薄紫に染まった偽りの夜にサイレンの音がけたたましく響く。
男はビルの屋上から屋上へと飛び移りながら見下ろすと、既に何台ものパトカーが男を追跡している。逃げ切るのは難しいかに思えた。
「動くな!両手を上げてゆっくりとこっちを向け!」
案の定、屋上の扉が開かれ、先回りした警官が数人、男へと銃を向ける。しかし振り向いた男の顔には焦りも怯えも無い。それどころか何の感情も浮かんでいない表情。
男の瞳に赤い光が灯る。同時に警官の一人が青白い燐光に包まれ、
「お!?お!?おわぁぁぁぁぁ!!」
戸惑う間も無く警官の身体は宙に浮き、空へと吸い込まれた。
「『契約者』か……!」
刑事らしき男が憎憎しげに呟く。空を見上げても警官の姿はもう見えない。
助けることはできないと判断したのか、改めて男へと向き直った。
男の身体も青く発光している。それは契約力を行使することの意味。
「くそっ!」
刑事は美しくもある『ランセルノプト放射光』の輝きに一瞬気を取られた。銃弾は浮き上がる男を空しく掠める。
青白い光に包まれた男は高く高く空へと昇り、やがて見えなくなる。ただ光だけが最後まで男の存在を伝えていた。

光を車内から見上げるスーツ姿の女が一人。長い髪を束ね、キリリとした切れ長の目には、細長い眼鏡を掛けている。
「〈ホシは北東方向に移動!契約者です〉」
「〈天文部からの報告!『メシエコード』GR554の活動を観測。通称『ルイ』、フランス人エージェントです〉」
「風向きを確認。警官隊を東へ向かわせて包囲しろ」
無線の報告に的確な指示を出す姿は、彼女が若くして責任ある立場にあることを意味していた。
ランプを取り付け、サイレンを鳴らしながら彼女が車を走らせる先には、巨大な壁が聳え立っている。本来は地獄門〔ヘルズ・ゲート〕、その奥にあるものを覆い隠す為のものだが、現在ではあの壁を含めて地獄門と呼ばれている。
彼女もあのゲート、そして『契約者』と呼ばれる存在に頭を悩ます一人だった。
「総員に通達、ホシは契約者ルイ。能力は重力遮断。発見次第――躊躇せず発砲せよ」

風に乗ったルイは、やがて転がり落ちるようにビルへと降り立つ。警察からかなりの距離を取ったにも関わらず、その息は荒い。力を使った弊害だろうか、かなり疲弊している。
「っはぁ……はぁ……」
壁にもたれかかると、じっと左手を見つめる。更に息が荒くなった。
「はぁ……はぁ……くっ!」
意を決して薬指を掴んで思い切り外へと捻じ曲げる。
薬指は限界まで反らされ、更に力を込めるとボキンと折れた。
「はぁぁ!!」
もう一本小指を掴み――
「がぁ!!」
二本の指を自ら折ったルイはようやく安堵の息を漏らす。
自らの指を折る――それは彼自身にとっても理解できない行為。
「なるほど、それが契約の『対価』か。難儀なこった」
「!」
声の方を向くと、黒猫がニャーと一鳴きして通り過ぎる。だが、確かに声がしたはずだった。
敵の気配に身を強張らせ辺りを見回す。屋上の端――おそらく掃除か何かに使ったのだろう。水の張られたバケツに"それ"はいた。
「『観測霊』!『ドール』か!?」
青白く朧気で不定形なそれは単体では何の力も持たない。しかし観測霊がいるということは誰かドールがこちらを監視していることを意味している。
そしてドールは自らの意思で動くことはない。更にドールを操る契約者がいるはずだ。
急激に青ざめて警戒するも、既に遅かった。

夜陰に紛れて近づいていたのは、黒いコートに白い仮面の男。幽鬼の如く立つ姿は黒衣を纏った死神を思わせる。
ここは地獄門のお膝元。天国が消えた今、地獄門を、そこにあるものを求めて多くの組織が、地獄に最も近い連中が集まってくる土地だ。そしてこんな男が一般人である訳がない。
ルイは仮面の男に即座に対応した。ルイの目が赤く光ると、ランセルノプト放射光が仮面の男を包み浮かび上がらせる。
「っ!」
それは仮面の男か、それともルイが発した声か。男はベルトからワイヤーを伸ばし、手摺りに巻きつけ身体を留めた。
次に空中から、しかも不安定な姿勢で男は次のワイヤーをルイへと放ち、拘束する。ルイは能力の発動を中断された上にたちまち取り押さえられた。
「ブツは?」
静かで、しかし酷く冷たい響き。
「し、知らん!」
男は無言でナイフを抜き、柄でルイの手や足を激しく打ちつけた。大振りなナイフは柄も大きく頑丈だ。
「ぐぁぁぁ!!」
折れた指を殴られてルイは悲鳴を上げる。それでも男は殴るのを止めようとはしない。

