「お前達なら可能かもしれない。たとえ傷の舐め合いでも、共に生きていけるなら或いは……」
堕ちずにいられるかもしれない。
ジョセフは無意識に口を開いていた。自分が心の拠り所とするものに、彼女と彼の未来を祈らずにはいられなかった。
「どういう意味ですか……?」
「いや、何でもない。起きたらその男を探す。見つかるまでは、俺も付き合おう」
待ち合わせの場所にまだいるかどうか分からないが、ヴァイスを探し、ティアナを託すまでは傍にいないと、危なっかしくてしょうがない。
ふと隣を見ると、ティアナが縋るような視線を送っていた。
「あなたは……どうするんですか?」
「俺は一人でいい。俺には……やらなければならないことがある」
「そう……ですか」
ジョセフが決意も新たに宣言すると、ティアナはやや残念そうに目を閉じた。
これでいい。人数が増えれば、逃避行も気が楽かもしれない。
だが、それはジョセフが望むものではなかった。それに、自分の戦いに彼らを付き合わせるわけにはいかない。
ジョセフはふと歩んできた旅路を振り返る。何故、こうまでしてティアナを助けるのか。自分でも曖昧だったが、
おそらくティアナは似ているのだ。
ずっと一人で旅を続けてきた。その途中でたった一人、短期間だが行動を共にした少女がいた。雪のように清らかで純真な少女だった。
戦いに巻き込まれ、すべての住民が死に絶えた村から一人だけ助け出した彼女は、偶然にも浴びたジョセフの血液でブラスレイターに覚醒した。
彼女の変異した姿を見る度、激しい罪悪感と自己嫌悪が湧き上がった。彼女を穢してしまった罪に苛まれた。
その姿は己が罪の証。
無垢な少女を人外に変えた罪は耐え難く、彼女が一人で生きられると思ったある日、黙って姿を消した。
だからこそティアナと少女、ヴァイスと己を重ねているのだろう。
もしも自分の目的がティアナ同様、日常への帰還だったなら。人として、誰かと触れ合って生きることだったなら。
あの時は少女を置き去りにしたが、もしもあの時逃げずに向き合っていれば、彼女を支え、支えられる今が、共に生きる未来があったかもしれないと。
ブラスレイターとなった者が唯一触れ合えるとしたら、それは同じ身体となった者同士。故に、ティアナとヴァイスには救われてほしい。
同時に、互いを必要とし求め合える二人が、少しだけ羨ましかった。
※
「それってどういうこと!?」
朝の機動六課ロングアーチに、なのはの怒声が響いた。対面には申し訳なさそうに顔を伏せるフェイト、その隣には着席したはやて。
「まあまあ、なのは隊長。フェイト隊長が独断で行動したのは軽率やけど、判断は間違ってなかったと思う。
結果は、まあ……思わしくはないけど。せやから少し落ち着いて、な?」
「あ……うん、ごめん」
はやてが宥めると、なのはも平静を取り戻したのか大人しくなった。
仮眠から目覚め、ロングアーチに顔を出したなのはが昨夜の報告を受けたのは、つい今しがた。驚くのも無理からぬことだった。
脱走したゲルトを追跡に向かったフェイトは、ティアナとヴァイスに遭遇。ティアナを逃がしたヴァイスと戦闘に陥るも、ゲルト追跡を優先する為に、
やむなく見逃した。しかし、ゲルトを追跡していたティアナは、ゲルトの攻撃を受けて崖から転落。ゲルトはトラックと接触、同じく転落。両者とも消息は不明。
結果だけ見れば散々なもの。二兎を追う者一兎をも得ず、そんな諺がピッタリ当てはまる。
では、どうすればよかったのか。そう聞かれても、答えあぐねていただろう。ならば仕方がないと、はやては考えていた。
「どっちもおそらく生きてる。第三者が片付けでもせぇへん限り、バイクの残骸と塵化した死体が残るはずやから。問題は、二人が戻る気はないってことやね」
なのはとフェイトの表情に影が差した。思えば、自主的に出てこない時点で気付くべきだったかもしれない。
「ねえ、はやて。実際どうなの? XATは本気でヴァイス君が警戒してるようなことをするのかな?」
「あり得ないことではないと思う、としか言えへんな。私の情報網でも、その辺は……けど、昨日百人超の死傷者が出たばっかりや。
利用できるものは何でも利用していかんと、ってのはあるやろうな……」
「だからって人体実験だなんて……」
なのはが苦々しげに呟く。
なのはもフェイトも、他者には量りかねる想いを抱えている。それはきっと、想像するしかできない。
全員が押し黙る重苦しい雰囲気を変えようと、はやては両手を叩いた。
「憶測だけで語ってもしゃあない。さあみんな、各々の仕事に戻ってや。私達が追うのは融合体だけやないんやから」
「そうだね……私、シャーリーにガジェットの解析頼んでたんだ。行ってくる」
「フェイトちゃん……休まなくて平気? 昨日、ほとんど寝てないんじゃ……」
「大丈夫だよ。それより、スバルが心配……。今朝もショック受けてたみたいだし、あれじゃ本当に潰れちゃうかも……」
フェイトがなのはに視線を送り、はやても同様に視線を追う。言うまでもなく、なのはに対する無言の抗議だった。心構えは大切だが、
戦力不足は如何ともし難く、そこはなのはも分かっているはず。
