ティアナは思い出していた。ヴァイスと再会してから、これまでのことを。
 天を貫く光を見た時、居ても立ってもいられず、バイクを走らせていた。ヴァイスの顔を見た瞬間は、涙が溢れて止まらなかった。
みっともなく、彼の胸にしがみついて泣きじゃくった。
 冷静になってみると、かなり恥ずかしい。でも、あの時感じた気持ちに嘘偽りはない。全部が真実、心からの感情。
 ただ、あの気持ちの正体は何だろう。愛には四種あると言うが、恋慕、親愛、友情、どれも正しくて、どれも違う気がする。
無償、神の愛――ではないか。どんな言い訳をしても、見返りを求めているのは事実なのだから。考えて分かるはずもなく、
ティアナは早々に思考を切り替えた。
 それから未完成な封鎖の隙を突いて脱出し、ひたすら走った。何時間も走って、走り続けて、どこまでも逃げられるなら、
それもいいかと思えた。思うままにならぬ身体も、心も、もうたくさんだ。
 ようやく落ち着く場所を見つけた時には、既に夜になっていた。ささやかながら食事ついでに情報交換をした。
 この身体はブラスレイターと呼ばれる存在。ジョセフは何らかの目的があって、融合体から人を守りながら旅をしている。
昨夜、ゲルトに襲われた恐怖から自分は暴走し、身体を張って止めてくれたのがジョセフだった。
これらの出来事、ティアナの得た必要な情報をすべて伝えた。
 ヴァイスは終始冷静だったが、唯一暴走に関しては僅かに渋い表情を見せ、難儀だったな、と頭を撫でられた。
大きくて温かい手が懐かしくて、ティアナは彼に見えないよう小さくはにかんだ。

 次にヴァイスの口から語られたのは、主に昨夜のフェイトとのやり取りと、ゲルトとの出会い。
 自分達は戻らない。昨夜、ヴァイスはフェイトに告げた。それは一昨日から昨日にかけて、二人で話し合い、決めた上での結論だった。
 一つは、戻れば確実に迷惑を掛ける。体面上の問題もあるが、最大の問題は力の制御不安にある。暴走した時、
ヴィータやシグナムなら止めを刺してくれるだろうが、もしアルトやルキノだったら?
何の戦闘力も持たない、ヴィヴィオやアイナだったら? 
 そして万が一、なのはやフェイトを感染させでもしたなら。
そうなれば、最早誰にも止められない。未熟なティアナですらエリオを圧倒したのだ。
生まれるのは間違いなく最強のモンスター。いずれも、想像するだけで恐ろしい。
 もう一つは、そんな姿を見られたくなかった。どこかで出会っても気付かず、ただの融合体として処分してくれればいい。
せめて他人の記憶にだけは、人としての姿で残りたかった。通常の融合体と異なるブラスレイターの特別な外見では、最早叶わぬ願いとなってしまったが。
 本当は帰りたい。スバルにもエリオにも謝らないといけない。
 でも帰らない、帰れなかった。
 だから、彼らとは、これで終わりなのだ。

 ゲルトとは、融合体発生を知った時点で別れたらしい。怪我が治りきっておらず、
XATにもマークされているゲルトが人目につくのは危険だった為、別れざるを得なかった。
 彼との会話の情報で得られたものは案外少なく、彼もまた、翻弄されているだけに過ぎなかった。
 分かったのは、自分の時と同様、人をブラスレイターに変える薬を持った女の存在。ジョセフは何か知っているようだったが、
彼は何も語らなかったので、何物かは知りようもない。結局、これも考える材料が少な過ぎる。
 ティアナはくすんだ古い壁を見つめて、溜息を一つ。
 そして今、隣のベッドにはヴァイスがいる。ここは安ホテルの一室、ベッド脇の薄汚いスタンドがおぼろげな光を放つ。
時刻は二十一時を回った頃だろうか。寝るには早い時間だが、昨日、一昨日に引き続き、激動の一日で疲労は溜まっている。
おまけに昨日はまともに寝ていないのだ。
 いくら安いとはいえ、限られた軍資金は節約する必要があるので、部屋はツインである。防音とは程遠い薄い壁からも、
今は何の音も聞こえない。夜の静寂が、かえって五感を冴えさせていた。
 自分で真っ暗は嫌だと言っておきながら、光に背を向けている為、ヴァイスの様子は確認できない。
ヴァイスとベッドを並べているだけでも緊張するのに、彼の方を向くなんて、とてもできそうになかった。
 代わりに頭に浮かぶのは、ゲルト・フレンツェンのことばかり。考えるなと意識すればするほど、想像してしまい、身震いを誘う。
 かれこれ三十分はそうしていただろうか。 ティアナは意を決して、寝返りを打つ。
偶然にも、ヴァイスもこちらを向いていた。一瞬視線がぶつかり、咄嗟に逸らす。
 こんなにも勇気が要ったのは初任務以来か、初めてかもしれない、それでも。
 どれだけ鼓動が激しくなろうとも、顔に火が点こうと言わなければならなかった。

