机と椅子、ホワイトボードのみ置かれた簡素で質素な会議室。
しかしそこに貼り付けられた情報は国家をも揺るがしかねない情報である。
ホワイトボードには写真が幾つも貼り付けられ、その横にはメモがびっしりと書き込まれている。その一つを体格のいい巨漢――斎藤が指した。
「通称ルイ、本名は不詳。フランス対外安全総局に繋がりがあるとされるエージェント、契約者です」
警視庁公安部外事4課。それが会議室に集まった者らの所属だ。当然、この男も刑事である。
「メシエ・コードはGR554.能力は重力遮断――」
「フランス当局は一切の関与を否定しています」
男の言葉を中年の刑事――松本が引き継ぐ。
それぞれの捜査の結果を刑事達が口々に報告していく。視線の先にあるのは髭を蓄えた壮年の男、顎髭だけが白い。宝来公安部部長――公安の契約者関連の情報を統括する立場にある人物。
そしてもう一人は長髪を束ねた若い女。切れ長の目は細められ、眉間には皺が寄せられている。
「死因は?」
「不明です。窒息の痕跡も薬物反応もなし」
髪を染めた若い男――河野はお手上げとばかりに肩を竦めた。他の刑事に比べると彼だけ随分と砕けた印象だ。
「天文部の報告によると、その時刻に活動が確認された最有力候補の星のナンバーは『BK201』。未確認のナンバーです。関与したと思われる案件の全てが未解決。害者の死因、能力の実態、何一つ分かっていません」
「まさか呪いの契約者って噂の……」
女性刑事――大塚の報告に不安げに河野は顔を曇らせる。
「噂は噂だ。お前達が踊らされてどうする」
再び、彼女に視線が集まる。ぴしゃりと河野を叱り、空気を引き締めた彼女こそが刑事達を直接束ねる課長、霧原水咲警視である。
まだ若い、いわゆるキャリア組ながらも自ら率先して動く彼女に刑事達は全幅の信頼を寄せていた。
「それで、ブツの方は?」
「国立研究所からパンドラの中枢に不正アクセスを仕掛けて持ち出された機密情報です。内容に関しては……我々には知る権利が無い、ということです」
松本の報告に水咲は溜息を抑えられなかった。情報が何か分からなければ捜査もやり辛い。
公安にすら秘匿すべき機密事項。そんなものを持ち出せるのは――。
「女は?」
「篠田千晶、26歳。ゲート内の物理特性に関する論文で修士号を取得し、卒業後は国立研究所に勤務。ですが2週間前から無断欠勤、現在の所在は不明です」
ルイの女、彼女と考えてまず間違いないだろう。
彼女がルイの死を知ろうと知るまいと、どちらにせよ警察に追われる身には違いない。そう簡単に尻尾は掴ませないだろうことは水咲は覚悟していた。
「ゲート関連情報の流出は国家の安全の危機に直結する。証人が生きたまま敵の手に落ちるようなことはあってはならない。解っているな?霧原」
「はい!」


宝来の言葉に力強く頷いたものの、敵――敵とは果たして誰を指しているのか。それが水咲には判然としなかった。宝来はフランス側が関与していると見ているのだろうが――。
ゲートの機密を持ち出した女、おそらく彼女を狙っているであろうルイの仲間、それを追うこと否やはない。だが、『敵』という言葉にも不思議な違和感を覚えた。
10年という月日は、人々が偽りの空に順応すると同時に、契約者が社会の闇に溶け込むにも十分過ぎる時間だった。契約者は既に一部では異分子ではなくなっている。
東京の裏では様々な組織、諜報機関が契約者を使いゲートの謎を巡って暗躍している。それを撃退する為に政府やパンドラも契約者を飼っている可能性は十分にあるだろう。
そのために目撃者はME技術による記憶削除を行う。だが、時に市民の変死体が発見されることもあった。それは他国の契約者なのか、それともこの国か。
本当の意味で追うべきものは水咲には解らない。多分、今できることをするしかないのだろう。
偽りの夜の闇は迂闊に踏み込むには深すぎるのだ。


