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早朝、まだ陽が昇る前にエリオは目を覚ました。ベッドから起き上がろうと無意識に右手をつくと、
「痛ぅっ……!」
電流にも似た痛みが右腕を肩まで駆け抜ける。見ると、二の腕は、しっかりとギプスで固定されていた。
そうだった。そういえば、この右腕は二日前の戦闘で折れたのだったか。
薄暗い室内を見回すと、そこは寮の自室。昨夜、フェイトに付き添われて戻ってきたばかりだった。
エリオは左手で身体を支えるとベッドに腰掛ける。じんわり鈍い痛みで、すっかり目が覚めてしまった。
短パンから伸びる左膝には包帯が巻かれ、右肩も同じように巻かれていた。
硬い腕を撫でる。この腕を見つめていると、あの日の光景がまざまざと蘇る。あの日、感じた怒り、憎しみ、そして恐怖が。
二日前――そう、まだ二日なのだ。信じる正義が揺らぎ、誰を相手に戦えばいいのか分からなくなってから。
それを言えば、顔見知りの同僚を喪って怒りに燃えたのは二週間と少し前だし、
仲間の夢の道を断たれて激しい復讐の念に駆られたのはその一週間後だ。
そもそも融合体と名付けられた怪物が現れだしたのが数ヶ月前である。
たったその程度の時間で、エリオを取り巻く世界は大きく変わってしまった。
それでも、やるべき仕事を果たしさえすればよかった。その意味では身体は辛くとも、はっきりと目指す先は見えていた。
二日前、すべてが崩れ落ちるまでは。
それは、十二日前の戦闘で両目を抉られ負傷、入院していたティアナ・ランスターの見舞いに行った時のこと。
突然の悲鳴に駆け付けたエリオを待っていたのは、気絶したスバルを抱く怪物の姿。
上半身と下半身でアンバランスな容貌をした、朱色の髪をライオンの鬣の如くなびかせた融合体。
エリオはスバルを助ける為にストラーダを振るった。傷を負った融合体は逃走、それを怒りのままに追跡し、
一度は融合体に深手を負わせることに成功したが、またも逃げられてしまう。
そして、追い詰めた路地裏で再びの戦闘。最初は単調な動きと侮っていたが、その油断を突かれ、右腕を折られた。
雨で濡れた地面を利用し、サンダーレイジで反撃したと思いきや、それは幻術で作り出した偽物。
本体は、はるか空中に跳び上がり、強烈な踵落とし。明らかに融合体に可能な芸当ではない。
辛うじてストラーダで防いだものの、がら空きになった左膝と右肩を、それぞれ同時に撃ち抜かれる。
エリオは我が目を疑った。融合体の両手には見慣れた白い二挺の拳銃――クロスミラージュ。そして幻術と来れば、もはや疑う余地はない。
融合体の正体は病室から消えた僚友、完全に視力を失ったはずのティアナ・ランスターなのだと。
倒れたエリオの額に銃口が押し付けられる。銃身は雨に濡れて冷たく、それでいて、魔力弾を放ったばかりの銃口は熱を帯びていた。
その燃え盛る炎のような朱の瞳に晒された瞬間。
ゴリ、と額に硬い銃口が押し当てられた瞬間。
頭が真っ白になった。
忙しなく渦巻いていた、何故だとか、どうしてとかいった思考はすべて吹き飛び、残ったのは絶対なる死のビジョン。
自分のたった十年余りの短い生涯は、ここで唐突に、あまりにも呆気なく終わってしまうのだという確信だけ。
窮地を救ってくれたのはフェイトでもなのはでもない。ティアナと同じく――いや、彼女以上に、そこにいるはずのない人。
殉職したはずのヴァイス・グランセニックとストームレイダーだった。エリオはヴァイスの言葉に唯々諾々と頷き、去り行く二人を見送った。
傷で動けなかったんじゃない。完全に思考が停止していた。
この時、何もしなかった自分を悔いたのは、もっと後になってからだった。
追想を終えたエリオは立ち上がり、少しよろめいてベッド脇の松葉杖を掴む。本当は杖がなくとも支障はないのだが、何故だか立ち上がった瞬間、傷が疼いた。
小さな魔力弾だったせいと、撃たれた場所がよかったらしく、膝と肩の傷は思いのほか軽かった。
シャマルの治癒も受けた結果、杖も数日でいらなくなるだろうとのこと。ただ折られた右腕だけは、どれだけ早くても一週間は掛かるらしい。
シャマルもキャロも常に付いていてくれるわけではないし、骨など重要な部位は自然治癒に任せるのが一番だと言われた。
痛みはほとんどない。けれども疼くのだ。
ティアナを、それと知らず悪魔と罵ったこと。あまつさえ殺しかけたこと。そもそもが憎しみに囚われて先走った挙句、目を曇らせていたこと。
不甲斐ない自分への怒り。
