夜の闇を切り裂いて光が走る。
時刻は二十二時を回った深夜。街中を離れ、眼下に広がる景色には明かり一つない。それ故、夜空を飛ぶ二つの影と、
ボードから噴出する桃色の光は酷く目立つものだったが、幸いにして見咎める者もいない。
その光景は奇しくも、二日前の夜と同じだった。
違う点と言えば、長い栗色の髪の少女は、支える側でなく支えられる側であること。ボードに乗った赤髪の少女に抱かれ、
ぐったりと自力で飛行もできない様子。ボードに乗った少女は、二日前のように背後を気にして低速飛行するでもなく、家路を急ぐ。
傍らの少女を気遣いもせず、むしろ荒々しい飛行は彼女の苛立ちを如実に表していた。
そして最大の違いは、飛行する影は三つでなく二つ。
長髪の少女が二日前に支えていた少女――短髪の、少年のような容姿の少女は、もう、どこにもいない。
オットー。
長髪の少女――戦闘機人ディードの双子の片割れである彼女は、昨日、命を落としたばかりだった。
巷では悪魔憑き『デモニアック』と呼ばれ、公式には『融合体』と命名された異形の化物となって。
その最期は、両脚を刈り取られ、胴体を肩口から両断されるという凄惨なものだった。
デモニアックと化し、街へ出たオットーを止める為、九人の姉妹は戦った。
しかし暴走するオットーの力は凄まじく、苦戦を強いられる。
そこへ現れたのが、黒いバイクに乗った黒と蒼のデモニアック。通常のデモニアックと異なる容貌のそれは人語を解し、
理由は定かでないが、彼もまたオットーを敵と定め、戦いを始めた。
自分達だけでは太刀打ちできないと判断したトーレは、彼に共闘を申し込み、互いの利害の一致から彼も応じた。
ビル内に誘い込み、即興の作戦でオットーを追い詰めるも、トーレ、セッテ、ノーヴェは傷つき倒れ、オットーは逃走を図る。
ここで逃せば騒ぎは広がり、より大勢の犠牲者が出ただろう。黒のデモニアックは、崩れた壁面から外へ飛び出したオットーに追い縋り、
空中でその身体を切り裂いた。
血飛沫をまき散らしながら、数十メートルの高さから地面に叩きつけられたオットーの無残な骸。
それすらも、たちまち塵になって風に流されてしまう。
最後を看取り、塵になったオットーの残滓を、ディードは半狂乱で掻き集めた。胸に募るのは深い喪失感。
悲しみよりも、ただただ虚無だけがじくりと広がる。
稼働して日は短く、知識は備わっていても、ディードは感情というものを満足に理解していなかった。
彼女は、そのように造られた個体だったから。知らないこととは、即ち必要でないということでもあった。それ故、ディードには初めての経験だった。
大切な者を失うということ。理由はどうあれ、誰かに理不尽に命を奪われたということ。
その時、ディードの内部で起きた感情の爆発。生まれたのは、半身を裂かれるような苦しみと悲しみ。激しい後悔の念。
彼女はその感情を持て余し、耐える為に憎むことを覚えた。
スカリエッティから与えられた知識の中に処理する方法は入っておらず、空いた穴を埋める術を、ディードは他に知らなかった。
黒のデモニアックが去り、研究所に戻った姉妹。迎えたスカリエッティは、オットーの死を悼むよりも、客人との会話に夢中だった。
トーレが事のあらましを報告した時だけは嘆きの言葉を口にしたが、やはり欠片の動揺も見せず。
二言目に解析するからと回収したオットーの亡骸を要求したことからも、本気で悲しんでいないのは明らか。
いや、悲しんではいるのかもしれない。それ以上に、客人の話に興味をそそられているだけで。
ディードはスカリエッティの態度に若干の不満を覚えたが、黙って一部を渡す。
この時はまだ、怒りも悲しみも抑えられたのだ。そう、あの瞬間までは。
チンクとディエチは静かに涙を流していたし、ノーヴェとセインは肩を抱き合ってわんわん泣いていた。
そしてウェンディは、ずっと傍らにいてくれた。それだけで、ほんの僅かだが、オットーを喪った虚無感が和らぐ気がした。
