海鳴市、八神家―――03:54 p.m.
 雄介はキッチンで包丁を握り、はやてはお茶を啜りながらテレビを見つめ。
 ヴィータは二画面の携帯ゲーム機を操りながら、脚を伸ばしてソファでだらける。
 シャマルは夕飯の買いだしの最中で、シグナムは剣道の道場に行っている最中。
 ザフィーラは何をするでもなく、子犬の姿のままでリビングで横たわって居た。
 それは何処の家庭にもある、日常的な午後の光景であった。

「雄介ー」
「んー?」

 不意にヴィータが、ゲーム画面から目を逸らした。

「今何してんだ?」
「ああ、最近暑くなって来たから冷ややっこ作ろうと思って」
「おおー、冷ややっこか! 食べる食べる!」

 嬉々として返事を返した。
 子供らしく脚をばたつかせるヴィータを見て、雄介も笑顔になる。
 雄介が今言った通り、最近は夏に向かって徐々に暑くなってきている。
 初夏なのにこれ程暑いのは、雄介の世界でも懸念されていた地球温暖化による為か。
 何はともあれ、はやての言い付けで真夏になるまでクーラーの使用は禁止されている。
 それ故に、少しでも暑さを紛らわせようと雄介が考えたのが、冷ややっこという手段であった。

「確かに、最近は急に暑くなってきた気ぃするなぁ」

 テーブルの上に誰かが放置した団扇を手に取り、はやてが言った。
 恐らくシャマルあたりが使ったのであろう、駅前で配られている団扇であった。
 団扇で軽くぱたぱたと仰ぎながら、気だるげに告げるはやてに雄介が返す。

「聞いた話じゃ、このままだといつか日本も夏と冬だけになっちゃうらしいですしね」
「そうなのか!? それって大変な事なんじゃないのかよ!?」
「うーん、確かに夏と冬しかないって国も結構あるんだけど……
 春夏秋冬は日本の特徴の一つだから、それが無くなっちゃうのは、やっぱり寂しいよね」

 その言葉に、はやてとヴィータが項垂れた。
 豆腐に包丁を入れながら、そんな光景を眺める。
 人為的な事件ならまだしも、環境問題は流石にどうしようもない。
 一人一人が地球の環境の事を考えて、少しでもエコを心がけるくらいしかないのだ。
 雄介も極力気を配っては居るが、こればかりはすぐに変わる事柄でもない。

 そんな時であった。
 はやてが見ていたワイドショーで、司会が話題を変えた。
 今最も話題になっている、未確認生命体による殺人事件についてであった。
 実際には話題の原因となった42号は雄介が倒したのだが、そんな情報が公開される訳もない。
 それ故に世間では42号はまだ何処かに潜伏していると考えられており、今でも警戒は解かれて居なかった。
 雄介もテレビ画面に視線を移し、現在の話題に耳を傾ける。

『――相次ぐ未確認生命体による殺人事件に対し、警察庁は未確認生命体対策本部を設立し――』

 この世界でもこうなってしまったのか、と雄介は思う。
 雄介が元々居た世界でも、人を殺して回る未確認生命体に対処する為、警視庁が動き出した。
 社会的に危険な存在と認識されたのであればそうなるのは当然なのだが、やはり素直に喜べない。
 未確認が居ない、平和な世界だと思っていたこの世界は、ふとした事で大きく変わってしまった。
 最早この世界も雄介の居た世界と大きな変わりは無い、未確認事件が発生する世界となってしまったのだ。
 ただ違うのは、46号はこの世界では第1号。42号が目撃情報から、第2号として認識されている、という事だが。
 幸いクウガが戦ったのは結界の中であった為に、未だ世間にその存在を知られてはいない。

 そうこうしていると、不意に呼び鈴の音がリビングに鳴り響いた。
 包丁を握る手を休め、どうするべきかを考える。目の前に居るのははやてとヴィータ。
 大人がいない現状、来客を出迎えるのは否応なしに大人である自分になるだろう。