不満そうにしていたなのはだが、少し考え、
「……スバルの答えを聞いて考える。ちゃんと二人にも相談する。それじゃ駄目かな……?」
「ま、そういうことなら、今日あたりあの娘が行くはずや。昨日から、なんやかんや考えてみたいやし。
スバルが落ち込んでるなら、何かしらヒントを与える気やと思う。腑抜けてるなら喝も入れてくれるはずや。行き過ぎて、殴り掛からへんかが心配やけど……」
三人、顔を見合わせて頷く。
今はスバルを信じて待とう。必ず、答えを出して立ち上がってくれると。
今自分がすべきは、ゲルトとティアナ、ヴァイスの動向を知ることだ。となれば、秘密の情報源と連絡を取ってみるべきか。
XATの捜査状況は逐一報告が入るわけではなく、六課とXATでの共有もできていない。それ故、現場の正確な情報は掴み辛いのだ。
思い立ったはやては、ロングアーチを出ていく二人の後を追う。手に携帯端末を握り締めて。
※
スバルは眠ることを諦め、数時間同じ姿勢で止まっていた。動くのも億劫で、言葉一つ漏らさない。
ただ灰色の壁にもたれ、灰色の壁を見つめていた。
「おい……スバル……」
不意に名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。ドアに目を向けるが、覗き窓には誰の姿もない。
気のせいだった。とうとう幻聴まで聞こえるようになったかと思っていると、
「スバル! 聞いてんのか!?」
静まり返った独房に、突然の怒鳴り声が響く。ビクン、と身体が跳び上がりそうになった。
それは記憶に刻みつけられた、幼くも厳しい声。懐かしさすら感じる、以前は毎日のように聞いていた声。
覗き窓に小さな身体が飛び跳ねて、目と目が合う。一瞬のうちに目は大きく見開かれ、つり上がった怒りのそれに変わり、見えなくなる。
見えなくても、向こう側でどんな顔をしているか、容易に想像ができた。
赤い髪、赤い魔力光、燃える炎を宿した激情の色。幼い容姿に秘められた力の強大さは、痛いくらい身を以て知っている。
「てめぇ……それがあたしの話を聞く態度か?」
「あの……ヴィータ副隊ちょ――」
ドアが思い切り蹴られた。昨日の朝、なのはが殴った時よりも高く大きく、反響音が独房にこだまする。
頭がくらくらしそうな残響。それをも掻き消す大声で、ヴィータが怒鳴った。
「顔洗ってこい、スバル!!」
「は、はい!!」
足を縺れさせて、逃げるように洗面台に駆け寄る。
鏡に映る顔に、スバルは絶句した。髪はボサボサ、目元には隈ができ、くたびれ、やつれた雰囲気が、顔中で腑抜けを体現している。
「ははっ……酷い顔してる……」
自嘲するスバル。乾いた笑みを浮かべる顔には、不快感と情けなさしか湧かなかった。
なるほど、ヴィータが怒るのも当然だった。朝、フェイトの様子がおかしかったのもこのせいだろう。
蛇口を捻ると、流水の冷たさが手に心地いい。だが、まだだ。
こんなものでは足りないと、掬った水を力一杯顔に叩きつける。惚けた頭が冷えていく実感。髪を振って水滴を散らす。
二度三度と繰り返すと、その度に淀み濁っていた自分が流れていく。止めに頬を叩いて一喝。
鏡を見ると、ようやくいつものスバル・ナカジマが、そこに立っていた。
「お待たせしました、ヴィータ副隊長!」
凛とした声で、ヴィータのもとに帰るスバル。どんな姿勢で話そうか考えた挙句、おもむろにドアの前に正座した。
ヴィータの背丈ではジャンプしないと覗き窓には届かない。それ故、ヴィータに見咎められるのを恐れて畏まったのではない。
何となく気を引き締めたい気分だったからだ。
「あ~、その、なんだ。なのはから言われた例の件、答えは出たのか?」
「いえ……それが、まだ」
ヴィータは、どことなく気まずそうな調子だった。正直に答えると会話が途切れ、沈黙が漂う。
話してヒントをもらおうにも、何を話せばいいのかも分からなかった。
十数秒の沈黙を先に破ったのは、ヴィータだった。
「あたしも、なのはと大体同じ考えだ。いざとなったら、二人を殺さなきゃならないって考えてる」
「はい……」
「けど、なのはとは、ちょっと違う」
「え……?」
スバルは思わず顔を上げた。普段の厳しいヴィータからは想像だにしない答えだった。
「あたし達は、ティアナにもお前にも、いろんなことを叩き込んできた。成長に合わせて、
その時々に渡せる全てを注ぎ込んできたつもりだ。お前らはちゃんと付いてきた。傷だらけになっても、食らいついてきたじゃねぇか」
訳が分からない。確かにヴィータの訓練は苛烈で厳しく、幾度となく叩きのめされた。しかし、それとこれと何の関係があるのか。
「エリオから聞いただけじゃ断言はできねぇけど、あたしはティアナが戦い方を覚えてたんじゃねぇかって思う。
それを聞いた時……あたしはちょっとだけ嬉しいと思っちまった」
「でも……ティアは、それでエリオを殺しかけたんですよね」
「でも、エリオもお前も死んでねえ。偶然があったにしろ、な。エリオの話じゃ、ティアナは完全に理性を失ってたにも関わらずだ」
