「……ふん、まさか、こんな場所にまた来ることになるとはね」
エリアH-8。西東診療所。
時計の針が、零時半を少し回った頃。
畳敷きの待合室の中、狐面の男は周囲をぐるりと見回した後、大して感慨深くもない様子で言った。
「二度と来る機会はないと思っていたが――しかし、見知らぬ場所に見知った場所があるってのは、どうにもつまらないものがあるな。こと二度も捨てた場所ともなるとな――まるで堂々巡りでもさせられているかのような気分になる。この世で何が無駄かと言って、同じ無意味を繰り返すことほど無駄なことはねえからな……同じ失敗を繰り返すほうが、まだ有意義ってもんさ」
「……お茶どうぞ」
木目調の卓袱台の上に、紅茶の入ったカップが静かに置かれる。
羽川翼は、自分の分のカップを置きながら狐面の男にちらりと目線を向ける。
当然のこと表情は窺えない。ただ相手もこちらを見ているのは分かったので、何となく目線を切り、卓袱台をはさんで狐面の男と向かい合う形で腰を下ろす。
狐面の男は、自分の前に置かれたカップに一瞥をくれることもなく、虫でも観察するかのような視線をじっと羽川のほうに向けてくる。いや、仮面をつけているため、視線を向けているのかどうかは正確には分からないのだけれど。
「ふん、なかなか似合うな」ややあって、狐面の男が口を開く。「意外な程にな」
「……どうも」
「その眼鏡と、実によく調和している」
「はあ……」
羽川の、今現在の服装。
パジャマ姿での参戦という嫌がらせに近い仕打ちを受けていた羽川だったが、この西東診療所において、既に別の服装へと着替えを終えていた。
巫女装束に。
狐面の男の持つデイパックになぜか収納されていた、見た目麗しい巫女装束の姿に。
「………………」
似合ってはいる。
確かに、似合ってはいるのだ。
しかしこの格好、パジャマ姿とはまた別の意味において、相当恥ずかしいものがある。
基本的に目立ちすぎる。
まるでコスプレでもしているかのようだ。
そもそも、似合っているからどうというような話でもない。
それに、なにより、それ以前に。今の羽川がどういう服装をしていたところで――
「まあ、どんな格好をしていたところで」狐面の男が言う。「猫耳のせいで、ふざけているようにしか見えんがな」
「……………………」
あまり触れてほしくない所に触れられた。
自分はもっと不自然な物を顔面に付けている癖に。
ちなみに羽川の髪型は三つ編みでなく、結われても纏められてもいない。纏めようにも、ヘアゴムの代わりになるようなものは何もないのだが。
「腕は平気か」
「え?」
「さっきコイツが強引に組み伏せていたようだからな。骨でも痛めてねえかと思ったんだが」
狐面の男が指さした先には、着物を身に纏い、和風の装いをした女性が――いや、女性の風貌を象った人形が、部屋の隅で静かに佇んでいた。
両目は閉じられ、眠ったようにぴくりとも動かない。
「いえ、私は全然――あの、それより」
ぺこりと、丁寧な仕草で頭を下げる羽川。
「先程は、その、すいませんでした。いきなり刀を向けるような真似をして」
「『刀を向けるような真似を』。ふん、真似というより、実際に斬り殺されかけたようだったがな。避けるのがあと一瞬遅れていたら、首が胴体とさようならだったぜ――まあ、あくまで俺の主観で判断した限りでは、だが」
「…………」
嫌な言い方をする。
それを言うなら、羽川の主観では避けたというより、ただ転んだだけだったように見えたが。
「――まあ、いきなり斬りかかってきたことに関しちゃあ、別に気にしてはいねぇよ。殺されかけるのには大分慣れてるからな……それよか、むしろあれで仕留めきれなかった己の甘さを反省するこったな。刀を向けた挙句やり損じて、しかもその相手に謝るなんてダセェ真似はするな。あの時死にかけたのは、俺でなくむしろお前のほうだったのだからな、羽川翼。骨を痛める程度だったら、随分すぎるくらいにいい方だったぜ」
「…………」
「刀を使って、しかも不意打ちまでかけて、俺みたいな戦闘能力皆無の相手に一太刀も浴びせられねえなんざ論外だぜ? 武闘派はまず状況と闘ってこそ武闘派なんだよ。いみじくもプロのプレイヤーなら、状況に呑まれるような醜態は晒すな」
…………ん? あれ?
言っていることが何かおかしい……?