思い起こせば、病室でのティアナはまだ正常な状態だったのかもしれない。だとすれば、どうして弁解してくれなかったのか。
逃げても状況が好転するはずなどないのに。
ティアナに対する疑念。
ティアナとヴァイスを見送ったことで、融合体の真実はまた一歩遠ざかった。自分が戦えない間は、スバルとキャロと隊長達に負担を背負わせる。
仲間への申し訳なさ。
深く、治る当てのない傷。それはエリオ自身の心に刻まれた傷だった。
傷は今、この瞬間も叫んでいる。焦燥感を伴ってエリオを苛む。こんなことをしている場合ではないと。
確かに。怪我をしていても、戦えなくても、何かしらできることはあるはずだ。ティアナとヴァイスの件を伏せておけるのは、今日が限界。
最悪の場合、二人はXATの手によって抹殺されてしまう。
しかしエリオは迷っていた。いっそ二人の件はXATに任せるのも手ではないかとすら思い始めていた。
何故なら、エリオにはもう一つ傷があったからだ。
自分を苦しめる傷の最たるもの。誰にも言えない、知られたくない、その傷を知っているのは一人だけ。
それは昨夜の出来事。
退院するエリオを迎えに来てくれたのはフェイトだった。杖をついて、彼女の運転する車の助手席に乗り込む。
帰りの車中で二人きり。どちらも黙って口を開こうとしない。
普段なら照れを感じて会話が途切れてしまうのだろうが、この時は違った。圧し掛かる重過ぎる現実が、互いから会話する余裕すら奪っていた。
やがて車が道程の半分を過ぎた頃、フェイトが重い口を開く。
「昨日、ティアナとヴァイス君に会ったよ」
ゲルト・フレンツェンの脱走、暴走に始まり、ヴァイスとの戦闘とティアナの転落事故。彼女が見たすべてを、フェイトは淡々と語り切った。
その心中は窺い知れない。彼女の中で整理は付いているのか、それとも、今のエリオのように混乱が渦巻いているのか。
フェイトは反応を求めているのか、再び口を閉ざした。それきり重苦しい沈黙が車内に充満する。
聞こえてくるのは、すれ違う対向車の音のみ。重みを増した空気は口から入り込み、少しずつエリオから言葉を絞り出そうとする。
そして数分後、とうとうエリオの口をついて出たのは、自身でも信じられない一言だった。
「僕は……ティアナさんが怖い……」
フェイトに臆病な自分を晒したくはなかった。
無論、男の矜持もある。しかし、それ以上に怖かった。
軽蔑されるんじゃないか。
仲間を恐れるなんて、と叱責されるんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎってしまって。
けれど、己の弱さを吐露できるのが彼女しかいなかったから。
ひとたび堰を切ったが最後、エリオ自身にも止められなかった。
「あれは……人じゃなかった……」
ティアナじゃなかった。
本当はそう言いたかったけれど、言えなかった。あれは間違いなくティアナなのだ。
「これまでも死にそうになったことはあるけど……あんなに怖かったのは初めてだった。
どうしようもなく怖いのに、体を動かそうにも、どうにもならなくて。それなのに、ああ……僕は死ぬんだ、って。そう、淡々と感じてた……」
語るエリオはフェイトを見ない。
怖くて見られなかった。
ただ、膝に置いた拳を見つめ、身体ごと震える声で打ち明ける。
そこにいたのは騎士でも魔導師でもない。
プライドや立場を取り払った、ただの子供としてのエリオ。
「それなのに、後になってから堪らなく怖くなって」
「エリオ……」
「教えてください、フェイトさん。あれは"まだ"ティアナさんなんですか? 僕達は……もう一度、分かり合えるんでしょうか」
フェイトに縋って答えを求める。泣き出す寸前の、この上なく情けない顔で。
フェイトは淡々と前を向いたまま、エリオを見ずに答えた。
「最初の質問については、"まだ"ティアナと呼べると思う。
私は直接話してないけど、ヴァイス君の口振りから察するに、彼が一緒にいることでティアナの精神状態は安定してるみたい。
それがいつまで続くのか、今もそうなのかは分からないけど。でも、もう一つは……私にも分からない」
なのはに課せられた宿題。
ティアナを、その手で斃せるか否か。
スバルならきっとティアナを守りたいと言うだろう。ティアナを救う為に戦うと。暴れるなら身体を張って止めると。
毎日、足しげく見舞いに通う姿からして、彼女がティアナの負傷に責任を感じているのは明らかだった。
エリオとキャロだけが知っている、ティアナの前でスバルが見せていた顔。
表面上は笑っているのに、どこか不安定な、今にも泣きだしそうな張り詰めた表情。
