイブズは頭を悩ませていた。
厄介な事に、ヴァッシュの信念は悪化の一途を辿っている。百数十年もあの世界を放浪し続けていて、未だに何も学習していないのだ。
これでは自分とヴァッシュは対立を続けたまま、一生和解する事はない。
何が此処まで奴の心を縛り付けているのか、此処まで面倒な事に発展しているとは思わなかった。
『……奴を信用して良いのか?』
『……さあな。確信を得たいのならば自分の目で確かめろ』
歪んだ表情でナイブズは思考する。
今回の件は、自分の浅薄な思慮が招いたアクシデントだ。多いに自戒する必要がある。だが、しかし、まだ致命的な失敗を犯した訳ではない。
人類を滅ぼし、強力なナイフを入手する……その為の手札はまだ山のように存在する。
管理局、守護騎士、闇の書、仮面の男、そしてヴァッシュ・ザ・スタンピード。全ての手札を握っているのは自分のみ。
これからの行動・選択により未来は幾らでも変貌を見せる。未来はまだ―――自分の手の中にあるのだ。
□ ■ □ ■
東の空が白み始めた海鳴市に四人の守護騎士と二人の人在らざる者は立っていた。
彼等が立つ場は市街地に並び建つビル群の一角。それぞれの表情からは濃密な疲労の色が見て取れる。
「いやぁ……ご苦労様でした……こんなハードな事毎日やってんの、君達?」
無言で佇む守護騎士達の中、気の抜けた声を上げたのはヴァッシュ・ザ・スタンピードであった。
夜を徹してのドタバタ騒ぎに、彼の顔にもまた疲労がこびり付いている。
ヴァッシュの言葉に返答をする者は誰も居なかった。その代わりとして敵対心に満ち満ちた視線を送る者は沢山いたが。
「……お前達は先に戻っていろ。私はこの男と話がある」
視線で合図もしくは思念通話でも行ったのか、そう言葉を発したシグナムを残し、他の守護騎士の面々は重い足取りで出口へと歩いていく。
それはナイブズも同様。場に残された者はシグナムとヴァッシュだけであった。
「あれ、どうしたの? ん……こんな麗しき女性と二人きりの密談……? ま、まさか!? いや、駄目だって、そんなまだ心の準備ってもんがーーー!!」
何を想像しているのか気色悪く身をくねらせるヴァッシュ。
そんなヴァッシュへとシグナムはただ無表情に歩み寄る。
「しかし……いや! 此処で拒絶するのは男が廃る!! さあ来なさい! ヴァッシュの此処は何時でも空いてま―――うぉわ!!?」
自身の胸元を指差しそう言うヴァッシュに対して、シグナムが取った行動は胴薙ぎの横一閃。
突っ込みにしては厳しすぎる一撃を紙一重で何とか避けながら、ヴァッシュは情けない叫び声と共にすっ転ぶ。
「イテテテ……いきなり何を―――」
と、顔を上げたところに烈火の魔剣が突き付けられる。
鼻面に刺さらんと迫るそれに、ヴァッシュは顔をひきつらせ冷や汗を垂らしながら、両手を真っ直ぐと天へと伸ばした。
「タ、タンマ! 冗談が過ぎたのは謝るからチョット落ち着こう!」
ヴァッシュの対面に在る烈火の将の瞳は、灼熱の怒りに燃え盛っていた。それはもうヴァッシュにさえ一目で理解できる程にメラメラと。
ヴァッシュの口から、焦燥に染まった言葉が悲痛な色を含んで吐き出される。そのふざけているかの様子に、シグナムの顔が歪んだ。
「……貴様は何を考えている」
「……へ?」
「貴様の真意を教えろと言っているんだ」
唐突に告げられた言葉は疑問を意味するものであった。
ヴァッシュも機関銃の如く排出され続けていた謝罪を一旦中断。シグナムの疑問への解答を頭の中で組み立てる。
「真意、っていうほど大したもんでもないんだけどね。たださ、君達の目的を聞いちゃたからさ……僕には選択できないんだよ、そのどちらもね」
シグナムは、いやナイブズを除いた守護騎士の一同は、ヴァッシュの事を全く信用していない。
今回の蒐集作業に同行させたのは、ただ単純にヴァッシュの脅しが効いただけ。ほんの数日前まで鮮血飛び散る戦闘を交えていたのだ、いきなり信用しろという方が無理のある話だ。
だから、シグナムは問い詰めている。
この男は何を目的としているのか。それは内部からの瓦解か、それとも諜報でもするつもりか、……万が一にも有り得ない事だが本心からの尽力か。