「あ、冷ややっこは私がやるから、雄介君出てきてくれる?」

 その言葉に軽く返答し、雄介は身に着けていたエプロンを外した。
 入れ違いにはやてがキッチンへと入り、雄介が置いたクウガマークのエプロンを身につける。
 はやてははやてで、冷ややっこを食べた後で、少しだけ外出する予定がある。
 故に、早い所冷ややっこを食べてしまいたいと思っていたのだろう。
 合理的な判断であった。


 EPISODE.22 消失


 海鳴市、月村邸―――04:00 p.m.
 42号との戦いが終わってから数日後、ある日の放課後の出来事。
 場所はアリサ・バニングスが住まう豪邸に勝るとも劣らぬ大豪邸――月村邸。
 アリサとすずかがテーブルに向かい合って、柔らかな微笑みを浮かべて談笑していた。
 そんな中、月村家のメイドであるノエルがテーブルに並んだカップに紅茶を注いでゆく。
 二人の少女は、ノエルに軽く礼を告げて、そのまま後方へと下がらせた。

「やっぱりノエルさんの紅茶は美味しいわね」

 と、アリサ。
 友人に仕えるメイドを、まるで自分の事の様に誇らしげに告げた。
 そもそもメイドや使用人を雇っている家など、海鳴市でもアリサとすずかの二件だけだ。
 アリサも普段自分の家で仕えるメイドを見慣れているし、それ故に使用人を評価することも慣れている。
 褒められたノエルは後方で、僅かに微笑みを浮かべ、一礼。感謝の気持ちを体現した。

「それで本題なんだけど、未確認生命体はアリサちゃんにかけらを渡せって言ったの?」
「うん、一応なのは達にも伝えたんだけど」

 ことん、と音を立て、テーブルに金色の物体を置いた。
 照明の光を受けて黄金に輝くそれは、何処か禍々しく思える。
 今となっては、欠片を見るアリサの視線も、何処か不安げであった。

「私もね、あの未確認に言われて、暫くの間は何の事だかわかんなかったのよ。
 けど、なのは達の話を聞いて、心当たりがあるならやっぱりこれかなって思って」
「うーん……私はこういうの見ても、何にもわかんないけど、何かあったら大変だもんね」

 力になれない事を申し訳なく思い、すずかは僅かに俯いた。
 だけど、なのは達も、その欠片は危ないかもしれないと言っていた。
 と言っても、42号が起こした殺人事件の影響で、今現在学校は「未確認」という言葉に敏感になっている。
 表向きには42号が死んだという情報も公表されて居ない(というよりも出来ない)為に、未だ脅える子供もいるのだ。
 そんな生徒が大勢居る学校で不用意に未確認の話も出来ず、放課後もう一度集まろうという事になった。
 以上の経緯があって、二人は今なのは達魔道師組を待って居た所だ。

「「あ」」

 不意に、すずかとアリサが呟いた。
 二人のポケットの中で、携帯電話が振動していたのだ。
 二人揃って携帯を取り出し、同時に送られてきたメールを読む。
 それから一拍の間をおいて、アリサとすずかは向き合った。

『ごめん、みんな! 私もみんなと一緒にすずかちゃんの家に行きたかってんけど、
 さっき家に警察の人が来て、私は暫く家から出られへん感じになってもうたんよ。
 だから未確認の欠片の話はなのはちゃんとフェイトちゃんに任せる形になるけど、
 話が纏まったら私にも教えてな。今日はほんまにごめんな~……』

 との事であった。
 差出人は言うまでもなく八神はやて。
 送信先はアリサ、すずか、なのは、フェイトの四人。
 一斉送信だった。

「警察って……はやての奴、今度は何やらかしたのよ」
「今度はって……誤解される様な事言っちゃ駄目だよ、アリサちゃん?」

 すずかのツッコミに、アリサはにししと笑った。
 軽い冗談を交えて、二人の間に再び笑顔が戻ってゆく。
 とりあえず、はやては今日来れなくなってしまったらしい。
 何故家に警察が来たのかは明日聞くとして、今日は四人での集会だ。
 一応「はやてを責める気はないから気にしないで」、とのメールを返しておく。