見るに堪えなかった。
キャロは迷っている様子だったが、彼女は強くて優しい娘だ。確信はないが、スバルと同じ意見に傾くような気がする。
「でも駄目だ……僕にはできない……」
強くて優しい、キャロのようにはなれない。染みついた恐怖が、どうしたって拭い去れない。
けれど、それが"あれ"を見たが故と言い切るのも、己の弱さを誤魔化すようで嫌だった。
「でも怖いからってだけじゃないんです。ティアナさんを放っておいたら、きっと恐ろしいことになる。だから……」
「だから?」
フェイトは車を路肩に寄せて停車させ、優しい声で繰り返した。
「だから……僕は……」
どうしたいのだろう。
ティアナを放置しておけない。スバルほどティアナを手放しに信用できない。
だからと言って、ティアナを融合体として斃すのも嫌だった。それ故の苦悩。
もう一度、仲間の為に、力なき人々を護る為に、死んでいった人々の為にと、
大義を振りかざして心を怒りに染められたなら、どれだけ楽だろう。
でも、ティアナとヴァイスであると知ってしまった以上、それもできそうになかった。
「いいんだよ、エリオ。無理に戦わなくても……」
優しく、赤子をあやすようにして髪を掻き分け、頭を撫でられる。エリオが驚いてフェイトを見ると、
彼女は目を細め、慈愛の瞳で語りかけていた。
「これは隊長としてじゃなくて、私個人としての願い。エリオが辛いなら、ここで降りていい。
私と同じ……ううん、一緒に訓練して戦ったティアナを斃すなんて、きっと私以上に辛いと思う」
それはいつだったか、自暴自棄になっていた自分を抱き締めてくれた時と同じ瞳。
実の母親でさえ注いでくれなかった優しさだった。
「私にも誰にも強制なんかできない。だから、エリオが心に取り返しのつかない傷を負ってまで戦うくらいなら降りてほしい……なんて」
降りる――即ち、リタイア。局を辞め六課を去る。
現状で可か不可かはともかく、それをフェイトの側から提示してくれたことで、エリオの心は幾分か救われた。
だが、フェイトの慈みは誰にでも向けられるものではない。守るべきものの為なら、修羅にもなる。
それを確信したのは直後のことだ。
「ねぇ、エリオ。私は決めたから。ヴァイス君と話して分かったから、私のやるべきことが」
いつしか慈愛の瞳は、決意を秘めた真摯なものに変わっていた。凛とした視線はエリオから外れ、真っ直ぐ前を向いたまま揺るがない。
「ティアナとヴァイス君を討つ。私は撃てる。それが必要なら。ティアナとヴァイス君が人を傷つける側に回るなら」
自分に言い聞かせるようにフェイトは呟く。その発言にエリオは悲壮な覚悟を感じずにはいられなかった。
心優しい彼女が、その結論に至るまでにどれだけの苦悩を繰り返しただろう。
彼女はエリオに話すことで、自身をもう戻れない状況まで追い込もうとしている。
「だから、エリオもエリオ自身で決めて。六課に来た時と同じように、まだ戻れるうちに」
ゴクリ、と息を呑む。
まだ戻れるうちに。
遠からずミッドチルダを揺るがす何かが起こると、フェイトは示唆しているのだ。
「命懸けで戦うのは自分だもん。自分で決めなきゃきっと後悔する。だから相談には乗れても、決めるのはエリオだよ」
フェイトは再びエリオに目を向け、きっぱり言った。
突き放す物言いにも取れるが、想いは十分に伝わっていた。
直後、そっと伸びた手に抱き寄せられる。それが確かな証だった。
「でもね、それがどんな道であれ、エリオが悩んで決めたなら私は受け入れる。その選択を応援する。
私のエリオへの気持ちは何も変わらない。それだけは忘れないで……」
頭が彼女の胸に沈み込む。目を閉じると感じる、柔らかい感触と香り、そして温もり。
どうしようもなく優しくて嬉しくて。
いつしか頬を涙が濡らしていた。
「はい……ありがとうございます、フェイトさん」
震える声で言うと、それきりエリオは我慢を止めて泣きじゃくる。後はもう嗚咽が漏れるだけだった。
フェイトは何も言わず、泣き止むまで頭を撫でてくれた。
この時、誓ったのだ。
みっともなく泣くのは今日で最後にしよう。
明日はもっと強くなろう。
まだ迷いは晴れないし、答えは出ない。それでも彼女に縋らず自分の足で立てるように。
エリオは片手を器用に使い、ややもたつきながらも訓練着に着替えた。
この腕ではまともにストラーダも握れないが、基礎体力訓練なり回避練習なり、何かやり様はあるはずだ。
左手一本での槍の取り回しを練習するのもいい。
ただでさえ二日も無為に過ごしている。もう一分一秒でも無駄にしたくなかった。
