32回 出口・牧田・久我
司法制度審議会 32回
竹下会長代理
司法の民主的正統性、レジティマシーと国民の司法参加という観点から、意見を申し上げたい。
日本国憲法は、国民が直接に司法権を行使する、ないし、直接にこれに参加することによって初めて、国民主権の下における司法の民主的正統性が基礎付けられるという立場には立っていない。司法権は最高裁判所及び法律によって設置される下級裁判所に帰属するとされており、その最高裁判所の長官は内閣の推薦に基づいて天皇が任命いたしますが、それ以外の最高裁判所の裁判官は内閣が任命する。また、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名に基づいて内閣が任命する。
憲法は、一方で議院内閣制を前提として、この議院内閣制の下にある内閣の任命、またはその前提として最高裁判所の指名というものを予定するというところに、司法という、立法、行政と異なる統治作用の民主的正統性のぎりぎりの根拠を求めている。司法というものは国民の一時的な意思、あるいはそのときの世論の動向と関わりなしに、高度の独立性の保障の下に、立法府、行政府の行為をも法に照らしてチェックをし、また国民の法的権利を保護するという司法の機能の特殊性に配慮している。国民主権ということから、直ちに立法、行政と同じように、当然に司法権の行使にも国民が参加すべきであると説くとするなら、そこには論理の飛躍がある
国民の司法参加と司法の民主的正統性とは全く関係がないのかと言えば、私もそうではない。裁判の過程が、より国民に開かれたものとなり、また国民の健全な良識が裁判の内容に反映されることによって、司法が国民によりよく理解され、より広くかつより深く国民の支持を得るようになれば、司法はより強固な民主的正統性の基盤を得ることができるという関係に立つ。司法が国民主権の下で正統と認められないとか、そのレジティマシーが否定されるという意味ではなく、レジティマシーは最小限保障されているけれども、より強固な国民主権的基盤、あるいは正統性の基盤の上に司法が成り立ちうるようにすることが望ましいというところから、司法への国民参加が求められている。司法のブラックボックス化ということでございまして、司法は専門家だけにしか通用しない言葉で、また専門家しかわからないルールの下に行われている。そうすると国民にとっては、司法過程あるいは裁判の過程というものがブラックボックスになってしまうのではないか、この司法のブラックボックス化に歯止めを掛けるためには、裁判システムと外部との法的コミュニケーションというものを重視しなければならない。国民が裁判過程に参加をするということによって、法廷で展開されている法律論、あるいは判決で示される法律論というものが、非法律家たる国民に理解可能なものになり、それによって初めて司法は国民の身近な存在となり、国民の深く広い支持を得られるということになるのではないか。
鳥居委員
一つは、陪審に参加する人々は、事実認定をするところに限られるのであって、法律は裁判官に任されていて、その裁判官の教育の下で陪審に参加した人々が結論を出していくというプロセスであるところに特徴があり、それを国民に教えるべきである。
もう一つの本質は、やはりこれは現在の刑事訴訟法の下では、旧刑事訴訟法と現在の刑事訴訟法では証拠の扱い方が全く違う。一旦裁判になりますと、現在の刑事訴訟法の下では、法廷に出される証拠は、突然出されるというとおかしな言い方になるが、被告側、弁護側が、見せてもらうことはできない。その中で裁判が行われている。私が考える裁判のイメージというのは、法廷で提出される直接証拠を、裁判官と陪審員が見て、これは何が起こったのかということを事実認定していく、そのプロセスがない限り、やはり旧刑事訴訟法の方がよっぽど証拠は開示されていた、よかったのではないか?