 ぱたん、と音を立てて携帯を閉じると、気付けば足元に一匹の猫が寄り添っていた。
 グレーの毛並みのその猫は、この屋敷に住まう大量の猫の中で、最もすずかとの付き合いが長い。
 幼少の頃に初めて両親に買って貰ったブリティッシュショートヘアの猫の名を呼び、両手を広げる。

「ミック、おいで」
「にゃあ~」

 可愛らしい泣き声と共に、ミックがすずかの膝に跳び乗った。
 グレーの美しい毛並みは「永遠の傑作」とも呼ばれるブリティッシュブルーの証。
 当然安い買い物では無い品種であるが、富豪である月村家からすればそれ程問題では無い。
 初めてのペットであるミックを、すずかは家族のように愛していた。

「その子、最初は全然私に懐いてくれなかったのよね~」
「あはは、でも今ではアリサちゃんも、ミックのお友達だもんね」
「まあね。ほら、ミックー?」

 名を呼んで、アリサがお茶菓子のスプーンを数度振った。
 それを見届けたミックはすたっと跳び下りて、アリサの足元にお座りした。
 今し方アリサが見せたのは、きちんとしつけられたミックだからこそ出来る儀式。
 ミックに特別なご褒美を与える時にこの仕種をすれば、ミックは大人しく従うのだ。
 指示に従ったミックを褒めながら、アリサはお茶菓子を一つ、ミックに与えた。

「もう、あんまり与え過ぎないでね? 太ったら色んな病気の原因になるんだから」
「わかってるわかってる、たまにしか会えないんだから、ちょっと遊んでみただけよ」

 すずかの家には、このミックを筆頭に、拾って来た大量の猫が居る。
 それというのもすずかが大の猫好きで、捨て猫を見付ける度に拾って来るからなのだが。
 拾うだけなら誰でも出来る。凄いのは、大量の猫全てをきちんとしつけ、栄養管理も怠らないことだ。
 猫の飼い方に関してはこだわりがあるらしく、すずかとしてもそれだけは譲れないらしい。
 それこそが、すずかの猫への愛情の現れであった。

 それから三十分程の時間が経過して――
 不意に、屋敷の中へと呼び鈴の音が鳴り響いた。
 すずかとアリサ、二人の目線が交差して、たちまち笑顔になる。
 玄関へと向かおうとするノエルを引き止めて、二人が席を立った。

「迎えに行こっか、アリサちゃん」
「そうね、折角来てくれたんだから、私達がお出迎えしないと」

 友達が来てくれたのに、出迎えをメイドに任せきりというのも酷い話だ。
 笑顔で立ち上がった二人の意思を汲み取ったノエルは、部屋を後にする二人に追随。
 一応メイドたるもの、仕事を何もしないというのも問題なのだろう。
 友達を迎えに行ったアリサ達と共に、ノエルはこの部屋を出た。

「にゃあ~……」

 誰も居なくなった部屋で、泣き声が響いた。
 確かにこの部屋に人はもう居ないが、正確には誰も居なくなった訳ではない。
 その場に残されたミックが、眠そうな目でテーブルの上に飛び乗った。
 ミックの目を引いたのは、テーブルの上に置かれた金色の何か。
 光ものだからか、本能的にそれに興味を惹かれたミックは、それへと手を伸ばし――
 次の瞬間には金の欠片を口に咥え、何処かへと走り去っていた。




 海鳴市、八神家―――04:02 p.m.
 八神家の玄関先で、五代雄介は一人の人間と対峙していた。
 黒のスーツをきちっと着こなす長身の男。髪の毛は黒の長髪。
 慣れた手付きで警察手帳を差し出す男が醸し出すは、出来る男の空気。
 エリート風のイメージを抱かせる、若手の刑事であった。