とにかく、がむしゃらに。何処を目指すのかもわからぬまま、何でもいいから強くなりたかった。
時刻は午前五時半を回った頃、まだ窓の外は薄紫に染まり、寮内も寝静まっている。
朝の冷えた空気に少し身震いしながら、エリオは部屋を出て訓練場に向かう。
冷たい無機質な廊下を、足音を押さえながら抜ける。が、外に出ると冷えた空気は一変した。
いや、気にならなくなったと言うべきか。
今日の訓練場は廃棄都市区画などに姿を変えることはなく、そこには六課の現フォワード陣が勢揃いしていた。
「ああ。おはよう、エリオ」
「腕の調子はどうだ? あまり無理をするなよ」
「けどまぁ、病み上がりでも朝練しようって根性と熱意は褒めてやるぜ」
「あ、はい。おはよう……ございます」
なのは、シグナム、ヴィータが口々に声を掛けてくる。エリオは呆気に取られ、曖昧な返事を返すのが精一杯だった。
何故、彼女らがここにいるのだろう。まだ訓練開始には早い。一人二人ならまだしも、特にシグナムなどは訓練に顔を出すことすら珍しいのに。
だが、今日は全員――そう、全員がエリオより早く出ており、当然その中にはスバルとフェイトも含まれている。
「おはよう、エリオ君。もう大丈夫なの?」
「あ、うん。ねぇ、キャロ。これはいったい……」
最初に近寄ってきたキャロに問う。目下最大の疑問は、フォワード陣の存在よりも――
何故、フェイトとスバルはBJを装着し睨み合っているのか、であった。
これはただの訓練とは異なり模擬戦なのだろう。それは分かる。ただ、二人の間に漂う空気は、交差する視線は本気そのもの。
とても一日の初めに軽く慣らす訓練とは思えない。
スバルに至っては見るからに全身が熱を帯びていて、ゆうに一時間以上は身体を動かしているだろう。明らかに息を荒げている。
「ん……なのはさんの発案で、ちょっと模擬戦」
「模擬戦って。スバルさん、何時から訓練してたの? 朝からあんなに飛ばして大丈夫かな」
心配するエリオにキャロも表情を曇らせる。彼女も不安を感じているのだ。
「かれこれ一時間ってとこかな。大丈夫だよ、あれくらい。これまではウォーミングアップみたいなもの、むしろ身体が温まってちょうどいい」
「なのはさん……」
キャロに代わって答えたのは高町なのは。観戦している面子で一人だけBJに身を包んでいる。
視線で意味を問うエリオに、なのはは続けた。
「ちょっと試しにティアナを想定した模擬戦ってとこかな。って言っても、融合体のティアナとのね」
「ティアナさんとの……」
「戦闘の映像を見て、フェイトちゃんがシミュレーションには適任だと思ったの。
思考した上での戦術か、本能レベルかは分からないけど、ティアナは接近戦を絡めてくる可能性が高い。
融合体のボディの耐久性と膂力、これを接近戦に使わない手はない。
多分、ただの打撃でもリボルバーナックルを装備したスバルぐらいの力は出せるだろうね。それに――」
「加えてクロスミラージュからの銃撃も警戒しなきゃいけない――だから、遠近どちらも得意なフェイトさんに?」
エリオが続きを引き継ぐ。
なのはの意図するところはすぐに理解できた。確かにフェイトなら、"あの"ティアナを再現するのに適している。
いや、管理局に魔導師多しと言えど、彼女以上の適役はそういない。その理由は誰より自分が一番知っていた。
「そう、でも一番の理由はスピード。人型の上半身と真逆に、下半身は獣に近い形をしている。エリオも言ってたでしょ? 瞬発力では負けてるって。
地上限定とはいえ、フェイトちゃんにも匹敵するかもしれない」
融合体と化したティアナの下半身は太く、それでいて強靭な、さながら獣の後肢だった。あの脚で蹴られれば、まず無事では済むまい。
しかも先端には鋭い爪まで生えている。
「決定打には欠けていても、今のティアナは完全なオールラウンダー。
それを殺さずに制するって言うんだから、手加減したフェイトちゃんにくらい勝てなきゃ話にならない」
「だから、スバルさんはあんなに……」
スバルの本気は、眼、体捌き、全身から溢れる魔力からも明らか。対するフェイトも隙のないの構えで、スバルと対峙している。
こちらも本気だ。
なのはと副隊長陣の視線は一触即発の二人に注がれていた。今回、なのはは敢えて開始の号令を控えている。
両者のタイミングに任せるつもりなのだろう。
エリオは隊長陣の邪魔にならぬよう、隣のキャロに小声で囁いた。
「なのはさん、よく許可したね……。スバルさん、昨日の夜まで拘禁されてたんでしょ? なのに、いきなり早朝から自主練と模擬戦なんて……」