「あの……ヴァイス陸曹、そっちのベッドに行ってもいいですか……?」
「はぁ!?」

ヴァイスが思わず素っ頓狂な声を上げそうになった。というか半ば上げてから口を抑えた。
予想した通りの反応に頬を紅潮させ、両手をパタパタ振って、慌てて訂正する。

「あ、いえ、違うんです。目を閉じると昨日、今日のことばかり思い出してしまって。話しましたよね? 
あたし、昨日もおかしくなりかけて……だから、意識を失うのが怖いんです。一人になったら、
また暴走するんじゃないかって……」

 今朝、ジョセフの傍で眠っていても、夢の中では独りきりだった。何度も悪夢に苛まれて覚醒した。
 暗闇の中、顔のない何かから必死で逃げ続ける。最後には必ず捕まり、次は自分が鬼になって、
顔のない誰かを追いかける。その薄気味悪い鬼ごっこは、己の未来を暗示している気がしてならなかった。

「駄目……ですか……?」

 上目遣いで遠慮がちに問う。図らずも、媚びるような仕草。しかも、頬は赤らめたままで。
もしも拒絶されたら、そんな不安が顔にまで表れていた。

「分かった分かった! 分かったから、そんな……捨て犬みたいな目で見んな」
「すみません……」

 捨て犬――言い得て妙だと思った。
 雨に濡れて階段下に蹲り、独り途方に暮れていた。近づく人間すべてを恐れ、牙を剥いた。
二日前から何も変わっていない、生き場をなくした捨て犬。
 家族は死に、夢は潰え、帰る場所も友もなくし、生きる目的もない。
それでも死にたくないと望んでいる、滑稽だった。
 そこへ、救いの手を差し伸べてくれたのがヴァイス。拾ってくれた彼の隣なら、安心して眠れる。
夢でも独りではなくなると思えた。
 じっと反応を待つ。が、答えはない。
これは許可と受け取っていいんだろうか。しかし、今更聞き返すのも恥ずかしい。
 固まっているティアナに溜息を吐くと、ヴァイスは寝返りを打って背中を向けてしまう。
 落ち込みそうになったところに、

「まぁ……好きにしろ」

 曇ったティアナの顔が、ぱぁっと明るくなる。いそいそとベッドを出て、隣のベッドに歩み寄った。

「……失礼します」

 いざ入るとなると躊躇われたが、後には退けない。彼の匂いがするベッド、身体を滑り込ませると、心臓が一際跳ね上がった。
 ベッドは二人では少々狭い。ヴァイスが詰めてくれたものの、胸の鼓動まで聞こえるほど密着する距離。
 高鳴る鼓動を誤魔化しつつ、緊張を紛らわそうと、気掛かりだった質問をしてみる。

「あたし達……ミッドチルダから逃げなきゃいけないんですか?」
「確実に生き残りたいなら……そうするしかねぇだろうな。明日ならまだ、空港のガードも甘い。俺達の存在も非公式だ、
なんとかして出られるかもしれねぇ。けど、明後日からは絶望的だろう」

 ヴァイスは背を向けたまま言った。
 ただでさえ、ミッドチルダを離れる市民は日に日に増すばかり。検疫も厳しくなっている。
ミッドチルダ全体が破綻するのは時間の問題と言えた。明日を逃せば、僅かなチャンスすら消え去ってしまう。