そこへ現れたのは、スカリエッティとの会話を中断した客人。客人と言っても、どこからか侵入してきただけなのだが、
スカリエッティは彼女を手厚く歓迎していた。
ベアトリス――それが客人の名。若草色の髪に褐色の肌、白衣にメガネをかけているが、知的な印象はあまりなく、
妖しいまでの色香は匂い立つよう。そのせいか、腹に一物隠した胡散臭い女、というのが大方の姉妹の第一印象だった。
彼女は悲しみに暮れる姉妹の中でも、特にディードを見つめ、語り出した。心を惑わし、誘うような声色で。
ジョセフ・ジョブスン。それが仇である黒のデモニアックの正体。彼はブラスレイターと呼ばれるデモニアックの上位種であり、
デモニアックに変異してからも人の記憶と精神を保ち続けている稀有な存在。
人としてデモニアックを憎悪する彼は、すべてのデモニアックを滅ぼすことを目的に狩りを続けており、その為なら、
あらゆる犠牲を厭わない。稀に彼同様、理性を保ったブラスレイターやデモニアックが生まれるが、彼にとっては無条件で殺戮の対象になる。
ベアトリスはこうも言った。自分と主はデモニアックと呼ばれる人々を救い、進化を促し、新たなる世界に導こうとしている。
最終的には、人とデモニアックが争わずに済む楽園を作りたい。それを妨害するジョセフは即ち、すべてのデモニアックにとって脅威なのだと。
人をデモニアックに変えるメカニズムを解明したいベアトリスは、犯罪者と知っていてなお、
当代最高の頭脳を持つジェイル・スカリエッティに接触を図った。
これがベアトリスの語った、ジョセフの人物像と彼女の目的。
どうやってこの研究所の位置を知ったのか、彼女の理想とスカリエッティに接触した理由はどう関係するのか。いくつか腑に落ちない点もあったが、
ディードは頭に浮かんだ疑問を敢えて振り払う。どんな理由があろうと、ジョセフがオットーを殺したのは事実なのだ。
今、こうしているだけでも、得体の知れない不快感が全身を這い回る。訳も分からず苛立ちが噴き出し、手当たり次第、何もかもを壊したくなる。
とても言葉で表現できない疼き。この心を癒せるなら、利用されていようと構わない。
ディードは、ベアトリスから与えられた真実を受け入れた。この時、仇である男に明確なイメージが与えられ、復讐心は形を成したのだ。
灯った憎しみの炎に煽られ、ディードは最低限の休養ののち、すぐさま行動を開始した。
無断で研究所を飛び出して一日中、恋い焦がれるかのように彼を求めた。
そして、街中でデモニアックと戦うジョセフの姿を見つける。まさか、たった一日で再会できるとは思わなかった。
昨日、彼を見た時とは違う。胸に込み上げたのは紛れもない歓喜。
悪魔のように口の両端を吊り上げたディードは、嬉々として戦いの輪に飛び込んだ。誰と誰が戦っていようと、周囲の人間がどれだけ死のうと関係ない。
最初から視界にも入らなかった。障害物ならば排除する。ただ、それだけで。
これは、きっとオットーが巡り合わせてくれたに違いないと思った。分かたれた半身が今、元に戻りたがっている。
彼を斬ることで、オットーを喪った悲しみが真に埋まるのだと。
戦いは終始ディードの有利に運んだ。戦いを躊躇うジョセフを後一歩まで追い詰めたのだが、様々な横槍が入り、最後には撤退を余儀なくされた。
後少し、後少しで奴の息の根を止められたのに。
ギリ、と歯噛みしたが、撃たれた右手と殴られた顔面は酷く痛み、加えて全身が軋んで悲鳴を上げていた。
それこそウェンディに捕まれても、ろくに抵抗もできないほどに。
そもそも、彼女は何故ここにいるのか。誰にも言わずに出てきたはずが、後から追ってきていた。それにしては止めるでもなく、一言「手伝う」と。
気にも留めなかったが、六課の魔導師と戦っていた彼女も、かなりのダメージを負ったらしい。時折、横顔を苦痛に歪ませているのが何よりの証拠。
