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司法制度改革審議会 第五回

1 概要

   佐伯啓思京都大学大学院人間・環境学研究科教授からのヒアリング
   「市民概念を考える」
   庫山恆輔仙台市民オンブズマン事務局長からのヒアリング
   「市民が司法に期待するもの」
   藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授からのヒアリング
    「法に頼る社会、人に頼る社会-法文化の比較」

2 内容

  佐伯啓思京都大学大学院人間・環境学研究科教授

社会科学をやっている者にとりましては、近代の市民社会というのは非常に重要なキーワードになっているわけです。ところが、近代市民社会というのは一体何なのかということになると、余りきちっとした議論がなされている状況とは言えません。日本の社会科学者が市民とか市民社会と言ったときには、市民というのは、私から出発すると。私の利益とか私の権利から出発する。そうすると、こういう市民というものは、多くの場合、いわゆる国家権力と対立すると考えられがちです。民主主義と国家というものがどうしても対立的にとらえられがちである。 【なぜか?】A.国家というものを、言わば上から我々に対して何かを命令すると言いますか、あるいは何かを要請してくるような権力機関だととらえる。そういうふうな前提がそこにはある。それから、更に国家権力と市民が対立すると言ったときには、国家権力が市民の自由を制限してくる。したがって、市民は国家権力に対抗する形で私の自由を拡大する存在である。その個人の自由が拡大していくことが歴史の進歩である。

【現在の日本でさまざまな問題がある理由】一つの考え方は、現在の日本では、まだ、個人の自由とか民主主義とか、つまり市民意識というものが成熟していない。むしろ欠如している。その結果として、日本の政治は、体裁は民主主義ですけれども、事実上は民主主義になっていないとか、官僚が事実上政治を動かしている、あるいは、市場経済が未発達で、事実上、日本には自由競争市場はないという話が出てくる。【しかし】むしろ、日本的な意味での個人の自由や、あるいは日本的な民主主義というものは実現している。競争という意味でも、アメリカでの意味での市場競争とは違いますけれども、日本の企業は決して競争していないわけではなくて、随分、競争しているわけです。過当競争という言葉もあるくらいです。ですから、日本的な意味での経済競争はやっているわけです【結局】エートスというものが欠如している。そこで、西洋における市民とか市民概念というのは一体何なのかということを、私なりにスケッチしておきますと、国家を権力機構と考えて、その国家イコール権力機構に対して、個人の自由を開放して、民主主義的な制度をつくっていく。個人の基本的な権利というところから出発する。そういうふうな私というものをベースにして、市民というものを考える。これは、いわゆる近代的市民観念、近代的市民社会というもので、西洋で成立したと言われており、西洋は市民革命を経てこういうものをつくったと言われている。確かにそういうものがあることは認めますが、そうすると、幾つか問題が出てくると思うのです。 西洋においては、あれほど強い個人主義の意識が存在していると同時にある種の国家意識というものが非常に強く存在している。あるいは自分の住んでいる共同体なり地域なり、更に国家、そういうものに対する感情的なアタッチメントも含め愛国心や愛郷心も非常に強い。個人主義的な個人意識が非常に強いのと同時に、そういう国家なり共同体に対する意識が非常に強い。この二つのものはどういう形で両立しているのか。もちろん、私という個人の権利という意識は非常に強いですけれども、同時にパブリックなもの、公共的なものに対する感覚も非常に西洋社会では強いのです。こういうことは一体どうして出てくるのか。そのことはやはり説明を要することだろうと思うのです。