山本委員
日本の民主主義は、利益追求型と言うか、あるいは権力糾弾型と言うか、そういった傾向が目立ち、自律、自己責任といった民主主義の根っ子になるようなところがなかなか育たない状態で今まで来ている。
アメリカ、イギリス辺りで行われている陪審制というのは、極めてパブリック意識が強い社会が基盤としてある。今は多少欧米でもアメリカとかイギリスでも、社会の雰囲気は変わってきたのかもわかりませんが、恐らくこの陪審制を取り入れた当時の状況というのは、特にアメリカにおいては母国イギリスとの間の、言ってみれば植民地に入植した人たちの権利意識と言いますか、そういった強い意識に支えられて始まった陪審制。そういったことが、この時期に日本に入れることがベターなのか、必然的なのかということをよく考える必要がある。
北村委員
統治客体から統治主体として、社会的責任を負った存在として、国民の司法参加というものを考えていかなければならない
司法委員だとか調停委員というものが例に挙げられることがあるのだが、確かに必要。しかし、これと陪審、参審と非常に違うのは、片一方は望む人が、希望する人が行うというのに対しまして、陪審、参審の場合には、国民の義務となってしまうという点が非常に違うのではないか。陪審では法律判断と事実認定を切り離すということだが、確かにこれを切り離すと言っても、切り離せるような事件と切り離せないものとがあるだろうと。そうすると陪審をもし適用するとしても非常に限られた事件に限定される。民事は難しいかなという部分、限られた刑事事件についてそれをまず適用していくというような形になっていく。
高木委員
統治客体意識という言葉に象徴的なように、日本の経済、行政、立法も全部含めまして、いわゆるお上が仕組んだものの中に、仕組んだことが全部が全部悪いことを仕組んだという意味じゃないんですが、制度の限界とでもいうべき状況がいろんなところに今、出てきている
吉岡委員
前回最高裁判所が御説明なさって、誤審率が高い。だが、誤判の事例がとても古い。だから基本的に言うと陪審でも誤判があるのだということなのか、陪審だから判断を誤るということなのか、最高裁の姿勢がわからない。また、古い事例しか出てこないということは、要するに近年の陪審制では誤判というのは少ない、あるいはないということではないか。日本の裁判の場合に、本当に職業裁判官に誤判がないかということを考えますと、冤罪事件等で見られますように、有罪それも死刑判決になっていた人が無罪になるという、そういう事例が幾つもある。統計上の数値を見ますと、結構判決が覆された、有罪が無罪になったという事例が数字で出ています。その数字を高いと見るかどうかはあると思いますけれども、平成6年から10年ですから5年間ですね、その5年間で簡裁の場合で44件ある。これは裁判官が判断をしているわけですが、それで間違っているという結論。それから1審、2審という、そういう段階的に見た場合に誤りがないかどうか、これも数字を出していただきました。これは平成10年と11年です。そうしますと、有罪だった人が無罪になった、そういう事例が平成10年で10人、平成11年で10人と、これは全部職業裁判官の判断。陪審をやったら誤判が多くなる、職業裁判官だったらそうではないということではなくて、いかに証拠が十分に出されるかというところにあるのではないか。
水原議員
道交法違反、あるいは業務上過失致死傷事件で身代わり自首をしまして、それが真犯人とみなされて起訴されて、そして裁判所でこれは身代わりでございますということがわかった案件が非常に多い。調べてみたら、非常に簡裁での無罪事件というのは大半がそういう事件である。
井上委員
誤判の問題だが、以前から思っているのは、諸外国、特に英米などで誤判の事件が多く、しかもその多くが、陪審によるものであるということは事実。ただ、それが、陪審だからそうなっているのかどうかというところは、そう断定するだけの実証的な根拠は十分ない。一時期、陪審制度について、職業裁判官による誤判を防止するとか、あるいは回避するための妙策だという主張もあったわけだが、それを裏付けるだけの根拠はないということは言えると思う。しかし、さらに進んで陪審になると誤判が飛躍的に多くなるとまで言えるかといいますと、それもまた十分な根拠はない。そういう状況ですので、そこのところをこれ以上突っ込んでみても、恐らく印象論とか、一方的な主張だけになってしまう。仮に国民が参加した場合でもそういう問題は残るのだということを意識しながら、それでも意味があるのかどうか、そしてまた、具体的な制度設計において、そういうところをどういうふうに手当をしていくのか、そういう手当はあるのか、という方向で議論する方が、生産的である。・
中坊委員
