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             記憶都市 長野

           追憶 と 回想 の都市

           君は覚えているだろうか
           彼は想っているだろうか
             追い求めるのか
             回り逃げるのか


 過去から逃げることはできない。特に長野では。

第一幕

 一月某日 中部圏・NAGANO・上高地

 かつての約束がある。
 彼女との約束だ。
 それは、己の力を疑う自分と、自分を信じる彼女との間で結ばれた。

『でも、いつかわたしが傷つきそうになった時、わたしはおまえの力がわたしを守ることを欲するよ』

 だがそれは、護ることが出来なかった約束だ。
「十二年前の記憶、か」
 長野という都市の持つ個性、周りを囲う山々による“遺伝詞(ライブ)の 反響(リフレクス)”は、過去の人の記憶や意思から 虚霊(コダマ)を生む。
 己の記憶を虚像(イメージ)として再生(リピート)するのだ。
 もはや過ぎ去った過去を懐かしむことが出来る。長野が観光都市と呼ばれるのはこの為だ。
 過去の自分と彼女が約束を交わす記憶を再観して、荻原・蔵人は吐息を一つ。
 ……あの頃は、今よりも自分の力を信じていたな。
 ――蔵人・腕術技能(ボクステック)・ 発動(テイク)・正拳・ 成功(ヒット)。
 胸中で呟き、蔵人は虚霊へと拳を振るう。
 不安定な遺伝詞で構成された虚霊が打撃力で霧散する。
 霧散する直前の虚霊は彼女の姿をしていた。
 その彼女の髪は、黒い。
「…………」
 蔵人は無言。
 虚霊を砕いた拳を開き、じっと手を見つめる。
 誰かを殺す力を持つ手だ。
 守りの力を持たぬ手である。
 と、明るい声が響いた。
「蔵人ー、先に進むぞ」
 ――蔵人・聴覚(ヒア)/人物技能・自動重複発動・発言者確認・成功。
 つい技能を発動させてしまったが、それが誰であるのかなど判っていた。
 ――蔵人・視覚(サイト)技能・自動発動・発見・成功。
 雪の残る森の中、積雪に負けぬ白さを持った少女がいる。
 制服のブレザーの上に純白の戦闘用コートを纏い、色素の抜けた白髪を胸の辺りまで伸ばした少女だ。
 背に神形具(デヴァイス)の弓と矢筒を背負った彼女は、こちらに向かって手を振っている。
 蔵人は軽く手を振り返して、返答する。
「今行く、――ユキ」
 蔵人は彼女、矢村・芙雪を風水師(チューナー)としての 字名(アーバンネーム)で呼び、歩き出す。
 遺伝詞の反響によって生まれた虚霊は、通常ならば流体に還元されて山の遺伝詞となる。
 が、観光都市となった昨今では都市外の人間――長野の拍詞(テンポ)にノれない遺伝詞による虚霊が増加し、山に還元されない遺伝詞が妖物となって人に害を与えることがある。
 そのため、総長連合と役所の衛生課では定期的に山々を巡回し、妖物化した虚霊を狩っている。
 ……とはいえ、総長連合に入っていないおれには虚霊狩りに同行する義務はないがな。
「嫌なら断ればいいだろうに」
 こちらの遺伝詞を読んだのか、思考に対して芙雪が言った。
「わたしは強制した覚えはないぞ」
「そうだな」
 一言だけを返して、蔵人は彼女の右目を見る。
 雪の色を持つ、白の義眼だ。
 視線を合わせ、蔵人は吐息。
「……おまえ一人に任せるわけにもいくまい」
「蔵人が来ないのなら、他の隊員と組むことになっている。わたし一人というわけではないから大丈夫だ」
「他の者を信用できないからおれは来ているのだがな」
 その詞に芙雪は一瞬、寂しげな表情を見せ、しかしすぐに苦笑を浮かべた。
「――心配性だな、おまえは」
「そうだな」
 一言だけを返した瞬間、
 ――蔵人・心理(マインド)技能・自動発動・殺気感知・成功!
 ――芙雪・風水/心理技能・自動発動・殺意遺伝詞感知・成功!
 自分達に向けて放たれた殺気を感じ、二人は振り向く。
 同時に、獣の吼詞(タスク)が響いた。
 暴!
 現れたのは、紫の詞色(ネイロ)を持つ四メートルほどの熊。
 長野の拍詞にノれなかった虚霊が凝り固まった妖物だ。
「……大物だな。二十万詞階は超えているか?」
「ん。二十六万詞階ぐらいだ。元はこの辺りでフられた者達の失意の遺伝詞みたいだぞ」
「別れ話のためにわざわざ観光に来るとはご苦労なことだな」
 言って、蔵人は羽織っていたコートを脱いだ。
 コートの下には紺色の学ランを着ているが、左の袖は肩口から切り取られ、 対衝撃反射素材(ASRA)のインナースーツが露になっている。
 そのインナースーツの左腕には、黄色と黒の縞模様が描かれてあった。目の錯覚により腕の間合いを惑わすための模様だ。
 蔵人は両腕を軽く振って調子を確かめ、
「行くぞ」
 ――蔵人・脚術(サバット)技能・発動・疾走・成功!
 走り出した。
 紫熊もまたこちらへと走り出している。
 両者が共に距離を詰めれば、接敵は一瞬。
 その一瞬の経過と同時に、紫熊が叩き付けるように左腕を振るってくる。
 攻撃に対し、蔵人は相手の動きをしっかりと見据え、左腕で、
 ――蔵人・腕術/体術(ジムナ)/ 回避(ダッジ)技能・重複発動・攻撃軌道変更・成功!
 その腕を打撃した。
 紫熊の爪がこちらに到達するよりも早く、またその勢いを殺さずに向きだけを変える打撃だ。
 結果は音が知らせてくれる。
 裂音と打音。
 軌道をズらされた獣の爪が地面に振るわれ、そこにあった切り株を引き裂いた音だ。
「力はあるが速さはないな」
 呟き、
 ――蔵人・体術技能・発動・構え・成功。
  ――蔵人・腕術技能・発動・正拳・成功!
 右の拳で打撃する。狙いは紫熊の左腕。地を打ち据えたままの腕を打ちぬく。
 打音というよりも、砲音に近い音が響く。
 罵、と獣が吼えた。
 蔵人の右拳は紫熊の腕を正確に打ち抜き、肘から先を殴り千切った。
 神器(リズム)を用いず、義体ですらない生身の拳で。
 ……人には振るえぬ力だが、妖物相手ならば問題もない。
 蔵人の舞闘(ダンス)は、名を建御名方無手派裏式という。