エリオはともかく、ティアナが自分を殺すチャンスはいくらでもあった。エリオの戦いの状況は詳しくは知らないが、
ただの融合体の戦い方では、あのエリオを下すことなど不可能に近い。
「あたし達が教えたのは、必ずしも人を殺す技術じゃねぇ。だから一発目から急所は狙わない。エリオの話聞いた限りじゃ、
最初から頭でも心臓でも撃つチャンスは十分にあった」
心が忘れても、身体は覚えていたというのか。何百回何千回と反復した動き、身体に染み着いた戦技を。
身体の記憶が心に作用する。果たして、そんなことがあり得るのだろうか。だが、信じたい気持ちも確かにあった。
「あたしも……あたしもちゃんと覚えてます。なのはさんとヴィータ副隊長に教わったこと、たとえ忘れたくても、絶対忘れられません」
「そういう風に仕込んだし、お前らも何度も自主練した確かなもんだ。そこに賭けてみる価値はあるかもしれねぇ」
「はい……!!」
これまではどうすれば戦わずに済むのか、としか考えていなかった。戦闘に陥ったら、もう殺すか殺されるかしかないと。
スバルにとって融合体とは、そういう生き物だったから。
しかし、戦いの中でこそ分かり合う術があるのかもしれない。戦いを避けず、敢えて挑むことで取り戻せる可能性がある。
突然、目の前が開け、一筋の光明が見えた気がした。
「でも、力づくで抑えようとすれば跳ねっ返りも大きいってことは忘れんなよ」
スバルは黙って拳を握り締めた。握った拳の力強さを感じながら何度も頷く。
ずっと訓練校から一緒だったティアナ。共に成長してきたティアナ。二人を繋いでいるのは単なる友情じゃない。
繋いでいるのは、時に背中合わせに戦い、時に背中を預けてきた信頼。
だとすれば、なのは達のように戦いながら分かり合う道もあるはず。この身体に刻まれた絆を信じられるなら、きっと。
黙り込むスバルに、ヴィータは照れ臭そうに続けた。顔は見えないが、きっとこれ以上ないくらい朱に染まっている。
「あーあ、普段あいつに過保護だ――なんて言ってんのにな。なのはが今あんなだから、
あたしが"飴"をやることになっちまった。こんなこっ恥ずかしいこと、面と向かっちゃ言えねぇ」
「なのはさんが……」
「ティアナのことは、あいつなりにずっと責任感じてんだよ。あいつはな、スバル。もしもティアナを殺すようなことになっちまったら、
多分全部終わった後、局を辞める。直接聞いたわけじゃねえけど、付き合いも長いからな、なんとなく分かる」
「なのはさんも……分かってたんですね」
あの日、ティアナは戦い方は覚えていても、心までは取り戻せなかった。ヴァイスが来なければ、
フェイトの言う通りエリオは殺されていた。あと一歩先に行けなければ、ティアナは最も危険な状態で止まってしまう。
技術と経験を併せ持ち、しかし心は狂気に支配された状態で。
「もしも手塩に掛けて育てた奴が、自分が教えた技術で無差別に人を殺して回ったら。自分が止めなきゃいけない、
この手で始末を付けなきゃいけないって一人で気張ってんだ」
なのははそれだけ大きなものを賭けていた。その上で、ティアナを殺さねばならないかもと言った。それに比べて自分はどうだ。
何一つ賭けていない。
何一つ選んでいない。
何一つ犠牲にしていない。
これでは何も手に入るはずがなかった。
「っと……余計な事言ったな。ま、なのはがどういうつもりにせよ、自分で考えろって言われてんだから、
お前はお前の気持ちを固めりゃいいんだ。深く考えんな……って言ったら語弊があるか。月並みだけど、お前はお前に出来る形で、
ティアナとなのはにありったけの気持ちをぶつけてやれ」
「でも……それでいいんでしょうか?」
「殺す覚悟も生かす覚悟も同じだけ重い。どうやったって誰かが割りを食う。だったらお前のほんとの気持ちと、
その為の壁をぶっ壊すことだけ考えりゃいいんだ。そこに後先のことなんか挿めんな」
そんな器用なタイプじゃねえだろ、とヴィータはカラカラ笑った。それが自分を勇気付ける為の飾られた豪放さだと知っていても、
いや、だからこそ嬉しかった。
こんなにも想われている。こんなにも心配してくれる人達がいる。ヴィータとシグナムとキャロ。きっと、なのはとフェイトも。
ティアナに伝えたかった。自分が受けた想いの分だけ、あなたを想っていると。
「ありがとうございました。後は自分で考えてみます。少しだけ、何かが掴めました」
「そうか……頑張れ、ってのも変だけど、まだ時間はあるんだ。じっくりやれよ、スバル」
「はい! あの、ヴィータ副隊長……あたしが言っていいのか分からないけど、なのはさんのことお願いします」
おう。
一言残して足音が遠ざかる。スバルが立ち上がった時、けたたましい電子音が鳴り響いた。当然それはスバルではなく、
ヴィータに入った通信。外から聞こえたのは、シャーリーの声だった。
「シャーリーか? どうしたんだ?」
「(ヴィータ副隊長、今どちらに!?)」
「どこって……」ヴィータはこちらを一瞥し、
「スバルんとこだけど」
「(東部12区、森林地帯近くの市街地に融合体が二体出現。XATの二班が出動していますが、副隊長も至急応援向かってください!
