古代エジプト文明の気候

 気候変動とナイル川の水位の変化は、王朝の盛衰に大きな影響をおよぼしていた。
 エチオピア高原にみなもとを発して地中海に注ぐナイル川は、毎年6月から10月にかけて増水し、流域の低地に肥よくな泥土を運んだ。
 人々は水がひいたあとにかんがい施設をつくって農耕をいとなんでいた。
 農耕生産にとっては7~8メートルの水位の増減が理想的な値であったという。
 しかし近年の研究結果によれば、水位には季節ごとの変化だけでなく、100~1000年単位の波状の変化があったらしい。
 ナイル川に依存する文明にとって、水位の変化があたえた影響はきわめて大きかったにちがいない。
 ナイルと三つの王国時代
 エジプトでの変化は紀元前3000年ごろ急速におこった。
 ナイル川上流の上エジプトの勢力が、河口のデルタ地帯にあたる下エジプトを併合して統一王権を確立し、さらに300年ほどしてその統一はいっそう強固なものとなった。
 エジプト文明の原型となった「古王国時代」のはじまりである。
 このころ気候がかわって砂漠化が進み、ナイル川流域に人口が集中した。
 そして乾燥によって水位の下がった流域が可耕地となり、豊かな生産が保証された。
 さらには上エジプトで金が豊富に産出した。
 これらの点があいまって急速な進展をとげたと思われる。
 しかし紀元前3000年紀の末には上下エジプトの統一が破れ、王権のいちじるしく衰微する時期が訪れた。
 このころにナイル川の水位が低下したことが指摘されており、大飢饉に見舞われた記録も残っている。
 「第1中間期」とよばれるこの混乱も、ナイル川の水位の上昇とともにまもなく回復して「中王国時代」に入った。
 この時代にメンフィスの南西にあるファイユームの干拓が進んだのは、飢饉の教訓であったのかもしれない。
 「第2中間期」とよばれる2度目の衰退は、西アジアからやってきた民族集団ヒクソスの侵略によってもたらされた。
 この時期にもナイル川の水位が低下していたことがわかっている。
 はじめて異民族の支配を受けることになったエジプト人の反発ははげしく、テーベを中心に上エジプトの勢力を結集してヒクソスをシリアまで追撃した。
 こうしてエジプトははじめて西アジアに勢力を広げたのである。
 異民族が攻防をくりかえす西アジアにおいて、エジプトはたくみな外交政策と果敢な外征によって植民地を維持し、強大な王権の下で「新王国時代」の隆盛を誇ることになった。
 偉大なる文明崩壊の原因
 しかし王権と神官・官僚群との矛盾、傭兵に依存した軍制、異民族の流入による異常な人口増加が一方で深刻化し、王朝は急速に衰退して「第3中間期」が訪れた。
 このころ気候がふたたび乾燥化してナイル川の水位が低下し、農耕生産力を鈍らせたことが衰退に拍車をかけたことは疑いない。
 当時は急速に鉄が普及した時代でもあった。
 メソポタミア方面ではこの鉄に支えられて強大な新勢力がおこった。
 だがエジプトには鉄資源がとぼしく、このことも王朝を衰退に追いやった一因であった。
 ナイル川の水位はふたたび上昇したけれども、強力な王権を失ったエジプトには、東方のアッシリア、バビロニア、ペルシアによる侵略がくりかえされた。
 そしてついにアレクサンドロス大王(在位前336~前323)のエジプト遠征によって、王朝時代に終止符が打たれたのである。
 ナイル川にはぐくまれ、東西の砂漠によって外敵から守られて独自の文明を築いたエジプトは、いやおうなく地中海世界に組みこまれてしまった。
 かつての偉大な文明は、その残影をとどめつつ滅んでいったのである。

ここからキャプション(図中文字) ***


 キャプション1
 古代エジプトの遺跡
 遺跡はすべて川沿いに残されている。
 1970年にナセル湖のアスワンハイダムができるまで、ナイル川は毎年夏になると氾濫して、流域に肥よくな土壌を運んでいた。

 キャプション2
 テーベ遺跡から出土した壁画で、新王国時代にえがかれたもの。
 オオムギの収穫のようすがわかる。
 毎年定期的に氾濫して肥よくな土壌を運ぶナイル川に依存した農耕生産だった。

 キャプション3
 ルクソル西岸にあるラムセス2世葬祭神殿の遺跡。
 ラムセス2世は新王国時代のファラオの1人で、アブシンベルの岩窟神殿やカルナク神殿などをつくった建築王として知られる。

 キャプション4
 ナイル川の水位の変化と王朝の盛衰
 ギーザの西にあるモエリス湖の地層を調べることで、当時のナイル川の水位がどう変化したか推測できる。
 水位の低下によって成立した強大な王朝は、その後、水位の変化とともに盛衰をくりかえしていた。
最終更新:2010年06月30日 21:51