「これからは、空き時間はできるだけスバルさんに付いて教導するつもりみたい。勝手に動かれるよりはいい、だって」
「そっか……じゃあ、やっぱりスバルさんは――」
「エリオ、キャロ、始まるよ」
なのはが言うが早いか、スバルとフェイトが同時に動きを見せる。よく均された土の地面を蹴って、両者弾かれたように飛び出した。
互いの間に横たわっていた10mほどの距離は一瞬で縮まり、ゼロになる。
そして激突。
バルディッシュとリボルバーナックル、金属と金属がぶつかる耳障りな轟音が空気を震わせた。
余波はエリオとキャロの許まで伝わり、思わず身を竦ませてしまう。
それこそ隊長達が平然としていられるのが不思議なほどに。
一度正面からぶつかった後は距離を取る。スバルはバックステップ、フェイトは後方に大きく跳んだ。その間も攻撃の手は止まない。
フェイトの掌からはプラズマランサーがスバル目掛けて放たれた。スバルを狙う雷撃の槍は地面を穿ち、土を巻き上げる。
スバルはスバルで、ステップしながら態勢を立て直し、すぐに飛びかかれるよう拳を構える。
どちらも掛け値なしの本気。音や衝撃のみならず、闘気の波とでも言うべきものをエリオは感じ取っていた。
フェイトはティアナを想定している為か、飛行はせず跳躍だけではあるが、戦う姿勢は真剣だ。
矛盾しているようだが、フェイトともなれば、制約の中で力の上限を抑えた上での全力全開が可能なのだ。
上から課せられたリミッターとは似て非なる、意識の上でのリミッターとでも言うのか。
だが、それはスバルも同じ。マッハキャリバーが唸りを上げ、跳び退るフェイトを猛追する。彼女もまた、模擬戦故に残す体力、魔力量を概算。
合わせて力の上限を下げ、その中で全力を発揮する術を心得ていた。
それもそのはず。まだ時刻は早朝。
スバルはこれから夕方、或いは夜まで更なる訓練をし、出動ともなれば融合体やガジェット、戦闘機人との闘いに赴くのだから。
「どうしてそこまで……」
エリオが呟いた。
信じられなかった。そうまでして自らを痛めつけるスバルも。それを許すなのはも。
いや、本心では分かっていた。スバルが焦る理由は一つしかないと。
「ティアナさんの為だよ」
戸惑いがちに発した独り言に返したのはキャロ。なのはに聞こえないよう、エリオの耳元で囁く。
「スバルさんもね、独房にいる間に私たちと同じことを聞かれたんだって。ティアナさんを殺せるかどうかを。
それでスバルさんは悩んで悩んで、ずっと苦しんで……ティアナさんを助けたいって決めたの」
「でも、それじゃ市民や局員、XATに危険が……!」
「だからね、『あたしが真っ先にティアを捜し出して駆けつける。戦わなきゃいけないなら、あたしが先頭に立ってティアを止める。
誰かがティアを殺めようとしても、あたしには止められない。でも、その瞬間まであたしはティアと話したいんだ。
力尽くでも、たとえティアをぶっ飛ばしてでも。それも分かり合う為の手段の一つだと信じてるから』だって」
戦うことで、力と力をぶつけ合うことで対話する。言うのは簡単、だが、そんなものは夢想に過ぎない。
今のティアナはスバルよりも確実に強いというのに、それを殺さずに制するなんて無茶にも程がある。
それでもスバルは諦めていない。今も遥かに格上のフェイトに果敢に立ち向かっている。
がむしゃらなその姿がエリオにはやけに眩しく、言いようのない不安が胸に湧き起こった。
「だからって、市民や仲間の危険は払拭し切れないじゃないか……。いくらスバルさんが先陣切って戦うからって、危険には変わりないよ」
「エリオ君……」
「ごめん。こんなこと言うつもりじゃなかった」
完全な八つ当たりだった。とことん一途になれるスバルへの、それを嬉しそうに語るキャロへの嫉妬。
二人はこんな自分を情けない奴と笑うだろうか。冷たい奴だと蔑むだろうか。
そんな思いがつい、口をついて出てしまった。
「スバルさんね、なのはさんに頭を下げたんだよ。自分の無茶を許してほしい。できるならティアナさんを助ける為に力を貸してほしいって」
これまでの誇らしげな顔とは異なり、語るキャロの表情は暗い。まるで自分だけ仲間外れにされたような――今のエリオと同じ寂しげなもの。
「それで……キャロはどう思うの?」
「確かにティアナさん一人を助ける為に皆が協力するのは危険だと思う。
けど、ティアナさんがいればもっと多くの人が救える。
ヴァイス陸曹と一緒に……二人の協力があれば融合体の秘密に近付ける……ううん」
キャロは一旦そこで言葉を切った。目を閉じ、力なく首を振る。
「これは詭弁。私はきっと、ティアナさんにもヴァイス陸曹にも死んでほしくないの。ただ、それだけ。