「ここは、あたしがずっと暮らしてきた世界で……兄さんや両親のお墓もあって……」

 去ってしまえば、二度と戻れないかもしれない。スバルやなのはにも、もう二度と。
 加えて、自分達は感染源である。危険を外の世界にばら撒くのは、元局員としても、あまりに無責任な行為。
 瞳に涙が滲む。ティアナは、ぐしゅっと鼻を鳴らし、ヴァイスの背中に顔を埋め、震えた声で呟いた。

「ヴァイス陸曹、あたし……強くなりたいです。……今日だってあたし、何もできなくて。ジョセフが戦ってるのに、
クロスミラージュを起動するのが怖くて……もどかしくて、悔しくて……」

 ずっとクロスミラージュを握り締めて、震えているだけだった。
初めて意識を持った融合体、ブラスレイターと出会った日からずっとそうだ。迷い、惑い、いつも何かに翻弄され続けている。
何かある度に揺さぶられ、生きる意味すらも曖昧で。目標も何一つはっきりしない。
 失明しては揺らぎ、ブラスレイターになっては揺らいだ。戦えない自分にも、ヴァイスの真意を知った時も、
それから離れ離れになり、そして今日も。
 昨日、寸でのところで踏み止まれたのは、ジョセフの血のお陰である。手を染めた血から連想したのは、エリオとの戦い、罪の証。
もし思い出さなければ、今度こそ終わりだった。
 もう、揺らされたくなかった。己の中に確固たるものを打ち立て、今度こそ生きる為に強くなりたいと心から願った。
しかし、その為に何をすればいいのか、答えはやはり闇の中。明日のことも分からない。

「あたしも……いずれ、ゲルトみたくなってしまうんでしょうか?」

 ゲルトも今は正気を保っている。しかし分かるのだ、ブラスレイターは常に堕ちる恐怖と闘わなければならない。
 それでも、"あたし達"とは言わなかった。もしも自分が三度暴走したなら、その時はヴァイスに止めて欲しかったから。

「今、そんなこと気にしてもしょうがねぇだろう。今はとにかく休め、な」
「はい……おやすみなさい」

 従って目を閉じると、全身が心地良い眠気に包まれる。不思議なものだ、さっきまでは眠ろうとしても眠れなかったのに。
 今、求めていた優しい温もりが、両手の届く距離にある。逃がさないように、そっと背中のシャツを摘まむ。
代わりでもいい、傍にいることを許してほしい。
 こんな穏やかな気持ちで眠るのは久し振りだった。ヴァイスが殉職する以前だから、実に2週間ぶりになる。
これまで、眠りに就くのが、こんなに幸せなのだと忘れかけていた。
 緩やかに薄れていく意識。完全に眠りに落ちるまで、ティアナは祈り続けた。

 願わくば、ヴァイスも同じ気持ちで眠れますように。


 数分か数十分かした頃、背中から小さく規則正しい呼吸が聞こえた。背中のシャツを摘まんでいる細い指を、
そっと解いて仰向けになる。見ると、傍らの少女はようやく、くぅくぅと小さな寝息を立てていた。
 これでも若く、健康な成人男性である。相手がティアナであるとはいえ、完全に理性を制御して、
野性を封じ込められるとは断言しかねる。
 がしかし、捨てられた子犬のような顔をしたかと思えば、今は安心しきった子猫を思わせる寝顔。そう思うと、
背中を小さく丸めている姿勢も、どことなく愛らしい。
 困ったもので、眺めていると、どうにも男性より父性が先立ってしまう。いや、別に困りはしないのだが。
 ふと考える。自分にとって彼女はどんな存在なのだろう、と。
 元同僚。妹の代理。なけなしの人間性を保つ為の依存先。
 或いは自分を映す鏡。己の半身。どれでもあり、どれでもない。
 名前のない関係、名前の付けられない存在。
 でも、かけがえのない大切な娘。唯一、それだけは確かだった。
 あえて名付けるなら、運命共同体だろうか。しかし、それも違う気がする。

「俺だって余裕なんかねぇ……でも、それをこいつの前で言えるかよ」

 浮かぶのは狂乱したゲルト。あれが未来の姿かもしれない。いつまで、自分は自分でいられるのだろうか。
 ティアナとまったく同じ疑問を抱く。
 いや、もしかしたら今だって、眠っている間にひとりでに起き出して、人を襲っているかもしれないのだ。

