フェイト自身、冷静さを欠いているのは自覚していた。本来の任務はゲルトの追跡。それをティアナに固執するのは間違っている。
しかし、敢えて正そうとは思わなかった。
悪くないと思うなら釈明して、正当性を主張すればいい。罪を犯したと思うなら何故詫びない。人を、仲間を傷つけておきながらどちらも選ばず、
こそこそ逃げるティアナの背中は、どこまでも卑怯で姑息に思えたのだ。
睨みあう中、先に動いたのはヴァイス。一足飛びに距離を詰め、右足で薙ぎ払った。
それをバックステップで回避しつつ、様子見に魔力弾、プラズマバレットを三発放射状に撃つ。
ストームレイダーと一体化したヴァイスの腕は、自動制御と見紛うほどの敏捷さで、それらを正確に相殺した。
一連の動きからフェイトは分析する。彼本来のスタイルからすれば、距離を取るのが常道。だが、彼の目的はティアナが逃げる為の時間稼ぎ。
離れ過ぎれば意味がなく、また中距離での撃ち合いでは分が悪いと判断したが故に、接近戦を挑んだ。
現にヴァイスのスピードは、ゲルトの例に漏れず凄まじい。リミッターのある状態ではおそらく互角。
どの道、こんな場所で全力では戦えない。
ヴァイスも距離を開けることを許しはしないだろう。遠距離は彼の土俵だ。
フェイトは無理に距離を取らず、接近戦に応じた。まずはバルディッシュを一閃。
ヴァイスは身を屈め、地を這う姿勢でこれを回避。この時、ストームレイダーの銃口は既にフェイトの顔面に向いている。
背を極限まで反らせたフェイトの顎、数センチを光弾が通過。
勢いを殺さず、蹴り上げつつ背後に一回転。空いた左手は目測で魔力弾を放つ。
一瞬前までヴァイスのいた地面が抉られる。が、手応えはない。飛び退っていたヴァイスの右腕から再び光弾が放たれる。
見えない障壁に阻まれ、バリアを破るには至らない。今のは明らかな牽制、となれば次は――。
次の瞬間、フェイトは目を見張った。飛び退ったヴァイスの身体がしなり、急接近した。人間技とは思えない。
突き出される左足、バリアのみでは持つまいとバルディッシュで防御。衝撃でバルディッシュを持つ手にも痺れが走る。
バックステップと見せて、地面に残した爪先と上半身のバネのみでこの加速。だが、この程度ではない。
この程度では終わらない、自分も、ヴァイスもだ。
左手に持ち替えたバルディッシュで反撃。風圧と風切り音、背筋に伝わる悪寒、第六感を頼りに闇に光の軌跡を走らせる。
火花を散らし、激突する二つの武器。そう、今のヴァイスは身体すべてが武器だった。本気でないとはいえ、
バルディッシュと拮抗する硬度の皮膚を持っている。
右足上段蹴りと金色の光刃。触れた刹那、ヴァイスの顔が照らし出される。その表情は読めなかったが、さしものヴァイスも苦悶の声を漏らした。
ならば今が好機。懐に飛び込み、決定打を加えんとしたその時、輝く三つの眼がフェイトを威圧した。
光源に乏しい暗闇の中に、爛々と輝く三眼。
否応にも視線を引き付け、一瞬、僅かに一瞬振るう手が止まり、動きだした時には既にヴァイスは防御態勢を整えていた。
待ち受けるストームレイダーに突っ込み、バルディッシュの柄と銃身が再度激突。得物を挟んで鍔迫り合い、至近距離で睨み合う。
「ヴァイス君、もう投降して。私はこの体勢からでもあなたを撃てる」
フェイトは最後の呼び掛けを試みる。事実、バルディッシュからでも自らの手からでも、フェイトは如何様にも攻撃できた。
対して格闘と射撃しかないヴァイスの銃口は今、こちらを向いていない。
「……できません」
「ティアナの為……?」
「俺の為です」
彼はきっぱりと答えた。臆面もなく、恥じ入ることなど何一つないとばかりに。
本当にティアナと同じ、心まで融合体になりかけているのだろうか?