その確認をする為に、シグナムはただの一人でヴァッシュと対面していた。
「僕は決断できないんだ。はやてを見捨てて世界を救うか、世界を危険に晒してはやてを救うか……そのどっちかを選ぶ事なんて僕には出来ない。多分一生掛かってもね」
成る程ナイブズの言った通りの性格だ、とシグナムは呆れを覚えつつも理解していた。とはいえ、これだけの言葉だけでこの男を信用する事は、当然の事ながら不可能であった。
烈火の剣をその鼻面から退ける事はせず、警戒の面持ちはそのままにヴァッシュを見詰める。
そして、再び詰問の言葉を投げつけようとしたその時―――シグナムは、ヴァッシュが口にした単語の一つに小さな疑念に思い浮かべた。
その途端、シグナムの表情に宿る猜疑は困惑により塗り潰されていった。
「ちょっと待て……世界を危険に晒すとはどういう意味だ? 闇の書が完全したとしても主に強大な力が宿るだけ……それ以外の現象は発生しない筈だ」
「……やっぱり知らなかったみたいだね。じゃなきゃ、君達みたいな優しい騎士があんな迷い無く剣を振るう訳がない」
ヴァッシュは語っていった。
自身が知る闇の書に関する情報を、実兄が全てを語ったように、守護騎士の将へと語る。
闇の将が完全したとしても、その主ごと世界を滅亡へと至らせる事を。それを阻止する為に、自分達管理局は戦い続けている事を。
包み隠さず正直に―――その全てをヴァッシュは語った。
「そんな……バカな……」
「まぁ、詳しい事はこっちも随時調査中なんだけどさ。取り敢えず闇の書の完成と世界の滅亡は、もう幾度となく繰り返されてきた事らしい」
ヴァッシュから告げられた真実に、シグナムはしばし茫然と言葉を失う。
破壊と転生を繰り返すロストロギア……それが闇の書の正体。破壊も封印も望めない……最悪のロストロギアと言っても過言ではない代物だ。
その事実を、ヴァッシュは闇の書の一部である烈火の将へと伝えた。しかし、当然ながらその言葉は―――
「そんな事が……有り得るか!」
―――信じられる事もなく、烈火の将に拒絶される。
当たり前だ。闇の書の一部たる彼女がそのような事実を信じる訳が、信じられる訳がない。
何より情報の出所もまた、信用ならない敵対組織の一員だ。自分達の戦意を削ぐ為に考えられた虚言という可能性も、多いに有り得る。
「信じる、信じないは君の自由だ」
ヴァッシュもまた無理に事実を受け入れさせようとはしない。
そう簡単に自分の言葉を信用してくれるとは思っていないし、何よりこの事実を認めてしまえば、彼女達は今以上の葛藤をする事になる。
そんな守護騎士達の姿を、ヴァッシュは見たくなかった。だが、この葛藤は近い未来、彼女達に絶対必要となるプロセス。
だから、告げた。決断の時間が存在する今ならまだ、彼女達に思考の機会を与えられる。
後戻りすら出来なくなった時点で告げたのでは、余りに遅すぎるのだ。今が、今こそが彼女達に事実を突き付けるチャンス。
そしてその事実を教えられるのは自分しか居ない。
「ただ約束してくれ。もし闇の書が完成したとして……万が一……いや億が一にでも暴走するような事があれば―――俺達に力を貸してくれ」
結局ヴァッシュは、ナイブズや彼自身が語ったように決断する事が出来なかったのだ。
世界を取る事も、少女の命を取る事も、そのどちらも選択できない。彼はそういう性格だ。そうして一世紀半もの長い間、暴力に溢れた砂の惑星を渡り歩いてきた。
それは余りに甘すぎる理想論。だが、彼はこれ以外の道を知らない。
誰も殺さず殺させない……それ以外の道を彼はどうしても選択する事ができない。
だから、彼は突き進んだ。八神はやても、この平穏な世界も、そのどちらもを救済する道を突き進もうと―――決意した。
その道がどれだけ困難であるかを知りながら、ヴァッシュは不殺を貫き通す。
「力を……?」
「そうだ。多分僕の力だけじゃ、はやてと世界のどちらもを救う事は出来ない。
でも―――」
小さく息を飲む彼の瞳には、一縷の迷いも存在しなかった。
ただ前を見据え、最良の未来を求めて手を伸ばす。