西洋社会の精神的な源泉として、一つはキリスト教文化、あるいはキリスト教的精神。もう一つは、古代ギリシア、古代ローマ的な精神。そういうふうなものがあるだろうということはよく指摘されます。恐らくそれが何らかの形で現代の西洋の市民なり市民社会にも反映しているだろうと私は考えてみたい。ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理が非常に強い個人の内面というものをつくっている。つまり、プロテスタンティズムというのはカトリックと違って、個人が神と直接対面するわけです。教会だとか牧師さんだとか司祭制度を媒介にしないで、個人が、直接、聖書を通して神と対面している。したがって、神は個人の世俗的日常生活全体を常に監視している。個人の側から言えば、個人の日常生活は常に神によって監視されている。したがって、日常生活の中に非常に強い倫理が生まれてくる。これがマックス・ウェーバーの理論です。そういう人間が神との対面において定義されている。ではこのような自立した強い内面性を持った個人が、どういう形で一つの共同体社会をつくるかというと、これは契約によるのです。何らかの利益的に結び付いた人たちが一つの契約を行って、それで一つの社会をつくる。少なくとも社会というものをそのように解釈しようとする。そこから近代の社会契約論のような発想も出てくるわけです。もう一つは、こういうふうにでき上がった社会というものを西洋人たちは、古典・古代的な概念で再解釈した。つまり、古代的なポリスの考え方をもう一度そこに再発見と言いますか、ポリス的なものを再構築するという形で近代社会を理解したということです。古典・古代的なポリスにおける市民というのは、まずどういう存在かと言いますと、古典・古代のポリスは一つの共和主義です。共和主義というのはレス・プブリカという言葉からも分かるように、公的なるものを中心にして政治領域が構成されている。人々はそういう公的なものに参与して、政治的なアクションに参加する。そのことによって市民となる。あるいはそういうことができるのが市民である。これは権利であり同時に義務です。政治的なものに対する参加、それから公的なるものに対する参与、公的なるものに対してある責任を負うということです。 かなり強固な場合には、古代ギリシアのポリスの場合には兵役義務が非常に重要なものとしてあって、したがって、兵士であるということが市民の非常に重要な要件でした。

西洋における市民は公的なるものを非常に重要だと考える。一方でキリスト教的文化によって、あるエートスを注入され、他方で古典・古代的なポリスの市民精神をもう一度再解釈し、その二つのベースの上に、近代的な市民社会というものは構成された。問題はやはりその潜在的な部分ですね。制度改革は制度改革で私は必要だろうと思います。では、どういうふうに制度改革したらいいのかということについて私はアイデアもないので、そちらの話はしませんが、問題なのは制度改革云々と同時に、我々の社会が持っているエートスというものをどういう形で理解したらいいか、どういう形で引き出せばいいか。そこが問題だろうと思います。一般的に言えば、人間関係を構成しているものは、一つは、法的なルール、もう一つは、社会的な信頼関係です。その二つの次元が必ずある。法的なものは、あらゆることを調整できるわけじゃない。少なくとも日本の場合には、法的なものに訴えるよりも、できるだけ社会的な信頼関係によって調整してきた。これは中国でもそのようですけれども、その面が強いのです。

 信頼関係で調整するときには、背後にお互いに共通しているような価値観、エートスなどが必要なのです。

 確かに、我々は一体どういうエートスを我々のものだと打ち立てればいいかというと、明瞭に述べることはできないし、そもそもそうした種類のことではない。ただ、私がここでお話ししたかったのは、西洋の場合には、西洋の文脈の中でつくられてきた、あるいは再び発掘されたり、伝統的に受け継がれてきたものの中から非常に強い個人意識と、それから社会、あるいは国家についての意識、その二つの対立するものが同時に出てくる。そこにプライベート、パブリックという二つの領域が整然と区分された形で出てくる。そういうふうな構図をとっている。ですから、そのことだけを日本に持ってこようとしても、それは無理だろう。

 個人の自立ということが言われますが、西洋と同じ意味でそれを持ってこようとしても、それは無理だろうと私は思います。ただ、日本の中に何かそれに対応するような意識がなかったのかというと、そんなことはないと思うのです。ここから先はよく分からない話だし、それぞれ人によって考えていることが違ってきますので、もう話はしませんけれども、日本の中に西洋の市民意識に対応するようなものがなかったわけではないだろうという気がするのです。先ほど申しました古典的なポリスの市民意識に対応するものがなかったわけではないだろうという気がするのです。今はそれは非常に薄れてきていて、そのことを議論すること自体が難しくなっている状況ですが、その辺りに問題があるだろうというのが私の考えです。