にも関わらず、ディードの肩を抱いてボードを操っている。
会話はない。ウェンディは前だけを、きつく睨んでいる。痛みを堪えているのか、
状況を読めず戦いを続けようとしたディードに憤っているのか。
分からなかったし、もはやどうでもよかった。
ディードが思い浮かべるのは、ただ一人。ジョセフ・ジョブスンのみ。
オットーのことも考えない。彼女を想うと、今までになかった感情が暴れ出して、
自分を侵してしまいそうだったから。
今はただ、純粋な感情を抱いていられるジョセフだけを想い、ディードは飛び続けた。
BLASSREITER LYRICAL 第5話
迷える者たち
隠された入り口から研究所に入るなり、抱いていた肩を放すウェンディ。すると、ディードは一言もなく歩きだす。
「待って……! 何か言うことがあるんじゃないッスか?」
長く無機質な通路に、低く険しい声が響く。姉妹達やスカリエッティの研究室があるのは、ここを更に進んだ先。
よほど大きな声を出さなければ届かないだろう。
「何か……? ああ、ここまで運んでもらったことは感謝してるわ。ありがとう」
「違う!!」
まるで理解していないディードの態度に、ウェンディは声を荒げた。しかも感謝しているのは運んだことだけであって、
援護や、ディードを助けての脱出に関しては、お節介に思いこそすれ、感謝どころか反省もしていないと言外に匂わせていた。
「あたしは……オットーを喪ったディードの気持ちが分かるから……。一緒にいても何もできなかったのは、あたしも同じだから……。
だからディードの仇討ちも手伝ったッス。でも、あんな無茶苦茶な戦いをするとは思ってなかった……」
あんな無謀な戦い方、命がいくつあっても足りない。負荷も限界も振り切って、敵を仕留めることしか頭にない。
あれは戦闘機人の戦い方ではない、デモニアックの戦い方だ。
「訊かせてほしいッス、ディードは最後までジョセフを追うつもりだったんスか?」
顔と右手に傷を負い、ツインブレイズの一本を取りこぼし、ジョセフは逃走。周囲はXATに囲まれ、向かってくる六課の魔導師。
圧倒的不利な状況で、ディードはあくまでジョセフを追おうとしていた。
まったくもって理解に苦しむ行動。しかし、ディードは平然と答えた。
「ええ、勿論。私も弱ってはいたけれど、ジョセフはそれ以上に弱っていた。おそらく後一撃で片付いたはず」
「追いつけたんスか!? ジョセフの、あのとんでもなく速いバイクに! こんな――」
ウェンディはディードの右腕を掴む。抵抗はか弱く、いとも容易く意のままになった右手を、ウェンディは思い切り通路の壁に叩きつけてやった。
「っぐぅ!」
「こんな身体で! どうやって追い付くつもりだったんスか! 普段バカやってるあたしが言うのも何だけど、ちょっとは冷静になるッス!」
ディードが苦悶の声を上げる。非殺傷とはいえ、撃たれた右手はさぞかし痛むだろう。ウェンディとて、それを理解していてやったのだ。
間近で見るディードの右頬は青く腫れ上がっていた。そう言えば、ジョセフの裏拳をもろに喰らっていた。口の端の、血を拭った跡が生々しい。
だと言うのに、眼光はなおも鋭く睨みつけてくる。
「最初の奇襲を逃せば、ジョセフは警戒する。次は、ああも簡単にいかないかもしれない。あなたが……あなたが追ってくれれば仕留められたのに……!」
「そんなとこだけ、あたしを当てにするんスか?」
手伝いだって本当は感謝なんかしていないくせに。
ディードはまだ何か言いたげだったが、言い負かされて口をつぐむ。
たじろぐディードに、優位を感じたウェンディは更にまくし立てた。
「あたし達にとって一番大事なのは、ドクターの理想を実現させること。
なのに、あんなとこで捕まって、機密を管理局の連中に漏らしていいわけないッス。
それに、あたしらは戦うほど確実に強くなれる。焦らなくても、チャンスは必ず来るッス」
いや、そもそも危険を冒してまでジョセフを殺す意味があるのか?
