そうしてボクは、今さっき見たことがまだ信じられないままに、王都カスターズグラッドに戻ってきている。
  朝の活気が溢れたカスターズグラッドの中央通りを、早足で歩くネイサム司教の背中を追いながら、
  ボクは千年魔女のときと同じような、夢を見ていたのじゃないかと思った。
  でなければ、まさしく食われかけたところを九死に一生を得た感覚の説明の仕様がない。
  魔物図鑑のトップクラスにいるような魔物に追いかけられて、
  あまつさえあと少しのところまで食われかけて、
  たまたまサンジェット教会の自室に戻ったネイサム司教が、出しっぱなし開きっぱなしだった魔物の生態の本を見て、
  ふと胸騒ぎがして、
  半日通りのボクん家を訪れて意識のないシラスを見て、
  ボクの行き先に見当がついて、
  急いでムドゥブの巣原に向かったら、ボクがまさに追いかけられているところだった――だなんてできすぎた間のある話、小説なんかにしたら顰蹙ものである。
 「あの。司教」
 「なんだね」
 「利く……んですよね、本当に」
 「利く。それは確かだ」
  前を歩く背中に言うともなしに呟くと、朝市の喧騒の中だというのにその呟きを聞き取って、ネイサム司教はすぐに答えた。
  主語がないけど、ムドゥブの卵殻のことだ。
 「信用ないか」
 「いえ。こと魔物に関してだけは、信用します」
  ほかの事はてんで信用していませんが、の枕詞は発言しないのが平和維持のためってもんだろう。
  そして、今のボクにはそれだけ聞ければ十分だった。
 「すいません。――先に行きます!」
  それでも、王都の市場通りの正門をくぐるとボクはいてもたってもいられなくなって、前を歩いていた司教の背中に大きく腰を折ると、まっしぐらに家に向かって駆け出した。
  ムドゥブに追いかけられたあのとき、死に物狂いで走ったせいか、太ももの付け根が痛くて、正直かなりズキズキと痛んでいたのだけれど、
  それでも歩いて家に戻るだなんてまどろっこしいことをしていられる気分じゃあなかったのだ。
  半分つんのめりながら、ボクは市場通りを越え、中央噴水も越えて、カスターズグラッド城門を右手に眺めつつ、ボクは走った。
  なんだか今日は今後数年間走らなくたっていいんじゃないかって言うくらい、走っているような気がする。
  走りながら、ボクは不安でたまらなかった。
 『発症したが、最後、死亡率は9割の』
  最後。
  最後。
  ネイサム司教の部屋で見た、赤縛の症例ページが延々と頭に浮かび、
  だいじょうぶだよ、平気だよ、だって踏んでも蹴ってもびくともしないヤツだよ、そんな弁解のような慰めも一緒に頭を駆け巡り、
  半日通りを駆け抜けて、最後の一本路地に入り、
  ここは昼間でもめったに人も通らない。
  至ってボクは心臓が止まるほど驚いた。
  路地裏というよりは家と家の隙間、壁の戸板に手を突いて、シラスが半分傾ぎながら立っていたからだった。
 「……ちょ……」
  立っているというよりは、もたれているというか、崩れかけているというか、
  そんなことを思いながらボクは急いで駆け寄った。
 「……ちょっと!シラス!大丈夫キミ」
 「レ――」
  駆け寄り、触れるか触れないかのところで、呼んだシラスが顔を上げ、バランスを崩して倒れこむ。
  力を失った体を受け止め切れなくて、ボクも一緒に尻餅をついた。
  ああ、生きている。
 「――レイ……ディ?」
 「……そうだよ。ボクだよ」
 「レイディ?」
  下敷きになったボクの顔にシラスは手を伸ばして、確かめるように撫で、
  それから急にヤツはボクを強く抱きしめた。
  痛いくらいに。
  はだけた首から見える赤黒い鎖模様。
  息をするのも辛そうなシラスの体はとても熱い。
  熱いシラスに抱きすくめられていると、ボクまで煮えてしまいそうだ。
 「この莫迦」
 「ば……莫迦ってなんだよ」
 「行ったな」
 「行ったって……何を――」
 「ムドゥブの巣原に行ったな」
  ああ。
  まったく。
  コイツは、自分がいったい何に冒されているのか、判っていたのだ。
  もちろん、最初は気づかなかったんだろう。
  症状の進んだどのあたりで気づいたのか知らないけど、赤縛だといったら、ボクは必ずコトを起こすだろうから、
  だから「なんでもない」だなんて昨夜言い張ったんだ。