あり得るかもしれない。ストームレイダーと融合して無理な連射を繰り返す。とてもデバイスを顧みているとは思えなかった。
「まさか……ストームレイダーを融合して支配したの?」
『いえ、私は一切のAIの改変を受けておりません。今の戦闘は、融合に際して近接戦にも対応できるよう、新モードとシステムを共同で構築した成果です。
ちなみに私も、この態勢からでもあなたを撃つことが可能です』
手元で、バルディッシュとカチカチ音を鳴らすストームレイダーが答えた。
融合を前提とした複雑なカスタマイズを、融合によって成し遂げる。ヴァイスの知識からいっても、デバイス側からの協力なくしては不可能。
それは、デバイスとマスターの新たなる進化の形。
これで分かった。ストームレイダーは、望んで彼に使われている。
それは彼に対する一片の信頼も失われていない証拠。融合体では到底できない芸当。
だからこそ、疑問だった。まだ心は人であるヴァイスが、何故こうまで頑なになるのか。
「あなたは人を傷つけていない! なのにヴァイス君もティアナも、反抗するほど罪は増えるだけなのに、どうして!?」
「XATに捕まることで、償いになるとは思えないんすよ。図々しくっても、俺もあいつも死にたかないですから」
「死にたくない……?」
「あいつを、XATがゲルトと同じ待遇で迎えるとは思えません。拘束し、監禁し、実験台にする」
フェイトは息を呑んだ。考えていないわけではなかったのに。
今朝の事件を受けて市民の不満と緊張は爆発寸前。その先にあるのは暴動、社会の崩壊、引いては管理局システムの破綻。
人か融合体かも分からない者の人権を、気にする余裕は最早なかった。
二人でXATに従ったとして、待っているのは実験体としての運命。その場合、先に使い潰されるのはティアナだ。
代用が利けば、限界を測る乱暴な実験もできる。
しかも、市民に危害を加えた融合体なら尚更。生かしておく理由もない。検査如何にもよるだろうが、
ヴァイスがいれば、最悪ティアナは死んでもいいとさえ考えるかもしれない。
「二人に重傷を負わせたあいつを、軟禁で済ませますか? 知名度も何もなく、
マスコミや市民になに気兼ねすることもないのに?」
「そんなこと……」
「ゲルトがああなっちまった今、俺らみたいのに対する風当たりも強くなる。
出頭しても無事でいられる保証はどこにもない」
「じゃあこのまま逃げ続けるって言うの? いつまでも逃げられるわけがない。私達が二人を守るできるだけのことはする。
私達を信用してくれれば……」
「だからこそ、戻れないんすよ」
その一言で、フェイトの戦意は挫かれた。鍔迫り合いを止めて距離を取り、だらりと両手を下げる。
できるだけのことをすると言った。では、どうするというのか?
同僚だからといって特別扱いは許されないし、もし匿えば重大な命令違反。
XATに情報を秘匿している今だって、六課の立場は十分過ぎるほど危険なのだ。
だからこそ、二人は決別を選んだ。
ろくに検体を確保できない以上、彼らのような存在の協力を得られなければ、融合体の解析は遅れ、犠牲は更に増える。
だとしても、フェイトはもうこれ以上彼とは戦えなかった。
「分かってください。あいつには時間が必要なんだ。不安定な今、ストレスを掛ければ、あいつはそれに耐えられない。
次は二度と人に戻れないかもしれない」
攻撃を止めたフェイトに追撃は来なかった。ヴァイスは融合体の姿のまま、深々と頭を下げていた。
「あいつは俺が面倒を見ます。だから今は……」
「どうして? どうしてヴァイス君はそこまでティアナの為に戦えるの?」
ヴァイスも、もう戦う意思はない。ティアナを守りたいだけなのだと気付いたフェイトは、問うしかできなかった。
同僚だったとしても、仲間だとしても、二人の間にはそれ以上の何かがあると思えてならなかった。
「あいつも俺も……いや、俺が独りだと辛いからっすよ。エリオやキャロを引き取ったフェイトさんなら分かってくれるかも、と思ったんですがね……」
二人は、自分が自分であろうと、せめて人であろうともがいている。耐え難い孤独から救い、救われたいと願っている。
そんな簡単な理由にさえ、答えを聞くまで思い至らなかった。
フェイトは何も言えなくなった。またしても冷静さを失った、自らの愚かしさを痛感する。彼らは自分達が人外と化してしまったことを、誰より理解していた。
そんな彼らには、もうどんな説得も説教も薄っぺらいものにしか思えなくなった。
「フェイトさん、俺に構ってていいんですか? ゲルトの追跡に来たんでしょう?」
項垂れるフェイトに、ヴァイスの声が降りかかる。
そうだ、今優先すべきはゲルト。自分はその為に来たのだ。戦闘を続ければ、ゲルトは確実に取り逃がす。しかもヴァイスの捕獲は困難、
こちらが深手を負う可能性も高い。だからと言って、戦闘を経ても理性を保っているヴァイスを殺す理由もない。
今からではティアナを追跡しても無駄脚に終わるだろう。ならば様子を見るのも一つの手では――。
居た堪れなくなったフェイトは、思いつく限りの言い訳を並べて、
「私が見逃しても、XATは見逃してくれない……」
逃げることを選択した。
「分かってます」
「明後日には二人の顔と名前がXATに知れることになる。気を付けて……」
言い残すと、ヴァイスに背を向け、フェイトは飛び立つ。これが最後になるかもしれないというのに、彼の顔を直視できなかった。
バルディッシュからゲルトの現在位置を確認。何もかもを振り切って、意識を集中させる。自分の選択は正しかったのか、
ではどうすれば良かったというのか、いくら考えても答えは出ないと知っていたから。
ロングアーチから通信が入る。戦闘中からずっと呼びかけていたのかもしれない。今のやり取りも、当然モニターされているだろう。
はやてに何と報告するべきか、飛びながらフェイトは頭を悩ませた。
※
ティアナは一人、バイクを走らせる。向かう先は待ち合わせを約束した店ではない。吹きつける風にも負けず、
ゴーグルの下の目は前を走る三台のバイクを捉えていた。
ヴァイスに嘘を吐いたつもりはない。向かうのが少し遅れるだけだ。
やっと見つけた手掛かり。何でもいいから収穫を得て、ヴァイスに報告したかった。そうすれば、少しでも彼に認めてもらえると思った。
ヴァイスは、「お前がいると戦いにくい」と言った。その通り、自分は足手纏いでしかない。でも、
(ここで頑張れば、あたしは代わりじゃなくなる……! 足手纏いじゃなくなる!!)