「突然お邪魔してすみません。私は未確認生命体対策本部の氷川と申す者ですが」

 差し出された名刺を受取って、雄介は否応なしに一人の男を思い出す。
 元の世界で、未確認生命体合同捜査本部に所属していた、最も信頼出来る相棒。
 市民を守る警察官として、エリートの道を歩んで来た、若手の刑事――一条薫。
 氷川誠と名乗った男は、図らずも雄介にあの戦いの日々を思い出させた。
 黙ってしまった雄介を心配したのか、氷川が顔を覗き込み、告げる。

「あのー……どうかしましたか?」
「あ、いえいえ! 何でもないですよ。で、今日はどうしたんですか、刑事さん」

 慌てて返す雄介に、氷川は気を取り直した様子で続けた。

「未確認生命体が小学生を連続で殺害した事件に関しては、当然ご存知ですよね」
「ええまぁ……ご存じ、ですねぇ」
「それについてなんですが、またいつ第2号が現れるか解ったものではありません。
 幸い今のところ八神さんのお子さんは無事の様なので、本人から当時の状況を窺いたいのですが」
「あぁ、なるほど……えーっと……」

 暫しの沈黙が流れて、

「……あっ! 無論、強制はしません! 事件が事件ですし、拒否する家庭も少なくありませんので」

 慌てて氷川が付け足した。
 それはそうだ。未だに42号に脅えて暮らしている子供だって少なくないのだ。
 友達を殺された子供のトラウマを抉るような真似をする訳には行かない。
 それ故に、事情聴取を断った家庭に関しては、それ以上の関与はしない。
 警察たるもの、当然と言えば当然の措置であった。

「目撃情報とか、当時の話とか、何でもいいんです」

 真摯な態度で雄介に訴える氷川。
 この態度を見るに、氷川誠というは人間はよっぽど真面目なのだろう。
 初対面の雄介がそう思う程、氷川の視線は熱意に満ちていた。
 しかし、そんな雄介のイメージが壊れるのは、次の瞬間。

 ――ぐぅ~。

 と、鳴り響いたのは、腹の虫。
 雄介の胃袋が鳴らした訳ではない。
 となると、その犯人は目の前にいる男のみ。
 雄介の眼前、氷川が恥ずかしそうに俯いていた。

「ほな、話ついでに、うちで冷ややっこ食べて行きます?」
「え?」

 気付けば雄介の背後、はやてが微笑みを浮かべていた。


 海鳴市、八神家―――04:12 p.m.
 テーブルを囲むのは、向かい合って座るはやてと氷川に、ヴィータと雄介。
 四人の前に小さな取り皿が置かれて、氷川が申し訳なさそうに視線を落とす。
 ここまで氷川ははやてと二人で事件当時の話をしていたのだが、当然有益な情報など聞き出せる訳もなく。
 はやてははやてで、魔法やクウガの事など説明も出来ないので、ただ知らないと言う事しか出来なかった。
 成果が無いだけでなく、ここまで気を遣わせた事に気を落としているであろう氷川を気遣って、雄介が笑顔で告げた。

「はい、氷川さん。お腹は膨れないかも知れないけど、美味しいですよ、冷ややっこ!」

 ごとり、と音を立てて、冷ややっこがテーブルに出された。
 綺麗な四角に切られた豆腐は、空腹時にはより食欲を刺激する。
 だが、氷川の事を事を考えた雄介の笑顔も、氷川にとっては素直に喜べる事では無く。

「いえ、私は勤務中の身であって、決してこの冷ややっこを食べたいなどとは――」

 ――ぐぅ~。

 言葉を遮り、鳴り響く腹の虫。
 次いでごくりと、生唾を飲み込む音が聞こえた。

「ま、まぁまぁ……難しい話だけっていうのも何ですし、折角なんやし、遠慮せずに!」
「……仕方ありませんね。八神さんがそこまで言うなら、頂く事も吝かではありません」
「素直に食いたいって言えよ、面倒くさい奴だな」