 「――もしかしてキミ、ボクを迎えに行こうとして、た……?」
  莫迦やろう。
  そう呟きながらぎゅうぎゅうと抱きしめるシラスの腕の中で、ボクは言った。
  こんな体で、シラスがどこかに出かけていこうとしていた理由。
 「助けに行こうとしてくれてたの?」
  満足に立てないようなヨレヨレな体で。
  大莫迦なのはキミのほうだ。
 「……莫迦だな」
  莫迦だなぁ。
  言いながらボクはなんだか急にへなへなと緊張が抜けて、抱きしめられたまま腰が抜けたのだった。


  そのあと、追いついてきたネイサム司教が、嫌そうな顔をしながら、それでも的確な指示をしてくれて、
  ボクは文字通り「死ぬ気で」拾ってきたムドゥブの卵殻を、煎じてシラスに飲ませたのだった。
  卵殻の効き目は魔法を見ているように明らかで、まだ鎖のスジは体に残っているものの、今は熱もあらかた引いたシラスが、落ち着いた寝息を立ててソファに眠っている。
  症状がある程度収まれば、後はおとなしくさえしていれば、数日で治る……と、目の前にいる魔物退治専門家の談。
 「すいません。いろいろお世話になりました」
 「まったくだ」
  戸口で見送ろうと頭を下げたボクに、深々と頷いたネイサム司教も相変わらずである。
 「おかげで、ようやく手にした僅かな休暇だというのに、寝そびれた」
 「お手数かけました」
  そういえば、このヒトは、きたる復活祭にむけて、珍しくとてもとても忙しいんである。
  いや、忙しいのはいつものことなんだけど(忙しいはずなのにサボりまくってるだけなんだけど)、珍しく業務をこなしているんである。
  部屋にいなかったのも、徹夜で何か復活祭の準備に追われていたのだろう。
  ということにボクは今更ながら気がついた。
 「お前も今から出勤しろ――と言いたいところではあるがね、そんなひどく浮腫んだ顔で一日いられても迷惑だ、明日から死ぬ気で働きなさい」
 「はぁ。なんか重ね重ねお気を使わせてしまって申し訳ないです」
  ひどいことを言われている気もするけど、多分司教なりに気を使ってくれているんだろうな。
  ボクはもう一度頭を下げた。
  こりゃ、明日雪が降るね。
  と思ったら、いつの間にかふわふわと目の前を掠めるものがある。
 「あれ……」
  雪虫だ。
  これは本当に、明日は雪かもしれない。
 「それではね」
 「司教」
 「ぅん?」
  背中を向けて、歩きかけた上司に、ボクはふと気になっていた疑問を口にする。
 「もし、あの時部屋にいたら……、司教、ボクを止めましたか」
 「止めぬよ」
  あっさりと司教は首を振って答えた。
 「止めても……タマゴ。お前は行っただろう?」
 「行きましたよ」
  どこに、とは言われなくても判る。
  ムドゥブの巣のど真ん中を指しているのだろうから。
 「理由を」
  聞いてもいいかと背中越しにネイサム司教は言った。
 「理由ですか」
 「『魔女』と呼ばれる悲しい女を、お前も――見たろう」
 「お茶まで頂いてきました。っていうか、派遣したの、司教じゃあありませんか」
 「あれは文字通りの……『魔女』だ。見た目は人間に見えるがね。魔物ではない。ヒトですら……もう、ない」
 「……どういうことですか」
 「――生き物としての体は、200年前に掻き消えたのだ。彼女は自らの命を絶った。使い魔が消えたその日の晩か、次の日の晩に」
  アレは魔物なんかじゃねぇ。
  そういった農夫の言葉をボクは思い出す。
 「後に残ったのは”想い”――だけなのだよ。年を経らないはずだ。経る体をとうに無くしてしまっているのだからね」
  そう言って司教は目の前で聖印を切る。
 「想いは凝り固まり、いつしか女の形になって、あの塔に棲みつき、消えた使い魔を待ち続けている。残像のようなものだ。言葉を尽くして説こうとしても、耳を貸さずにただ待っている。浄化してしまえば早い話なのだろうがね――彼女が、それを望まないのだよ」
 「それって」
  それって。
 「ゆゆゆゆゆゆゆ幽霊みたいなモノですか」
 「霊といえるほど魂は残っては――いない。むしろ、霊であるならば話は早いのだ。あれは、そう……燃えカスのようなものなのだよ」
  おかしいですね。
  実感がまだ湧かないのです。
 「タマゴ。お前もまた道を誤ればあのような姿になりかねない……それを承知で、魔物と関わるか」
  恩か?