せめて彼の役に立てるように。彼の前で胸を張れる自分になる為に。その思いだけがティアナを突き動かしていた。
先頭を走るのは白い風、ゲルト・フレンツェンと呼ばれていたもの。融合体となったゲルトは、街に悲鳴と混乱をばら撒きながら逃亡を続けていた。
ゲルトの後ろには二台、赤いカラーのXATアタッカーチームのバイクが食らいついている。
焦る気持ちとは裏腹に、ティアナは引き離されつつあった。ゲルトの姿と運転により交通事故は多発し、XATの二人はまだしも
最後尾のティアナは避けるだけで必死。
気持ちばかりが逸っていた時、チャンスは訪れた。
周囲の景色からビルや車が消え、目に映るのはか細い灯りと、他のすべてを塗り潰す闇。市街地を抜け、山間部に入ったのだ。
躊躇わず、アクセルを回す。本格的な山道になって道が蛇行するのは、この先のトンネルを抜けてから。暫くは直線が続く。
XATのバイクは、小型のミサイルポッドや、
その他諸々のオプションを装着しているせいか、最高速度なら軽量のこちらが勝る。乗っている隊員も、
プロテクターやサブマシンガンで武装しているなら、重量もそれなり。それをゲルト相手に、運転技術で食らいついていたのは流石と言えるが。
ともかく、追いつけるチャンスは今を措いて他にない。ティアナは限界まで加速、XATのバイクを直線で一気に抜き去る。
隊員の一人が何か叫んでいたが、聞こえるはずもない。
二台を追い抜くと、顔を打つ風が激しくなり、前方の視界が開ける。見ると、ゲルトも直線でXATと距離を開けていた。
既に限界ギリギリのティアナと違い、まだ余力を残しているのか、直線で距離は徐々に縮まる。
トンネルを目前に控えた直線も終わる。これが最後の機会と身体を屈め、空気抵抗を和らげた。
ゲルトにバイクを寄せても、ゲルトは反応しない。何かがおかしいと、理屈でなく感覚で悟る。
だが、気付いた時にはもう手遅れだった。
ゲルトの狂気に染まった瞳が、ティアナを射抜く。視線に身体を貫かれる感覚。一瞬、身体が竦んで声を出すことも忘れた。
思えば、あの庭でゲルトの姿を見た時に察するべきだった。今の彼には、近づくものすべてが敵なのだと。
動きを止められたティアナの背後から、爆音とも思える凄まじい音が響いた。急速に近づいてくる音に、ティアナもゲルトも振り返る。
「蒼の……融合体……!?」
それは、禍々しい造形のバイクに跨った融合体。黒く蒼い鎧を身に纏い、右目だけが赤い。
後部バーニアから炎を噴出しながら間に割り込み、三台のバイクは同時にオレンジの光が溢れるトンネルに突入した。
蒼と白の融合体が睨み合う。その最中、状況に認識が追い付かないティアナは動けない。正確には、速度を落とすことすらできず呆気に取られていた。
ティアナには目もくれず、蒼の融合体は掌から生み出した曲剣を、ゲルトは肩の翼に似た形状の鎌を外し、振り被る。
自らの身体の一部である双方の武器は、共に材質不明の光の刃。
幾度となく剣と鎌は交差し、その度に激しく散る火花。
トンネル内を吹き抜ける風に曝されながらも、彼らは片手でハンドルを操ることも忘れない。それだけでなく、バイクでの体当たりすらも武器として利用する。
ゲルトが鎌を振るえば、蒼の融合体は体当たりで崩す。ゲルトは突き出された剣を紙一重でかわし、足の先端から伸ばした刃で敵のバイクを斬り付ける。
その間も、何やら怒号混じりの会話を交わしていたが、ほとんど聞き取れなかった。
まさしく人外同士の死闘。とても介入できる領域ではない。だというのに、ティアナは後退しただけで、付かず離れずの距離を保っていた。
逃げようと思えば逃げられたにも関わらず。
激しい攻防も、時間にすればたかだか六十秒程度。いつの間にか、トンネルは終わりに差し掛かっていた。長いトンネルも、時速百キロをとっくに超えて
なおも加速する二台には、ものの数十秒で駆け抜けられる距離に過ぎない。
互角に思えた戦いは、意外に早く決着を迎えた。経験の差か、それともリーチの差か。蒼の融合体は掌から鞭を伸ばして、
鎌を絡め取る。その隙に、左手に持ち替えた剣でゲルトの手から武器を叩き落とした。
衝撃でスピンしたゲルトは、バイクとの融合により姿勢を立て直し、大きく後退。ティアナの横に並んだ。
その瞳は、感情の読み取れない怪物の瞳。だが、ティアナには確信できた。間違いなく、ゲルトはこちらも攻撃してくると。
この状況を逃れるには、速度を上げるしかない。しかし、それは不可能。トンネルを抜けてすぐに、道は左カーブを描いている。
ティアナが走っているのは、トンネルの壁際だ。カーブの内側をなぞる形になるが、左はゲルトが押さえている。かわそうにも、
ゲルトならともかく、とても速度を落とさずして抜けられるカーブではない。
オレンジの光は消え、眼前には再び闇が広がる。その時初めて、ティアナはゲルトの声を聞いた。過去には憧れさえしたチャンプ、
ついさっきまでは希望の欠片だった人、その第一声を。
「デモニアックめ! 死ねぇ!!」
それは怨嗟の叫び。同じ融合体だと見抜いているわけではないだろう。
昨日、雨の中震えていた自分と同じ。目に映る者すべてが融合体に見えてしまうだけで。
分かっていても、その言葉は深く胸に突き刺さった。
「違う! あたしは融合体なんかじゃ……」
「何をしている! 前を見ろ!」
ゲルトに気を取られていたティアナは、融合体の言葉にはっとなる。
目前に迫るガードレール。
全力でブレーキを掛け、レールに対して車体を平行に近づけようと試みる。瞬間、ゲルトのことは、完全に頭から消えていた。
(駄目! 曲がりきれない!!)