 建御名方無手派は拳撃を主体とした格闘術であり、その裏式は無手による殺人を目的とした舞闘だ。
 両の腕についてそれぞれ異なる鍛錬を積むことで、二つの力を併せ持つ。
 いかなる攻撃に対しても対応できる“速度”。
 いかなる防御に対しても突破できる“威力”。
 速と威の二重奏は容易に人を殺せるだけの力を持つ。
 ……人を殺すための力、か。
 と、鳴弦の音が響いた。
 芙雪の持つ神形具の弓弦の音だ。
 その音に乗せて、芙雪が己の遺伝詞を呟く。
 オ、という音で始まる遺伝詞だ。
 雪よりもなお白い純白の詞色を持ち、淡々とした緩やかな拍詞を響かせる。
 それで作られた掛詞(メッセージ)により、蔵人が千切り飛ばした熊の腕が風水(チューン)され、一羽の白鳥となった。
 芙雪が風水で生み出したその白鳥は遺伝詞操作(アレンジ)されており、
 長野の住民である芙雪の持つ“長野”という土地の掛詞を含まされ、土地へと還元される。
 蔵人は全行師(グリーンホーナー)としての視覚でそれらの工程を見て、
 ……あの白鳥は一万詞階というところか。
 相手の詞階(オクターブ)は二十六万詞階。残り二十五万詞階だ。
 ……芙雪の扱える詞階量は二十四万詞階だったが。
 蔵人は芙雪に声を投げる。
「――ユキ! あとどのくらい削ればいい?」
「ええと、――三万詞階ほど頼む!」
「判った」
 問答の間に、紫熊は千切れ飛んだ腕を再生していた。その分、少しだけ体長が小さくなっている。
 熊は大きく吼詞し、両腕を振るってくるが、
 ――蔵人・腕術/体術/回避技能・重複発動・攻撃軌道変更・成功!
  ――蔵人・腕術/体術/回避技能・重複発動・攻撃軌道変更・成功!
 遅い。左腕を超える速度でなければ蔵人に攻撃は届かない。
 そして、
 ――蔵人・体術技能・発動・構え・成功。
  ――蔵人・腕術技能・発動・正拳・成功!
 打撃。
 威力に押されて紫熊は体勢を崩す。そこに、
 ――蔵人・体術技能・発動・構え・成功。
  ――蔵人・腕術技能・発動・正拳・成功!
 打撃。
 打ち据えられ、紫熊は苦し紛れに腕を振るうが、
 ――蔵人・体術技能・発動・構え・成功。
  ――蔵人・腕術技能・発動・正拳・成功!
 打撃。
 右の拳は熊の腕をもその威力で弾いて胴体を打つ。
 蔵人の拳は殴った箇所の遺伝詞を揺るがせ、揺るいだ遺伝詞を芙雪が風水。
 三羽の白鳥が紫熊の身体が飛び去った。
 身体を作る遺伝詞を減らした紫熊が吼詞するが、先ほどよりも音量が小さい。
 蔵人は芙雪に声を投げる。
「――ユキ、いけるか?」
「ああ!」
 芙雪は矢筒から一本の矢を引き抜いた。
 神形具の矢だ。
 ――芙雪・体術技能・発動・足踏み・成功。
  ――芙雪・弓術(アロウ)/体術技能・重複発動・胴構え・成功。
   ――芙雪・弓術/体術技能・重複発動・弓構え・成功。
 技能を用いて矢を弓につがえる。
 ――芙雪・弓術/体術技能・重複発動・打ち起こし・成功。
  ――芙雪・弓術/体術技能・重複発動・引き分け・成功。
   ――芙雪・弓術/体術技能・重複発動・会・成功。
 そしてつがえた矢に遺伝詞を乗せ、
「オ」
 ――芙雪・風水/弓術/射撃(ショット) 技能・重複発動・風水射撃・成功!
 射った。
 芙雪の遺伝詞が乗った神形具の矢は紫熊の胴体中央に突き刺さる。
 的中(ヒット)。
 紫熊が風水され、白く弾けた。
「!」
 生まれたのは先ほどよりも小さな白鳥の群れだ。
 羽ばたきの音も快く、空へと飛び去って行く。
「……四十四羽、か。一羽五千詞階だな」
「数が多い方が見栄えが良いし……あの手の虚霊は幾人もの記憶の遺伝詞によるものだからな。分けた方がいい」
 芙雪は笑みを浮かべ、残心の姿勢を解いた。
 蔵人も脱ぎ捨てたコートを拾いながら、飛び去る白鳥の群れを見て、
「我流であれだけの技量があるのだから、正規の風水訓練を受ければよいだろうに」
「……わたしの風水は、少しズルをしてるからな」
「周囲の遺伝詞と協調できる協音の領主の力か? それもまたおまえの才能だろう」
「そうは言うけど……、そうだ、蔵人こそ風水師になればいい。なんでまだ全行師なんだ?」
「確かに全行師の力は遺伝詞を見切るのに便利だが、おれは近接格闘師だからな」
「――その力を疑っているのに?」
 芙雪がこちらを見る。
 白の義眼で見つめられ、蔵人は一瞬だけ竦み、
「……そうだな」
 沈黙を挟んで一言だけを返した。
 芙雪は疲れたようにため息を一つ。
 苦笑を浮かべ、
「まったく、おまえは本当に――」
 刹那。
 芙雪の詞をかき消して吼詞が響いた。
 ――蔵人・心理技能・自動発動・殺気感知・成功!
  ――蔵人・心理技能・自動発動・抑制・成功!
 ――芙雪・風水/心理技能・自動重複発動・殺意遺伝詞感知・成功!
  ――芙雪・心理技能・自動発動・抑制・成功!
 先ほどの紫熊のような尋常のものではない。周囲の遺伝詞を畏怖させる吼詞だ。
「これは……!?」
「まさか……!!」
 ――蔵人・視覚技能・発動・発見・成功!
 蔵人は見た。
 薄暗い木々の中、周囲の遺伝詞を威圧しながら、“それ”がいる。
 “それ”は吼詞によって揺るがせた遺伝詞を喰い、自らの質量を増している。
 ただの妖物ではない。
 “それ”は――
「鬼……八面大王の虚霊か!!」
 ――蔵人・心理技能・自動発動・抑制・失敗!
  ――蔵人・脚術技能・発動・疾走・成功!
 叫びをあげ、蔵人は拳を固め、鬼に向かって走り出していた。
「待て… ――蔵人!!」
 芙雪の制止も無視して蔵人は疾走。
 視界の隅で、別の虚霊が過去を見せる。
 三年前、芙雪の右目と髪の色を白へと変えたのも、あの鬼だった。
 八面大王の虚霊。
 かつての昔、坂上田村麿に討たれた鬼が、長野の都市理力によって再生されたものだ。
 常念岳の奏でる鎮魂の掛詞によって、長くは存在できないものだが、鬼は遺伝詞を喰い、人を襲う。
 今もまた――
 蔵人の記憶の反響で生まれた今よりも幾分幼い芙雪の虚霊を、鬼は喰った。
「あ――」
 蔵人はキレた。
 吼える。
「あああああああああああっ!!」