一つは、やはり我々はこの論点整理で一致したのが「法が社会の血肉と化していない」、それはやはり「客体意識から主体意識に変わってないんだ」ということ。それでは、ほっておけば客体意識から主体意識に変わるかというわけである。ビデオで実際の陪審手続を見た。確かに選定手続がどれほど手間の掛かるものか、そしてその中で一人一人国民に裁判官がどのようにして教えているかがよくわかった。司法の場においても統治客体意識から主体意識に変える、一つの政治的な大きな根底がここで図られているという点を、もう一度想起すべきではないか。
二つ目は、司法制度の関与の在り方、我々は司法と国民との間に距離が遠過ぎるということは、これまた既定の事実になっている。それをどうしたら近付けるかというのに、国民がそこに参加しないでおいて、みんなが専門家同士の話し合いになってしまう。だから、そこが今のプロの在り方というものが、刑事司法の在り方も民事司法の在り方もすべてに、極めて裁判構造のそのものに非常に密接に関連している点である。
更に三点としては、今は中間報告の前ですけれども、中間報告の中においてはもっと濃淡があるんだと、だから非常に基本的なことの視点から考えないといけない。そういうことで言えば、まさに立憲君主制の下において、天皇主権の下においてなおかつ陪審制度が行われてきた我が国の歴史というものを、よその国はさておいて、我々先人のやってきた実績というものは、もっと我々は尊重して考えるべきではないか
歴史的に言えば、刑事について陪審なり参審というのが諸外国で行われてきました。それは、国家権力の発動の最たるものである刑罰につながるものですから、その国家と個人とが対決する構造になり、そこに国民の代表が参加して判断を下す。歴史的には、そういう意味があったわけです。
これを制度的にもう少し進めるとすれば、4点くらい大きなメルクマールがあるんじゃないか。
① どういう裁判について認めるのかという、要するに、どういう事件についてどういう要件の下にやるのかという問題。
⇒私はやはり今までの我が国の陪審制の歴史やらをみたところでは、やはり刑事の裁判の中でやるべきではないか。というのは確かに今全面的に、さっきから議論の出ているように、一挙に陪審というものを我が国に全面的に導入できるのかどうかというのはかなり大きな問題だと思うんです。だから、検察審査会も刑事事件についてありますし、やはり刑事というものが一つの大きなメルクマールになるんじゃないかなと気がします。 刑事犯罪全部というわけにいかぬのだから、重罪に関するものなのか、さっきおっしゃったようにわいせつであるとか讀職であるとか、要するに刑事裁判の全部に導入するというのではなしに、刑事裁判の一部について導入すると。どちらかと言えば、被告人に選択させないと、自動的に全部やると言ってよいのかどうか。やはり陪審であれ参審であれ、要するに新しい制度を導入していくのに全面的に何もかも導入するというのが、具体的に確かにおっしゃるようにいろいろ問題もあろうから、まずもって一部に具体的に実現するという方向を出すべきではないかなという気がするわけです。
②それでは国民が参加するというけれども、どれくらいの数の人をどうするんだという問題や国民のだれがどういうような方法で選ばれてそういう決定に参加するかという問題。
⇒資格者と言いますか、それはどうするかという問題、あるいはどうして選ぶのか。私は検察審査会と同じように無作為で、成人であればだれでもなるということにしないと、戦前のみたいに3円の納税とか、そういうのはおかしい。この際、普通選挙がどうだという問題はあるかもしれないけれども、普通選挙同様、平等にやらないといけないのではないか。それこそパブリックというものを国民が公的にどう義務づけられていくかという問題だし、そういう意味では無作為で成人を、勿論、男と女と区別しないでやるべきじゃないかと思います。
③その選ばれた国民がまさにおっしゃるように主体性をどういうふうにして持とうというのか。裁判内容のどの部分に、例えば事実なのか法律なのかは別にして、どのように関与するのか。主体性を持って関与するというのはどういうことなのかということ。
⇒選ばれた者が先ほど言うように、裁判内容のすべてにわたってか、一部か、いわゆる事実に関してだけなのか、あるいは全部に関してなのかはともかく、やはり単に意見を述べるというのではなしに、基本的に一番重要なことは、決定に独立した権限を持って参加するということが一番のポイントで、そうでなかったら、やはり観客というか、ちょっと聞いときますということになるんだから、一番重要なことは、決定に権限を持って参加すること。しかし、どの範囲についてやるかはこれからまた考えればいい。 それによって一般的には参審と陪審とが分けられておるんだろうけれども、いずれにしても、先ほどから会長が再三おっしゃっているように、主体性を持って関与するというのは、すなわち裁判内容をどう決めるかということに関与するということが必要ではないかなという気がします。
