<<パンドラ>>
クローゼットの隅に置いてあった箱の中には、宝物が眠っていた。それが、ただのガラクタや使い古した布の固まりだったとしても。
自分にとっては大切な大切な宝物。
小さな頃に拙い手で組み立てた木製キット。
見よう見真似で刺繍した小さな袋。
道端で拾った色の付いた小石。
きっと自分以外の誰かが見たら、ゴミにしか見えない。けれど記憶のこもったガラクタたちばかり。
不意に、昔を懐かしみたい気持ちになった時に、クローゼットを開いて箱の中を覗いてみると、唐突に記憶が自分に向かって溢れ始める。その奔流に身を任せてしばらく時を遡るのも、たまには楽しいものだ。
駄々を捏ねて叱られた日。喧嘩に負けた日。深い理由はなくてもなんとなく外で遊ぶ気にならなかった日。
そんな時。まるで宝箱を開くように、そっと蓋に手を添えてえい、と気合をこめて持ち上げてみる。
セピア色の旋律が溢れ出す。
そう。
今朝も、特に理由は無かったのだ。
珍しく肌寒い雨の朝であったから、そう言えばあの薄手の上着はどこにしまっただろうかと、そんな軽い気持ちでヒューはクローゼットの木製ノブに手を掛けたのだった。開いてみると、厚手の上着に埋もれるようにして、クローゼットの片隅にいくつか積んであった靴箱が目に付いた。それでふっ、と記憶が巻き戻されて、昔そこに置いてあったあの箱のことを、彼は思い出したのだった。
……あれはどこにしまったのだったか。
首を捻る。記憶に無い。
そもそも、産まれてよりこの家で育ったヒューは、引越した経験が無い。この家は、元々技術者だった父の持ち家だった。引越しの経験が無いのだから、棄てた記憶が無い限り、その箱は家のどこかに眠っていることになる。
……どこにやったのだろう。
無性に気になった。思えばもう10年以上あの箱を目にしたことが無いような気がする。
そう広い家では無いというのに。
「――何を」
やっているのですか。
怪訝な声が背後から聞こえて、それでヒューは我に返って振り向いた。いつの間にか夢中になってクローゼットの中を引っ掻き回して探していた。
彼を呼んだ、優しげな風貌の持ち主はカークと言う。中性質の声が耳に心地良い。そう呼ぶことをヒュー自身は嫌うが、記録上は彼が“飼って”いるD-LL(ドール)と呼ばれる、有機質に限りなく近い無機物――早い話が精巧なヒューマノイド型のロボットである。
優男の見かけによらず、前掛け姿が妙に様になっていって、要は所帯臭い。格安の日配品を探して、P-C-C内のいくつかの量販店を回る姿はいっそ涙ぐましい。手にフライ返しを握っているところを見ると、どうやら朝食に呼んだヒューがいつまでも顔を出さないので、不思議に思って部屋を覗いた、そんなところらしかった。
「……ああ、」
であるから生返事で答えた。
「トーストが冷めてしまいますよ」
「なあ。お前さ」
「――はい……?」
「この……くらいの、真鍮で出来た箱知らねぇ?」
これくらいの、の言葉のところでその大きさを手で作って見せながら、もしかすると整理魔の彼が手を付けたのかもしれないと、ヒューは念のために確認する。きょとんとした顔でカークは首を傾げた。
「箱――ですか」
「箱だ」
「そのクローゼットにあったものですか」
「そう。ここいらの隅っこに、こう、適当に置いてある感じの」
「――私が――憶えている限りでは、クローゼットの中に箱らしい箱はなかったように記憶していますが――」
「ふむ」
鼻で一つ唸って返事とする。D-LLの、取り分けカークの記憶力は尋常ではない。憶えることはあっても忘れることは無い。一年前の今丁度この時間に、いつ、どこで、何をしていたのかを、正確に答えることが出来る特技と言おうか、性能がある。記憶と言うよりは記録しているに近いのだろう。
カークが無いと言うことは、無いということだ。
「何やってんの。マスタ」
ひょい、と戸口に立ち尽くすカークの後ろから顔を覗かせたのは、カークと同じくD-LL機種である、ただしこちらは少女型の華奢なもの。マルゥと名づけ、暮らし始めてもう8年を迎える。思考回路はヒューに影響を受けて、かなりのマイペースと言うか、我が道を突っ走る性格である。
「朝ご飯。冷めたよ?」
過去形になっていた。
「なあ、マルゥ。お前も知らないか?」
「何を?」
「だからさ。このくらいの、結構ずっしりと重い、このクローゼットの中に突っ込んであった箱だよ。でっけぇ錠前が付いててな」
「うーん」
聞かれて少女は腕を組み、天井を見上げて眉を寄せた。カークに比べて、こちらの記憶力はやや頼りない。彼より後に製造されたらしい型であるものの、だから性能が古いものを凌駕する、と言うものでも無いらしい。
むしろカークに言わせると、無駄な記憶力はどんどん蓄積して重くなるだけで不必要な物だそうだったから、そういう意味では改良されているのだろう。どちらにしろヒューは技術者ではない。よくは判らない。
「判んない。けど……そんなものなかったような気がするなぁ……。あったらきっと、これ何、って聞いてたと思うし」
「そうかぁ。だよなぁ」
好奇心の固まりのような少女の性格を考えると、見つけたらおそらく黙ってはいないだろう。況してや、それに錠前が付いていて中身が覗けないのならば。
「……それが、どうかしたの?」
「いや」
メシにしよう。