ガードレールの向こうは切り立った崖。落ちればまず確実に命はない。
急ブレーキにマシンが悲鳴を上げる。転倒してもいい、落ちるよりはましだ。
最悪、バイクを捨ててでも――そう考えてハンドルから手を放そうとした。
だが、放せなかった。勝手な行動をした挙句、バイクを落として壊せば、ヴァイスに二度と顔向けできない。
幸い、衝突時に自動で防護フィールドを発生させる機能がある。もしかしたら落ちずにすむかもしれない。
ティアナが減速しきれず、ガードレールに激突する瞬間、
「落ちろ、デモニアック!!」
衝撃は両側から襲ってきた。左からの激しい体当たりで、バイクごと身体が押し出される。潰れるかと思うほどの衝撃は、
フィールドが少しだけ和らげてくれたが、先にガードレールが限界に達した。
ティアナは息を飲んだ。悲鳴を上げようとしたが、声が出せなかった。
ゲルトが自分を落とすだけでなく、急カーブを曲がる為の緩衝材にしたのだと、気付いた時にはもう、身体は宙に浮いていた。
「ぁああああああぁぁぁぁ!!」
下は完全な闇。やっと出た悲鳴も吸い込まれていく。
幽かに見えるのは、ほとんど木も生えていない剥き出しの山肌。とてもバイクで下れる角度でも高さでもない。
これからそこへ落ちるのだと想像して、気が遠くなりかける。
「ハンドルから手を放すな!!」
声が聞こえた。
くぐもって響く男の声は至近距離から。顔を向ける余裕はなく、ただ声に従って全身でバイクにしがみつく。
不意にガクンと落下速度が落ち、姿勢制御が働く。オートジャイロが作動したのだ。
だが、それしきでは落下を止めるには至らない。
接地の瞬間、軽減されたとはいえ、強烈な衝撃が身体にも伝わった。バイクは、ガリガリ地面を削りながら滑り落ちる。
茂みを突き抜け、木にぶつかり、なおも速度は衰えない。
ティアナは目を固く瞑り、しがみつくのに専念していた。
思いの外、衝撃が少ない。今のところフィールドが正常に動作しているのかと思ったが、それにしてもおかしい。
岩にでも当たればフィールドを貫かれ、良くて重傷、最悪爆発しても不思議ではないのに。
ティアナはゆっくりと目を開き、そして大きく見開いた。そこにいたのは蒼の融合体。彼は下からティアナのバイクを支えながら、
一緒に滑落していたのだ。
大きな木が横を通り過ぎた瞬間、融合体の右手から伸びる光の鞭。鞭は大木に絡み付き、軋ませながらも外れることはない。
傾斜は緩やかになり、周囲には木も増えている。これならもう大丈夫だろう。
やがて、二台のバイクは、木々の間に引っ掛かって止まった。
呼吸できるようになったティアナは、溜め込んだ息をすべて吐き出す。心臓の動悸は激しく、まだ命を拾ったという実感が湧かない。
胸を押さえる手は小刻みに震えていた。
だが、これで危機は脱した。ようやく一息つける、足元にいる融合体のことも忘れてそんな事を思ったのだが――。
「あぐっ……ぁああ!?」
「おい! どうした!?」
直後、割れるような頭痛が走った。
瞼の裏でチカチカと明滅する花火。
紅に染まる視界。
遠くから近付く甲高い耳鳴り。
駄目だ、この音、この色は――この感覚は危険だ。
抱き締めた身体が瘧のように震え、歯の根が噛み合わない。
込み上げる悪寒と吐き気。噴き出る汗は、自身の内側で生まれている"何か"の熱と、それに対する恐怖によるもの。
フラッシュバックするゲルトの瞳。ガードレールを突き破った時の浮遊感。五感に染み着いた恐怖がまざまざと蘇る。
「ぁあたしは……ゲルトにぃ……!」
絞り出した言葉も呂律が回らない。最も恐れていた瞬間が訪れたのだと、気付いた時にはもう、ブレーキは壊れていた。
機能する思考が逆に恐怖を加速させ、自我の崩壊を煽る。だがそれすらも、じきに焼き切られるのだろう。
自分が自分でなくなる。
心まで化物に染まってしまう。
背後から、何かが忍び寄ってくるような感覚。両手で頭を掴み、髪を振り乱しても"それ"は振り切れず肩を叩く。
「なのはさん! スバル!」
恐怖に耐え切れず、ティアナは愛しい者達の名を叫ぶ。だが、誰からも答えは返らない。
それどころか、浮かんだ顔は次々に流れて消えていく。
まるで走馬灯。
フェイト、ヴィータ、キャロ、エリオ、なのは、スバル――思い出そうとしても、もう思い出せない。
「どこですか、ヴァイス陸曹! あたしは……あたしを……!」
助けてください――!