  背中が、尋ねている。
 「恩とか。そんなたいそうなものではないです。――ないですけど」
  空を見上げると、雪虫が数匹、ふわふわと風の流れに舞っている。それを、何とはなしに眺めながら、
 「ないですけど――判りません。……自分と関わりがある誰かが、困っていたり苦しんでいたりするとき、その相手を助けるのに理由なんて……あるかなぁ」
  ボクはそこで初めて司教から目を逸らした。
  例えば。
 「……王都に引っ越してきてすぐに、シラスとすっごい大喧嘩した事があるんです。……まぁ、喧嘩……というか。喧嘩っていったって、ボクが一方的にダダこねてただけの、ガキの我がままなんですけど。始まりの理由は良く覚えてないです。育った村が恋しかったのか、周りが見知らぬ人ばっかりで不安だったのか、よく判りません。覚えているのはただ、頭の中ゴチャゴチャになって、喚き散らして、こんな家出て行ってやる、って」
  シラスなんか大っ嫌い。
  そう言って。
  越したばかりでまったく判っていない街の中へ、めくらめっぽうに走り出したのだった。
 「後ろから、驚いたシラスが追いかけてくるのが判ったんです。なんだか余計に腹立たしくて。アイツには通れない、子供の身体でやっとの、垣根とか板塀の隙間とか。半時は走っていたと思います」
  何がなんだか判らないけど、とにかく腹が立ってしょうがなかった。
  一番腹立たしかったのは、自分自身に対してだったに違いないのだけれど。
 「あの頃の子供の体力ってね、なんだか無茶苦茶なんですよ。ゼンマイきれるようにパッタリいくまで、いくらでも無理が利くんです。とにかく、走って、走って」
  我に返れば、そこは知らない街角だった。
  今でも覚えている。
  唐突に気付いた、「迷子」の二文字。
 「もうとっぷり日が暮れてて、真っ暗だし寒いし知っている人いないから心細いし。でも家を飛び出した手前、自分から泣き出して大人に助け求めて、家までつれて帰ってもらうなんて体裁悪すぎるでしょう。それだけはできないって思った。そもそも、越したばかりで、番地すら知らないんですよ。とりあえず目の前に噴水があったから、ああ、これで飲み水だけは困らないなぁ、だなんて思って。どうしようか考えあぐねたボクの耳に、誰かが近付いてくる音がしたんです」
  行き過ぎる音ではなく、真っ直ぐにボクを目指してくる音だとすぐに気付いた。
  ……慣れ親しんだ、気配をしていたから。
 「顔を上げたら、シラスがやってくるんですよ。今まで見たこと無いくらいにヨレヨレで、汗だくで、あっちこっち引っかきキズだらけで。足なんて片っぽ裸足でした。……おかしいでしょう。インドア気取って家のなか引きこもってスカしているようなヤツが、焦って靴もロクに履かずに、追いかけてきてたんです。お得意の魔法使って、ちょっと姿変えてトリにでもなって空から探せばいいのに、そんなコトも思いつかないくらい慌ててたらしいんですよ。笑っちゃう」
  憮然として眺めるボクの前にやって来たシラスは、
 「怒っていたとか、駄々こねて体裁が悪いとか、そんなのどこかにすっ飛んじゃってました」
  やがて言葉を捜すように上を見上げて、
  ――帰ろう。
  困ったような顔で笑って、そう言ったのだ。
  言葉をなくしたボクは、素直にシラスの背中を追って家に戻ったのだった。
 「あの時は、本当に参ったな」
 「――」
 「それに恩とか義理とか名づけるほど、大げさなことは何もないんです。大げさではないけれど、けど、今のボクにはそういう些細なことが一番大切なんです」
  そういうのを、なんと呼ぶのだろう。
 「理由があるとしたら――きっと、それだけだったんだと思います」


最終更新:2011年07月28日 07:49