「まさか……な」

 昼は温厚な紳士が、夜は凶暴な怪人ヘ。古典文学じゃあるまいし。
 軽く自嘲して、脳裏に浮かんだ馬鹿馬鹿しい妄想を振り払う。芽生えてしまった一抹の不安と共に。
 以前からそうだった。不安の正体を探る為、記憶を辿ろうとすると、頭の奥深くがズキリと痛んだ。
それが、ティアナのことを案じている間だけは忘れられた。彼女の世話を焼くことで精神の均衡を保っている自分を、改めて自覚する。
 今だけは何も考えない方がいい気がした。天井を眺めて、大きく欠伸をする。今はこのまま、睡魔に身を任せていたい。
 もう一度背を向けようとすると、解いたはずのティアナの指は、いつの間にか強くシャツを握っている。
解こうかとも思ったが、止めておいた。こうしておけば、勝手に起き上がった時、真っ先に彼女が気付いてくれるだろう。
 ティアナのこの手は、人間から乖離していく自分を繋ぎ留めてくれる唯一の希望。何故だか、今はそう思えてならなかった。
 ヴァイスは、傍らで寝息を立てる少女の頭を撫でて、そっと祈りを込める。

 せめて、今だけは安らかに。


 天然の光の届かない、冷たい通路。長時間いれば、否応にも不安と寂しさを掻き立てる空気。
カツン、カツンと靴音を響かせ歩くなのはの胸に、様々な想いが去来する。
 朝の時点で潰れる寸前だったというスバルが、ヴィータとの会話で何を思い、どう変わったのか。
ヴィータとほぼ入れ違いに六課を出たなのはは、その内容までは知らなかった。
気分転換を兼ねて、少し遠くから街を歩きながらここまで来たのだが、スバルにどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

(もし、スバルがここで潰れるとしたら、スバルを追い詰めたのは私。ティアナとスバル……直属の部下二人を潰すことになる)

 スバルは強い。身体は勿論、心も。しかしスバルは、ティアナの失明の責任が自分にあると気に病んでいる。
現に一昨日の夜と昨日の朝、スバルは、普段の彼女が見る影もないほど打ちのめされていた。
 スバル一人が気に病む必要はない――何度そう言っても、気休めにもならなかった。ティアナの負傷を招いた責任は、
計略にはまって散り散りにされた自分達、隊長陣にある。それでも、スバルはティアナに庇われたことを十字架として背負っていた。
 次々入る辛いニュースを聞いていることしかできず、地下の空気は孤独感を煽る。よほど強い意志を持っていなければ、
スバルだって心が折れても不思議はない。

(最悪リタイアもあり得る。けど、ティアナと戦うことを思えば……)

 仕方ないのかもしれない。
 覚悟が決まらなければ、この先の戦いは切り抜けていけない。感染経路が未だ特定出来ていない以上、
魔導師にも伝染する可能性は否定できない。今後、同じ犠牲者が出ないとは誰にも断言できなかった。
 最も疑いが濃い血液感染の対策に、BJのフィールド機能をより強化させることで、返り血程度なら問題はなくなる。
空気感染も、フィルターである程度は防護可能。但しダメージを負いBJが破損、傷口と血液が接触した場合は、その限りではない。
そうなれば、魔導師とて感染、デモナイズするかもしれない。

(中途半端な気持ちでティアナとの戦いに臨めば、死は必定。生きていたとしても、取り返しのつかない傷が残る。身体か、心か、或いはどちらにも……)

 それならいっそ、ここで降りるのも一つの選択肢。その方がずっといい。死ぬよりは、ずっと。
スバルの隔離から四十七時間経過時点でデモニアック化の兆候はなく、感染の疑いはないとXATの研究班は判断した。
貴重な戦力を遊ばせておく余裕はない。その為少々早いが、既に解放の許可も出させた。つまり、後はスバル次第。
 地下にいる時間は一分にも満たないのに、冷たく重い空気は口から心の隙間まで入り込んでくる。
それがスバルの独房に近づくにつれ、違和感を覚えた。
 周辺の空気は明らかに変化し、熱気が漂ってさえいる。はぁ! だの、たぁ! だのと、時折聞こえる掛け声は静けさを切り裂き、
むしろうるさいくらいだ。
 覗き窓から中を覗き込むと、揺れる青い髪が最初に目に入る。フットワークも軽やかに拳を打ち下ろし、
腰を捻って足を蹴り上げるスバルがそこにいた。