叫ぶティアナの肩を正面から掴むのは、ヴァイスではなく見知らぬ男だった。彼は何かを叫んでいたが、そんなことはもうどうでもいい。
背後から這い寄る何かに抱き締められると、あらゆる音は消え、男の姿も融合体に変わる。
思考が掻き消される直前、脳裏に浮かんだのは、なのはでもスバルでも、ヴァイスでもない。今は亡き兄、ティーダの顔。
消えゆく意識の中、ティアナは気付いた。気付いてしまった。
(あたしも、ヴァイス陸曹と同じ……ずっと求めていた。探していた。本当はあの人を置き換えていただけ……)
「兄……さん」
縋り、依存できる対象。どうしようもなく辛くて、苦しくて、悲しい時、傍にいて支えてくれる兄の代わりを。
※
変異を解除、人間に戻ったジョセフは少女の肩を掴んで揺する。だが、少女は低く唸るばかりで反応がない。
「しっかりしろ! お前まで堕ちる気か!!」
「これ以上は危険よ。離れた方がいいわね」
そう言ったのは、『ガルム』から投影されたホログラムの少女、エレア。だが、ジョセフは彼女の忠告に耳を貸さなかった。
ひたすら無視して肩を揺すり続ける。
一際強く振った少女の首が、ぐるんと起き上がる。
どろりと濁った瞳に渦を巻くのは憤怒と狂気、憎悪と恐怖。
彼女の顔面に、無数の赤い光の筋が浮かび上がった。食い縛った歯の隙間から、だらだらと涎を零す様は、
さながら飢えた狂犬そのもの。
それらはまさしくデモニアック化の兆候。彼女が自分と同じ存在であることを示していた。
「やはりそうか……!」
少女の反応からそれしかないとは考えていたが、これは危険な状態だ。空虚だった少女の瞳に徐々に光が戻る。
しかし、それは狂気の光だった。
「あぁぁああああ!!」
少女の声は奇妙にくぐもって響いた。
肩に掛けた腕が振り解かれる。目の前の少女は、完全に理性を失っていた。
半ばデモニアック化しているのだろう。でなければ、強く掴んだ手を解けるわけがない。
「おやりなさいな、ジョセフ。その娘はもう堕ちているわ」
「止まれ! お前はそれでいいのか!? 心まで化物になっても!!」
エレアを遮るように、声を大にして叫ぶ。
エレアの忠告は、果てしなく残酷で正確。だからといって納得はできない。まだ間に合うと信じたかった。
少女が人間離れした速さで腕を振るう。突き出される貫手。だが、ジョセフは避けなかった。
左肩に肘まで覆う黒いグローブの右手が突き刺さる。彼女の四肢の末端は既にデモニアック化していた。
「ジョセフ! 貴方こそ、こんなところで終わっていいの!?」
「くっ……黙れ、エレア!!」
腕が肩を抉る度に、エレアの警告が飛ぶ度に、思考が逆に澄んでいく。
自動で防御行動を取ろうとする身体。変異して敵を排除しろと叫ぶ本能。抗おうとする肉体を、意志の力で捩じ伏せることができた。
ずぶずぶと肩に食い込む少女の腕を握る。第二関節まで埋まっていた指をゆっくりと押し戻すと、指が肉の中で暴れた。
「ぐぅぅ……がぁああああ!!」
痛みを堪え、一息に指を引き抜く。鮮血が舞い、少女の髪と顔、服にまで赤い斑点が散る。
引き抜いた指は赤く染まり、むしり取られた肉片から垂れる血が、少女の腕を伝った。
「落ち着け……! ゆっくり深呼吸しろ。自分の本当の姿と名前を思い出すんだ」
追撃は来ない。少女は、手首まで血に染まった自分の手を呆然と見つめていた。
まだ間に合う。おそらくは、それが彼女の記憶を呼び覚まそうとしている。
ジョセフはなおも呼び掛ける。彼女の心まで沁み入るよう、落ち着いた声音で。
「あたし……あたしは……」
「ゆっくりでいい、思い出せ。お前にも大切な人間がいるだろう。それはお前にとってどんな存在だった?」
変貌する前と同様に、少女の身体が震えだす。だが、もう不安はない。
上気していた顔はみるみる青褪め、狂気に染まっていた瞳に光が戻る。
「あぁ……あぁぁ……!」
少女は、か細い声で嗚咽を漏らす。溢れだした涙が零れ落ちて数滴、手に落ちる。しかし、その程度では
彼女の手を染めた血は流れ落ちるはずもなかった。
血に塗れた手でジョセフの胸倉を掴んだ少女は、首を差し出すように胸に頭を預けて、すすり泣く。
「ごめんなさい……あたし、なんてことを……」
何度も何度も、同じ謝罪の言葉を繰り返しながら。
ひとしきり泣くと、彼女の身体がふっと脱力した。コートを掴んでいた腕が外れ、少女がジョセフの胸に崩れ落ちてくる。どうやら気絶したらしい。
ゲルトとのチェイスから連続して緊張状態にあったのだ。心身の疲労が限界に達したのだろう。
「まったく……人騒がせな女だこと」
嫌悪感も露わに呟いたのはエレア。擁護したところでAIの彼女は納得しないだろうし、事実でもある。あえて否定はしなかった。
ジョセフは無言で少女を担ぎ上げた。元々不安定な状態に加え、極度の緊張と恐怖が引き金になったのだろう、すやすやとよく眠っている。