これまでディードを気遣って言えなかった。オットーを殺された怒りも幾分かあった。それで気持ちが晴れるなら、
それもいいかと思っていた。が、命と引き換えてまで戦う気なら話は別だ。
「それに……考えてみれば、オットーを殺そうとしてたのはあたし達も同じッス……。
誰がやっても同じだったんだから、そうまでしてジョセフを殺す意味なんてないッスよ……」
途端、瞳に反抗的な光が戻る。空いた左手で突き飛ばされ、さほど力を入れてなかったせいか、右手も同時に離れる。
ディードは両手を抱き締め、小さく震えながら言い返した。
「違う! オットーは私を攻撃してこなかった!! 姉様達だってそうだったはずよ、攻撃さえしなければ……」
その目はどこか虚ろ。何かに焦点を結ぶこともなく宙を彷徨い、揺れる。
正常な精神状態でないことは明らか。まさしく、彼女は信じ込もうとしている。自らに暗示をかけているのだ。
なんて卑劣な行為。
「怖かったんだわ、きっと……。みんなして自分を殺そうと襲ってくるから……、だから――」
「いい加減にするッス!!」
ウェンディは怒りが心頭に達した。カァッと一瞬で血が上り、壁を叩いて怒鳴りつける。
ディードはビクンと肩を竦ませ、叱られた子供のように怯え混じりの目でウェンディを見る。
(なんて顔してるッスか……)
そこに表れているのは狂喜でも憎悪でもなく、恐れ。
きっと、これがディードの素顔なのだ。悪魔でも、戦う為の機械人間でもなんでもない。
脆く儚い、打ちのめされた少女の顔。
「あなたなら分かってくれると思ったのに……」
力なく呟く。
ディードが恐れているのはウェンディではない。他者からの否定だ。そんなものも撥ね除けられないほど、
彼女は揺れている。だからだろう、ひとたび仮面が剥がれ落ちてしまえばこんなもの。
しかしこの構図――怯えるディードを恫喝する自分、傍から見れば苛めているようにしか見えないだろう。
実際、ウェンディは彼女に対する怒りが急速に萎むのを感じていた。
それでも、言わなければならない。
自身も含めて、皆がどんな気持ちでオットーと戦っていたのか、理解していないどころか勝手な思い込みで否定する。
それだけは、断じて許せない。あんなオットーを見ていたくなかった。これ以上、人を殺させたくなかった。だから戦ったのに。
別に市民を気遣った訳じゃない。理由があるとすれば――戦闘機人はマシンかもしれないが、悪魔ではないということ。
尤も、これはウェンディ個人の動機。トーレやセッテなどは単にISの回収を懸念しただけかもしれないが。
ともかく、戦ってもいない者に否定する資格はない。
「ディードの言ってることは全部希望的観測ッス! 怖かったから反撃しただけ? どう解釈したら、そんな都合よく受け取れるッスか!
その前にオットーは街の人間を無差別に攻撃してるんスよ? そんなのディードが信じたいだけッス!!」
「違う……オットーは私を見て、何かを思い出しかけた! 最期に――私の名前を呼んでくれたもの!!」
「どうせ、それも妄想ッス! こんな下らない逆恨みじゃ……あたしはもう付き合ってられないッスよ!」
ハッと息を呑む音が聞こえた。
あくまで空想に逃げようとする態度に、怒りを通り越して呆れを覚えたウェンディは、彼女から顔を背け、妄想だと切り捨てた。
主人を、姉妹を巻き添えにして、当の本人は空想で真実を誤魔化して。そんな復讐なら止めてしまえばいい。
誰かの一言で容易く剥がれてしまうような仮面で、生き残れるはずがない。
だから、あたしは間違っていない。そう思った。
けれど、ウェンディが妄想と言い捨てた瞬間のディードは、
下らないと言われた瞬間のディードは――今にも泣きそうな顔をしてはいなかったか?