「蔵人……!!」
 こちらの詞(コトバ)を無視して蔵人は鬼に疾走。
 右の拳で殴りかかる。
 馬鹿、と口の中で呟き、芙雪は矢筒から対魔戦闘弓箭を引き抜いて弓につがえる。
 ――芙雪・弓術/射撃技能・重複発動・狙撃・成功!
 速射。
 射法八節など悠長に踏んでいる暇はない。
 欧州で発達した対魔戦闘弾を矢状版である対魔戦闘弓箭は、光の槍となって進む。蔵人を追い抜き、鬼に的中する――
 鬼が口を開いた。
 ぬらりとした赤い口腔と、鋭く白い牙を芙雪は見て、
「あ……」
 ――芙雪・心理技能・自動発動・抑制・成功。
 砕音。
 鬼が口を閉じる動きでもって、己に的中する光槍を噛み砕いたのを芙雪は見た。
 砕かれた弓箭が鬼に喰われる。
 三年前と同じ場景を見て、義眼の右目が熱くなる。
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・成功!
 だが、恐れも不安も芙雪にはない。
 何故なら、
「!」
 打撃音。
 蔵人の右拳が鬼を打った。
 ぎ、とも、が、ともつかぬ音で鬼が吼え、打撃に押されて姿勢を崩す。
 お、と鬼に拳を打ちつけたまま蔵人が叫ぶ。
「――蔵人」
 右目に感じる熱を芙雪は無視。
 恐れも不安も、感じない。
 かつてとは違う。彼を信じ切れなかった三年前、不信の代償として右目と髪の色を奪われた過去とは違う。
 矢村・芙雪は荻原・蔵人を信じている。