だが、それも長くは続かないだろう。
過酷な現実にすり減らされた精神は、悪夢にうなされ安眠すら許さない。結局のところ、
彼女を安定させるものが見つからない限りは、いつ壊れてもおかしくないのだ。
「ボロボロね」
エレアの言う通り、少女のバイクは勿論、ガルムですら無数の細かい傷が刻まれていた。今この場において、傷ついていない物も人も存在しなかった。
「まったくだ。だが、この程度で壊れはしないだろう」
「ガルムじゃないわ、あなたよ。だいいちあなた一人なら大丈夫だったでしょうに。いいえ、そもそも落ちたりなんてしなかったわ」
「放ってはおけなかった」
ここぞとばかりに毒づくエレアは、いつになく饒舌。今回はかつてない綱渡りだったので、彼女が不審がるのも仕方なかった。
「甘いわ、ジョセフ。おかげであなたまで死にかけたじゃない。そんなんじゃ私の忠告も余計だったわね。あなた、どうしてそこまでして彼女を助けるの?」
「いや、お前には感謝している」
延々続きそうなエレアの説教を一言で遮る。すると、エレアは目を丸くして首を傾げた。
「あら、どういう風の吹きまわし?」
「さあな」
彼女らしくない、その仕草が無性におかしくて、釣られてジョセフも微笑む。
エレアが冷徹な言葉を投げ掛けなければ、或いはこの少女を斬っていたかもしれない。常に冷静で合理的な判断に導くエレアがいてくれたからこそ、
人としての意地と直感を貫けた。
空を見上げると、落ちてきた道路は視認できなかった。随分落ちたものだと思う。下れる高さではないにせよ、XATも向かってきているだろう。
「ここを離れよう。エレア、ガルムを頼む。俺はこいつで行く」
赤いバイクを起こし、状態を確認するジョセフ。彼女だけを空中で拾うのは難しいと判断してバイクごと支えたが、結果的には良かった。
あちこちの塗装が剥げ、カウルに痛ましい傷は残っていたが、エンジン、タイヤ共に問題ない。主を守って傷を負い、なおも戦おうと吼える、良い乗機だ。
「捨ておけばいいじゃない」
「証拠を残してはいけない。足がなければ、彼女も困るだろう」
「相変わらず甘いのね。まったく……美しくないわ」
もう何度聞いたか分からない言葉を聞き流しながら、ジョセフは少女を両手で抱え、バイクと融合。静寂に包まれた明かり一つない獣道を、
二台のバイクは走り出した。
※
夕方から夜に掛けて半端に眠っていたせいか、一睡も出来なかった。時計を見なければ時間の感覚すら曖昧になる。
たった二日、生活リズムや環境が変わった程度で疲弊するほど、やわな身体ではない。スバルの想像以上に、この身体は頑丈だった。
時刻は六時二十分。空気は澱み、堂々巡りする思考も、ついには停止した。寝転んで呆然と壁を見つめる。ただ、時計の針だけが動いていた。
何度考えても答えは出ない。ティアナと戦わずに彼女を救う方法が見つからない。こんなことしている間にも、
彼女がXATに狙われているかもしれないのに。
扉に向けて横たわっていたスバルに、唐突に声が降ってきた。
「スバル……起きてる?」
停滞していた空気と思考に、数時間ぶりに変化が訪れた。
顔を覗かせた人物はフェイト。顔色も悪く、昨日の朝よりもずっと憔悴した顔をしていた。
「フェイトさん……?」
立ち上がって顔を突き合わせると、フェイトの顔は一瞬強張り、ハッと息を呑む。スバルは自分の顔を撫でてみた。
そんなに……酷い顔をしているのだろうか。
数秒の沈黙。スバルが切り出すタイミングを掴めないでいると、フェイトが疲れた声で話し出した。
「ごめんね、こんな早くに……でも、スバルには伝えておきたくて。また、すぐに仕事に戻るから、その前に少しだけ……」
「何……でしょうか?」
「昨日、ティアナに会ったよ。でも……話は出来なかった。二人は、もう帰れない……」
「え……?」
寝惚けた意識が一瞬で覚醒、さぁっと血の気が引く。この時スバルは、疑問符を発するだけで精一杯だった。
フェイトはスバルから目を背け、ぽつり、ぽつりと語る。一つ話すごとにフェイトの顔が曇っていくのが分かった。きっと自分も同じ顔をしているから。
フェイトがゲルトの追跡中、ティアナとヴァイスを見つけたこと、ティアナを逃がそうと立ちはだかったヴァイスと戦い、倒せず見逃したこと。
そしてゲルトを追ったティアナが、凶暴化したゲルトによって崖からバイクごと突き落とされたこと。
「そんな……ティアは!? ティアは無事なんですか!?」
「分からない……私はXATから伝え聞いただけだから。ただ、特徴から言っても確実にティアナだと思う。落下したと思しき付近からは、
バイクなどの証拠は発見できなかった。だから、多分ティアナは死んでない」
だからといって安心はできなかった。ゲルトが何らかの理由によって凶暴化したとなれば、同様の存在であるティアナとヴァイスも、ただでは済まない。