「ディード……?」
俯くディードの表情は不明。沈黙だけを返答に、床を見つめて微動だにしない。情けなくも不安が込み上げてくる。
一分ほどだろうか、無言の時が過ぎる。やがて垂れ下がった前髪の隙間から双眸が覗いた瞬間、ウェンディは直感した。
「……最初から頼んでいない。好きにすればいい。誰の手助けも期待しない。これは私の手でやらないと意味がないのだから。ただし――」
どうやら先の一言が、彼女の中の何らかのスイッチを入れてしまったと。
顔を上げたディードの表情の失せた面、ウェンディを見るその目は、背筋まで凍りつく冷たい眼差し。
彼女は鬼の面を被り直したのだ。二度と外れないように強く、頑なに。
折れそうで壊れそうな――覚えたての感傷に振り回されていた不器用な少女はもう、そこにいなかった。
いるのは一人の復讐鬼。瞳の奥に、あの日と同じ凍てついた炎をちらつかせ、ディードは宣言する。
「邪魔をするのであれば……ウェンディ、貴女は私の敵。たとえトーレお姉様や…………いや、ドクターであっても同じ。誰であろうと、殺す」
「敵? あたしらを造ったドクターが? なんてこと言うッスか……」
自分達、戦闘機人はスカリエッティにより生を受け、生かされている。彼の理想の実現に尽くし、彼を広く世に知らしめることこそが存在意義。
姉妹は皆、大なり小なり、そう思っているはず。
それを殺す? 絶対的な造物主を?
あまりに畏れ多く、姉妹ならば絶対に出てくるはずのない台詞だった。
「ドクターを否定したらあたし達は存在できないッス! あたし達、戦闘機人は……」
「戦闘機人では、ブラスレイターには、ジョセフには勝てない。それは、昨日と今日と、身に沁みて分かっている。
大きな口を叩いていたトーレお姉様でさえ、ブラスレイターでないオットー一人止められなかったんだもの」
オットーの凶悪なまでの強さは、素体となった戦闘機人のスペックが優れていたからだろうと、スカリエッティは自慢げに語った。
あの時のオットーは、通常のデモニアックを遥かに凌駕していたとも。トーレが勝てないのも無理からぬこと。
だが、ジョセフは互角に渡り合った。それを知りながら、理性を捨て獣になればジョセフに勝てるとでも言うのか、彼女は。
いや、勝てるのかもしれない。ただし打ち勝てるとすれば、それは獣ではない。
他のブラスレイターはどうか知らないが、少なくともジョセフは心を持っている。デモニアックのように本能でなく、計算し工夫する知恵を持っている。
だからこそ、付け入る隙もできる。
知恵も技術も失わず、なおかつ復讐の一念で塗り固めた意志。何人の声にも耳を貸さず、戦いを続けられる執念。
激情のみならず、冷酷さも併せ持つ復讐者。今日のディードを更に冷徹に研ぎ澄ませたような――ブラスレイターに勝てるとしたら多分、そんな存在。
これを何と呼べばいいのだろう。
狂戦士。
殺人マシン。
形容する的確な言葉が見つからない。だが悪魔にも勝る怪物であることは確かだ。
戦闘機人はスカリエッティの命令を忠実に実行しているだけ。決して、無差別に破壊と殺戮をばら撒くデモニアックとは違う。
ウェンディは、そう信じていた。信じたかった。
それが、今のディードは自ら悪魔になることを望んでいる。
たった今、悟った。今日のディードの無謀な戦いは、単に憎しみに駆られただけでなく、戦闘機人から脱却しようとしていたのだ。
だからこそ、ジョセフを追い詰められた。
この分なら、ジョセフを仕留めるのも不可能ではない。だが、その先はどうするのか。復讐を果たしたとして、そこから後は。
もしもスカリエッティに背いたなら、姉妹までも敵に回すことになる。帰る場所もなく、生きる目的もない。それで何が残るというのか。
どうしたって失った日々は返らないのに。
「じゃあ……ディードは何なんスか!? 戦闘機人でも何でもない化物になって、独りになって……それで何処に行こうって言うんスか!!」
ディードが理解できない異質なものに変異しようとしていると感じ、ウェンディは無性に怖くなった。
もしや自分は――復讐を止めようとして、図らずも押してしまったのだろうか。
最後の一線を躊躇って越えられなかった、揺れる彼女の背中を。
「私の半分は闇の中に消えてしまった……。だから私もそこに行くの……でも、それはジョセフを斃してから」
疑念は確信に変わり、ウェンディは愕然とした。
淡々とした、抑揚のない呟き。怒りも悲しみも抜け落ちた平坦な声。
けれども、確かな決意だけは感じる。
それがウェンディには堪らなく悲しかった。同時に、許せなかった。
昨日のトーレとは違う。もう何を言っても、何をしても彼女は止まらない。それでも。
「バカッ!!」
パァン――冷たい廊下に響き渡る乾いた音。
ウェンディの平手が、ディードの左頬を張った。
「オットーが死んで辛いのが自分だけだと思ってるッスか! 後悔してるのも、自分を責めてるのも、アンタだけだって!!」
大粒の涙をポロポロ零しながら叫ぶ。それは、ディードを気遣うあまり言えなかった本音。
オットーが感染したと思しき時、ウェンディも傍にいた。傍にいて、何もできなかったのだ。
気付いた時は怖かった。自分が許せなかった。もしも感染経路が予想の通りだとしたら、
オットーがデモニアックになった原因は自分にもあるから。
みんなそうだ。ディエチも、セインも、ノーヴェも考えていたはず。本当にできることはなかったのか、
少しでも何かが違っていればオットーを助けられたんじゃないかと。
「全部自分一人で背負って……短い付き合いだけど……あたし達は姉妹じゃなかったんスか!