 光槍を噛み砕くという一動作のためにこちらへの対処が一手遅れる。その一手が致命となる。
 ――蔵人・体術技能・発動・構え・成功。
  ――蔵人・腕術/体術技能・重複発動・疾走打撃・成功!
 疾走による突撃力も付加した右の打撃が鬼を打つ。
 響く打撃音は鈍い鋼の詞色を持っていた。
 ぎ、とも、が、ともつかぬ音で鬼が吼える。
 真正の鬼ならばともかく、虚霊として再生した鬼に本来の力はない。
 打撃された箇所を構成する遺伝詞が“打撃力”という単純な拍詞と掛詞を持った遺伝詞によって揺らぐ。
 揺らいだ隙間に、蔵人は左手で符を叩き込んだ。
 右の拳はいまだ鬼に打ちつけたまま。
 そこから二打目に入る。
「お……!」
 叫んだ。
 全身の筋に気合を入れ、
 ――蔵人・体術技能・発動・ひねり・超成功!
 筋のひねりによって力を蓄え、
 ――蔵人・腕術技能・発動・押し付け・成功。
 密着させた拳にわずかに力を込めて押せば、鬼は反射的に抗って前に出てくる。
 そこが二打目を放つ瞬間だ。
「おあああああああああああっ!!」
 ――蔵人・腕術/体術技能・対抗重複発動・カウンター・成功!
  ――蔵人・腕術/体術/脚術技能・重複発動・超密着打撃・成功!
 密着状態からのカウンター。
 回避は不可能。威力は絶大。
 響く打撃音はもはや爆音と大差ない。
 凶悪なまでの打撃力が鬼に炸裂する。
 しかもそれで終わりではない。
 二打目を放つ前に叩き込んだ符は防御符だ。一定の詞(テキスト)によって防護結界を形成する。
 打撃時の叫びという詞によって防御符は起動。
 本来ならば全身に拡散して逃げていく打撃力が、体内に叩き込んだ防御符によって一点に留まる。
 行き場を失った“打撃力”という遺伝詞が防御符の結界の中で反射加速すると同時に、蔵人は技能を使用。
 ――蔵人・軍事(アーミー)/心理技能・重複発動・兵器情報再生・成功。
 呼び起こした記憶の遺伝詞を長野の都市理力が反響。
 眼前の事象へと記憶遺伝詞の情報を適用する。
 言詞加速器の情報を、だ。
 蔵人が鬼に叩き込んだ打撃力は“力”という単純な言詞へと分解され、直径三○センチにも満たない防護結界の中を無限ループ。
 その回数は防護結界の効力が切れる二秒間に一万回。
 遺伝詞の構成が甘い虚霊にだからこそ使える、即席の言詞加速器だ。
 蔵人は即席の言詞加速器がその威を発揮する前に後方に飛び退き、防御符を撒いて結界を起動。爆発に備える。
 直後。
 加圧された“力”の遺伝詞が、もはや音と判断できぬ大音響で爆裂した。