位置は至急転送します)」
「六課より、こっからの方が近いな……了解! すぐ行く!」
通信は全て聞こえていた。スバルは駆け出そうとする背中に一言だけ声を掛ける。もう、ヴィータの前に顔を晒すのに微塵の不安もなかった。
「ヴィータ副隊長、先に行ってください。今すぐは無理だけど、あたしも必ず追いつきますから。明日……またお会いましょう!」
「ああ!」
頷いたヴィータが走り去っていく。緩めた口元とは対照的に、大きな瞳に力強い光を湛えて。
それは信頼の証。自分が足踏みを止めて、今度こそ真の意味で隣に並び立てると、ヴィータは信じてくれている。
静けさが戻っても、スバルは正座を崩さない。目を閉じ、胸の内でヴィータの言葉を反芻する。
今までは取り違えていた。大事なのは、なのはにどう答えるかではなく、これからどうすべきか、どうしたいか。
(今、あたしが一番に考えるべきはティアの幸せ。それは、救いなんて大げさに考えなくても良かったのかもしれない)
そうだ、最初から分かることじゃないか。本当に大切なら、たとえ戦いになっても絶対に諦めず、言葉と力を尽くすべきだって。
生易しい道ではない、リスクも倍増どころじゃない、それでも。
突っ込んで打ち貫くのが本領。
(また裏目に出るかもしれない。でも、あたししかいないかもしれない)
それは誰が言ったのだったか。扉から希望が飛び出すかもしれない、故に人は扉を叩くと。叩かない者には、絶対に希望は訪れない。
ヴァイスは今もティアナを支えてる。ティアナは心まで融合体になったりしない。
今は二人を信じる。どんなに辛く、もどかしくとも、ヴィータがそうしてくれたように。
(今度こそ間違えない。贖罪なんて考えない。救いなんてきっと、最初からあたし一人の手に余る。純粋にティアの望みを見極めて、
その為の力になりたい。必要なのは、もし戦闘になっても死なず殺さず、殺させずを貫けるだけの力。なら、今しなきゃいけないことは……)
立ち上がって時計を見ると、時刻はちょうど十二時。残り時間は約十時間。
振り向くと、そこには昨夜と同じ、薄ぼんやりとした自分自身の幻影が立っていた。
違うのは、幻影は向かい合ったまま何も語らないということ。
幻影の言葉はいつも耳に痛かった。それだけに気付かなかった。
この幻影は、自身が生みだしたもの。スバルは今になって、最初から幻影を"見ようとしていた"ことに気付く。
ティアナが光を失った日、誰一人としてスバルを責める者はいなかった。あれは不幸な事故だと慰めてくれさえしたが、
スバルには空虚なものにしか感じられなかった。たとえどれだけ慰められても、事実は覆らない。日に日に増す罪の意識。
罪悪感に囚われるあまり、心の奥で責めてくれる存在を望んでいた。あろうことか、自己満足の為だけに。それらが爆発した昨日、ついに形を成して現れたのだ。
これは自分の弱い心。自己満足の産物。目を背け続けてきたのは、薄々感づいていたからかもしれない。
自虐も、悔恨も必要なくなった今、幻影は何も語らない。しかし、まだ姿はそこにある。何も言わずにこちらを見つめている。
目を閉じると、光と共に幻影も消えた。腰を落としたスバルは、足を開き、左手を軽く突き出し、右手を腰溜めに構える。
再び深呼吸、全身から余分な力みを取り払う。
吸って吐き、短く吸ったタイミングで、
「ふっ!」
左を引き戻し、右の拳を撃ち放つ。
正拳が空を切る音がシュパッと小気味良く。空気の流れが、静謐な闇に一瞬だけ軌跡を描き、余韻も残さず消える。
ゆっくりと瞼を開くと、そこには――。
何もない。
在るのは灰色の壁と、己の拳。行く手を阻む障害でも、自分を押し潰す牢獄でもなんでもない、ただの壁。
"見えないはずのもの"は見えない。そこにはもう、"在るべきもの"しかなかった。
スバルは口の端を持ち上げる。続け様に左手、右足、左足。身体が慣れ親しんだ動きをなぞる。
それは弾むように、踊るように、流れるように。いつしか自然と身体は動き出していた。
※
『KEEP OUT』
黄色いテープの向こうでは、捜査官らしき局員や、XATの隊員が頭をぶつけるくらい近づけて議論を交わしているようだった。
奥では重機が運び込まれ、瓦礫の撤去に作業服の男達が忙しなく走り回っている。
ヴァイスは忌々しげに見つめていたが、遠巻きから野次馬やマスコミに混ざっていては、話す内容など知る由もない。
日付を跨いでも、ティアナは約束のファミレスに現れなかった。連絡を取り合う手段を持っていなかったヴァイスは、
最初は待っているだけだった。
空が白み始めても待ち続けた。一睡もせず、逸る気持ちをひたすら抑えて。
やがて完全に朝になった頃、待ち切れなくなって店を飛び出した。