何度も何度も殴るとその内に
「ほ、本当だ……。ブツは女に預けてある!」
「女は?」
這いずり回るルイの腹を蹴り上げる。
「どこの組織だ……。条件次第ではブツを女から回収してお前達に渡してもいい……」
「契約者らしい"合理的な判断"って訳だ……」
取引の手応えを感じるルイの頬が叩かれた。仮面の男の声は先程までの無機質なものではなく、僅かに怒りと嫌悪が込められていた。
「話せ」

パトカーがサイレンを鳴らして走る道路の脇、水溜りに観測霊が浮かぶ。
「〈銀〔イン〕、警察は?〉」
「後三分……。Aポイント通過」
離れた路地裏で通信を受けた銀と呼ばれたドールの少女――そのコードネームの通り、髪は美しい銀髪。紫を基調した服も至って普通の服だ――は静かに答える。しかしその瞳は、何も移していないかのように虚ろだった。

「頃合いだな……。撤収だ」
仮面の男とは違う、最初に聞こえた声に従って仮面の男がルイに背を向ける。
「待て!俺が行かないと女はブツを渡さない」
瞬時に男の腕がルイの顔面を鷲掴む。そのまま握り潰すのではないかと思うほど強く。
「止めろ黒〔ヘイ〕!そいつはまだ使える」
「お前らの顔を見ていると……反吐が出そうだ……!!」
男――黒は既に感情を隠そうとはしていなかった。堪えきれない憎しみを当てられ、契約者であるルイの顔が恐怖に歪む。
「ひぃぃぃ!」
契約者ならば今の言葉の意味を理解し、合理的に考え条件を飲むだろう――そう考えていた。
「黒!!」
制止の声も聴かず、更に黒は力を込める。
そして黒の身体をランセルノプト放射光が包んだのを最後に、ルイの意識は途切れた。

大学の帰り道、今宵も高町なのはは空を見上げていた。
薄紫に曇った空はどこか閉塞感を感じさせる。乱雑に散る星達はそれぞれが勝手に光を放っている。
彼女は思う――昔はこうではなかった、と。少なくとも10年前までは――とはいっても壁の無い景色、本当の空の姿を思い出すのはもう難しい。
地獄門とブラジルの天国門の出現によって、世界は本当の空を失った。まるで見えない何かに覆われているかのように、人が宇宙に出ることも不可能となった。
そして彼女にとってはもう一つ、それは別の世界への道。
ミッドチルダ、時空管理局、どれも今では懐かしい響きですらある。
10年前、ゲートの出現によってこの世界は封印された。あらゆる通信方法、魔法を試したが、何故か次元世界や管理局と連絡を取ることはできなかった。
友達もその家族もこの世界にいたので然程寂しくはなかったし、当時はいつかなんとかなる、程度に考えていた。そうしている内に気づけば10年が流れていた。
だが、将来を考える頃になってふと思う。もしかすると別の道もあったのではないか?9歳時に出会った魔法という力で誰かを救うことができるような道が。
なのはは再び空を見上げる。かつての姿を失っても空はそこにあった。季々の美しい星座を、方角を教える北極星を失ってもなお――。
「あ……」
空を横切る一条の光。
また一つ、星が流れた。

LYRICAL THAN BLACK 黒の契約者
第一話
彼女の空を星は流れ……(前編)

「〈なのは、今日の講義は?〉」
「今日はもう終わりだよ、フェイトちゃん」
携帯電話越しに聞こえてくるのは、なのはの親友フェイト・T・ハラオウンである。はやて、アリサ、すずかも現在は同じ大学に通っていた。
「〈それじゃあ少し待っててくれない?よかったら皆で一緒に買い物に行こう?〉」
「うん……あ、ごめん。今日はちょっと駄目なんだ。昨日話したあれ」
「〈バッグを取り違えたやつ?それなら仕方ないね……〉」
「ごめんね。また明日ね」
それは昨日、帰宅途中のことだ。ふらふらと足取りのはっきりしない女性と肩がぶつかった。こちらもフェイトらとお喋りしながらであった為不注意だったのだが。
二人ともバッグを落とし、特に相手の女性は慌てて拾って去っていった。かなり焦っていたのを覚えている。
取り違えたと気付いたのは家に帰ってからのこと。一見すると似たデザインなので無理もない。
警察に届けるべきなのだろうが、確認した際に入っていたものの中に連絡先も書いてある。近くなので直接交換しても問題ないだろうとのことで連絡してみると、動揺していたが急いで返して欲しいとのこと。
大事なものが入っているから、今晩にでも海鳴の公園で渡してくれと頼まれた。何故夜の公園なのか、しかもバッグの中には身分証の他は、丸いガラス板のようなものしか入っていないというのに。