 ……馬鹿! やりすぎだ!
 “力”の遺伝詞の暴走が奏でる凄まじい合奏(ギグ)。
 防御符の結界程度では耐え切れない。
 力と、力による音の奔流に蔵人の身体が打撃され、吹っ飛んでくる。
「……蔵人!」
 ――芙雪・腕術/体術技能・重複発動・抱きとめ・成功!
 受けた。
 だが安堵するには早い。
 ――芙雪・体術/脚術技能・重複発動・踏ん張り・失敗!
 人間一人が吹き飛ぶだけの運動力を芙雪は支えきれない。
「ひあっ……!?」
 蔵人を抱きとめた姿勢のまま、後方に吹っ飛ぶ。
 木に衝突した。
 かは、と肺から息が漏れる。
「う……」
 うめきをあげ、いつの間にか閉じていた目を開けた。
 身体には衝突の痛みがあり、擦過の傷があるが――
「……くろーど」
 抱き止めている彼の鼓動を感じて、芙雪は安堵の息をついた。
 蔵人はどうやら衝撃で気絶したらしい。
 目を覚まさぬ彼の黒髪を撫で、芙雪は彼に聞かせるように呟く。
「わたしのために怒ってくれたのは嬉しいけど、蔵人。……無理はしないで欲しい」
 気絶している彼からの返答はない。当然だが。
 芙雪は彼の乱れた黒髪を整え、顔についた土を掃っていく。
 そうして触れていくうちに、協音の領主としての力が発動し、彼の持つ遺伝詞と同調する。
 蔵人の拍詞は昔と変わらない、他者を寄せ付けぬような重低音。詞色は硝子の堅固さを持つ黒色。
 孤独で、強く、鋭く、硬く。しかし脆い。
 それが荻原・蔵人の個性だ。
 遺伝詞の同調により、快、の一字で表せる感情が伝わってくる。
 表情を見れば、普段の仏頂面ではなく、やや安らいだ表情になっていた。
 ……撫でられて、喜んでる?
「気絶してるクセに……」
 微笑を隠さぬ声音で芙雪は呟き――
 直後。
 怨、という叫びが響いた。
 鬼の叫びだ。
「!?」
 ――芙雪・風水/心理技能・自動重複発動・殺意遺伝詞感知・成功!
 見る。加圧された“力”の遺伝詞の暴力で生まれた爆撃痕を更に蹂躙して、八面大王の虚霊が再生している。
 その拍詞と詞色を見るに、先ほどの鬼に間違いはない。
 な、と、芙雪は疑問の声をあげた。なぜ、と。
 ……あの爆発から再生した!?
 考えられないことだが、仮にあの爆発の後、周囲の遺伝詞を喰って再生したとする。
 虚霊という性質を考えれば、それ自体がありえないことだ。
 記憶遺伝詞を核に長野の都市理力によって存在している虚霊は、他の強い意志に弱い。
 だからこそ打撃で遺伝詞が揺らがせて風水できる。
 しかも、あの虚霊は八面大王だ。
 八面大王が虚霊として再生されること自体は少なくない。
 だが、常念岳がある。八面大王を封じている竜の山が。
 常念岳となった土行の黒竜は、現在においても術者の意志を受け、八面大王を封じている。
 たとえ虚霊として再生されようと、常念岳の奏でる鎮魂の掛詞によって、即座に風水されるはずなのだ。
「何故……!?」
 問いかけに答えるように鬼が雄叫んだ。