ニュースを確認すると、事故の報道が流れていた。場所はミッドチルダ東部、ジル邸から一時間も走った山道。
トラックとバイクが接触、トラックの運転手は重傷。バイクはバランスを崩し、ガードレールを突き破って転落したとのこと。
あの辺りは見通しが悪く、カーブが連続する危険な道だ。事故もさほど珍しくはない。
が、メディアはどれも事故のニュース一色に染まっていた。一様に『堕ちた英雄』の見出しを躍らせて。
バイクの運転手とは、融合体と化したゲルト・フレンツェンである。
尤も、当人は行方知れず、トラックの運転手は重体、ジル・ホフマンはXATに保護され、XATは当然コメントを拒否。
どれもこれも下衆な勘繰りに過ぎないが、大衆の興味は引きつけているようだった。
おそらく、ティアナはゲルトを追い、何らかの理由で戻れなくなった。
そう推察したヴァイスは事故現場に足を運んだが、当然検証中で入れるはずもなく、こうして近くの街で当てもなく彷徨っている。
無残に崩れた一角は封鎖され、傷が癒えるには相当の時間が必要だろう。皮肉にも、そこは昨日も訪れた街。
融合体の襲撃で多数の死傷者を出したばかりだった。
「ひでぇもんだ……」
「ああ……」
呟いた独り言に答える者がいた。サングラスを掛けて目深に帽子を被ってはいたが、ブロンドの髪、白のコート。
よくよく見れば、ゲルト・フレンツェンその人だと分かる。記憶と違うのは、顔の半分を火傷の痕が覆っていたことか。
「あんた……ゲルトか……!?」
「話があるんだ。少し付き合ってくれ」
驚き戸惑うヴァイスを促して、ゲルトは歩きだす。そそくさと横に並ぶが、内心は気が気でなかった。
ゲルトはただでさえ要注意人物。おまけに昨夜の事件だ。XATには手配され、市民に見つかれば即座に通報されるだろう。
英雄だったゲルトは、一夜にして世間の敵となっていた。
キョロキョロと周囲を警戒しているとゲルトに睨まれる。
「なるべく普通にしていろ」
「ああ、悪ぃ……。けど、何であんたがこんなところに? 隠れたりしなくていいのか?」
「逆に怪しまれる。見ろ、この街の連中の顔を。誰も他人の顔なんて見ちゃいない」
ゲルトの言う通り、街を歩く人々の顔から笑顔は消え、誰もが暗く陰鬱な眼差し。この区画は繁華街のはずなのに、
どこも閑散とし、人もまばら。閉塞感が漂い、まるで街全体が窒息しているかのよう。
中には虚ろな顔で道端に座り込んでいる者もいた。なくしたものは家か人か――その姿は深い絶望に暮れ、声をかけるのも躊躇われる。
そういった人間を助け起こそうとする者もいるにはいるが、大方は自分のことで精一杯といった状態だ。
昨日の事件での死者は七十人を超えたらしい。以前のサーキットでの融合体被害すら、四十人からの死者が出たのだ。
今回は規模からして、百を超えていても何ら不思議ではなく、むしろ七十という数字は少ない方だと言えた。
XAT隊員や局員は、さぞかし居辛いだろう。市民の不満は膨れ上がり、いつ暴動が起きてもおかしくない。それでも頼るしかないのだ。
XATと管理局以外に守ってくれる者がいないから、自分達では逆立ちしても身を守れないから。だからこそ、彼らは新たなヒーローを求め、
期待に応えられなければ、勝手に失望する。
まだ六課にいた頃から抗議は連日殺到していたが、今はあの頃の比ではないだろう。
家族を、友を、生活を守ってくれなかったと恨む者も多い。誰かの為に命を懸けて必死で戦っても、返ってくるのは恨みと憎しみ。
そのやるせなさを思うと、XATやかつての仲間に少しだけ同情した。
教会やXAT、局の制服を着た人間も見られたが、誰もが各々の任務をこなすのみで、行き交う者の顔を注視したり、
ましてや聞き込みをするとは思えない。
加えて、ここが現場付近というのも理由の一つ。生きているとしても、一夜明ければどこか遠くへ逃げたと考える。
灯台もと暗し。なるほど、考えたものだ。
二人は何食わぬ顔で歩きながら、互いにだけ聞こえる声で話す。
「お前……昨日、俺を追っていたな」
「気付いてたのか?」
「後になって思い出した。お前があの場所にいたことも」
「俺もあんたと同類だよ」
たった一言、これだけで自分達が彼を追う理由も分かってもらえると思った。予想の範疇だったのか、ゲルトは欠片も動揺を見せない。
「やっぱりな……何となくそうだと思っていた」
「俺もだ。どうやら、同類に会うとピンと来るらしい」
形容し難い感覚。身体がざわつき、違和感が合図となって教えた。この男は普通でないと。
ゲルトも同様なのだろう。お陰で話は早い。聞きたいことは山ほどあったが、まず最初に確かめるべきこと。
それはゲルトがどこまで正気なのか、であった。
「ところで……昨日のアレは何だったんだ? あんた何で正気を失ってた?」
「ああ……それはだな……」