羽川は首を傾げた。
「どうも俺の回りには、そういう奴ばっかが集まってくる傾向があるんだよなあ…………優秀なわりに、むら気が多いというか、使える割に扱いに困るというか。匂宮兄妹といい絵本園樹といい……まあ、切れ過ぎる刃ほど手に余るというのは世の常ではあるんだが――」
愚痴るように、ぶつぶつとひとりごちる狐面の男。視線は既に羽川のほうを向いていない。
「あ――あの、」
羽川は、念のために言っておくことにした。
「あん?」
「いきなり斬りかかったりしたから誤解されたかもしれませんけど、私別に、危ない人――とかじゃないですよ?」
「…………?」
数秒の沈黙。そして、
「……お嬢ちゃん。今までに、刀を使ったことはあるのか」
「ありません」
「人を斬ったことは」
「ありません」
「人を殺したことは」
「ありませんってば」
「……………………」
「……………………」
おいおいおい、と、たちの悪い冗談を聞かされたような仕草で頭をかく狐面の男。
「何の躊躇もなく斬り込んできたもんだから、てっきり『殺し名』あたりの人間とでも――ああ、姓は羽川だっけな……どちらにせよ、そういう領域に所属する住人かと思っていたんだが……初対面の人間にあんだけ容赦なく斬り込んでおいて、ただの一般人はねえだろ――」
狐面の男の言葉を聞きながら、羽川は数十分前の自分の行動を思い返していた。
確かに、あの時自分がおかしかったことは、漠然とではあるが覚えている。
いや、今この時点でも、その違和感は継続しているのだ。動もすればまたさっきのように自我を見失ってしまいそうな不安定さが、絶え間なくまとわりついている。
自分を遠くに見ているような。
自分が遠くから見られているような。
そんな、どっちつかずの不安定さ。
「…………」
羽川の座っているそのすぐ脇。そこに、一本の刀が携えられている。
斬刀・『鈍』。まさしく、今までの話の中で何度も言及されてきた、羽川が振りかざしたという例の刀。
狐面の男と出会い、この場所に移動してくるまでの間に、羽川はほとんど正常な精神状態を取り戻していた。しかしその間、羽川はずっと、この刀を肌身離さず携え続けていた。
どうしても、側から離しておくことができない。
いつでも斬りかかることができる体勢。
いつでも斬り殺すことができる体勢。
どうしてか、そうしておきたいと思ってしまう。
しかし『普通でない』というのなら、目の前でぶつくさと何かを呟いているこの男こそそうなんじゃないかと、羽川は思っていた。
初対面の人間に突然殺されかけたにも関わらず、それがさも当然であるかのように――殺しかけた本人である羽川のことを、『そういう人間であることが当然』とでもいうような扱い方を、この人はしていた。
今の状況に、全く動じている様子がない。
普通じゃない。今の羽川と同じく。
「あの…………ところで、」
「ちょっと待った」
質問の台詞を遮り、おもむろに立ち上がる狐面の男。卓袱台を迂回し、つかつかと羽川の前まで歩み寄ってくる。
正座している状態の羽川を見下ろす姿勢で、自分の着流しの袖を軽く捲りあげる。きょとんと見上げる視線を全く意に解さない様子で、両手を羽川の頭の上へと伸ばしてくる。
「え? あ、あの――」
「少しじっとしていろ」
そう言うといきなり、羽川の頭に生えたふたつの可愛らしい猫耳を、両手でがしりと掴んだ。
「ひゃうっ!?」
「ふん。確かに頭皮と一体化してやがる……縫いつけた跡なんかもねえな。こりゃマジに天然か……? 手触りも人間のそれとほとんど同じ、か」
「ち、ちょっと……!」
身をよじる羽川に構うことなく、両手で猫耳を隅々まで弄り回す狐面の男。
指先で、また手のひらで。
外側を、内側を、
先端部を、付け根の部分を。
さわさわと、なでなでと、ぐりぐりと、こしょこしょと。
優しく、柔らかく、しかし執拗に。
奥の奥まで調べ尽くすような手付きで。
「あっ、やっ、やだ……っ! あん……だ、だめ……あっ……やぁ……っ! も、もう、やめ、やめてくださ……あんっ!」
「ふむ……どうやらマジに本物のようだな、こりゃ。ふん、成程、こりゃあなかなかに興味深い――」
二、三度、納得したようにうなずいて猫耳から手を放し、そのままさっさと自分の座布団へと戻る。狐の面を自然な動作で外し、まだ湯気の立っている紅茶をすする。ふう、と軽く息を吐き、言葉通りに一息ついたような表情を浮かべた。
「で、何だ」
「……………………」
実際のところ、たったいま卓袱台の上に置かれた狐の面について質問しようと思っていたのだが、盛大に出鼻をくじかれた上に、質問の中心である仮面をあっさりと外されてしまったため、思いきり質問し辛い状況になってしまっていた。