ほんと言うとね、私もちょっと諦めてた。私も一瞬だけどティアナさんの後ろ姿をこの眼で見たから。
正直、怖かった」
キャロも同じだったのだと知り、エリオの心は少しだけ救われた。だがホッとしたのも束の間、すぐに自己嫌悪が込み上げる。
何を安心しているんだ僕は。
ティアナを恐れる同類が自分だけじゃないのが嬉しいとでも言うのか。
「でもね、戻ってきたスバルさんは違った。絶対に諦めないって力強い意志を瞳に秘めて……眩しかった」
キャロの唇は次々とスバルを称える美辞麗句を紡ぎ出す。
首を絞められて気絶させられたのに。
死にかけたのに。
諦めない彼女は強い、凄い、逞しいと。
(何だよ、それは。それじゃあ……それじゃあ、僕は……)
裏を返せば、殺されかけたのを、いつまでも引き摺って恐怖している自分は――。
またも嫉妬心が頭をもたげてくる。何か、何か言ってやらないと気が済まなかった。
「でも、それじゃ市民の安全が……!」
この瞬間、エリオにとっての護るべき市民はただの言い訳に成り下がっていた。
嗚咽のように堪えきれず吐き出した指摘は正論だったろう。けれどその心中は醜い。否定されたくない、
己が弱いと認めたくないという自分本位で利己的な主観に満ち満ちていた。
自分自身、それを自覚していたからこそ最後まで言えなかった。キャロはエリオの言わんとするところを察したらしく、
「うん、そうだね。XATみたいに見つけ次第、処分……殺してしまった方が被害は抑えられるのかもしれない。でも、ほんとにそれでいいのかな」
「……どういうこと?」
「だって、このままじゃ融合体になった"被害者"の大事な人があんまりだよ。融合体になったが最後、もう助けられないなんて悲し過ぎるよ。
そりゃあ今も融合体を人間に戻す研究はなされてるみたいだけど、いつになるか……。ティアナさんやヴァイス陸曹、ゲルトさんは明らかに他と違ってる。
そんな人達を融合体だからって殺すのは違うと思う」
「どうかな。一昨日の事件でゲルトの名声は地に堕ちたじゃないか。ゲルトは人を襲おうとしたんだ。みんな掌を返してゲルトを殺せって叫んでる」
「それは、みんな怖いからだよ! だから攻撃しちゃう。でも、ゲルトさんやティアナさんもそうだったのかもしれないじゃない。
放っておけないのは分かってる。だからこそ、私たちがいるんだよ。でなきゃ真実が掴めないまま、みんなが周りの人を疑って生きていく」
キャロは一歩も退かなかった。気弱だった彼女は今、そこにいない。その瞳に力強い光を秘め、キッとエリオを見据えている。
その立ち姿は彼女の語ったスバルを想起させた。
だからこそ認めたくなかった。気高い彼女と矮小な自分を比較して、余計に苛立ちが募る。意固地になってしまう。
本当はこんなことを言いたいのではないのに。
「その為に僕たちが無用な危険に身を晒すことになる。そんなの――」
「無用じゃないよ! 無駄なんかじゃない!」
突然叫んだキャロに面喰ったのはエリオだけでなく、なのはもそうだった。
振り向いてキャロを見ているが、キャロはそんなことにも気付かず、胸の前で拳を固め震えている。
ふるふると。目にいっぱいの涙を溜めて。
怒りと悲しみが綯い交ぜになったような、爆発する感情を堪えているような、そんな顔。
エリオは完全に圧倒され、たじろぐばかりだった。
「キャロ、エリオ、いい加減にして。今は訓練中、視ることも訓練の内だよ」
まだ何か言いたそうだったキャロを厳しい口調で抑えたのは、やはりなのはだった。
「思想を戦わせるなとは言わないよ。最終的な決定は本局や地上本部が下すものとしても、二人に問いかけたのは私だしね。
だけど、どちらにせよ私たちは戦わなきゃいけない。その時、自分のデバイスに想いを乗せられるか、両足を支える力にできるかどうか――
スバルはそれをやってる。だから、しっかり視てて」
キャロと二人してスバルを見やる。会話に熱中して数分、スバルはまだ食い下がっていた。
けん制しつつ距離を保つフェイト。それは彼女にとって射撃、格闘、どちらにも対応可能な最適の距離。
どれほど激しく動こうと縮まらない一定の間隔は、如何なる侵入も許さない鉄壁の城塞のよう。
フェイトの周囲、およそ半径2m以内は、まさしく彼女の制空圏であると言えた。
対するスバルは必死に食らいつく。絶対の領域に一歩でも踏み込もうとマッハキャリバーを走らせる。
バルディッシュを持った右手、空いた左手、両の手で展開し重なり合う魔法陣。
左手からは直射型の魔力弾、バルディッシュからは刀身の形をした誘導刃――ハーケンセイバーが放たれる。
