空:八神はやて
視界を覆う蝗の群れという光景は人を容易に恐怖にたたき込む。
十分な戦闘訓練を受けたはずのはやても例外ではなかった。
複眼、無機質な顔、固い殻。
数え切れないそれらが目に飛び込んできたとき、はやては呆然としてしまう。
蝗は一斉にはやてにたかる。
バリアジャケットを噛みちぎり、ついにははやての頬にその顎を突き立てた。
鋭い痛みが走り、ぬるりと生暖かいものが顎の下までしたたる。
皮肉にもそれがはやてに正気を取り戻させた。
魔力の大半をバリアジャケットに回す。
強化されたバリアジャケットがぼんやりと光り、体にたかる蝗がわずかに後退すると、腕と足をめちゃくちゃにばたつかせてまとわりつく蝗を振り落とした。
ほっとする暇もない。次の蝗がさらにはやての体にとりつこうとする。
いくら手足を振っても蝗は諦めないし、いなくなりはしない。
そのうちに蝗がまたはやての体を覆い始める。
魔力を操る集中力も、体力も無限には続かない。
「ひいっ」
体のあちこちから蝗がバリアジャケットを削り取り、咀嚼する音が聞こえてきた。
まだ体には達してはいないが、いつ再び蝗の顎が体に食らいつくかわからない。
そうやって蝗は魔導師に何より必要な精神力をもはやてから奪っていく。
「おえん、もう、あたし……おえんよ」
にげられない。諦められない。
だけど、涙を止めることは出来なかった。
死ぬのはもちろん怖い。
それ以上にもうみんなと会えなくなるのが怖い。
一緒にこの世界にやってきた、なのは、フェイト、スバル、ティアナ、エリオ、キャロ、ヴァイス。
クロノにクラウディアのクルー。
機動六課のみんな。
──それからシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、リィン……あたしの家族、ヴォルケンリッター。
「ごめんな、もう会えんよ」
これ以上に哀しいことはない。
世界結界開口部ファー・ジ・アース側:緋室灯
わずかな空間の歪みとして認識される世界結界に開いた穴の直下に、砲身を真上に向けて緋室灯はエンジェルシードを構えていた。
本来、水平に飛ぶためのエンジェルシードは真上に向いたままの姿勢を保持するようにはできていない。
にもかかわらず緋室灯は不安定な姿勢のままいささかのブレも見せずに世界結界の向こうを見ようとしていた。
目標はただ1つ。世界結界の向こうにある機動六課の仲間がいる船、クラウディア。
灯の目は空間の歪みで霞むクラウディアを捕らえた。
「……展開」
空間よりロングレンジライフルのバレルが染み出る。
それはエンジェルシードの先に固定され長い砲身をさらに長くする。
バレルの先に幾重もの魔法陣が取り巻き甲高い音と共に光が灯る。
「……当てる」
トリガーと共に放たれた光が歪んだ空間を切り裂く。
射程は実に5000キロ。
空を駆けるそれは、威力の大半を減衰させながらも世界結界を抜ける。
クラウディアの中央に命中し、わずかに船体を揺らした。
光が通過した後は、船の姿がはっきりと見えるようになっていた。
世界結界を隔てて向こうとこちらが細く、長い穴でつながったのだ。
灯はすかさず背後の透明プラスチックのカバーをたたき割り、中にあるレバーを引いた。
エンジェルシード後部に据え付けられたコンテナが炸薬の爆発により弾け飛び、中にあったものが飛び立つ。
それは、二つに分かれ片方はケーブルを引きながら世界結界の穴を抜けて向こうの世界に飛ぶ。
穴を抜けたところで二つのパーツは同時に花びらのようなアンテナを開き、ゆっくりと回転を始めた。
空:八神はやて
(…………ゃん)
──なんやろ、なんか聞こえる。
(…やてゃん)
──なんや、リィンの声やないか。
(はやてちゃん)
──でも、リィンがこないなとこにいるわけないしなぁ。
(はやてちゃん!)
──幻聴かな。それもええかな。最期にリィンの声が聞けて……。
(なに言ってるんです!幻聴なんかじゃありません。本物のリィンです!)