そんなことを考えながらなのはは帰宅する。翠屋――海鳴市にある喫茶店。高町なのはの実家でもある。
店の前で不審な動きをする青年。何やら地図と店の名前を確認しているらしい。
「あの……入らないんですか?」
振り向いた顔は温和そうな黒髪の青年。白いシャツに緑のコートを羽織っている。
「ああ!すいません!あの私、アルバイトを紹介されて来たんですが……」
片言で返す彼はかなり動揺していた。それが可愛くて思わず微笑んでしまう。
「あ、どうぞ入ってください。私この店の者ですから」
なのはは彼を促して店に入る。夕方前だからか、客も疎らだ。
「おかえり、なのは。ああ、そちらの彼が……」
店に入るとすぐに父、士郎が迎えてくれた。
「はい、李舜生〔リ・シェンシュン〕といいます。あの……海月荘の管理人さんに紹介してもらいまして……」
おずおずと李が前に出る。片言だと思ったらやはり外国人だったのか。
「ああ、聞いてるよ。留学生だったね。僕もあそこのお爺さんに昔世話になってね。あの大家さんも大変だろう?」
「はい……電気屋さんと間違われまして……。でもバイト先を紹介して頂けて助かりました」
「ははは、相変わらずだなぁ。それじゃあ、入ってくれ」
李が通されたのは、小奇麗で喫茶店にしては広々とした厨房。士郎、そして桃子が同席している。
「募集してたのは調理補助だからね。履歴書や外国人登録証明書は後で見せてもらうとして……お客さんの少ない内にまずは何か作ってみてもらおうか」
「何でもいいですか……?」
「ああ、簡単なものでいいから」
それだけ伝えて士郎は店へと戻る。後には手を口に当てて考える李だけが残された。

そして20分後――。
「あの……出来ました」
士郎の前に青椒肉絲と炒飯が温かい湯気を立てて並んだ。どちらも見ているだけで食欲をそそられる。
「中華か……」
士郎は箸を取って青椒肉絲を口に放り込む。
「美味い……!流石は本場で鍛えた、ということかな」
士郎が感嘆の声を上げる。炒飯の方も食べてみたが、あり合わせの材料でこれだけできればかなりのもの。
どちらもこのまま店で出してもいいくらいだ。ここが喫茶店でなければ。
「うん、いいだろう。それじゃ話を聞かせてもらおうかな」
士郎が笑う。その口振りと表情から好印象なのは感じ取れた。

「それじゃ行ってきまーす」
夜になり、なのはは約束の公園へと向かう。結局幾ら考えても、こんな時間に人気のない公園で受け渡す理由は解らない。
「まあ行けば解るか……」
徒歩でも20分少々の距離だ。散歩代わりにはちょうどいいかもしれない、とも思った。
とはいえ、この偽りの空では天体観測もあまりする気が起きない。
飛んでいても楽しいとは思わない。何かに押し潰されそうな閉塞感を感じてしまうのだ。
「いつか……本当の空が見られるのかな……」

公園の入り口で白いフード付のコートを着た女性が立っている。ぶつかった時と同じ服装でバッグを持っている、きっと彼女だ。
「あの、原口千晶さん……ですか?」
ずっと俯いていた彼女は、なのはが声を掛けるとビクンと肩を震わせた。
「あ……バッグ!バッグは!?」
「は、はい。ちゃんと持ってきました」
彼女の物凄い勢いに気圧されてしまう。明らかに様子がおかしい。
「あの……どこか具合が悪いんですか……?」
こんなことを訊くのも失礼かと思ったが、どうにも訊かずにいられなかった。何が彼女をそこまで怯えさせるのだろう。
「別に……。それより早くバッグを――」
「いたぞ!」
千晶の言葉は唐突に遮られた。公園の外からは2人組の男が走り寄ってくる。金髪の男に黒人の男、どう見ても日本人ではない。
「これを、これを持って逃げて!」
「え?え?」
全く状況が解らない。三人組の男に千晶は怯え出し、渡そうとしたバッグをなのはに押し付けた。
「ごめんなさい!でも彼らは危険なの!お願いだから、早く!!」
千晶は公園の外に逃げて路地に入り込んでしまった。
二手に分かれた男の一人が、険しい顔で走ってくる。どうやらなのはを標的に定めたらしい。
状況は解らない、解らないが、明らかに怪しいことだけは確かだ。ともかく逃げるしかない。
なのはは公園の中へと逃げ込む。人気は無いが、かなり暗いし隠れることはできる。いざとなれば魔法を使うことも考えなければ。
「待て!そのバッグを渡せ!!」
やはり追いかけてきている。もう少し逃げて隠れないと危険だろう。
「でもあの人、はぁ、速い……!」
おそらくだが、かなり鍛えられている。距離は開くどころか徐々に縮まってきた。
走って走って、木々を抜けていくと突然開けた場所に出た。木に覆われた暗闇を抜け、頭上に星空が広がる。それはどこか幻想的な光景で、なのはは一瞬追われていることも、それが偽りの物であることも忘れていた。
立てられた望遠鏡、そしてそれを覗いていたのは見覚えのある青年。
「あなたは……」