羽川は顔を真っ赤にして、仮面を外した男の顔を睨みつけた。しかし睨まれている本人が瓢々とした顔で茶をすすり続けているのを見て、無駄だと諦める。
仮面を外した男の素顔は、思っていたよりも普通だった。
声の調子からそれほど若い年齢ではないことは分かっていたが、それでも予想していたよりはずっと若く、精悍な顔付きをしている。
白い着流しがよく似合う、日本的な顔立ち。
特徴的と言えるくらいに目付きが悪い。
「…………」
羽川は何となく、その顔に見入ってしまっていた。
「――ん、どうした。沈黙されても、俺には質問を先回りできるほど気の利いた能力は所有しちゃいないんだが」
「……セクハラですよ、今の」
「ん?」さも意外な事を言われたでもいうような表情。「何のことだ」
「他人の耳を勝手に触らないでください」
「猫耳を触るというのは、セクハラ行為にあたるものなのか」
「本人の同意なしに不必要な身体接触を行なった場合は大抵セクハラです。猫耳でもなんでも同じことです」
「『猫耳でもなんでも同じことです』。ふん、そりゃ悪かったな。だが――」
しれっと、狐面の男は言う。
「俺はその猫耳が、まさかお前の耳だとは思っていなかったんだよ。何しろ俺の目の前にいるのは人間で、俺が触れたのは猫耳なわけだからな。猫耳とは、猫の耳と書いて猫耳と呼ぶ。つまり本来は猫が所有して然るべき物体であるわけだ。お前の耳だと先に言ってくれりゃあ、俺もそう無神経に触るような真似はしなかったんだが」
「…………」
それって、「まさかこんな事がセクハラになるとは思いませんでした」的な言い訳なのでは。
屁理屈というか、白々しいにも程がある。
この男、見掛けによらずたちの悪い種類の人間なのかもしれない。羽川は、目の前の男に対する警戒レベルを少しだけ引き上げた。
「で、さっきしかけた質問はもういいのか」
言いながら狐面の男は、卓袱台に置いてあった仮面を被りなおした。
反省の意識ゼロである。
「……えっと」羽川は少し考え、せっかくまた被りなおしたのだからと(ある程度、意趣返しの意味もこめて)結局聞いてみることにした。「その怪しげなお面は、いったい何なのかと思いまして」
「狐だ」
「…………」
説明されてしまった。
「狐というのはイヌ科キツネ属の哺乳類だ」
「知ってます」
「知ってたのか」
「知ってます」
「そうか」
結局、空振りのような会話に終わった。
空振りというか、空回りというか。
「広義においてはキツネ族のオオミミギツネ属、ハイイロギツネ属、イヌ族のカニクイキツネ属、フォークランドキツネ属、クルペオキツネ属まで含める場合もあるのだがな」
「知ってます」
そして誰もそんな詳しい所まで聞いていない。
そんなに「知りません」と言わせたいのだろうか。
ともあれ。
今までのやりとりで、羽川はこの男の人となりをある程度理解していた。
適当で、場当たり的で、他人に合わせるということをしない。まるで何かに流されるような、何かを受け流すような話し方。
真正面から向き合っても、どこか別のところから見られているような感じ。
違う次元にいるような。
違う世界にいるような。
そんな、掴みどころのない人間性。
――実は俺、何も考えてないんだよ――。
あの言葉も、あながち嘘ではないのかもしれない。
「そういやお前」またも唐突に口を開く。前置きの仕草すらも無しだ。「道中、その猫耳に関して俺が尋ねた時、『怪異』がどうとか言っていたな。そのことについて、ちょっと詳しく聞かせてみろ」
「……はい」
詳しく――と言われても、詳しく話せるだけの情報を今の羽川は持ち合わせてはいない。自分が怪異に見舞われたときの記憶は、そのほとんどが失われたままなのだから。
残っている記憶といえば、春休み、
阿良々木暦が吸血鬼という怪異に襲われた時の記憶。だがそれに関しては、羽川は口をつぐんだ。結局説明したのは、かろうじて記憶に残っている自身の体験に自己解釈を加えたもので、とても説明と呼べるようなものではなかった。
しかし。
「面白いなあ」
狐面の男は話を聴き終えると、しばしの沈黙の後そう言った。
「面白い……ですか」
「面白い。徹底徹尾掛け値無しに面白い。なるほど、『怪異』ね……そういうものが存在するから、そういうものに遭遇することがあるからこそ、世界ってのは――運命ってのは面白い。しかし、『この世界』の中で動くことにどれほどの意味があるのか、今の時点では
計りかねるがな……まあ、だからこそ面白いっていうのもあるが」
さっきから思っていたことだが、この人の話はすぐに独り語りのような調子になる。内容も自己完結的になってしまうのだから、聞いている側としては対処に困る。
どういう意味ですか、と羽川は訊いた。
「この世界はどうも、本来の筋から外れたところにある――というのが、今の俺の印象だ」
本来の……筋?