 業!!

 鬼の吼詞は周囲の遺伝詞を畏怖する。
「あ……」
 蔵人は気絶している。
 弓も矢筒も手元にない。先ほどの爆発の際に落としてしまった。
 無手の芙雪では鬼を倒せない。
 鬼に抗う術が、無い。
 ――芙雪・心理技能・自動発動・抑制・失敗!
 ひ、と悲鳴を上げかけた時だ。
 彼が立ち上がった。
「――蔵人!?」
 返答はない。
 ――芙雪・識神/心理技能・重複発動・思考読解・成功!
 協音の領主としての神器を用いて確かめるが、
 ……意識が無い? 無意識で動いている!?
 幽鬼のごとく芙雪の前に立つ蔵人を見て、鬼が吼えた。
 それが己に痛撃を与えた男だということを、鬼は知っている。
 赤き殺意の詞色を全開にして八面大王の虚霊が向かってくる。
 芙雪にそれを止める術はない。
 棒立ちのままの蔵人に向けて鬼が腕を叩き付けようとする。
 動こうとするが、鬼に畏怖された身体は動かない。
 技能を用いる。
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・失敗(アウト)!
 判定は失敗。鬼に畏怖された身体は動かない。
 だが芙雪は諦めない。
「――く」
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・失敗!
 判定は失敗。鬼に畏怖された身体は動かない。
 だが芙雪は諦めない。
「くろ――」
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・失敗!
 判定は失敗。鬼に畏怖された身体は動かない。
 だが芙雪は諦めない。
「くろうど――」
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・失敗!
 判定は失敗。鬼に畏怖された身体は動かない。
 だが芙雪は諦めない
「――蔵人!!」
 ――芙雪・心理技能・発動・抑制・成功!
 判定は成功。身体が動く。
 まだ怯えの残る身体の全力を用いて蔵人を突き飛ばす。
 だが。
「!」
 心理技能の連続判定で消耗し、技能を使えなかった芙雪よりも鬼の方が一手早かった。
 鬼の攻撃が蔵人を打つ。
 それは芙雪が突き飛ばした分だけ本来の狙いを外れ、爪の斬撃よる頭部の断裁ではなく腕の打撃による右肩の破砕という結果を生んだ。
 砕音。
 骨が砕ける音だ。
 棒立ちだった蔵人が倒れる。
 あ、と嘆きの声を芙雪は漏らす。
 これ以上の動きを芙雪は取れない。
 蔵人は気絶したままだ。
 一瞬の後に来るであろう二撃目と、それの結果を予測して、芙雪は倒れた蔵人に抱き締めて――

 粛。

 という音が響いた。
 暗灰色の詞色に重苦しい拍詞を持った音だ。
 常念岳の奏でる、鎮魂の掛詞。
 八面大王を封ずる常念岳の掛詞により、虚霊の鬼が風水される。
 虚霊は風水によって直接土地に還元され、消失した。
 まるで元から存在していなかったように、だ。
 数秒の沈黙を挟み、芙雪は身体を起こした。その動きは鈍い。
 緩慢な動作で蔵人の負傷を診て、次に自分の身体を見て――

 お

 哀哭する。
 幾多の感情が入り混じった、嘆きの詞だ。
 もはや動くものもない山の中、それだけが響いていた。

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最終更新:2009年05月22日 07:23