「スバル、もうすぐ時間だよ」

 暫く眺めてから声を掛けると、激しく動く身体が、頭の高さまで足を蹴り上げた状態で静止する。
汗を散らしながら振り向いた表情は清々しく溌剌とし、昨日の朝見たスバルとはまるで別人。いや、なのはの知る本来のスバルの顔だった。

「あ、なのはさん!」
「元気そうだね、スバル……何やってたの?」
「トレーニングと、それからシューティングアーツを基礎から復習してました。一人でできることってこれくらいですし。
無駄にした三十八時間を少しでも取り戻そうと思って」

 三十八時間ということは、もしやこの型を昼からずっと続けていたというのか。休憩を挟んだとしても、かなりの長時間。
全くもって恐ろしい体力だと感心する。同時に、自分の心配は杞憂だったかと胸を撫で下ろした。

「ふふっ、ここだと随分窮屈そうだね」

 彼女が明るさを取り戻したことが嬉しくて、なのはは小さく笑った。しかし、これから話すことは、和やかな雰囲気ではできない。
 なのはが真面目な顔を作り直すと、スバルも足を下ろして身を正す。
 ドアを挟んで、二人が向かい合った。

「今が二十一時五十五分だから、もう少ししたら出ていいよ。でもその前に……昨日の話の答えを聞かせて」


「はい、あれからいっぱい考えました。シグナム副隊長、ヴィータ副隊長、フェイトさん、キャロ……色んな話を聞いて、
色んな想いがあるって知りました。なのはさん、あたし……やっぱりティアを諦めたくありません」

 スバルはまず、結論から話した。なのはの表情が俄かに険しくなる。
だからといって臆することは何一つない、怯まず、正面から視線を受け止めた。

「それが、仲間や民間人を危険に晒すとしても?」
「……あたしはこれまで、融合体が元は人であるってことを、あんまり考えてきませんでした。分かってて考えないようにしてました。
融合体の被害者や周りの気持ちも、こんな風に直接受け止めたのは初めてです」

 シグナムの言う業、自分達の仕事の重み。フェイトの言う、傷つけられた者の痛みや苦しみ。目を背け続けてきた現実を突きつけられた。
苦しんで、狼狽して、醜態を晒して、受け入れたつもりだ。

「傷つけられるのは怖い。でも、独りになるのも同じくらい怖いし、誰かに追い立てられるのも、やっぱり怖い。
あたしは、そんな誰かを助けたいから入隊したんです」

 たったあれだけの時間でも、何もできず独りきりになる苦しさは、嫌というほど味わった。だからこそ過去の贖罪や償いではなく、
今この瞬間も苦しんでいるであろうティアナを、見捨ててはおけなかった。それは自己の否定にも繋がる。

「ちゃんと分かってる? 自分より確実に強い相手が殺す気で向かってきて、それを殺さずに制する。
その上で自分も他人も守るっていうのが、どれだけ難しいのか」
「それは……」

 すぐに答えられなかった。何故なら、そんなことは不可能だからだ。そんなものは最強と同義である。
 ただし、それが一人ならば。
 恥知らずな行為だとしても、助けを求めなければ実現はできない。
スバルは軽く言い淀んでから、その先を口にする。

「分かってます。だから望めるなら、みんなに力を貸してほしい」
「ティアナを止める為に、誰かが犠牲になるかもしれない。スバル一人の我が儘に、みんなを巻き込むつもり?」
「誰かがティアを斃そうとしても、あたしは止めろなんて言えません。エリオもキャロもみんな大事です。
あたしは……エリオもキャロもなのはさんにも、みんなに死んでほしくない。でもティアだって死んでほしくないんです」

 どんな姿になってもティアナは友達であり、仲間。
 これが偽らざる本音。
 ヴィータの言った、ありったけの気持ち。

「だから、あたしが真っ先にティアに辿り着きます。戦うことになっても、なのはさんやヴァータ副隊長に教わったやり方で、
ギリギリまで話したいんです。あたしが先頭に立って、命懸けでティアを止めて見せます。ティアに人を殺させません」
「命懸けなんて軽々しく言わないで。それに、命を懸けるなんて最前提の条件だよ。
私達は、これまでだって命懸けだったんだから。スバル……もしかして、まだ"自分が悪い"って引きずってるんじゃないよね? 
もし自己犠牲や罪の意識で、ティアナや誰かを救うなんて思ってるなら、そんなこと絶対認めないよ」
「あたしも死にません、絶対に死ねませんから」