 ぽつりと呟いたヴィータに、

「こらヴィータ、刑事さんにそんな事言うたら逮捕されるよ」
「えー!?」

 はやての言葉を信じたヴィータが絶叫した。
 そんな光景に、氷川は何も言わずに顔を顰める。
 それから箸を取り、両手を合わせて短く合掌。
 氷川は黙々と冷ややっこへと手を伸ばした。

「「「頂きまーす」」」

 雄介とはやて、ヴィータの声が揃った。
 それぞれが自分の箸で、自分の分の豆腐を掴む。
 口に運んで、ひんやりと触感を楽しみ……笑顔になる。

「美味しい! やっぱり夏はこれやなぁ~」

 と、笑顔ではやて。
 黙々と豆腐を頬張るヴィータも満面の笑みであった。
 それを見ている雄介も、自ずと笑顔になってゆく。
 そこで不意に思いだしたように、

「あ、どうですか氷川さん、美味しいでしょ――ッ!!!」

 言いかけて、止まった。
 雄介の眼前に広がって居たのは、酷く無惨な光景。
 豆腐は一口たりとも氷川の口へと運ばれてはいない。
 そこに居るのは難しい表情で箸を握る氷川と――

「うわ……豆腐がぐちゃぐちゃ」

 思わずヴィータが呟いた。
 そこにあるのは、箸で掴み切れず、細かく挟み千切れた豆腐。
 何度も豆腐を落とした事で、撥ねた水がテーブルを濡らしていた。
 それを見るはやての表情は――笑顔。どう見ても、笑いを堪えていた。
 流石に気まずくなった雄介は、笑いを堪えながら告げた。

「あぁ~、もう、駄目ですよ氷川さん、無駄な力入れちゃ」
「無駄な……力……?」
「ほら、俺が取りますから」
「! 余計な御世話はやめてください!」

 氷川が声を荒げた。
 軽く箸を雄介に向けて、

「君は、黙って見てればいいんだ」

 もう一度、冷ややっこを箸で掴んだ。
 今度は慎重に、ゆっくり、ゆっくりと。
 少しずつ箸が豆腐に食い込んで、徐々に持ち上げてゆく。
 緊迫の空気が流れ――次の瞬間には、冷ややっこを自分の取り皿へと移す事に成功していた。
 一つの難題を成し遂げた事による満足感か、氷川の表情に浮かぶは満面の笑み。
 それはまさに一つの事柄をやり遂げた、男のそれであった。

「どうです。まさに、完っ璧だ!」
「……甘いなぁ~」

 腕を組み、やれやれとばかりに告げたのは雄介。
 困惑した様子で、氷川は雄介を見遣った。

「あ、甘い? 何が……」
「これは木綿豆腐だから上手く行ったんです」
「も、もめっ!?」

 うろたえる氷川に、

「「木綿。」」

 ヴィータとはやてが声を揃えた。
 次いで雄介が、豆腐を指差して、笑顔のまま告げる。 

「今の手付きじゃあ、絹ごし豆腐は取れませんよ」

 何の他意も無い雄介の言葉。
 されど、それは氷川という人間に火を付けるには十分であった。
 氷川誠という人間は、目の前の敵から“逃げ出す”という事を絶対にしない。
 そこに壁があるなら、どんなに困難であろうと努力を重ね、やがて乗り越える。
 それが氷川誠の生き様であり、絶対に譲れないポリシーであった。
 周囲の視線から、乗り越えるべき壁がそこにあると判断。
 一拍の間を置いて、氷川は声を荒げる。