バチリと至近距離で弾ける雷の矢は、一撃でもスバルの足を止めるに足るもの。それが無数に迫るのだ、非殺傷設定と知っていても恐怖するはず。
だが、スバルは止まらない。身体を左右に振って、極限まで引きつけた魔力弾を回避。
首を振ると誘導魔力刃が耳元を掠める。
それでも視線はぶれなかった。後退する目標を見据えて、足はひたすら進み続けた。
「ちぃっ!」
フェイトの口からこぼれたそれは無意識に漏れたように感じられたが、表情に焦りは見られない。
弾幕はすべてかわされ、ほぼ肉薄されたにも関わらず、である。
手を伸ばせば掴める距離まで近付いたスバル。そして彼女は手を伸ばす。当然だろう、組めばスバルの有利は絶対。
如何にフェイトと言えどバルディッシュを振るうには近過ぎる上、得意のスピードも殺される。捕まえて離さなければスバルの勝利は揺るがない。
それら不利な状況を些細な計算ミス、歯車の食い違いだとばかりに平然としているフェイトに奇妙な違和感を覚えた瞬間、
「っくぁあああああああ!!」
苦悶の絶叫がスバルの喉から絞り出された。背中で魔力刃が炸裂したのだ。小規模の爆発と共にBJが破れ、前のめりに倒れ込もうとする。
通常なら鋼鉄だろうと合金だろうと切り裂く金色の刃も、非殺傷ならこの程度。しかしその程度でもスバルに与えたダメージは大きい。
おそらく今の彼女は熱と衝撃で声も出せないだろう。
フェイトはハーケンセイバーが回避されることを読んでいた。だからこそ生きていたハーケンを再度操作、がら空きの背中に撃ち込んだ。
こんな単純で稚拙な策に引っ掛かったのも、前だけ見ての猛進、いや、前しか見ていなかったが故の油断。その結果の被弾。
彼女は、あまりにも一本気過ぎた。まっすぐで決して己を曲げず、折れない。だから読み易く、足を掬うのも容易かった。
ふらついたスバルに対し、フェイトはここぞとばかりに追撃を開始する。バルディッシュを軸に跳躍、回転による遠心力を加えた爪先が側頭部にめり込む。
傍目にも痛い一撃。ゴッ、と耳障りな音と共にスバルのバランスが崩れた。
まだ終わらない。フェイトは地に足を付けることなくスバルの髪の毛を掴み、回転と逆方向に身体を捻る。
もう一方の膝を叩きつけ、先ほどとは反対側から脳を揺らした。
羽でも生えているのかと見紛うほどに軽やかな動き。これで飛行魔法を切っているというのだから驚きだった。
バルディッシュを手放したフェイトは、しかし華麗な体捌きのみで三撃、四撃と徹底してスバルの顔面に蹴りを加えていく。
一撃目は呻きを発していたスバルだったが、もはや声を出す余裕もないのか、或いは既に意識が飛んでいるのか、
されるがままになっている。それでもなお、フェイトは打撃を加え続ける。見下ろすその視線は恐ろしく冷ややかだった。
破壊のみに重きを置いた、残酷で容赦ない体術。だが、不思議と美しさすら感じられた。もっとも、やられた方は堪ったものではないだろうが。
フェイトの体術は初めて見たが、スバルほどじゃないにしろ堂に入っている。
と言うか、あれだけ体重とスピードが乗っていれば格闘の心得はさほど問題じゃない。
まぁ彼女とて、単独捜査をすることもある執務官でありライトニング分隊長、当然と言えば当然。デバイスなしでの無力化に長けていても何ら不思議はない。
ただ、らしくない。
いつものフェイトならバルディッシュを起点にして攻撃、防御を行っているだろう。
こんなふうにバルディッシュを手放してでもアグレッシブに攻めることはまずない。
機動六課きってのオールラウンダーであり、シグナムと互角の接近戦を可能としながらも、その戦法は冷静で堅実。
『動』と『静』で言えば間違いなく『静』。
なのにあの戦闘は何だ。普段のフェイトとはほど遠く、まるで獲物に喰らいつく野獣。だが、どこか既視感がある。
エリオは暫し黙考し、やがて確信した。
「そうか、あれはティアナさんなんだ……」
フェイトはティアナを再現していると。
それ自体はなのはから聞いていたが、まさかこんな形で再現するとは思ってもみなかった。土俵を合わせるだけだろうと、そう思っていた。
さしずめハーケンを当てるまでが手傷を負わせた後のティアナ。今の状態が最初のティアナといったところか。
狡猾で冷徹な狩人と狂乱する野獣。どちらが強いかは言うまでもないが、どちらが恐ろしいかは判断に迷うところではある。
あの日、自分は怒りで恐怖心を麻痺させていたが、もし何の前触れもなく、或いはティアナと知った上で対峙していたならば、あれほど上手く捌けただろうか?