苦しいなら吐き出して欲しかったッス。オットーの"代わり"になれるなんて思わないッスけど、それでも……」
血が繋がっているわけでもない。長い時間を共に過ごしたわけでもない。家族の団欒をしたことなんてない。それでも。
ウェンディの記憶に、姉妹は大切なもの、という認識は確かに刷り込まれていた。きっと、それはノーヴェやセインも同じ。
トーレやディエチも、多分そう。セッテとクアットロは――ちょっと分からないけど。
スカリエッティも含めて、自分達は疑似的な家族を形成していた。一般的な家族らしいことは何一つしていないし、
そこに意味も必要も見出していないが、それでも。
自分一人で突っ走って。あまつさえ、復讐さえ果たせれば死んでもいいなんて。
絶対に認めたくなかった。オットーと支え合っていた時の、自分が彼女達を気に入ったあの夜に戻ってほしい。
そんな願いを込めて、ウェンディは涙ながらに訴えた。しかし、
「……あなたがオットーの"代わり"? ハッ、笑わせないで」
願いは鼻で笑い飛ばされた。研究所を脱走したオットーの映像を見たクアットロが、ディードの治療と言う提案を一笑に付した時のように。
嘲笑うディードの表情は、あの時のクアットロそっくりだった。
「オットーの代わりなんていない。何処を探したって見つかるはずない。さっきも言ったでしょう、これは私一人で成し遂げる。
誰よりも私がオットーを想ってたんだもの。あなた達の助けは……いらない」
「アンタはまだ……!」
再び振り下ろす右手。だが今度はディードに掴まれた。万力のように凄まじい握力で絞めつけられ、ビクともしない。
「あぐっ……!」
痛みに呻くウェンディ。どれだけ苦しんで見せても凍りついたディードの心は動かず、力も緩めようとはしない。
だからどうした。
空いた左手でディードの右頬を叩く。拳を握らなかったのはせめてもの情けで、それ以上の意味などあるはずもないのに。
「もう、あんたの尻拭いは御免だよ! 勝手に一人で何処へでも行けばいい!!