「はぁ……はぁ……」
薄暗い路地を頼りない街灯に縋って走る女が一人。なんとか追跡者を撒こうとするが、息は絶え絶え、足は縺れそうになる。
鍛えられた追っ手を女の足で撒こうとは考えが甘かった。
一か八か、角を曲がってすぐの路地裏へと滑り込み身を隠す。
足音が近づいてくる。
口を押さえて、ひたすら息を殺す。捕まれば待っているのは死のみ。神に祈る気持ちで彼女――"自称"原口千晶は身体を丸めた。
スーツ姿の追っ手は千晶の隠れた路地裏の入り口で立ち止まったが
「チッ!」
運良く立ち去ったようだ。足音が遠ざかっていく。
「っはぁ!はぁっはぁっ……」
押さえた手を放すと溜め込んだ吐息が際限無く出てくる。合わせて心臓は早鐘を打ち、暫くは動けそうにない。
へたり込む彼女の口にそっと背後から手が伸びた。
「むぐぅっ――!?」
「千晶っ!私です、ジャンです……!」
「ジャン!?」
「無事で良かった、千晶」
振り向くとそこには金髪の男、ジャンが笑っていた。
ジャンというフランス人の彼はルイの友人であり仲間だった。千晶とも何度か面識があり、千晶に計画を持ちかけたのも彼だ。
「ジャン!ルイは?ルイはどこにいるの?」
「ルイは……今ちょっと手が放せない事情ができてしまって……。あいつらは?」
「分からない……急に襲ってきて……。多分契約者よ……あれを狙ってきたんだわ」
「他には……誰か接触してきませんでしたか?」
「…………ううん。ルイはどうしたの?ルイに会わせて」
かなり迷ったが、千晶はなのはのことは話さなかった。話せば彼女に預けたブツがばれてしまうから。
我が身可愛さに自分で巻き込んでおきながら勝手な話と内心自嘲したが、あれが回収されない限りは彼女は殺されないはずだ。
「今は言えません、安全な所に身を隠しています。あれは……まだ持ってますね?今何処に?」
千晶は中腰になり、いつでも逃げ出せる姿勢を取った。ルイの居場所は教えようとしない、なのにブツばかり聞き出そうとするジャンを明らかに警戒している。
「ルイは……絶対に自分以外の誰にも教えるなって言ってた……たとえ仲間でも」
ジャンの顔つきが変わった。先程までは千晶を安心させるために笑顔を張りつかせていた顔面は、冷たいそれへと一変した。
「お願い……ルイに会わせて!危険なのは解ってる!」
しかし千晶はそれに気付かなかった。何かを諦めたようにジャンは首を振り、
「んっ――――!!!!」
ハンカチで千晶の口を塞いだ。
ジャンは暴れる千晶を組み敷き、殴られても力を緩めない。
次第に千晶の視界はぼやけ、意識が遠のいていく。何故?何の為に?様々な疑問を考える間もなく限界寸前で掴んでいる意識を手放しそうになった時、鈍い音と共に突如ジャンの腕が緩まった。


「がぁっ!?」
解放された千晶は激しく咳き込み、倒れたジャンを見る。彼の後ろには望遠鏡を持った青年――確か同じアパートに越してきた李とかいう――が立っていた。
「こっちへ!」
戸惑う千晶を立ち上がらせた李は、ジャンが目覚める前に彼女の手を引いて少しでも明るい場所へと逃げる。
しかし逃げると言ってもどこへ行く当てもなく。しかも千晶は走りにくいヒールで李に支えられながらのため、あまり速くは走れていない。
下に線路が走る高架橋、その中央に差し掛かった時点で李の腕が振りほどかれた。
「駄目!早く逃げて!!」
走る内に少し頭が冷えてきたらしい。自分と一緒では速く逃げられない。それにこれ以上彼を巻き込む訳にもいかない。
「え?」
振り返る李の背後、橋の袂の柱に千晶は目を見張る。それは青白い燐光。
「ランセルノプト放射光……」
燐光は徐々に人の輪郭を形作り――ジャンの頭を覗かせた。


うろたえる李と千晶に構うことなく、ジャンは真っ直ぐに李の顔面に拳を叩き込んだ。彼が顔を出した柱には人形に崩れたコンクリートの破片が散らばっている。
李が鈍臭い訳ではなく、ジャンは組織のエージェントだ。それも唐突な不意打ちでは、とても一般人ではとても対抗できないだろう。そう、"一般人"では。
殴られた李は大きく後退し欄干に背中からぶつかった。そしてすかさずもう一度、ジャンの拳が李の頬を打つ。後退する余裕の無い身体は高架から投げ出された。
「うわぁぁぁぁぁ!」
彼が落ちる直前に電車が下を通過した。高さだけならば、もしかすると助かったかもしれない、だがこれでは――。
彼が潰れる光景を想像する間は千晶には許されない。淡々と歩み寄るジャンに千晶は抵抗することすらできなかった。
「契約者……」
口に当てられたハンカチを吸うと今度こそ意識が消えていく。滲む景色、彼女の目が最後に捉えたものは、天に一際輝く一つの星。そして桜色の翼を生やした白い衣装の女性。