【問い~みんなで考えてみましょう~】キリスト教のエートスでもない、ギリシアのそれでもない、日本の何かとおっしゃいましたが、具体的に先生は何か考えておられますか。例えば、山岡鉄舟は明治20年に、武士道についての講義録を残していますが、彼によると、日本人の個人の価値観と社会的使命感の両方の価値の根源は、神道と儒教と仏教を一体としたものだということを言っています。それから、新渡戸稲造が『武士道』という本を書いたのは、彼はアメリカ人の奥さんから、「学校でキリスト教を教えない日本人のあなたが何でこんなに立派なのか」という質問を受けて、日本人はこういう価値観を持っているということを、説明しようとしたのです。戦後、形成された日本人の価値観はアメリカから輸入したものですが、いつの間にか、戦後50年以上経ちました。山岡鉄舟や新渡戸稲造のいう日本人の精神が欠落したと考えるべきでしょうか。先生、何かお考えがありますか。

【問い2】後入ってきたアメリカ的なるものは、日本の社会にどういうように受け止められ、どういう姿として今あるのか、評価すべきものはあるのか。

【答え】戦後の日本は、アメリカ的な理念をほとんど全面的に妥当なものだと受け入れようとした。ただ、先ほど言いましたように、実はこういう理念の背景には、ヨーロッパが生み出したキリスト教的な伝統とか古典・古代的なものがあったはずなのですが、アメリカは、今、お話ししたような理念で国を統合したときには、その背景にある部分は一応遮断してしまったわけです。少なくとも見えない形です。抽象的な理念として、デモクラシーとか基本的人権は世界に普遍化できると。我々はその部分だけを取り入れてしまったから、非常に奇妙な取り入れ方をしたという印象がどうしても強いのです。例えば民主主義とか自由ということを我々が言った場合に、価値というものがみんな主観的に定義できます。つまり、社会的に共通に持っている客観的な価値というものは存在しない。何が良くて何が悪いかということは、それは個人がみんな主観的に決めることができる。それが自由とか民主主義の意味だと我々は考えた節がかなり強いと思います。

【問い3】日本人としては、信頼関係というものが一つの大きな事実として、日本社会そのものを構築してきた。そのとおりだと思うのですけれども、ただ、お上(かみ)というものに対しての関係において、やはりお上(かみ)依存というか、自分自身が考えないで、私、それを自分では観客民主主義だと言っているんですけれども、いつも批評したりするということはしても、自分が当事者として物を考えるということが、日本国ではやや乏しいのではなかろうかと思うんですけれども、そういう物の考え方はいかがでしょうか。

【答え】日本人の場合には、多くの場合には公というものはお上(かみ)なのです。上にあるのが公的なもので、そこに従っておけばそれでいいやという話。下の方は下の方で、私で勝手に楽しんでおればいいという話になってしまっております。ただ、本当にそういうことが日本の社会構造なり文化的なものの中で、がんじがらめにそういう構造ができ上がってしまっているのか、そうでないのかというのは私にはよく分かりません。

【問い4】日本においてこれから公というものも真剣に考えないといけないというとき、日本における公というものをどういう方法、手段によってつくり出したらいいとお考えでしょうか。

【答え】それは強引かつ端的に言ってしまうと、今の日本では国家意識というものをベースにする以外にないだろうと思うのです。戦後の日本は戦前の反動で国家について議論したり、国家意識について議論することはほとんどタブーのような形になってしまって、国家意識というと調子が悪いのですけれども、今こういうグローバルな時代にこそ、一種のナショナル・アイデンティティーと言いましょうか、そういうものについての自覚は必要になってくると思うのです。

終わり

藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授

「法に頼る社会」というのはアメリカのことを頭においていますし、「人に頼る社会」というのは日本のことをおいております。この二つの社会は一応言わば対極にあるようなものでして、その法文化の比較をしてみようということです。先ほどのお話にエートスという話も出てまいりました。法文化というのは私はここでその社会に住んでいる人たちが法に対してどんな期待を抱いているのか。そして、その期待をどのように行動に表すのか。そういう期待が表れてきたところに何かの形があるのかといったことを法文化の問題として考えてみようと思います。 端的に申しまして、アメリカは非常に法に頼る社会を建国以来つくってきたわけでして、その社会の問題は余りにも法に頼り過ぎる。余りにも法に頼るので、非常にそのためのコストが高くなり過ぎてどうにもならないというところまできている。どうにもならないとは、ちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、それが問題となるところまできている。 それに対して、日本の社会は、人に頼る社会、これも後で少し説明を要すると思いますけれども、言わば少数の裁判官、少数の検察官、少数の弁護士で明治以来、非常に効率的に司法制度を動かしてきたという意味ではコストが余りかかっていない。つい私は大阪の生まれですので、安上がりという言葉が出てきてしまうのですけれども、アメリカの法に頼る社会が非常に高くつくのに対して、日本の社会は少なくとも今までは安上がりで司法制度を担い、動かすということをしてきた。それが現在、日本ではいろいろな社会的変化、国際的な変化、そして市民の要請に対応し切れなくなってきている。ですから、まさにこういう司法制度改革審議会が置かれたという次第になっていると思うのです。