そう言って思いを振り切るかのように、ヒューは勢いを付けて立ち上がり、何故か気になるその箱のことはそれきりにした。
したつもりでいた。
記憶と言うものは、厄介な物だ。手に余る。
まるでコルクの栓のようで、一つ一つの断片はきっとただの小さな屑の欠片で、まとまりもなければ符号性も全く無いというのに、それがある種の強い力で押し固められたりすると、途端に意味のある何かに変化したりする。
ある種の強い力。それは衝撃的な出来事であったり、それはやたらと目に付く色の一色であったり、それは耳の奥にいつまでも残る囁きだったりする。
ただし、強い力で押し固められている物はほんの一瞬の欠片で、その他の欠片は、穴だらけの意識と言う認識上から、次々に零れていってしまう物だ。そしてまた強い力とやらが何かの拍子に掻き消えてしまったりすると、今まで僅かなりとも意味を持っていたコルクの栓は、また元の、意識の網にも引っかからない、意味の無い、ばらばらの塵芥になってしまったりするのだ。
両手から零れてゆく砂のように。
少年がいた。少年に自我と言うものが芽生えたのが、幾つのときだったのか判らない。
彼が生まれ育ったのは、本当の空の青ささえ曖昧な、荒地だった。遠くにはP-C-Cと大人が口にする、巨大で不恰好な鉄の樹が見えた。
のしかかるような圧迫感を覚えさせる中央管理塔と、それを取り巻く幾つもの幾つもの光のケーブル。それらから更に細かく分岐する何本もの電線。
都市全てを多い尽くす大きな強化ガラス。
遠目から窺うそれは、時折太陽光をきらっ、きらっ、と過激に反射して、少年のまだ柔らかな網膜を傷つけるのだった。
――管理都市なんてたいそうな名前で呼んでいるがな、蓋を開けりゃ巨大なガラスの温室だ、温室なんだよ。
少年の父親は、酒に酔うと良くその言葉を口にした。
まだ幼かった少年には、父の言葉の意味など判りはしなかったが、それでも父がそう口にするときだけ、何故か僅かな自嘲を込める様子を不思議に思っていた。
父は技術者だったようだ。
頼もしいけれど細目の身体は、決して労働者の体格ではなかった。節くれだった指をしていたのは、他の大人たちだ。荒地に、部落が食べていけるだけの畝を作り、野菜の種を蒔き、日に良く焼けた、荒れた手の平はかさついていたけれど、柔らかで、温かくて、少年はとても好きだった。少年に母はいない。彼を生んで直ぐに肥立ちが悪くて死んでしまったのだと、小さな声で一度だけ父が言った。それ以上は聞かなかった。聞かずとも、周りの大人たちは少年を可愛がってくれたし、家には母代わりの同居人がもう一人いて、不便は感じなかったからだ。あったはずのものが、なくなってしまうから、寂しいだとか、空虚感だとかが生まれてくるのだ。
端から無いことが当たり前の少年に、そんな気持ちが沸き起こることは無い。
一家が住んでいたのは、小さな部落の一角だ。小さな、と言うのは語弊があるかもしれない。何しろ少年にとっては、その全戸数20に満たないちっぽけな部落が、彼の世界そのものだったからだ。
総数数えて五十幾人の、本当に小さな部落であった。
部落の周りにはぐるりと木柵が立っていた。実際は大した高さではなかったのだろう。大人の腰の高さに及ぶか及ばないか、そんなところであったから。けれど少年には遥かに高い木柵であった。大人たちから、きつく繰り返されていた戒めが、実高よりも尚聳え立って見せたのだと、今になって思う。
――その柵より外に出てはいけない。
大人たちは口を揃えてそう言った。
確かに、言葉通りに外部は危険だったのだろう。荒地には、年中飢えた眼をした原生生物が、ごまんと棲息していたのだから。外に出かけた大人が、時にそんな原生生物に襲われて帰ってくることも、珍しくは無い出来事だった。自衛手段を持って、複数人で出かける大人たちでさえ、そうなのだ。抵抗する術の無い子供など、頭から一口だったろう。
けれどそれ以上に少年が感じたのは、原生生物では無い何か、が木柵の外にはあるということだった。詳しいことも、難しいことも判らない。もしかしたら単に思い違いをしただけなのかもしれない。
――外には、こわい、こわあい生き物がたくさんいると言ったでしょう。
こっそり木柵を越えようと試した姿を見られた日、同居人は少年を叱った。
――こわいって、どんな。
――例えば、BAZUSUと言う獣とか。
――けものは、斜向かいの犬よりも大きいの。強いの。けものは、どんな形をしているの。どんな色をしているの。どんな声で鳴くの。
――どうしてそんなに知りたがるんです。
――だって。知りたいんだ。
――駄目です。外は、危ないんですよ。獣は貴方を丸呑みしてしまいますよ。
――丸呑みされたら、おなかの中で暴れるから大丈夫だよ。父さんもきっと助けに来てくれる。
――いけません。
――ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ外に行きたいだけなんだよ。危ないことはしないし、直ぐに帰ってくるよ。村が見えなくなるところまで行ったりもしないよ。
――いけません。今度少しでも柵を越えたら、いいえ、柵を越えようとしたら、お父さまに言いつけますよ。
――どうしてだよ。どうしてそんなに駄目なんだよ。
――だって。
――……“だって”?