おそらく否。スピードだけでもティアナは並の融合体を凌駕している。少しでも足を止めていたなら、狩られていたのはこちらの方。
圧倒的な勢いと迫力は、時にそれだけで脅威となる。手傷を負わせられたのは、偏に迷いなく身体が動いてくれたお陰だ。
戦士ならば、頭に血が上っていても身体は訓練した動きを取る。感情とは別の部分で戦いの為だけの直感が働く。
だが視野が狭まれば、その内側には意識を集中できるが、代わりに思わぬ落とし穴に嵌まるもの。それも普段なら考えられないような単純な形で。
今のスバルがまさにそうだ。しかもスバルは一撃を受けた時点で混乱している。
フェイトらしからぬ攻撃に、自分が"どちら"のティアナを相手にしているのか、"どちら"に合わせた戦法を取るべきか分からなくなった。
無論、それがフェイトの作戦である事は言うまでもない。
だからと言って、これは――。
「なのはさん……止めないんですか……?」
凄絶な光景にエリオは堪らず抗議した。とっくに勝負は着いている。むしろ遅過ぎるくらいだ。
なのに、いくら待ってもなのはは止めようとしない。打ちのめされるスバルを睨んでいる。それはシグナムもヴィータも同じだった。
誰もがフェイトの暴挙とも言うべき行為を黙認している。
(これじゃあの日と同じだ……。スバルさんとティアナさんが、なのはさんに撃墜された模擬戦の日と……)
どう考えてもやり過ぎだ。模擬戦の度を超えている。
本当にこれが抑えた全力なのか、この後スバルは訓練を続けられるのか、だんだんエリオは自身がなくなってきた。
いまだ絶え間ない殴打を続けるフェイトの冷たい視線。あれは、あの日のなのはと同じ、いや、それ以上の警告ではないかと。
エリオは昨晩、フェイトの決意を聞いている。必要なら、ティアナとヴァイスを殺すことも厭わないという悲壮な決意。
そこへどうしても救いたいと、戦意を削ぐような発言をするスバルは邪魔なのかもしれない。
思い知らそうとしているのか?
そんなことは不可能だと。
そんな甘い戦いではないと。
(いや……フェイトさんに限ってそんなことするはずが……)
信じたい。しかし、今のフェイトの真意が読めないのも確かだった。
見るとキャロも青褪めた顔で、半分目を背けかけていた。
(仕方ない、こうなったら僕が――)
と、エリオが一歩踏み出した瞬間、
「まだだよ、エリオ、キャロ。黙って見てて」
ぬっとレイジングハートが眼前に突き出された。なのはから制止が掛かった。
何故かフェイトではなく、エリオたちに、である。
「何でですか! あんなの……もう決着はついてるじゃないですか!」
「ついてない。どちらかが戦闘不能になるか、負けを認めるまで。タイムアップはなし。そういうルールだよ」
「そんな……」
エリオは言葉を失い、身体を震わせた。
怒り、悲しみ、失望、恐怖。様々な感情がない交ぜになって、制御が利かなくなりそうだった。
「どうしちゃったんですか、なのはさん……。やっぱりあの時と同じなんですか!?」
「待って、エリオ君。まだスバルさんは倒れてない。それにあの時とも違うよ」
食い掛ろうとするエリオを止めたのはキャロ。両手でエリオの肩を抱いて、正面から視線を捉えて毅然と告げた。
「最後まで見てなきゃ駄目。そうすればエリオ君にも、私の言いたいこと分かってもらえると思う」
エリオは荒い息を吐きながらも、渋々といった様子で元の位置に戻る。
キャロにこうも真剣に止められては押し切るに押し切れなかった。
なのはは、その様子を横目でチラリと見遣るが、すぐに視線をスバルとフェイトに戻してしまった。
一瞬、垣間見えたその眼は、感情の込められていない目ではなく、押し殺した目にも見えた。
最終更新:2011年06月03日 12:50