ゲルトは表情を曇らせた。逡巡する様子で、しかし足は止めない。彼にとっては辛い話だろうが、聞かないわけにはいかない。
ヴァイスはじっとゲルトの言葉を待った。ゲルトは話すべきか迷っていたようだが、やがて重い口を開く。
「俺は裏切られたんだ……」
サーキットでの負傷でチームを解雇され、恋人のジル・ホフマンにも別れを突きつけられた。失意の彼の前に現れたのが、
妖艶な雰囲気と白衣を纏う褐色の女。彼女から渡されたカプセルを飲んでこの身体となり、融合体と戦った彼は英雄と称えられた。
しかし、彼の災難はまだ終わらない。ジルから寄りを戻そうというメールを受け取ったゲルトが向かったジル邸で見たものは、
チームのマネージャーであるマシュー・グラントと恋人ジルが抱き合い、唇を重ねる光景。ゲルトの存在に気付かなかった二人は、
チームの解雇も、この呼び出しも、すべてゲルトを利用する為に仕組んだ謀だと嗤った。
「それで、あんたは感情を制御できなくなり、ジルを襲い、今に至る。この街を傷が癒えるまでの隠れ家に選んだってことか。今は平気なのか?」
「ああ……今は、大丈夫だ。そういうお前は何故ここにいる?」
「人探しだよ。放っておけない奴がいるもんで」
今頃は、はぐれて泣いているかもしれない。どこまでも世話が焼けるのに、少しも不快でなく、むしろ嬉しかった。
そういえば、幼い頃にも似たようなことがあった気がする。あの時も同じだった。一人で泣いている妹を思うと、胸騒ぎがして堪らなかった。
妹の傍にいることはもう叶わないが、今はティアナの傍にいてやりたいと強く思う。
「そうだ、あんた見なかったか? オレンジの髪を両側で括った女の子なんだが……あんたを追って行ったと思うんだよ」
ゲルトの横顔が強張った。サングラスを外し、ヴァイスを直視する。その目もやはり驚きで見開かれ、途切れ途切れに紡ぐ声は僅かに震えている。
「赤いバイクに乗った少女か……?」
「な、なんだよ……何を知ってんだ?」
「すまん……詫びようもない……」
顔を俯かせ、ゲルトは額を押さえた。仕草だけで何が起こったのか、おおよその予想は付いてしまった。
冷や汗がこめかみを伝う。あの状態のゲルトを追ったと予想した時点で、想像はしていたはずなのに、
「あの時、俺は誰もがデモニアックに見えた。近寄ってくる彼女を……俺が崖から突き落としたんだ……」
いくら心に予防線を張っていても、身体は言うことを聞かなかった。
理性とは別に、感情が左手を動かす。ゲルトの胸倉を掴み、無意識に右腕を振り上げる。
ゲルトは抵抗しなかった。すまなそうに目を伏せ、ヴァイスの拳を待つ。
いいだろう。覚悟をしているなら望み通り殴ってやる。
しかし、怒りに任せて振り上げた拳は振るうことが出来なかった。
「ガードレールを突き破った彼女を追って、もう一台のバイクが飛び出した。奇妙なバイクに跨った、蒼いデモニアックだった……」
「蒼いデモニアック……?」
ガードレールを突き破って転落するバイクを、わざわざ飛び出して追い掛ける。殺すつもりなら、そんな酔狂な真似はしない。
もし助けたのだとしたら、そんな酔狂をする奴に一人だけ心当たりがあった。
「普通のデモニアックとは違った。おそらく、あいつも俺達と同類だろう。以前、人間の姿でもそれらしき奴を見掛けた」
「まさか……あいつが?」
名前も素性も、目的も知らない。ただ、あの男は自分を助けてくれた。昨日もこの街で、戦闘機人と共に融合体と戦っていた。
おそらく市民を守る為に。
殴り掛かる姿勢で固まるヴァイスをゲルトが見上げる。
「殴らないのか?」
「いや、もういい……。あんたのせいじゃねぇ。それに……」
掴んでいた胸倉を放し、拳を下ろした。とうに拳は力を失っていたが、代わって希望が湧いてくる。
「あいつが一緒なら大丈夫かもしれねぇ」
「なあ、これからどうするんだ? もし、現場を探そうって言うなら俺も一緒に……」
「いや、いい。俺は一人でティアナを探す。あんたはまだ傷が癒えてないんだろ? それに、強行突破してまで急ぐ必要なんざない」
本当は一刻も早く駆けつけたかったが、焦っても得られるものは何もないと知っていた。
ティアナは生きている。あの男が助けてくれている。今は、そう信じる。
「なに、だからってのんびり探すつもりもないさ。いつまでも、あの御仁に面倒を見てもらうのも悪い。
それに、俺にはあいつが、あいつには俺が必要なんだ」
「恋人か?」
「まさか。ただの同僚……いや、違うな。何だろう……多分、傷を舐め合ってるだけだな。少なくともあいつは」
ティアナは自分に亡き兄を重ねている、それも依存と言っていいほど強く。薄々感づいてはいた。感づいてはいたが、
今は代わりが、縋る対象が必要なのだろう。傷ついた心を癒す為に。