ただし、ドクターやみんなに手を出したら、その時はあたしがアンタを撃つからね!!」
決別の台詞と裏腹に、堪えきれない涙が頬を伝った。普段の口癖も忘れるほど激昂しているのに、何故か涙が止まらなかった。
「おい! お前ら何をしている!!」
騒音を聞きつけたのか、ようやくトーレ他、姉妹達が集まってきた。
見た目からでも分かる両者のダメージ、剣呑な雰囲気。食い縛った歯の間から荒い息を吐くウェンディと、
右頬を青く、左頬を赤く腫らしたディード。そして二人が揉み合う現状。
ただならぬ状況を察した姉妹が二人を取り囲む。
まずノーヴェが、ディードに飛びかかろうとしていたウェンディを羽交い絞めにした。
セインも割って入り、前からウェンディの肩を取り押さえる。
「落ち着け! どうしたんだよ、これは!」
「そうだよ、ウェンディ! ディードも! なんで二人がケンカなんて」
「とりあえず説明してもらおうか」
と言ったのはチンク。間に立って交互に顔を見回すが、どちらも答えようとはしない。
セッテ、ディエチ、クアットロはそれぞれ傍観を決め込んでいたが、表情はそれぞれ異なっていた。
一人は平然と、一人は不安げに、一人は嫌悪と侮蔑を隠しもしない。
ディードは答える必要はないとばかりに踵を返すが、どんと立ち塞がる壁に遮られる。
姉妹で最も鋭く、厳格な眼光がディードを見下ろしていた。
「またお前か、ディード。ドクターの許可なしに外出した上に、戦闘をしたのか。何故、勝手に出撃した」
トーレがディードの前に立つ。ただでさえ背の高いトーレである、上から厳しく問い詰められれば重圧も相当だろうが、やはり答えはなかった。
「ジョセフか」
ディードの肩が微かに震え、初めて横顔に変化が生じた。
「その様子だと仕留められなかったな。もう一本のツインブレイズはどうした。破壊されたのか?」
ギリ、と歯を噛み鳴らした彼女は、しかし一歩も怯むことなく、無言でトーレを見返す。が、完全に視界に収めるより早くスーツの胸倉を掴まれ、
半ば強制的に目を合わされた。息がかかりそうな至近距離。どちらの目つきも、とても姉妹に向けるものとは思えなかった。
「お前は自分の仕出かしたことが分かっているのか! 武装をなくしただけでも失態だと言うのに、
それどころか危うく捕まって情報を局の連中に与えるところだったんだぞ!」
それは、目の前で恫喝されても変わらない。
それにしても、だ。
やはり行動はモニターされていた。その割には通信で制止も掛からなければ、直接引き戻しにも来なかったのは不自然。
にも関わらず、トーレは烈火の如く怒っている。
ウェンディは疑問に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。
「しかもオットーの仇討ちだと!? 馬鹿が! ジョセフを殺したところで、ドクターには何のメリットもない。衆目に姿を晒せば情報を漏らすだけ不利になる、
それくらいの判断も付かないほど血迷ったか。ならば今一度、肝に銘じておけ。我々はドクターの為にのみ存在する。
今は大事な局面だ。下らん些事にかかずらっている暇などない」
空気が凍った。
ディードの髪の毛は一本一本まで静かな怒気が満ち、全体が膨らんで見える。怒気は今にも溢れんばかりだ。
駄目だ、それ以上言ってはいけない。
喉まで出かかっているのに声が出せなかった。渇いた喉からは擦れた喘ぎしか出ない。
何故、誰も気が付かない。
ディードが後ろ手でツインブレイズを持ち直し、固く握っていることに。
まさか。
脳天から爪先まで悪寒が走る。冷や汗がこめかみを伝う。駆け出そうにも、ノーヴェにきつく羽交い絞めにされていて動けない。
まさか、オットーの復讐を侮辱されたからといって、この場でトーレを――。
ぞわっと怖気を誘う殺気がディードから放たれ、トーレが身構えた。
その時だった。
「くっくっく……まぁいいじゃないか、トーレ。その辺にしておきたまえ」
「ドクター……」
一触即発の状況で、たった一言が場の空気を塗り替えた。
カツン、カツン、と冷たい廊下に靴音を響かせ、薄気味悪い含み笑いを漏らしながら現れた白衣の男。
隣にナンバー1、ウーノを伴った彼こそ、ドクターことジェイル・スカリエッティ。
畏れ多くも造物主からの鶴の一声で、トーレは掴んだ手を解き、距離を取った。
「ウェンディ、ディード、まずはよく無事で帰ってきてくれた」
「え……?」
そう言ったのは誰だったのだろう。ウェンディもディードもトーレも、全員が同じように呆気に取られて呟いたのかもしれない。
独断専行を犯した二人を迎える態度としては、それほどまでに不自然なものだったのだ。