「確かに、変な所に連れてこられたとは思いますけど」
そう言う羽川に狐面の男は、そういうことじゃないんだよ、と首をゆるりと振った。
「ここは『外側』に近い場所だってことさ。元の世界を物語の本編と喩えるならば、この世界は
番外編――といった所か」
「番外編……」
「ボーナストラック、あるいは二次創作か。あくまで喩えでしかないが。どこまでも不条理でありながら、それが許されてしまう世界。むしろその不条理でこそ成り立ってしまっている世界。……ふん、不条理で話が成り立つたあ、条理が聞いて呆れるね。まあ要するに、ここは本来の世界とは少々ずれた場所にある世界だってことだ。物理的にも観念的にもな。この物語は別世界での出来事です、本編とは全く関係ございません――ってか」
「…………」
「俺は既に、因果から追放を受けた身だからな――――本来、こうして俺に役割らしい役割が与えられていること自体が、そもそもおかしいのさ。絶対不変の因果とは無関係の所で進められているイレギュラーの物語、というのが、この世界に対する俺の見解だ」
「……よく、分からないですけど」
「分からんでもいいさ。どのみち仮説でしかないのだからな。合っていようがいまいが、そんなことは同じことだ」
ここまで喋っておいて「そんなことは同じこと」と締めるこの神経。やはり掴みどころが見えない。
「最後まで生き残れば、どんな願いも叶える――と言ってましたよね」
「ああ、言っていたな」
「あなたには、何か決まった願い事があるんですか?」
「『何か決まった願い事が』。ふん、願い事ねえ。まあ、あるといえば数えきれない程にあるが――」
狐面の男は、何か遠くものを見るように、顔を少し上げる。
「まずはこの、ふざけた遊びを企画したっていう、
水倉神檎とかいう人間――そいつに御目見え願いたい」
「…………」
真剣、に感じた。
声も、恐らくは狐面の下の表情も。
「番外とはいえ、こんな愉快な催し物を実行しちまうようなイカレた存在がいると知って、それをむざむざ放っておく手はねえ。俺は神様なんざ毫ほども信じちゃあいないが、それに限りなく近い存在くらいならあってもいいと考えている。ある意味、俺がそうなろうと
しているようなものだからな……ひょっとしたら、その水倉神檎こそがまさにそれなのかもしれん。可能性のひとつとして想像してはいたが、物語の外側に立つために最も手っ取り早いのは、世界の内部に働きかけることよりも、直接外側にアプローチをかけることだ。『既に外側に立っている人間に手引きをしてもらうこと』――くっくっく、馬鹿臭え程に単純だが、これほど確実で楽な方法も他に無え。これぞまさしく、裏技ってわけだ」
独り言のような、胡乱な言葉の漏出。
というか、後半は完全に独り言のように聞こえた。
不審がる羽川に気をとめる様子もなく、意味の分からない――意味の通じない言葉を、仮面の裏から発し続ける。
まるで、狂人のように。
「…………っ!」
じりじりじりじりじり。
雑音。意識の壁を叩く雑音。
また――あの感覚が来る。
「……ん、どうした」
「あ、いえ――つまりあなたは」羽川は言う。「あなたは、この闘いに乗る、ということですね」
「ん? ああ、まあそういうことになるな。生き残らなければ、願い事もへったくれもねえからな。それが最低条件だ」
殺し合いですよ、という羽川の言葉に対し、殺し合いだな、と淡白に返す狐面の男。
何を今更、とでも言いたげな口調で。
「どうした、怖気づいたか」
じりじりじりじりじり。
羽川は、視界が暗転しそうになるのを寸前で堪えた。
「さっきも言ったが、ここでそういう甘さはお前の寿命を縮める以外に何の役にも立たんぜ。こりゃあ、今のお前に言っても詮無きことだろうが――」
仮面越しにでも分かるくらいの重圧が、まっすぐに羽川を捕える。
「俺の見る限り、お前はそれなりに面白い。素質がある、資質がある、天稟がある。『怪異』の話とはまた別の、世界と関わりを持つに足る素質をな。ただお前には少々、その自覚が足りなさすぎる。今のお前は精々、一般人の尺度からしてしか特殊性を認めることができない程度だ。この世界でその程度の才能は、容易く喰われる」
「………………こ、」
「その素質の活かし方を――お前自身の使い方を、俺がサポートしてやる。強制する気はねえが、俺と一緒にいる限り、お前の身の安全はある程度保証してやるぜ。言っておくが、今のお前が一人で生き残れると思うな。戦闘能力云々の問題じゃねえ。お前に必要なのは、言うなれば――」