「では、絹ごし豆腐を出して下さい!」
「いえ、うちにはありませんけど……」

 困惑した様子で告げる雄介に、

「わかりました!」

 箸を勢いよくテーブルに叩き付けた。
 これは試練だ。自分に課された、試練の壁だ。
 乗り越えずして何とする。氷川誠は、絶対に逃げない男なのだ。
 故に――

「買ってきましょう!!!」

 怒涛の勢いで立ち上がり、急ぎ足で部屋を出て行った。
 最早自分を見る周囲の目が“呆れ”に変わって居る事など、気にも留めずに。
 そうだ。周囲の目など関係無い。他者から押し付けられた価値観など、知った事じゃない。
 例えどんな目で見られようと、自分は自分だけの道を貫き、どんな無理も己が力でこじ開ける。
 氷川誠は、紛れもない漢であった。


 海鳴市、八神家―――04:57 p.m.
 ここに再び、氷川誠という一人の男の戦いが始まった。
 テーブルを囲むは、雄介とはやて、ヴィータにシャマル。
 先程よりもギャラリーが増えた事で、氷川にも自ずと熱意が込もる。
 目の前に置かれた皿。そこに顕在する強敵「絹ごし豆腐」。
 これを攻略してこそ、自分の威厳が保たれるのだ。

「ねぇちょっとヴィータちゃん、この人何してるの……?」
「こいつ、刑事の癖に豆腐を箸で掴めねーんだってよ」
「黙りたまえ。豆腐を掴めない事と刑事である事は何の関係もない」

 周囲の雑音などシャットアウトしてしまえばいい。
 そうだ。今は全ての雑念を忘れ、目の前の豆腐に集中するのだ。
 黙々と箸を掴み、皿の上に置かれた絹ごし豆腐へと手を伸ばす。
 ゆっくりと掴み――

「あっ」

 次の瞬間には、箸が豆腐をねじ切っていた。
 だが、豆腐はまだある。たかが一つの失敗で、立ち止まりはしない。
 続けて二つ目の豆腐へと箸を伸ばし、

「あっ」

 二つ目の豆腐が無惨に千切れた。
 それから先は、同じ事の繰り返しであった。
 掴もうとすれば掴もうとする程に、豆腐は小さくなってゆく。
 氷川が箸で掴む度、箸によって挟みきられた豆腐の残骸が皿へ落下する。
 その結果、撥ねた水がテーブルを汚して、最早氷川以外の人間は嘆息するしか出来なかった。

「これは……酷いわね」
「やっぱりなぁ~……」

 シャマルとはやてが、呆れた様に続ける。
 そもそも氷川に絹ごし豆腐が掴めないと言うのは、最初に雄介が指摘した事だ。
 最初からこの場に居る誰しもが、どうせ掴めないだろうとは思っていた事。
 それ故に驚きもしないし、ただただ呆れる事しか出来なかった。
 頭を抱えてうろたえる氷川を嘲笑う様に、ヴィータが言う。

「お前本当に刑事かよ。豆腐くらいあたしだって掴めるぞ」
「……ちょっと待って下さい!!!」

 ばしっ! と音を立てて、箸をテーブルに叩きつけた。
 先程家を出た時と同じ勢いで椅子から立ち上がり、氷川がヴィータを指差す。

「豆腐を取れないから私は刑事ではないと言うんですか! 納得出来ません!」

 それから、先程までの鬱憤を晴らすかの様に、

「第一っ……! 何ですか豆腐なんて!! こんな物は、スプーンで掬えばいい話だ!!!」

 無惨に千切れた豆腐を指差し、絶叫した。
 これには流石の雄介含む八神家一同も呆れるしか無く。

「氷川さんがやろうって言いだしたんじゃないですか」

 雄介を筆頭に、八神家一同が微妙な視線で氷川を見る。
 雄介とはやては苦笑い。シャマルはどうしていいものかと困惑した瞳で。
 ヴィータに至っては最早笑いを堪える気すら無く、堂々と氷川を笑っていた。
 流石に居心地が悪くなってきた氷川を救うのは、携帯電話の着信音。
 失礼、と一言告げ、ポケットの中で鳴り響く携帯を手に取る。