――だって。あなたに何かがあったら――――私がとても悲しいでしょう――?
そう言って俯いて微笑んだ同居人の顔が、綺麗で、あまりにも悲しくて綺麗で、少年はついそれ以上の駄々を捏ねることができなくなってしまったのだった。
そんなことを憶えている。
――その柵より外に出てはいけない。
大人たちは口を極めて誰も彼もがそう言う。生まれてよりその言葉に逆らったことの無い少年ではあったけれど、けれど、部落の外部には、また彼の世界とは異なる世界があることも知っていた。識っていた訳ではない。けれど、知っていた。
何故なら、おおよそ半年に一度、外部世界より隊商が村に訪れるからだ。荒地用に改良された、サンド・バギーに外部からの荷物を山と積んで。保存品の詰められた缶詰だったり、大人たちが喜ぶ嗜好品だったり、或いはまた外部世界の情報であったりした。
少年は、その隊商が訪れるのを心待ちにしていた。
それは例えば、部落では決して目にしないような派手な色彩のバギーやピックアップ、それにジープ。時には車両に繋がれた、三本角の巨大な獣。頑健そうな体付きの割に、おっとりとした目をしていた。それは例えば、甘くて綺麗な形の菓子。包み袋の透明なビニール。それは例えば、缶詰と言う、金属の小さな箱に詰め込まれた肉や魚。
そうした珍しい物を口にし、目にし、だから好きだった。と言うのもあるにはあるが、それよりも尚少年の気を惹いて止まなかったものは、その隊商を組んでいる個々の商人たちであり、彼らが齎す“外の”世界の話だった。
――その柵より外に出てはいけない。
大人たちは口を揃えてそう言った。
禁止される理由が、少年には判らない。
何故なら、外部世界より隊商は訪れるからだ。
隊列を組み、山のように荷物を積んで外部世界よりやってくるからだ。
隊商が一体どこから訪れるのか、少年には知る術も無かったけれど、遥か遠くに見える、P-C-Cの方向からやってくるのだけは知っていたから、それで何もかも充分だった。あの高く聳える管理都市から、きっと彼らはやってくるのだ。少年の目には珍しい数々の隊商の荷物も、きっと“都市”には溢れるほどにあるのだ。
憧れだった。
切望にも似ていた。
彼らは大概、一週間程度部落に滞在して、情報だの物品の交換を行った後、また外部世界へと去ってゆく。であったから、少年はその一週間、暇さえあれば部落の大人たちの目を盗んでは、こっそりと中央広場にて焚き火を囲む一行に近づいた。見つかればきっと、大人たちは良い顔をしないことくらい、少年は気付いていたから、いつもそれは深更になった。唯一、同居人はきっと気付いていたろう。毎晩布団の中がもぬけの殻になっていたから。
けれど彼は、口を噤んでいてくれていたようだ。少年の強い、飢えに似た欲求をきっと理解していたに違いない。
隊商の男たちはいっそ、どこか不可思議な雰囲気で、けれど好奇心を剥き出しにして近づく少年を気軽に迎え入れ、様々な話を語ってのけた。
それはまるで夢物語を聞いているようだった。
林立するコンクリート。鉄だけで出来た建物。空調システムまで管理されたドーム型都市。空を走る道路。階層と階級。
そして、ヒトではない、けれどヒトによく似た生き物。
眼を輝かせて聞き入る少年を、やがて顔見知りになり、特に可愛がってくれた男の一人が、昏い瞳で見つめるようになった。
――おまえは、十年も前に死んじまった息子によく似ている。
時折そう口にした。
そうしてある晩、不意に、少年の腕を取り、焚き火の側より離れると、人気の無い、誰にも話を聞かれることの無い裏地へ連れ出すと、
――いいか。
どこか切羽詰った様子で囁いた。
――いいか。一度しか言わないからよく聞け。明後日、朝、日が昇る前に、ちょいとばかり冒険をするンだ。ここから南へ向かって二刻ばかり、ピクニックに行くといい。確かにこの辺りには野生動物も多いが、なァに、夜明け前に活動する種はあいにく見当たらない。多分大丈夫だ。村が見えなくなるまで、真ッ直ぐ南だ。南だぞ。心配しなくていい。真ッ直ぐ南へ行ったのなら、また真ッ直ぐ北へ戻ってくればここに帰ってこれるはずだからな。だが、昼より前に戻ってきちゃァいけねェ。いいか。昼より後だ。お天頂さまが、頭の真上より傾いてから、帰って来るンだ。今の時期、P-C-Cが、……そうだ。おまえの見たがっているP-C-Cが、よく見えるからな。朝日が昇って午前中、日の光がまだ弱い時分、少しの間だけ、まるで間近に中央の鉄の樹が立っているように見えるンだ。……見たいだろう?
