賑わうにはまだ早いと見えて、店は人もまばらである。
場末の小さな酒場の片隅に
<それ>
は、座り込んでいたのだった。
いつもの場所。いつもの時間。
胸に古びた馬頭琴。
皺にまみれ、汚れ黄ばんだボロ雑巾の風体。
けれどこの店に集まる大概の客もまた、
似たもの同士のご同輩。
であるから、<それ>がごみのように床に蹲っていたとしても、誰も気には止めないのだった。
毎晩やってくる歌歌いである。
安酒一杯にその日の疲れの行き場を求めて、垢染みた男達が集う店。こけた頬。窪んだ眼。
煙で朧なそのランプ。
木目の浮いたカウンター。愛想を忘れた給仕女達。ともすれば見えない、
ぼう、
とした室内の淀んだ空気を追い出すように、その日も主人が店を開けたのだった。
彼方では、人目を憚り声を忍ばせ商談の真っ最中。
此方では、入店前より既にほろ酔い、出来上がりつつある常連客がおう!
誰彼無しにニタニタと絡んでは、その度に心得気味の給仕女に引き戻される。
嬌声。
勢い誰かが女の尻を撫で、ぱしんと直ぐに高らかな拒絶の音を響かせた。
歌歌い。
色身の乏しい酒場に、なけなしの彩を添えるもの達のことだ。
僅かの小銭を受け取る代わりに、客の望む歌を歌う。
それは恋の歌であったり、怪物退治の歌であったり、昔からの語り文句であったりした。
それは母の胸で聞いた子守唄であったり、伝聞した噂話だったり、
或いは、
歌歌い本人の物語であったりした。
歌い手の技量に応じて僅かばかりの小銭が、それらの膝の上に放られてゆくのだ。
またそれはある日には、滅多に見かけぬ銀貨であったりした。
最近酒場に居ついた歌歌いの評判は、なかなかにして上々である。
俯き加減、何か堪えているような風情。
どの歌を歌わせても、精巧に狂いなく、実に無感動に歌うのだった。
その歌い方が、仕事で草臥れた男達に逆に受けた。
興味をそそったと言ってもいい。
声は男のようでもあり、女のようでもあった。
判別がつかない。
伏せ目がち、泣き出しそうに震える声がやはり女であろう、だとか、
いや全体的に肉付きが少なく柔らかみが無いので、おそらく男であろう、だとか、
好奇を含んだ視線で眺めるものも中にはいたが、
何かしら他を拒む近寄りがたい雰囲気が、歌歌いから滲み出ていたので、誰も声をかけたものはいないのだ。
空気のような。
今日もいつの間に来たものか、カウンター脇の、空き瓶が山と詰まれた木箱の横に蹲っており、
主人がじろりと一瞥をくれても身動きもしないのだ。
今日もまた居座り予定で、邪魔扱いされる常連の一人が、不貞腐れ、自棄酒気味に呷るのをやめて、
ふと歌歌いに目を留め、硬貨を一枚投げやる。
「何か歌え」
楽器を胸に抱え、寝ていたように見えたボロ雑巾が、音に反応し物憂げに腕を伸ばして硬貨を拾う。
剥きだしの腕は磁器の白さ。
「――何に」
いたしますか。
深い愁いを帯びた声が問うた。
喧騒の渦巻く店内に、一筋銀色の糸のように響く、透明質の声である。
「何でもいい」
返す横から、同じく邪魔扱いのもう一人が、
「お前の歌がいい」
そう言った。
「――わ、たしの、」
区切るように乱れた言葉の上へ、
「何でもいい」
重ねて先の男が言う。
「お前、どうして歌歌いになった」
生じた疑問を投げかけただけだったのだ。
男の何気ない呟きに、ボロ雑巾が身じろいだ。微かに。
「歌え」
客の声に、<それ>は深く腰を折る。
お望みと、あらば。
弦を何度か爪弾き、音を調節すると、項垂れた姿勢を正して<それ>は少しだけ顔を上げる。
卓上の杯を数えるほどには明るく、けれど互いの表情を伺うには暗い明かりに照らされ、
目深に被ったフードから、細い顎が覗いた。
つい、ともう一度小さく爪弾いた後で、歌歌いは静かに奏で始める。
音がゆるゆると流れ出す。
流れたそれに誘われたのか、客がまた一人、通りから木戸を揺らして入店した。
――それは恋でした。
乱雑に組み込まれた梁。草臥れた日常の沁みた、飴色の梁。
立ち上る紫煙。
追うように、
<それ>
は、顔を上げた。
上げた拍子か、フードが肩に滑り落ち、歌歌いの容姿が露わになる。
店の片隅にいた客が、流れ聞こえた音を辿り、源に行き着いてほう、と感嘆の酒臭い息を漏らした。
それは、とても美しかったのだ。
――なにげないひとことできずつき、そうです。それは恋でした。
ガラス玉の瞳。
ゆるゆると馬頭琴が鳴く。ゆるゆると紫煙が濃くなり、やがて渦を巻く。
渦を巻き、そして流れる。流れは空へと立ち上り、白く白く細い糸となりやがてぼうと掻き消えた。
生まれて直ぐに消ゆるもの。
風よ、吹くな。
動きを追った瞳が、ふと揺れた。
――こまったようにわらうおだやかなえがおのむこうがわで、ほんとうはあなたがきずついていたのだと思います。