 なのは達を守るなんて、自惚れにもほどがある。だが、自分も含めた六課の人間を一人でも殺せば、
彼女はもう人に戻れないと思った。だから、何としても止めて見せる。この命を賭してでも。

「もう、自己満足を優先したりなんかしません。あたしの罪悪感なんて、いくらでも積もればいいんです」

 きっとそれも自己満足なのだろう。そんなことは百も承知だった。どんな綺麗事で飾っても結局は、
"親友だから助けたい"、この気持ちを否定できはしないのだから。
 なのはは何も言わない。黙して目で続きを促した。

「本当のティアの望みを見極めたい。融合体になった人を何人も殺しておいて、ティアの力になりたい、本当の願いを聞きたい。
そんな我が儘言うんだから、恨みでも罪悪でも……泥だって何だって被るつもりです」

 嗚呼、駄目だ。
 考えれば考えるほどに、自分の言っていることは穴だらけだ。
 戦場において、死なない、殺さない、仲間もそうでない人間も守る。
 あれほど強く固めた決意は、口にしただけで酷く薄っぺらいものに感じられた。
 だから、言葉を尽くすのはこれで最後にしよう。

「傲慢だね。それに偽善」

 数時間悔やんで悩んで出した決意は、たった一言で切り捨てられた。なのはは変わらず、冷たく鋭い矢のような視線を向けてくる。
 スバルは何も言わない。ただ真っ直ぐに、瞳でなのはに答えを返した。


 なのはは黙してスバルの答えを待った。しかし、数十秒待っても続きは語られない。その目で力強い視線をぶつけてくるだけ。

「それが答えってことか……」

――ティアナを殺せるのか否か。

 スバルは沈黙を以て答えとした。元々正解のある問いではない。だが沈黙は、なのはの考える正解に近い答えだった。
 決意を言い淀むのは困る。しかし堂々否定するようでは、正しく理解しているのか疑わしい。
 今はどうあれ、ティアナは凶暴化する可能性を秘めている。それはゲルトの例を見るまでもなく明らか。
彼女が凶暴化しても助けたいということは、自分だけでなく、仲間や無関係な民間人の危険を意味する。
 この沈黙の意味は否定。が、局員として、口にすることが許されないのは自覚しているのだろう。些かずるい方法ではあるが。
 もしも他の誰の犠牲も厭わず、ティアナが大事だと公言するなら、スバルは隊を辞めて一人で追うべきだ。
もしも彼女がそう言っていたら、自分はどうしただろうか。
 だが、スバルがここをティアナとヴァイスの帰る場所だと思うなら。それを、二人も本心では望んでいると考えるなら。
 スバルはここで、スターズ03の役割を果たさなければならない。スターズ04の席を確保しておく為に、たとえ石にかじりついてでも。
 それすらも、一縷の望みに賭ける為の前提条件に過ぎない。
 戻ったところで、ティアナが復帰できる可能性はゼロに等しい。それこそ、地上も本局も含めた管理局すべてが
ひっくり返りでもしない限り。
 XATや地上本部にどう対応するかなど、問題は山積している。その上で、戦うとスバルは言った。
それは言うなれば命を"懸ける"というより、命を"賭ける"行為。
 賭け金すらままならず。
 この上なく分の悪い賭けの為に。
 果てしなく険しい綱渡りをする。
 つまりはそういうことだ。代価も支払わず、身の丈に余る望みを口にするなら、とどのつまり命を賭けるしかない。
命を天秤に掛けざるを得ない状況で、どちらも取るということは、どちらの重さも背負うこと。その重さは、彼女が背負っていた十字架の比ではない。
 それだけの無茶をするのに、死ぬわけにはいかないなどと、矛盾もいいところだ。そんなものは、なのはが最も嫌う類の行為。
 だが、叱る気にはなれなかった。叱っても変えられないという確信があったから。誰の助力が得られなくても、スバルは一人でも実行する。
 いつぞや彼女らの無茶を叱ったが、きっとスバルは、今こそが無茶の使い時だと考えているに違いない。
いっそ、どちらかを選んでしまえば楽になるだろうに。
 なのはは深々と溜息を吐いた。まったく、この頑固さには根負けしそうになる。