「どうしました、北条さん……?
 はい……はい……解りました、すぐそちらに向かいます」

 それだけ言って、氷川は携帯電話を再びポケットにしまった。
 黙ってリビングの入り口まで歩を進めると、一度振り返り、

「まだ第2号の脅威が無くなった訳ではありません。くれぐれも気をつけて、何かあればすぐに連絡してください」

 そう言って、軽く一礼しようとした――その刹那。
 両手を後頭部で組んで座っていたヴィータが、

「第2号って、もうクウガに倒されたんじゃねーのかよ?」

 何の気無しにそう告げた。
 瞬間、周囲の空気が緊迫する。
 クウガの存在は、この世界ではまだ誰も知らない。
 それ故に警察は未だ第42号(=第2号)の件で動き回っているのだ。
 いけない、忘れていた、と。ヴィータもすぐに自分の失言に気付き、自ら口を塞ぐ。
 されど、当然の事ながら刑事たる氷川がその言葉を聞き逃す訳も無く。

「クウガ? 何ですか、それは」
「あ、いや、今のはあたしの勘違いっていうか……」
「こらヴィータ、またゲームの話ばっかりして、刑事さんを困らせたらあかんよ」
「そ、そうそう……あたしが今やってるゲーム話なんだよ。ごめん、はやて」

 はやての機転に救われた。
 上手く話を合わせたヴィータが、恐る恐る氷川の表情を見る。
 二人のやり取りを見た氷川は、その答えに安心した様子であった。
 どうやらただの子供達のゲーム話だと信じてくれたらしい。
 胸を撫で下ろすはやて達をよそに、氷川は一礼した。

「それでは、私はこれで失礼します」

 こうして一人の刑事が八神家を後にした。
 幸い、今回は相手がすんなりと話を信じてくれたから良かったものの。
 もしも勘の鋭い、切れ者の刑事が相手だったなら、何か勘付かれて居たかも知れない。
 そういう反省も込めて、この後ヴィータは、はやてとシャマルに軽く説教される事となった。

 ――そんな中、八神家のテーブルの上、一つの皿の中身。
 説教にかまけている間、どう触れていいものか解らなかったそれが……。
 小さく千切られた豆腐の残骸が、この日の夕飯時までずっと残って居たという。


 同刻、海鳴市、月村邸。
 先程までアリサとすずかが談笑していた一室で、少女達が所せましと駆け回る。
 慌てた様子で、テーブルの下や家具の物影、ありとあらゆる場所を覗いて回るアリサ。
 同様に、なのはやフェイトも、慌てた様子で部屋中あらゆる場所を物色する。
 そんな中で、アリサが珍しく冷や汗を浮かべ、絶叫した。

「ない! ない! 何処にもない!」

 テーブルの上に置いた筈の物体が、無くなった。
 つい先程まですずかと一緒に話題にしていた筈のものが。
 そう。第42号が求めていた、金色の欠片が。
 この部屋から、消え去っていたのだ。

「落ち着いて、アリサちゃん。本当にこのテーブルに置いたの?」
「それは間違いないよ。私もここに欠片が置かれてるのを見たから」

 なのはの問いに、すずかが答える。
 確かにこのテーブルの上に、金の欠片は置かれていたのだ。
 それなのに、なのはとフェイトを迎えに行ったほんの数分の間に、それは消えた。
 正確な時間は計っていないものの、時間にして五分も経過していなかった筈だ。
 何の気無しにテーブルの上に置いたものが、こんなにも短時間で消え去るなどと、誰が想像出来ようか。
 こんな事なら最初から自分で持って居れば良かった、とアリサは酷く後悔する。
 だけど、今更そんな事を言っても始まらず――
 とにかく今は、欠片を探すしか無かった。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年02月03日 07:56