「そうか……羨ましいな」
「羨ましい? 俺とあいつがかい?」
意外だった。
バイクレースのチャンピオンとして、名声をほしいままにした英雄が。XATの庇護を受けて、大衆から崇められたヒーローが、
追われる身の自分達を羨ましいと言ったことが。
「俺の周りにいた連中は皆、俺が足をやられた時すぐさま掌を返したよ。マスコミに英雄とおだてられればまた返し、どうせ昨日のことでまた……。
思えば、俺はレーサーだった頃から大衆とやらに踊らされてばかりだったよ。それでも、こんな俺にも一人だけ無条件で信じてくれる奴がいた」
「それは?」
「元後輩……親友……いや、何だろうな。ともかく古い付き合いの男だ。今はXATにいる」
相槌を打ちながらヴァイスは、なるほど、と頷く。道理で寂しげな表情をしていた。
「俺はもう、そいつを頼れない。馬鹿が付くほど真っ直ぐで、火が付いたら止まらない。それでいて心根は優しくて、気風のいい奴なんだ。
俺を庇おうとして無茶をするかもしれん。だから……お前が少しだけ羨ましい」
懐かしむように、噛み締めるように。
語るゲルトは今、とても優しい顔をしていた。本当にその男を大事に思っているのだろう。
ゲルトは信用して本心を吐露してくれた。ならばこちらも、とヴァイスも本心を語る。
「あんたは俺が羨ましいと言ったが、俺もあんたが羨ましかったんだぜ? こんな化物になっちまっても、あんたは戦った。
逃げも隠れもせず、人を守った。何でそこまでできる? 一介のレーサーのあんたが」
融合体になった現実を知らされた時は激しく動揺した。
みっともなく怯えて、受け入れるまでにも相当の時間を要した。やがて、影ながら六課を助けようと目的を立てたが、
それだって人を助けることで人と関わっていたい気持ちの表れに過ぎない。
戦った事実は同じでも、彼のように堂々たる態度で人前には出られなかった。尤も、そのお陰でティアナを助けられた。
「俺はあんたみたいにはなれなかった。人を守る立場なのに、変わっちまった自分が怖くて逃げだしたんだ」
ゲルトは答えない。取り出したタバコに火を点けて、紫煙をくゆらせている。
少しして、細く、細く、煙を吐き出した。
「何でだろうな……分からないさ、そんなこと。強いて言うなら……見栄か」
「見栄?」
「俺は……チャンプでいたかった。どんな形であれ、俺は俺の望む自分でいたかったのかもしれない」
弱く、夢敗れた自分を許容できなかった。だから彼は戦ったのだろうか? ゲルトは、それ以上を語ろうとはしなかった。
見栄もそこまで行けば矜持と言うべきか。改めて、彼は自分とは違うのだと思い知らされる。
「余計なお節介だろうが一つだけ言わせてくれ。お前は、その彼女を見つけたら絶対に離すな。
それだけが、お前らが人でいられる唯一の術かもしれないんだ」
「ただの慣れ合いだっての」
ティアナとはまだ一日しか一緒にいないのに、互いに離れ難くなっている。もしもティアナが消えたら自分は、
きっとまともではいられない。逆もまた然り。どこかで線を引いておかなければ、彼女が立ち上がった時に足を引っ張ることになる。
ついでに言えば、若干の照れ隠しも否めない。本心を口に出してしまえば、認めてしまう気がした。
ゲルトが笑いながら、すっとタバコを差し出してくる。苦笑いで一本を引き抜いた。
どうやら見透かされているらしい。
「慣れ合いで何が悪い。孤独よりは、はるかにマシだろう」
「そんなもんかね……」
「……引き裂いた俺が言えた義理じゃないがな。お前らは俺みたいにならないでほしい」
火を借り、肺に紫煙を取り込む。この感覚も何週間ぶりだったか。
二人、タバコをふかしながら歩く。今、この瞬間だけは数奇な運命に感謝してもいいと思えた。
全バイク乗りの憧れ、ゲルト・フレンツェンは、思った通りの男だったから。
「納得した。あんた、やっぱりチャンプだ」
「彼女に会ったら伝えてくれ。すまなかった、と」
ゲルトと顔を見合せて微笑む。
この一本を吸い終わったら別れよう。目と目で無言の了解を交わしたが、近づく悲鳴によって、束の間の休息は終わりを告げた。
一体どこにいたのか、何十人もの人間が必死の形相で走ってくる。言葉は違えど、全員が口々にこう叫んでいた。
「デモニアックだ!!」
※
混乱が渦と巻く街で、ジョセフは一人ガルムを走らせる。道路は恐慌状態の市民で埋まり、慌てて逃げようとした車同士の事故が
パニックを助長していた。この上道路を行けば、火に油を注ぐだけ。ガルムの後部スラスターを噴射し、ビルの上を跳ねるように飛ぶ。
「融合体は二体。それにしても、どうして堕ちるまで誰も気付かなかったのかしら」
エレアの疑問は尤もだった。いくらデモニアックに堕ちるすべてを把握できないとしても、