「ディード、疲れているところ悪いが、早速データを採らせてもらおう。ああ、治療もしなくてはな。さぁ、こっちへ」
ディードを促し、通路の奥へと歩きだすスカリエッティ。その姿はまったくの自然体。
怒るでも呆れるでもなく、むしろ金色の眼に喜色すら浮かべている。
任務を終えて帰ってきた際と同じ労いの言葉を掛けてくるスカリエッティに、ウェンディは震えた。恐怖すら感じた。
まったく読めない。この人が何を考えているのか。
「ドクター! よろしいのですか!?」
「トーレ、すまないがこの件は私に預からせてくれ。チンクも、いいだろう?」
それはトーレも同じだったらしく、抗議の声が上がった。が、それも手を上げたスカリエッティに軽く制される。
「仰せの通りに」
「…………はっ、了解しました」
「ありがとう。君達も、もう休んでいい」
スカリエッティはウーノにも何事か囁くと、彼女は一礼して去っていく。障害になるなら主とて殺すと言ったディードと、
ウーノまで排して一対一になる気なのだ。
胸がざわめく。本当に二人きりにしていいのだろうか。
ウェンディは居ても立ってもいられなくなり、
「ドクター! ディードは、その……」
気付けば制止が勝手に口をついて出た。呼び止めたところで、何を言えばいいのかも分からない。だが呼び止めずにはいられなかった。
振り向いたスカリエッティは――笑っていた。
「ウェンディ、取り急ぎデータは一人でいい。君は傷を治療しなさい、私もディードが終わったらそっちに向かおう。
心配はいらない……私は何も聞いていないよ」
まだ何も言っていないのに。
これではっきりした。スカリエッティは帰ってきてからのやり取りをすべて聞いていた。
当然ディードの豹変にも勘付いているはず。ならば姉妹を遠ざけてやることは一つ。
記憶の消去。
暴走するディードをもう一度、忠実な手駒に戻す。
戦闘機人は純粋な機械ではない。コンピューターのように簡単に初期化できるものではないが、
スカリエッティは精神操作にも長けている。起動後間もない今なら、かつてのディードを再現するのは簡単だろう。
従順で感情表現に乏しい、ただの戦闘機人になら。
記憶を消しても、戦闘データは別に蓄積されているからフィードバックは容易にできるし、問題は特にないのかもしれない。
反逆の危険はなくなり、ディードが無謀な戦いを挑んで犬死にすることもない。スカリエッティの計画に狂いは生じない。
万事解決――でも、それでいいのだろうか。
胸のざわめきは消えてくれない。一つの疑問の氷解と同時に、また新たな疑問が芽吹く。
(あたしは一体……どっちを心配してるっスか……?)
スカリエッティを殺させるわけにはいかない。彼に生み出され仕える戦闘機人として、それは絶対。
でもディードだって放っておけない。さっきはああ言ってしまったが、記憶の消去までする必要があるのか。
彼女はただの従順な人形なんかじゃない。オットーも同じ、稼働してたった数週間でも、生きていた。
喪った辛さから復讐に走るほど想い合っていた。
(あたしは、ディードの為に何をしてあげられる……?)
ディードの、戦闘機人全員にとっての唯一の仲間であり家族、同種の存在である姉妹。
中でも半身とまで言った双子を忘れてしまったら。
それでもまだ、ディードはディードと呼べるのか?
自分は受け入れられるのか?
他の姉妹はどうなのだろう。少なくとも、変わり果てた二人を間近で見てしまったウェンディにはできなかった。
オットーを忘れて無感情になったディードを見るなんて、きっと真実の重みに耐えられない。
ああ、それならいっそ自分の記憶も消してほしい。そうすれば、こんなモヤモヤした気持ちを抱えることもないのに。
(いや……落ち着くッス……)
ぶるぶると、かぶりを振って深呼吸。
そもそも、まだ消去されると決まったわけでもない。ディードがスカリエッティに危害を加えるとも。
懸念しているような事態になるかもしれないし、ならないかもしれないが、唯一つ確かなこと。
どちらにせよ、その場に居なければ、すべては自分の与り知らぬところで決まってしまう。
それだけは絶対に認められない。
「どうした? ウェンディ、君はもう行っていい」
俯き考え込んでいたウェンディに、スカリエッティの言葉が降りかかる。ウェンディは答えあぐねたが、意を決して切り出した。
もしも最悪の状況になれば、止められるのは自分しかいない。ここ数日、ずっとディードを見てきた自分しか。
「いや、その……ドクター、あたしも一緒に行っちゃダメッスか?」
「……いいだろう。好きにするといいさ」
嫌らしく歪むスカリエッティの金色の瞳は、すべてを見透かされているような気がした。
最終更新:2010年10月31日 15:14