「―――皆が力を合わせれば、絶対に全てを助けられる筈だ」
それが彼なのだ。
どんなにか細い希望であろうと可能性がある限り愚直に追求し続ける―――それがヴァッシュ・ザ・スタンピードであった。
「……ま、図々しいけどよろしく頼むよ。あとこれ僕の連絡先ね。取り敢えずのところは君達にも、管理局の方にも協力するつもりだから」
ヴァッシュは自身の携帯番号が書かれた紙をシグナムへと手渡し、その場を後にする。
シグナムはそれを止めるでもなく呆けた様子で見送っていた。唐突に注ぎ込まれた重大な情報の数々に、理解がついて行かないのだ。
ヴァッシュの痩躯が屋上出口の鉄扉に吸い込まれ、姿を消す。
「あ、そうそう」
と、出て行ったのも束の間、扉から顔だけ突き出す恰好でヴァッシュが戻ってくる。
「心配しなくていいよ。君達の情報を管理局に流すつもりは無い。約束する」
笑顔でそう残すと今度こそヴァッシュはビルを下っていった。
残されるは烈火の将が一人。様々な疑問に埋め尽くされた思考を携えながら、シグナムは一人夜天を見上げていた。
□ ■ □ ■
東の空から降り注ぐ日光により色彩を取り戻していく世界。
その渦中にてヴァッシュは一人熟考と共に歩を進めていた。口から吐出される真っ白な空気が、幾度となく浮かんでは消えていく。
(レム、俺は間違っているのかな……)
ヴァッシュもまた自身の選択に対して迷いを捨てきれずにいた。
自分はまた、どちらの命を選択をするでもなく、都合の良い夢みたいな解法を求めてようとしている。何時ものように、誰も死なせようとせずにこの事件を解決しようとしている。
―――自分の裁量を遥かに越えた大事件だというのに、だ。
あの砂の惑星で発生した事件の数々は、その殆どが自分を台風の目としたものであった。だから自分が上手く立ち回れば、誰も傷付かずに解決する事が出来た。
だが―――今回の事件は余りに規模が違う。
あれだけの組織力を持つ管理局がコレ程までに手を焼く存在が闇の書だ。
闇の書が暴走してしまえば、自分のようなちっぽけな存在がどう立ち回ったところで、収集する事は不可能なのかもしれない。その可能性は充分に有り得た。
(でも……それでも俺は……)
自分はもしかしたら取り返しの付かない選択をしてしまったのかもしれない。
でも、言い訳はしない。後悔もしない。はやてという犠牲の上に成り立つ世界など許せない、許したくない。
あの子には、いや全ての人間には無限とも云える可能性が詰まっているのだ。
誰も殺さない。誰も殺させない。一人も犠牲も出す事なく、全てを解決してみせる。
闇の書の暴走も、ナイブズの企みも、全て止めてみせる。
その為に―――自分は架け橋となる。
管理局と守護騎士……その強大な力を持つ二つの組織を繋ぐ架け橋に、自分はなる。
一介のガンマンでしかない自分や管理局だけでは、闇の書の暴走を止める事は不可能かもしれない。
だが、もし守護騎士の力も合わせれば、僅かであっても希望が出てくるのではないか? 闇の書の暴走を、その世界を滅亡させる力すらも打ち倒せる希望が現れるのではないか?
そのほんの僅かな希望に自分は賭けて見たい。はやても、世界も、そのどちらもがが助けられる唯一の可能性に―――自分は賭けたい。
その為の、管理局陣営と守護騎士達が円滑に協力し合える為の架け橋に、自分がなる。
今までと同じだ。プラントと人類達との橋渡しを続けてきた今までと。
(絶対に死なせやしない……誰も……!)
新たな決意を胸にヴァッシュ・ザ・スタンピードは歩き続ける。
数分の歩行の末に辿り着く半日振りの帰還となった高町家。
そういや色々と連絡するのを忘れてたなと考えながら、その門を潜り抜ける。
「―――居候の身で無断外泊かしら、ヴァッシュさん」
―――そして、待ち受けるは笑顔という朗らか仮面の内に憤怒を隠した、高町家のもう一人の家主。
仄かに殺気すら窺えるその笑顔にヴァッシュもまた強張った笑顔を浮かべ、顔をひくつかせる。
マズい、と思った時には全てが遅い。この日の高町家は、高町桃子の怒声が目覚まし代わりとなる事になった。
最終更新:2009年11月25日 08:43