確か翠屋にバイトに来た青年。名前は――何だったか。
なのはは少し考えるが、草や落ち葉を踏む音――背後から聞こえる足音に我に帰る。
ともかくここにいては彼を巻き込むことになる。自分の足から考えても逃げ切るのは難しい。
となれば――。
「魔法を使うしか……」
いつまでも追いかけられるのも御免だ。ここで拘束して理由を問い詰める。
「追われてるんですか?」
迎え撃つつもりで、なのはの掌に桜色が灯る――と同時に手を引っ張られた。
「ちょ、ちょっと!?」
彼は耳を貸さず、なのはの背中を木に押し付けコートを被せた。
「何を――」
「静かに……!」


「んむっ――!」
言いかけた言葉が口ごと塞がれる。唇に確かな感触。
「……!」
頭が真っ白になって、それがキスだと認識するのに時間がかかった。鼻息が感じる程、彼は顔を近づけて、なのはの頬に手を添える。


いきなりのそれに顔が熱くなって怒りが湧いてくる。それも当然、乙女のファーストキスをこんな形でいきなり、だ。
一発殴ってやろうかと思ったが、
「……しっ」
彼の目を見た途端に金縛りにあったように硬直してしまった。その目は恐ろしく冷たく虚ろ。なのはすら見ていない。
例えるなら、まるで隠れて獲物を狙う獣のような――。
横から大きな足音と息遣い。追いかけてきた男は抱き合う二人を一瞥した後、
「ちっ……!」
舌打ちをして走り去っていった。
そこでなのはは、ようやく恋人同士の振りで隠してくれたのだと気付いた。たった今まで驚きでそんなことにまで気が回らなかった。


男が完全に去ったことを確認して彼はなのはから唇を離した。
「ふぅ……」
同時に息を吐いた。こんなに緊張したのは生まれて初めてかもしれない。
なのはの頬は紅潮しているのに、彼の顔は平静なのが気になったが、
「って……うわぁ!!」
彼はいきなりひっくり返りそうな勢いで仰け反った。
「す、すいません!つい咄嗟に……」
と、思いきや慌てて頭を下げ出した。さっきの目とはまるで違い、可愛く思えるくらいだ。
「ぷっ……あははははは!!」
彼のあまりの慌てっぷりに脱力。そして笑いがこみ上げてくる。
なのはは暫く腹を抱えて笑った。
「すいません……。ほんとに」
「いいよ、許してあげる。こっちこそありがとう」
目の涙を拭きながら言う。短時間に緊張、驚き、怒り、脱力、笑いと通過してすっかり疲れてしまった。

「星を……見てたの?」
「はい……」
「こんな街中で?」
「はい」
夜空を見上げると偽りの星が輝いていた。
「ここから見える星空は今じゃみんな偽物なのに?」
彼は答えなかった。ただ空を見上げている。
なのはも釣られて星を見上げる。偽りと解っていても、こうして見ていると綺麗にも見えるから不思議だ。
暫く星を見た後、彼は視線を星空からなのはの顔に移した。
「高町さん……?翠屋の……」
「あなたは確か……」
「李です。李舜生」
そうだ、確か李舜生と言った。こんなことがあったのに、今更自己紹介とは変な感じだと思う。
「明日からお世話になることになりました。よろしくお願いします、高町さん」
「高町さんじゃお父さん達と区別しにくいから……なのはでいいよ。よろしくね、李君」
正式に挨拶をした後、何故か可笑しくなってなのははまた笑った。

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最終更新:2007年10月14日 12:39