Sideジューン
小さなランプにぼんやりと照らされた長い廊下を、重い足取りで歩く。
窓の外を見上げれば、今ではすっかり見慣れた紅い満月があたかも恒星のような輝きを放っている。
その強い月光はあまりに心許ないランプの光量を補って余りあり、廊下全体は不気味な紅に染め上げられていた。
ふと、ねじくれた角と巨大な蝙蝠の翼が特徴的な異形の怪物が描かれた絵画が目に入る。
それは紅の月光を浴びて、今にも飛び出してきそうな錯覚さえ覚えた。
以前来た時は無かった筈だが・・・・・・。相変わらず趣味の悪い奴め。僕はそう心の内に呟いた。
やがてとある一室の前に立った僕は、ノックもせずにその重厚な扉をゆっくりと押し開けた。
すると、鈴を転がしたような声が広い部屋に響く。
「ごきげんよう、ジューン。調子はどう?」
部屋は廊下と同様に紅い月光に染まっている。
精緻な細工が施されている調度の品々に囲まれた声の主は、部屋の奥で妖艶な笑みを浮かべて、アンティーク調の椅子に脚を組んで座っていた。
琥珀色の瞳にウェーブがかかった短い銀髪で、何故か学生服と黄色いポンチョに身を包んでいる。理由なんて興味ない。
あどけない少女の姿をしたこの女は『裏界』で巨大な勢力を誇る大魔王『
ベール=ゼファー』
・・・・・・僕の主人だ。全く持って不本意だが。
「調子は至って良好だ。お前が呼び出しさえしなければな」
僕は吐き捨てるように言うと、腕を組んで視線をちらりと窓の外へと向けた。
そこには紅に支配された荒涼とした景色が広がっている。決して明ける事のない、常夜の世界。
人間が暮らす『表界』と称される世界と、異形の怪物が犇く『裏界』と称される世界。そしてこれら2つの世界の間にの間に無数に存在する『狭界』と称される小世界群。
その狭界の1つにベール=ゼファーは大きな洋館を構えている。
ベールは一度鼻を鳴らすと口を少しだけへの字に曲げて言った。
「あら、ご挨拶ね。まあいいわ」
こいつの性格は好奇心旺盛で、我侭で、狡猾。
面白そうなことに片っ端から首を突っ込みたがる上、無駄に頭が切れるから性質が悪い。
僕をわざわざ召還する時は決まって配下の侵魔-裏界に住まう異形の怪物-では手に負えない厄介事を押し付ける時だ。
果たして今回は一体何に首を突っ込む気なのだろうか、僕は杞憂と憂いを帯びた視線をベールに向ける。
次に奴が発した言葉は、予想の遥か斜め上を行くものだった。
「あなた、今日から輝明学園に入学してもらうから。そのつもりでね」
ウィンクと共に朗々と発せられたその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
こいつはその媚び媚びの仕草が本気で可愛いとでも思っているのだろうか。誰か鏡を持って来い。
しばしの沈黙が訪れ、僕はそれを破るかのように当然の疑問を口にする。
「何故僕が学園に入学する必要がある」
輝明学園は表界へとひっきりなしに侵攻する侵魔を討つ『ウィザード』の養成学校だ。
ウィザードと言っても全員が魔法使いという訳ではない。ウィザードとは単に侵魔を討つ人間の総称に過ぎず、彼らの戦闘スタイルは多様を極める。
人間がウィザードとなる経緯も様々だ。先天的にウィザードとしての力を持つ者も居れば、何らかの原因で突然ウィザードとして覚醒する者もいる。
現在は侵魔とウィザードとの間には休戦協定が結ばれているが、ベール=ゼファーと関係が深い者となれば話は別。
面白そうな事に見境なく首を突っ込んでは、状況をかき乱すこいつは表界、裏界問わず敵が多い。
万一僕の正体が割れた日にはどうなるかなど想像に難くない。