④裁判官はどのように関係するのか。最高裁はこの間国民が評決権を持つのは違憲の疑いがあると言っていますが、私は非常にそれはけしからぬと思うんですけれども、けしからぬと言ったらおかしいけれども、大変なことを言われておったと思うけれども、自分たちが決めて、評決とか陪審とかいうことを言うてはりますけれども、いずれにしても、裁判官がどのように関与するのかという問題がある。 そのような四つの大きな国民の司法参加には問題がある。
⇒裁判官がどのように関与するのかについては、これはいろいろありましょうけれども、私は最低限必要なことは、裁判官に評決権はないということにしないと、こういう国民の司法参加というのは、責任を持つことにはならない。片方は専門家だ専門家だということにいってしまうと、裁判官を補佐するという角度になってきてはいけない。そういう意味では裁判官の関与に問題がある。しかし、それでももう裁判官はほうっておいて、今のアメリカがやってはるみたいに、絶対評決には関与しないというのがいいのかどうかは、まだもう少し考えてみないといけない。 いずれにしても、国民の司法参加ということは決めないと、今後のありとあらゆる裁判官の選任の在り方から、刑事司法、民事司法の在り方まで、ものすごく影響することですから、その点は十分配慮しつつ決めていかなければいけないと思いますけれども、これを中間報告のときに、どちらかだと決めていいのかどうかは、まだ。というのは、ほかの方がまだ決まってきていませんからね。もう少しいってもいいんじゃないか。
国民の司法参加には、
①国民が主権者として裁判に直接関与する。
②トレーニングをする場にもするんだと。⇔ もう一つの視点で言いますと、裁かれる立場から言うならば、トレーニングの場として裁判が使われるようなことになったならば、大変な問題になるだろうなと。
③国民の意識を高揚させるんだという議論もございます。
④職業裁判官が国民の常識から離れた裁判をやっているじゃないか。これを直そうじゃないかということもあるわけです。
国民が司法参加をする場合には、事件の種類も決めなければいけないでしょうけれども、最初はどういう方法で参加する者を選ぶのか。いろいろな方法がございましょうが、問題を考えながらやらないと、裁かれる側、裁判を受ける側にとっては非常に悲劇になるんじゃなかろうかなという気がいたします。 もう一つは、事件の種類でございますが、刑事で言うならば重罪事件、法定合議事件だという議論が多くなされておりますけれども、国民が常識的に判断できる事件というのは、日常生起する凡百の事件、例えば、窃盗事件だとか詐欺事件、横領事件、傷害事件、こういう事件については国民の良識はある程度反映できるのではないか。殊に業務上過失致死事件とか道交法違反事件という、国民の生活に密着したような事件については、国民の良識的な判断を反映することができるでしょう。そういうところから入っていくのならば、私は陪審・参審は別としまして、国民の良識を裁判に反映し、また、そこで国民がトレーニングを受けながら主体性を保っていくという過程を経る裁判形態としてはそういうことを考えなければいけないのではないかという気がいたします。何人かの方がおっしゃっているように、評決権は与えず意見だけ聴くというのは、やはり中途半端な感は免れないと思うのです。その意味で、決定過程に主体的に参加し、責任も負わないといけないんですけれども、責任を分担して参加していくという形の方が望ましいということは言えるだろうと思うわけです
「結論」 この時点では対象事件は重大事件ではなく日常事件にとどまるものであった。
後半
「国民の期待に応える刑事司法の在り方に関する取りまとめペーパーについて」
(↑当時の段階における審議結果をまとめた配布資料)
上 高木委員 下 井上委員(2人は対立してるわけではない)
1・検察の証拠全面開示→被告人の防御権の保障のため原則開示、例外ありに。
・否定はしないが「原則・例外」という言葉自体が一義的でないため明確にする
ため議論が必要。
2・証拠開示を前提としているという言葉を加えてほしい。
3・法廷侮辱について疑問視する声が「複数」より多かったのでは?
4・公的弁護制度は国費が出す以上、条件がつくのは仕方ない。しかし個々の弁護
活動の自主性・主体性を弁護会はもつべき。
- 公費をつかう以上、弁護士会は主体的に責任を取れる制度を。
5・取調べ段階で被疑者の意思表示があれば捜査の可視化のため録音・録画をとっ
てもいいのでは?