確かな、強い念話が世界結界の向こう側から届いた。
クラウディア:リィンフォースⅡ
クラウディア艦内はにわかに慌ただしくなっていた。
とぎれていた定期通信のかわりに送られてくるようになった内火艇からのリアルタイム通信に対応すべく、艦内のクルー達がそれぞれの端末を操作している。
「詳しいことはわかりません。でも、次元障壁の向こうから砲撃があったんです」
艦の揺れが徐々に穏やかになる。
砲撃が命中した箇所も大した被害はないようだ。
「その後、人工衛星みたいなものが出て来て。それからこうやって通信が可能になったんです」
送信されてきたはやての身体状況、魔力状況をチェックする。
あまりよくはない。
むしろ後退した方がいいくらいだが、オペレーターが逐次報告してくるはやての周辺状況がそれを許してくれそうにない。
「とにかく、こちらからのオペレートを開始します。リンクを確立してください」
(了解や。よろしく頼むよ)
空間モニターに表示される情報が爆発的に増えていく。
リィン手を広げ、視覚ではなく感覚で情報を捕らえるべく目をつぶった。
世界結界開口部ファー・ジ・アース側:緋室灯
灯はディスプレイでアンテナの状況を確認する。
動作は正常。順調に情報交換が行われている。
灯が撃ち出したのは0-Phone用の中継アンテナの一種である。
アンゼロット宮殿で緊急時に使われるものであるが、灯はそれを借りてきていた。黙って。
正、副の他、予備が幾つもあるので1つくらい借りてきてもかまわないだろう。たぶん。
このタイプは、二つのアンテナを物理的なケーブルで繋ぎ、異なる空間の境界で確実な通信を確保するタイプである。
灯はあらかじめティアナに0-Phoneで念話と通信ができるように頼んである。
そのため、今は中継アンテナと0-Phoneを経由してはやてとクラウディアの間で通信ができているはずだ。
気がかりなことは1つあった。
霊界経路を使う0-Phoneであっても通常は月匣越しに通信は行えない。
だが、アニエスの月匣は開かれたものである。
灯は通信を阻害するものではないと考えた。
可能かどうかは賭けであったが、うまくいった。
通信を確保した灯に残された役目は後一つ。
このアンテナを死守することだ。
灯は彼方で少しずつ濃くなっていく緑の霧に銃口を向けた。
それは紛れもなくアニエスの蝗の群れだった。
空:八神はやて
はやては空に静かに浮いていた。
恐怖はすでにぬぐい去られている。
蝗がバリアジャケットを削っていく音はまだ聞こえるがそれも今は恐怖につながらない。
はやての後ろには今、クラウディアのスタッフがいる。
ヴァイスが内火艇で集めた周辺情報を元に最適な攻撃方法を割り出してくれる。
リィンもいる。
はやてが今まで1人で行っていた魔力制御の一部を引き受けている。
そのためにできた余裕をはやては魔力行使に使う。
シュベルトクロイツを横に持ち魔力を蓄えていく。
「仄白き雪の王、銀の翼以て、眼下の大地を白銀に染めよ。来よ、氷結の息吹」
魔力が水のようにするりと集まっていく。
「なあ、リィン」
はやては自分を支えてくれているもう1人のことを忘れずに伝える。
「衛星の繋がっとる先にあたしを助けてくれとる人がおるんよ。その人を助けて欲しいんよ。うちの守護騎士達に伝えて」
「誰なんですか?」
「緋室灯。こっちの世界に来てできたあたしらの友達や」
はやての頭上には氷の立方体が4つ。
蝗を押しのけて現れる。
「アーテム・デス・アイセス」
3つの光りが尾を引いて周りの蝗に飛ぶ。
残り1つは、蝗に覆い尽くされたはやてに直撃した。
内火艇:ヴァイス・グランセニック
「5、4、3」
蝗の群れをかわしながらタイミングを計る。
「2、1」
0-Phoneを繋いだ通信機から聞こえるクラウディアからの指示に従えばもう間もなくだ。
「0!」
ペダルを踏み、はやてを包む蝗の群れに突進する。
ただでさえ酷使しているエンジンがさらに悲鳴を上げた。
真っ黒な蝗の玉が突然、色を白く変える。
ヴァイスは白くなった蝗の玉に内火艇の壁面をこすらせた。
途端、玉はがらがらと崩れていく。
落ちていくのは無数の蝗を閉じこめた氷の破片。
崩れる玉の中から現れたのは、これも白い氷に覆われた人型。
ヴァイスはすれ違いざまにエンジンからの熱風で人型を軽くあぶる。
「ふぅー」
氷の破片をばらまきながらはやてが姿をあらわす。
今度は内火艇を振り回してはやての前に出る。
内火艇を盾にはやてが後ろに下がった。
「八神隊長。風邪は引いてませんよね」
「あたりまえや」
それでも少しびくっと震えたのは気のせいだろうか。
「ずいぶん、さぼってしまったみたいやな」
はやてが動けなかった間も蝗は増え続けている。
赤い月さえもかすれるようにしか見えない。
「これから巻き返すよ。でな、ヴァイス君」
「はい、なんですか」
なにか無茶を言われそうな気がした。
「あたしの魔法もしっかり避けてよ。気にかけてられんから」
はやてが新たな魔法陣を描き出す。
「そうだろうと思いましたよ」
ヴァイスの手で操縦桿が踊る。
内火艇はあり得ない機動で魔法も蝗もかわし続けた。
最終更新:2008年04月10日 18:30