待っているのは、保護なんて生易しいものでないことだけは確かだ。
もう一つは、二人もゲルト同様、何らかの切欠で豹変する可能性があるということ。
即座に結論は導き出された。しかし何もできない。ここで指をくわえているしかない。二人はもう戻れない、戻らないと決めたのだ。
俯くフェイトは、そんなスバルの表情にも気付いてない。
「ゲルトはティアナの落下地点から更に先のカーブでトラックと接触。ガードレールを破って崖から落下、爆発。
バイクの残骸は残ってたけど、やっぱり死体は発見されてない」
「どうして……?」
悔しくて、歯痒くて、この気持ちをどこかにぶつけなければ、おかしくなってしまいそうで。そんな言葉が無意識に口を衝いていた。
頬を温いものが伝う。一度堰を切った涙は、自分の意志では止められなかった。ドアに手をついて下を向くと、
零れた涙が滴って床に染みを作った。
「スバル……?」
「どうしてあたしにそんなこと話したんですか? それで、あたしにどうしろって言うんですか? ティアがどんなに苦しんでいても、
あたしにはどうしようもできない。自分がどうすればいいのかも分からないのに……」
ヴァイスがティアナを守っている。今となっては、それだけが唯一の希望。
しかし、ヴァイスと逸れたとしたら――無駄と知りつつも考えずにいられない。ヴァイスと合流できたのだろうか。怪我はしていないのだろうかと。
(ティアはこんなに……ううん、もっともどかしい思いをしてたんだね……。動きたいのに動けない……誰かを待ってるだけが、こんなにも辛いなんて……)
フェイトは泣き出したスバルに面食らい、たじろいでいたが、すぐに立て直し毅然と顔を上げた。
「それはスバル自身が決めることだよ。状況は常に動いてる。なのはに課せられた宿題……何も知らないで答えは出せないし、出しちゃいけない。
だけど、どう受け止めるか、どんな答えを出すかはスバルの自由」
突き放された。スバルは、そう思った。
言うだけなら簡単だ。親友が傷ついているのに、こんなところで足踏みするしかない歯痒さが他人に分かるものか。
第一なのはの言う宿題だって何の意味があるのか、さっぱり分からない。
苛立ち混じりの抗議の視線を、フェイトはなのは同様、正面から受け止め――逸らした。
「ごめん……本当はそれだけじゃない。誰かに吐き出したかった、聞いて欲しかったのかもしれない。私は土壇場で迷っちゃったから……」
フェイトは両手で身体を抱いて、震えていた。胸には様々な想いが巡っているのだろう。
それはフェイト自身にしか分からず、スバルには想像するしかできなかった。
「二人は自分達の為に、私達の為に決別したの。だから私も覚悟を決める。XATとの協議の結果次第では、私も二人を斃す。
たとえ二人が正気だとしても、危険があるのなら。だから……それを確かめたかった」
何かを振り切るような素振りで、フェイトは顔を上げる。その目にはもう、迷いは見られなかった。
なのはも、シグナムも、フェイトも、みんな一人で答えを出して歩いていく。答えを出せない者は置き去りにされ、その横には並べない。
「ヴァイス君のいうことも分かるよ。誰だって独りは辛い。死にたくなんかない。でも……だからって……」
答えを出せない者に、他人の決定に異を唱える資格はない。それ故、スバルは黙って項垂れるしかなかった。
「融合体になった人も被害者なのかもしれない。でも傷つけられた人は? 殺された人の家族や周りの人は?
その痛みは、怒りは悲しみは苦しみはどこへ向ければいいの?」
「それは……」
「私は……エリオがティアナに撃たれたって聞いて頭が熱くなっちゃって、いきなりティアナに斬りかかりそうになった。殺そうとしたってわけじゃない。
でも、何があったのかティアナの口からはっきりと聞いて、エリオに謝ってもらいたいって……」
「でも……それじゃティアの気持ちはどうなるんですか? それは片側にだけ立った、偏った意見じゃないんですか……?」
「そうだよ。私達はもう、第三者じゃいられない。感情を交えず、冷静に判断を下すなんてできないかもしれない」
シグナムの話を聞いて初めて考えた、立つ位置で抱く感情の相違。
人と融合体。間に立たされたティアナとヴァイス。
なのはの宿題の意味が、今やっと分かった。
「じゃあ、あたしはどこに立てばいいんですか……? ティアが……ティアが失明したのは、傷ついたのは、あたしのせいなのに……」
「ごめん、こんなんじゃ隊長失格だよね……だから、今の言葉は隊長としての言葉じゃない。
傷つけられた人の家族の想いとして受け取ってほしい」
――あたしはティアを仲間だと思ってます! たとえ、なのはさんにとってティアがもう融合体でしかなかったとしても!!