- 更に検討をするべき。
- 取調べの適正について方策を(水原委員)
その他の意見
- 刑事司法は検察・弁護士・裁判所とそれぞれの立場があり、バランスが大切である(高木委員)
- 国民に対する透明性を高めるため、弁護士会の活動についてもっと国民参加を考えてもいいのではないか?
- 休憩中にまとめられた「国民の司法参加」についての文章
「21世紀の我が国社会において、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。そのような中で、司法の分野においても、主権者としての国民の参加を拡充する必要があり、法曹は、こうした国民とともに、司法を真に実のあるものとして発展させるべき責務がある。
我々は、国民の司法参加に関する我が国のこれまでの経緯・経験をも踏まえつつ、上記のような国民と法曹の関係の在り方を基礎として、司法制度全体の中で、国民の参加を拡充すべきものと考える。
訴訟手続への参加については、陪審・参審制度にも見られるように、広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、訴訟手続において裁判内容の決定に主体的・実質的に関与していくことは、司法をより身近で開かれたものとし、裁判内容に社会常識を反映させて、司法に対する信頼を確保するなどの見地からも望ましい。
今後、欧米諸国の陪審・参審制度をも参考にし、それぞれの制度に対して指摘されている種々の点を十分吟味した上、特定の国の制度にとらわれることなく、主として刑事訴訟事件の一定の事件を念頭に置き、我が国にふさわしいあるべき参加形態を検討する。」
(これ以降、上記文章の推敲が続く。しかし実質的変化は無し) 終
資料・取りまとめペーパーについて
1:刑事司法の使命は...
「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ、的確に犯罪を認知・検挙し、公正な手続を通じて、事案の真相を明らかにし、適正かつ迅速に刑罰権の実現を図ることにより、社会の秩序を維持し、国民の安全な生活を確保すること」 と合意されている。
2:刑事裁判の充実・迅速化
・弁護人が個々の刑事事件に専従できる体制をつくるべき
・第一審の審理期間や公判期日の開廷間隔を法定化?
←実効性は?被告人側の防御権への影響は?
・審理の充実・迅速化のためには、早期に事件の争点を明確化することが不可欠
→第一回公判期日前の争点整理に関して改善策を
・検察官の取調べ請求予定以外の証拠の被告人・弁護人側への開示について拡充
←全面開示?プライバシーの問題は?
・裁判所が必要な場合に訴訟指揮権を行使できることが重要。
←法廷侮辱罪などを設けるか?
・書証の取調べが中心の裁判は公判審理における直接主義・口頭主義を衰弱させるとの問題提起
・争いのある事件とない事件を区別し効率化を図る。
3:被疑者・被告人の公的弁護制度の在り方
・被疑者・被告人の公的弁護制度については、刑事司法の公正さの確保という点・適正・迅速な刑事裁判の実現を可能にする上でも、刑事弁護体制の整備が重要。
・少年審判手続への公的付添人制度の導入について積極的に検討すべきである
←少年審判手続の構造や家裁調査官との役割分担、付添人の役割なども考慮する必要がある
4:新たな時代における捜査・公判手続の在り方
・刑事免責制度の導入について是非が問われる。
・刑事司法にとって参考人の協力は不可欠
←捜査段階における参考人の出頭強制制度の導入?
・犯罪の国際化等を踏まえ、国際捜査・司法共助制度の拡充強化
・被疑者・被告人の身柄拘束に関連して指摘されている問題点(代用監獄の在り方、起訴前保釈制度、 被疑者と弁護人の接見交通の在り方、令状審査・保釈請求に対する判断の在り方)への対応
←被疑者・被告人の不適正な身柄拘束が防止・是正されなければならないことは当然
・被疑者の自白を重視する余りその取調べが適正さを欠く事例が存在することにつき懸念
→取調べ過程・状況の書面による記録を義務付ける。
→取調状況の録音・録画や弁護人の取調べへの立会いを認めるべき?
・検察官の起訴独占、検察官への訴追裁量権の付与は、全国的に統一かつ公平な公訴権の行使を確保し 、個々の被疑者の事情に応じた処置を可能にするものである
←検察官による公訴権行使に民意を反映させていくことも重要である。
・検察審査会制度の整備については、国民の司法参加という観点からの検討も必要である
最終更新:2007年08月21日 14:25