アメリカでも法に頼り過ぎる、法に頼ることのコストが大き過ぎるということで、これをやはり改めなければならないといった議論が出てきております。法が多い、法律家が多い、訴訟が多いということになりますけれども、どうしてそこまで法律家が増えるのか、あるいは法が多くなるのか、訴訟が多くなるのか。これは全く市場の原理と申しますか、需要と供給の関係で弁護士の活動領域、あるいは法の関わる領域がどんどんと広がっていったということで、それをどこかで規制しようとか、あるいはそれをどこかである一定数にとどめよう、制限しようという考え方は、アメリカの社会あるいは司法制度の中には見られません。ですから、全く市場で弁護士のサービスが求められるのに応じてそれを提供する弁護士が増えていくという関係になっております。なぜこういう社会をつくることになったのか。それは御存じのように歴史的にも社会的にもアメリカは移民の国で始まりましたから、まずお互いの共通の行為規範、お互いに理解できるものをはっきりさせるということで、それが法に求められたわけでして、やはり建国の初めから、法を中心にしていろいろな規範を組み合わせていく、それによって社会の秩序を保つということから始まったと言えます。

法に頼る社会の一番基本的な思考方法は何かと考えると、これはいわゆる対決主義なのです。対決主義というのは、決められた手続にのっとって自分の主張を徹底的に展開する。そして、その前提は自分の言うことは100%正しいのであって、相手の言うことは100%間違っている。これがぶつかる。そして、主張を尽くすことによって、証拠を出し、証人を呼び、そして第三者に判断してもらうことによって事の決着をつけよう、白黒をはっきりさせようというのが、このアメリカの法に頼る社会、そしてその司法制度の根底にあると思います。

「人に頼る社会」これは日本についてのことでありますので詳しく申し上げる必要はありません。日本の今までの物事のやり方が、あらかじめ根回しをして関係者に意見を聞いて、そしてどの辺でまとまりがつくかということを基にして物事を決め、動かしていくということが基本にあったと思われます。それで、これは社会学者が既に指摘しているように、日本の村社会的な物事の決め方、アメリカ人の日本研究者に言わせると、日本ではそういう村社会的な物事の決め方が大企業の大きな組織の中でも、さらに政府の中にも持ち込まれて同じことをやっているという批判があるわけですけれども、こういうやり方が通らなくなってきた。それは、そのコンセンサスの外側にある人、コンセンサスづくりに呼ばれなかった人、加わらなかった人に、一体どんな手続でどういう話合いが行われてどう決まったのか、そしてそれはだれが責任を持ってどの範囲に及ぼすのかという辺りの説明が、往々にして欠けるということであったわけです。コンセンサス社会が非常に効率的であったのは、少なくともコンセンサスづくりに加わった人はそこで決まったことは守るというのが前提ですから、守らなければそれこそ村八分にされるというようなことになる。この方法が非常に効率がよかったのは、それに加わった人の間では決まったことを実行する、それを法に訴えて実行させるという必要がなかったからです。普通はそんなことは考えなくてもよかった。 ですから、法を動かす、法に訴えるということのコストを考えずにこういうやり方をしてきたということになります。それが、結局、現代に至ってこの決定過程の不透明性とか、一体だれが責任を負うのかとか、集団の責任か、個人の責任か、あるいは合意に加わらなかった人やそういう話合いの場にいなかった人にとって、そこで決まったことは公平であるのかといった問題が吹き出してきて、特に日本に外から入ってきた人たちに対する配慮、あるいは政策の上でもそういう配慮をしなければならないということになると、はやりの言葉で言えば日本での物事の決め方、進め方がアカウンタビリティーがない、説明が何もないままで結論を押し付けられるという批判につながっているわけです。

日本の司法制度というのは官僚が今までコントロールしてきた、官僚が担ってきた、そして動かしてきた。

最終更新:2007年06月13日 02:24
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