「うん、合格」

 なのはがにっこり笑うと、スバルは目を瞬かせ、ぽかんと口を開けた。
もとより覚悟を聞いたまで。彼女の本気を確かめられれば、それでよかった。
いざと言う時、気持ちを固めておかなければ、迷いが生まれてしまう。それを危惧してだった。
 緊張の糸が切れたスバルは、胸を押さえて大きく息を吐き出す。呼吸すら止めて緊張していたらしい。

「スバル、大丈夫?」
「なのはさん……あたし、もしヴァイス陸曹がティアを支えてなければ、たぶんマッハキャリバーと一緒に逃げてました。
罪悪感に囚われて、ティアのところに行こうとしてたかも……。でも、それじゃ駄目なんですよね……」

 それでは、間に立つ人間が一人増えただけ。ティアナの孤独を紛らわすことはできるかもしれないが、
一時の感情に任せて突っ走って、本当に彼女の孤独を癒せるとは、望みを叶えられるとは思えない。
 あの模擬戦の時とは違う。スバルがそこまで理解しているなら、本当にやり遂げられるかもしれない。

「あたしは、ここで出来ることをしなくちゃ……ティアが戻りたいと望んだ時、こっちから引っ張れるように」

 スバルは誰に言われるまでもなく道を選び取った。むしろ迷っていたのは、弱かったのは自分の方。
今の今までスバルを見くびっていた。

「ごめんね、スバル……私は自分で信じようって決めたのに、まだスバルを信頼できてなかった……」

 無鉄砲で、頑固で、真っすぐで。心と力を尽くしてぶつかれば、壊せない壁も、切り開けない道もないと信じている。
 幼い頃は確かに持っていた、がむしゃらな気持ち。最近は忘れかけていた真っすぐさを、スバルは思い出させてくれた。

「私だってスバルみたいに、自分の気持ちに真っすぐに走ってた。諦めるなんてできなくて、必死に足掻いて押し通してきた。
変ったことを間違ってるとは思わないし、後悔もしてない。けど……」
「私……なのはさんの根っこは、いつだって変わってないと思います。あたしの命を助けてくれたのは、
あたしに諦めないことを教えてくれたのは、なのはさんですから」
「うん。だから分かるよ。スバルの気持ちは本物だって。そんなところも、私と同じだから……」

 なのははロックを外して、独房のドアを開く。そこには、立ち上がったスバルが気をつけの姿勢で立っている。
今ようやく、ドア越しでなく、ありのままのスバルと向き合えた気がした。

「私の考えは変わらないよ。あくまで、状況次第ではティアナとヴァイス君を討つ。でも……」

 スバルにそれだけの覚悟があるなら、乗っかる意味はある。独りでは背負えなくても、二人なら背負えるかもしれない。
二人なら、生まれる力は倍以上。
 ティアナとヴァイスだって、必ずしもゲルトのように暴走するとは限らない。まだ、希望は残っている。

「民間人の安全が最優先。指揮には絶対に従うこと。それが守れるなら、私の責任の範囲内でスバルの行動を認める。
はやてちゃん、フェイトちゃん、副隊長二人にも分かってもらう。それと……」

 なのはは、ドアの外からスバルに手を差し出す。これは単なる解放ではない。闇に張られた一本綱への第一歩。
待ち受けるのは最悪、ティアナとの戦い。

「他のみんなが何て言っても、私はギリギリまでスバルの我が儘に付き合ってあげる。命懸けでね」
「はい!!」

 スバルは迷わずなのはの手を握った。なのはも、スバルの手を固く握り返す。
 外に待ち受ける困難のすべてを承知の上で、スバルは胸を張り、顔を上げる。そして大きく一歩を踏み出した。

予告

 蠢く悪夢。力なき者の嘆きは怨嗟に塗れ、街を濁らせる。彼らは人であるが故に弱く、人であるが故に醜い。

第5話
迷える者たち

 ならば人を捨て、他者を喰らえる強さとは美しさなのか。

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最終更新:2010年10月31日 15:07