「多分こっちの方に行ったと思ったんだけど……」
高町なのはは李と千晶を追って空を駆ける。事情を掻い摘んで説明すると、彼は危険だから自分が行くと言い走っていった。
これでいい、元々自分とは関わりの無いこと。厄介事に自ら巻き込まれることはない。彼がいなければ、なのはもそう思ったかもしれない。
でも彼は、李は自分から彼女を助けに行った。ただ単にアパートの住人であるという理由だけで。
そんなお人好しの青年を見殺しにはできそうにない。だからなのはは閉塞感を漂わす偽りの空へと飛んだ。
誰かを助けたいと考えて学んだ力。しかしこの社会ではそれを生かすことはできなかった。でも、今は違う。この力で助けることができるかもしれない、と。


「こっちでもない……!」
あれだけ派手に追いかけっこをしていれば分かりやすいだろうと思ったが、甘かった。
当ても無く飛ぶ内に焦りばかりが膨らんでいく。ふと懐に抱えたバッグに目を遣る。
外から辛うじて分かる程度だが、中のガラス板が淡く青白い輝きを放っている。方角を変えると輝きは強弱を変えた。
「何……これ……」
どうみても丸いガラス板にしか見えないそれは、不思議と美しくさえあった。
もしかすると――。そう思ったが、勿論根拠はない。ただ漠然とした勘。
それでも導かれているような感覚を覚えながら、なのはは光の強まる方へと飛んだ。
十数秒ですぐに居場所は分かった。ガラス板と似ている青白い光は、空からでもその位置を示す。
最早見られる危険すら気にならない。ただ全速で光へと飛ぶ。
「見えた!李君!」
徐々に目視で彼の姿を捉える。何か揉み合っているようにも見える。
その直後、李の身体が高架の下へと消えた。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
「李君!!」
叫んだところで聞こえる距離にはない。聞こえたところで通過する電車の警笛に掻き消されただろう。
次に金髪の男が狙ったのは当然、千晶だ。
まだだ、まだバインドを掛けるには距離が足りない。10年間、実戦から離れた技量では自信が持てない。魔力弾はもってのほかだ。
「原口さん!!」
一瞬、彼女がこちらを見た気がした。だが、それも束の間、ぐったりした彼女を抱えた男は青白いランセルノプト放射光に包まれ、姿を消した。
ようやくなのはが降り立った頃には完全に姿は無く、跡にはどこから出たのか椅子だけが残されていた。夜は再びその静寂を取り戻し、なのはは呆然と立ち尽くすしかできない。
おそらく下には――。そこまで考えて、なのはは頭を振って陰惨な光景を振り払う。
轢死体など見たくもない、ましてや知り合いのものなど。たった一日の付き合いとはいえ、それを想像することは頭が全力で拒否している。
「うぅ……」
それでもなのはは確かめなければいけない。そんな義務の意識を働かせなければ、見ることすらできそうにない。
勇気を振り絞り、高架下の線路を覗き込む。そこには――。


何も無い。
レールと枕木と、何の変哲もない、ただの線路が続いている。電車が急停止した様子もなかった。
拍子抜けする程いつもの光景。夢でも見ていたのだろうか?
確かに彼はここから転落して、直後に電車が来て。運良く助かったなら何故、李はどこにもいない?
なのはがどれだけ考えたところで結局は解らない。頭がおかしくなりそうだった。
懐では再度ガラス板が輝き出した。