こうも容易く街中での出現を許すのは違和感があった。隔離が追い付いていないとも聞くが、それにしてもおかしい。
精神に異常をきたしていても、或いは死んだとしても、誰にも気付かれない人間がいるとしか思えないのだ。もし推測が正しければ、
それはAIのエレアでは想像の及ばない、この社会に受け入れられなかった者達。人が人であるが故の犠牲者。
即ち異民である。
「今はあれを止めるのが先だ。すぐに終わらせる」
この状況で彼女を一人にするのは危険だった。かといって、連れてもいけない。
同行者を待たせてデモニアックの対処に向かう途中、ジョセフは思い出す。彼女は悔しさからか、声を殺して泣いていた。走る間も、
何故だか彼女の涙が頭から離れなかった。
約束したファミレスにヴァイスはいなかった。店員に聞くと、朝までは確かにいたらしいのだが。戻らないので探しに行ったのだろう。
危険を承知で、ミッドチルダ東部のジル邸付近に戻る途中、エレアが融合体を感知した。耳を澄ますと、遠くでは悲鳴が上がっていた。
ジョセフは逃げ惑う人波から隠れ、ガルムと融合。ティアナは隣で所在なげにしていた。
「お前はここに隠れていろ」
「でも……」
「足手纏いだ」
付いてこようとするティアナを、ジョセフはぴしゃりと遮った。はっきり言ってやらないと責任を感じている彼女は止まらない。
去り際に一度振り向くと、ティアナは待機状態のデバイスを握り締めて泣いていた。その涙はおそらく、ジョセフの言葉より何より、
戦えない自分が悔しくて、許せなくて流した涙。
「ジョセフ、近いわ」
エレアの声で我に帰ったジョセフは右手にシミターを握り、デモニアック目掛けて走る。
真下には、街のど真ん中で獲物を物色するデモニアックが二体。片手に融合したナイフは既に赤く染まっていたが、
近くには死者も生者も見当たらない。死者はまだ出ていないのか、見えないだけか、どちらにせよ邪魔が入ることはなさそうだ。
ビルの屋上からガルムを躍らせる。急降下するガルムを、二体のデモニアックが察知した時には、既にジョセフはシミターを振り上げて迫っていた。
気勢を発したりはせず迅速に接近し、斬ることのみに専心する。その一瞬、意識はデモニアックに集中しており、周囲には完全に無警戒となった。
故に気付けなかった。ビルよりも上から急襲する、もう一つの気配に。
狙いを定めたデモニアックの隣、もう一体のデモニアックが視界の隅に入る。その視線はジョセフではなく、上空で固定されていた。
僥倖というより他なかった。もう一体を視界の隅に捉えたことも、鋭敏なブラスレイターの聴覚が音を拾ったことも。
冷たく鋭い殺気と、風を鳴らす音。何かが落ちてきている。ジョセフはシミターを振り下ろすことなく、咄嗟にハンドルを切って軌道を変えた。
地面を滑りながら距離を取った直後、デモニアックの背後に何かが墜落。重力に更に加速を加えた、凄まじい速度。
コンクリートが砕け、同時に横目で捉えていた目標が"割れる"。胴体に赤い線が交差して走り、四分割された身体からは、
デモニアックの血に染まった真紅の双剣が突き出た。
「また会えた……ジョセフ・ジョブスン」
聞こえたのは甘く、陶酔に似た響き。
赤い流星の如く墜ちてきたのは、茶色く長い髪をなびかせた少女。崩れ落ちたデモニアックを一瞥もせず、
茶髪を掻き上げながら顔を見せた。
それは昨日、この街で出会った戦闘機人。名前は確か、ディード。
顔を上げたディードは笑っていた。憎悪を内に秘めていながら、それを包んでいるのは紛れもない歓喜。
狂気を帯びた凄絶な笑み。
あの時感じた、凍てつく炎そのもの。
ジョセフが剣を構えると、ディードから一瞬で表情が消えた。ただし両目だけは細く、視線だけで射殺す気かと思うほど強く、
感情を表す。抑えきれない殺気が幾千の言葉よりも雄弁に、彼女の目的を語っていた。
ディードの身体が跳ね、双剣が正面から振り下ろされた。一瞬で懐に入った速さの割に大振りな一撃。
まずは小手調べといったところか。
ジョセフも正面から受け止め、鍔迫り合いになる。顔がぶつかる距離で二人は睨み合った。
「何のつもりだ!」
「分かりませんか? オットーの仇……取らせてもらいます!」
丁寧な言葉遣いながら、剣捌きからは感情がありありと感じ取れる。
押し込まれる双剣を、あらん限りの力で弾き返す。ディードはバックステップで距離を取ったかに見えたが、
地面を蹴って跳ね返り、再び距離は詰まる。
右手の剣は斬り下ろし、左手の剣は斬り上げ。それぞれの剣がまったく違う動きで攻めてくる。
一本の剣では、とても太刀打ち出来ない。片手で捌きながら後退するジョセフの目に、残ったもう一体が巻き添えを避けるように離れていくのが見えた。
最終更新:2010年08月04日 00:52