昨日の朝、なのはを激昂させたやり取りを思い出す。これまで、なのはを怒らせたのはこの部分だとばかり思っていた。でも違った。
――他の融合体を殺してきて、それが仲間だったら助けたい。それは残酷じゃないの!?
――それはいけないことですか!?
なのはを一番怒らせたのは多分、最初の言葉。あの時は何も考えず、感情に任せて口走っていた。
間違っているとは思わない。しかし、局員としてあまりに軽はずみな、少なくとも勢いで開き直っていい言葉ではなかった。
「それじゃあ、帰るね。また一緒に、とは言わないけど……待ってるから。どんな形でも」
フェイトはしっかりとした足取りで去っていった。残されて、再び一人になったスバルは、握った拳をドアに叩きつける。
フェイトはいい。一人で決意を固めて、一人で振っ切って、それで満足かもしれない。
現状は何も変わらず、焦燥感は増すばかり。思考はますます迷路に迷い込む。
スバルは苛立ちと不安をドアに叩きつけ、無力感を噛み締めていた。
残り時間、約十五時間二十分。
※
朝靄が立ちこめる公園のベンチに腰かける男女。早朝の公園も、ジョギングをしている若者や老人など人がいないわけではないが、
彼らにはよくいるカップルとしか映っていないだろう。
「気分はどうだ?」
ジョセフは、隣に座る少女の肩にコートを掛けた。少女の名はティアナ・ランスター。知ったのは、つい二、三時間前のことである。
「ありがとうございます……もう大丈夫です」
小さく、消え入りそうな声。赤く泣き腫らした瞼が重たげに上下している。
あれからティアナは一時間ほどで目覚め、それ以降は眠っても等間隔で悪夢にうなされ、強制的に覚醒させられていた。
とても、まともに眠ったとは言い難い。
どこか横になれればいいのだが、足がつくことを考慮すれば、これが精一杯だった。落下した現場からは二時間走ったが、
ここも安全とは限らない。傷だらけの二台は隠してあるし、人に紛れていれば、そうそう怪しまれはしないだろうが。
「無理をするな。もう少し休んでいろ」
ティアナは小さく頷くと、ジョセフの肩を枕に頭を預けてくる。吐息が掛かるくらいの至近距離。一見仲睦まじくも見える光景だろうが、
本来なら誰であれ、ここまで接近は許さない。
ジョセフは、好奇の視線を向けてくる周囲を視線で牽制、警戒しつつ遠くを見つめた。
ティアナは目を覚まして最初に、傷だらけになった自分のバイクに手を当て、涙ながらに何度も『ヴァイス陸曹』なる人物に謝っていた。
事情を聞くところによると、ティアナは時空管理局の武装局員であり、二日前にブラスレイターに覚醒したばかりだそうだ。
デモニアックとの戦闘で失明、入院していた彼女の病室を訪れたのは、匂い立つ妖しい色香を纏った女。
女に目が治ると吹き込まれ、ティアナはカプセルを口にした。
当然、光を失っていたティアナは顔を見ていない。だが、ジョセフは確信していた。
女の名はベアトリス――自分の追う人物の一人である。そして、その背後には必ず"あの男"がいる。
(どこまで無関係な人間を巻き込めば気が済むんだ、ザーギン……!!)
思い出しただけで怒りが煮え滾り、表情が歪む。隣にティアナがいることも忘れていた。
「あの……大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ。すまなかった」
ジョセフは顔を押さえて首を振る。
デモニアックの恐ろしさは、怪物染みた容姿でも、人を超えた力でもない。感染力である。
感染は血液、体液、傷口から空気を介しても広がる。些細な接触であっても、他人をデモニアックに変えてしまう。
この身体は誰かと触れ合うことができない。それが"ブラスレイター"と呼ばれる存在。
並のデモニアックを凌駕する力を持つが、理性を保っていても、怒り、憎しみ、諸々のストレスを引き金に、理性は容易く崩壊する。
幻覚、幻聴に苛まれ、被害妄想や強迫観念が頻繁に襲い来る。感情を強い意志で制御できない人間から、
デモニアック以上の怪物へと変容する。さしずめ綱渡りの如く危うい、出来損ないの生物兵器。
ティアナの言うヴァイス陸曹ことヴァイス・グランセニックは、彼女に二週間先駆けてブラスレイターに覚醒していた。行き場を失い、
暴走しかけたティアナを止め、面倒をみているのも彼だった。
ジョセフも、ヴァイスとは一度だけ面識がある。同じく二週間ほど前、血の海で呆然としていた男を拾い上げた。
男は時空管理局の人間で、ヴァイスと名乗っていた。
それから二、三日行動を共にした。その間に自身の置かれた状況を理解し、目的も見つけたらしい。ならば一緒にいる必要はないと別れたが、
あの時助けた男が今、ティアナを支えている。何とも奇妙な偶然だった。
最終更新:2010年08月03日 00:36