「まあ聞きなさい。あなたが学園に居てくれると、色々都合がいいのよ。お互いに、ね」
「ほう・・・・・・。学園に潜伏する必要性を詳しく教えてもらおうか」
依然として朗々と続けるこいつに僕は訝しみを含んだ声で訪ねた。
「そのうち分かるわよ。今はそれを話すべきではない、それだけ。戸籍や学籍もちゃんと造っておいたから、その辺も心配ないわ」
この秘密主義には辟易とさせられる。
以前こいつの尻拭いでとあるウィザードの中年男性に半年間追われ続けたあの日々はまだ記憶に新しい。
それにしても随分と用意の良い事だ。僕は胸中を思わず独り言の様に声に出してしまう。
「随分と用意がいいな」
「でしょ? こんなのまで用意したんだから」
その地獄耳に驚く間も無く、奴は細長い何かを僕に向かって放り投げる。
『それ』を反射的に受け止めた瞬間、全身が粟立つような感覚を覚えた。
漆黒の鞘に収められた片手剣。心臓の鼓動が早くなる。上手く呼吸が出来ない。
僕は震える手をどうにか抑え、力任せにその剣を抜刀した。
「・・・・・・! なぜお前がこれを持っている」
震える声で、絞り出すように言った。
それは細身の曲刀。形、手触り、重量感、全てが遠い記憶にあるそれと寸分たりとも違わない。
--刀身が闇その物だと言わんばかりに黒く輝いていることを除けば。
ベールは唇に嗜虐的な笑みを刻むと、顔に抑えきれない興趣の色を浮かべてこちらを見ている。
「それにこの色・・・・・・どういうことだ! 答え・・・・・・」
声を荒げてそこまで言ったところで、僕は違和感に気がついた。
違う、これじゃない。
記憶の残滓に今でもかすかに存在し続けている、握るだけで不思議と湧いてくる勇気と決して揺らぐことのない意志力、
そしてあの形容し難い温もりが・・・・・・この漆黒の剣からは微塵も感じられない。
代わりにあるものは、驚くほど怜悧で残酷な黒の輝きだけだった。
ベールは唇をぺろりと舐めると、琥珀色の瞳を妖しく光らせて満足そうに言う。
「あら、そんなに嬉しいのかしら? 私も苦労して手に入れた甲斐があったわあ。あなたにピッタリの剣でしょう? きっと上手く扱えると思うわ。昔みたいにね」
焼けるような憤激に体を貫かれる感覚を覚えながら、僕は憎々しげな瞳で、自分でも驚くほど怒気を孕んだ声を発する。
「貴様・・・・・・何故この形に創る必要があった?」
「気を遣ってあげたのよ? うふふ」
最早こいつと話すことなど何もない。これ以上奴の余興に付き合ってやる義理もない。
僕は踵を返して部屋を後にすることにした。
「他に用事がないなら僕は下がらせてもらう」
部屋の外に向かって歩き出した僕に後ろから間延びした、しかしどこか嘲りを含んだ声が投げかけられる。
「用事って言うか、アドバイスならあるわよー」
僕は後ろを振り返らずに、ピタリと足を止めた。
「あなたの学年は一年生。北川響っていうウィザードと同じクラスになるから。少なくとも、彼とは仲良くするのよ」
判り切っていたことだが、こいつは人の神経を逆撫でする事に関しては天賦の才があるらしい。
「アドバイスだと? 笑わせるな。単にその方が貴様にとって都合がいいのだろう?」
「そんなんじゃないわよ。あなた友達少なそうだから、良さそうな子を教えてあげただけじゃない。中々いい子よ。友達や大事な人の為に尽くそうとする献身的な子だもの。利用価値もあるしね」
付け加えるようにして言った最後の一言を僕は聞き逃さなかった。
血が滲むほど握り拳を強く握り心の内に渦巻く形容し難い感情を無理矢理押し込むと、僕は部屋を後にした。
最終更新:2013年02月04日 18:47