「んっ……」
彼女はゆっくりと重い瞼を持ち上げる。視界も、意識もまだはっきりしない。
そうだ、自分は篠田千晶。篠田千晶の"はず"だ。
「――慎重にいくべきだ。こいつと一緒さ」
カツン、カツン、と何かを響かせる音。その音で意識を取り戻し、辺りを見回す。
一つだけしかない電光は部屋の全てを照らせておらず、部屋は薄暗い。おそらくはどこかの地下だ。
「こうやって並べると綺麗に見えるもんだろ?案外難しいんだ」
ジャンだ。彼は千晶を見向きもせずに淡々と机に石を並べている。それも規則正しく。
「ただ……これにどんな意味があるのか、全然わからないんだけどね。これが、僕の支払わなくちゃならない契約の対価なんだ」
机一杯に小石を全て並べ終えると、ジャンはそれを一気に払い落とした。その時初めて、千晶にはジャンに感情めいたものを感じた。
「ルイは死んだ……」
「嘘……」
「嘘じゃない、ルイは死んだ。殺されたんだ」
ジャンはあくまで淡々と、まるで無感情に仲間の死を言い放つ。
信じたくなかった。ルイがいつか迎えに来てくれると信じていたから、どんな辛いことにも耐えられたというのに。
「計算外だったよ。ルイ以上の契約者が現れるとはね……」
「契約者……?ルイも、契約者……?」
契約者――無感情で無機質で、どこまでも合理性を追求して行動する殺人マシーン。道徳も善悪も関係ない。ただ利益のみを優先する。
それが千晶にとっての契約者。それならば、ルイが自分を愛したのも全て嘘、演技だった?
「ああ、君は"知らないことになってた"な……」
恋人だった男を信じたいという気持ちと、両親を殺した契約者という人種を認めたくない気持ちがせめぎあい、千晶は何も答えられなくなった。
「さっきの男は誰?僕の頭を殴った男さ……。もう生きてはいないだろうが、顔見知りに見えた」
「し、知らないわ。今日、初めて会って……」
「本当かい?まあいい、時間もない。手っ取り早い方法を使わせてもらうよ」
「はぁ……!」
ジャンが薄ら笑いを浮かべて立ち上がる。最初と同じだ、笑っているのに感情が籠ってない。
その様が更に千晶を怯えさせ、彼女は扉に飛びついた。部屋に似合わず、電子ロックの頑丈なドアはどれだけ動かそうとも、びくともしない。
「心外だなぁ……こう見えても少しは傷つくんだぜ?僕達契約者も……」
「ひぃ!」
ジャンからは笑顔すら消えて無表情に戻る。今なら分かる、この男は何の躊躇いもなく人を殺す。契約者らしく。合理的な考えで。
「プログラム次第で人格さえ書き込まれてしまう……ドールとは違ってね」


ピチャン――。
水滴が洗面所に溜められた水に落ちる音。黒人の大男が振り返った。
「どうした?」
「気配がした」
スーツの男も合わせて向き直る。
「何もないじゃないか――」
「観測霊か……。なら契約者にしか見えない」
どこかで雷鳴が轟く。ジャンと大男が気配に身を固くした。瞬間――。
「きゃ!」
全てが黒に染まった。


暗闇の中で千晶の握っていたドアノブにバチッと電光が走りロックが解けた。
願ってもない好機に千晶は足を縺れさせながら飛び出す。靴は脱げて素足が冷たいが、走りやすくなった。
「待て!」
同じく飛び出して階段を駆け上がる男の一人の両腕、両足が桜色の光で拘束された。将棋倒しになった男達が駆け上がると、既に千晶は完全に逃げたあとだ。
激しい雨で追跡も不可能。ジャンは光の輪で拘束された男を見下ろして眉を顰めた。
「おかしい、電子ロックの防御は三重だった」
「そうだな……偶然とは考えにくい」


夜の街を千晶は走る。だが、どこへ行けばいいのだろうか。おそらくアパートも押さえられている。
仲間だと思っていたジャンは今では命を狙ってくる。そしてルイは――死んでしまった。
雨も、道行く通行人も、ボロボロになった千晶を冷たく見放すだけ。
もう走る気力も体力も尽きた。ここで倒れても、きっと誰も助けてはくれない。
何もかもがどうでもよくなり、膝から崩れそうになった千晶をその腕は支えてくれた。
「大丈夫ですか?原口さん……」
優しい腕の感触と声の響きは、ほんの数秒言葉を交わしただけの彼女。自分が巻き込んでしまった女性――高町なのはだった。横では死んだはずの李舜生も心配そうに立っている。
これは夢か、それとも自分は既に死んでしまったのか。
ただ、千晶は柔らかな温もりを感じながら目を閉じた。



雨は上がり、雲間に覗くのは偽りの星空。
行き場を無くした女に掛けた優しい言葉は、誰より彼女自身が欲した言葉。
死神の手招く黒よりもなお昏い夜へと、二人の女は足を踏み入れてゆく。
闇の中で彼女が抱くのは偽りの空を美しく流れることのない哀しい煌き。
そして、桜色の光は星となって流れる。
第二話
彼女の空を星は流れ……(後編)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年12月21日 23:07