男の囁きに、少年は夢中になって頷く。
きっと大丈夫、何故なら「大人」である男がそう言っているのだから。
――だがな。村の大人には絶対、言っちゃァなンねェぞ。大人に言ったら、きっとダメだと言うからな。内緒で出かけるんだ。おまえは臆病者じゃァないな?……だったら大丈夫だ。そうだ。P-C-Cがよく見える。
――……いいな。大人には絶対言っちゃァなンねェぞ。
思い詰めた瞳が昏いことに、夢中になって頷く少年は気付かない。
決して大人には言わないと、少年は固く約束をした。小指の先を少しだけナイフで傷つけ、滲んだ赤さを男と互いに示して。
約束を守って、少年は大人には言わなかった。
優しい瞳の同居人を騙すことだけ、夜中にこっそり抜け出す自分を、知っていながら大目に見て、何も言わずにいてくれる同居人に嘘をつくことだけ、ほんの少し心が痛んだ。
約束を守って、言わなかったけれど、
とても仲の良かった、一人の友達にだけは、その秘密を打ち明けた。
独りで荒地へ出るのは、やはりたいそう怖いことだったから。
二つ年上の、利発な眼をした褐色の肌の友は、返事一つで、行くことを同意した。
――よく打ち明けてくれたな。
逆にそんなことまで言って、喜んだのだ。
――俺も、前から行きたいと思ってたところだったんだ。
叱られる時は一緒だと、覚悟を決めた顔で友は笑ったのだった。
二日後の朝早く。
二人は村をこっそり抜け出して、初めて荒地に足を踏み入れたのだった。見張り台に立つ大人に見つからないかと、少年は内心びくびく怯えていたが、その日に限って誰も見張りをしていなかった。普段、こんな外れた場所にしては異様なほどに、厳重に警戒していたので、少年はどこかおかしな気分だった。
ちょっとした冒険。きっと戻った頃には、きつく叱られることは判っている。判っていても背徳の甘い汁を啜らずにはいられない、厄介な好奇心というもの。
肩に水筒を斜めにぶら下げ、台所から大人の眼を盗んで持ち出した黒パンを齧りながら、朝日が昇る前のうっすらとした黎明の白い靄の中を、二人は小走りに進んだ。
荒地の足元は、頼りない。よく見ていないと、それでなくとも薄暗い地面は、うっかり地割れでもある度に、二人の足を素早く掬おうとする。初めての遠出に興奮していた二人は、けれど部落が小さくなり、すっかり見えなくなって、やがて無口になった。黙々と、足元だけを見て歩いた。
次第に不安が心に兆してきたこともある。
本当に、こんな場所を子供二人で歩いていて安全なのか。あれだけ大人達が口を酸いて言い聞かせ重ねたには、何かきちんとした理由があったのではないか。自分たちは、何かとんでもない間違いをしているのではないか。そもそも、真っ直ぐに南に向かっている証拠はどこにある。もし間違った方向に進んでしまっていて、万一帰り着けなかったら、一体どうなるのだろう。
少年は、まだ7つに満たない子供であったから。
けれども、計画を持ちかけた自分の方が不安を口にすることは、共に来てくれている年上の友に悪い気がしたし、そうでなくとも彼の幼さを、揶揄かわれるのは癪に障ったから、
半ば意地になって少年は歩いた。
朝日が昇って、やがて辺りが明るくなり、遠くに相変わらず小さいP-C-Cが見える。
いつになったら、あれが間近に迫って見えてくるのだろう。
顔を上げ、尚も遠いそれを見やって、小さく息を吐いたその次の瞬間に、
どぉん、と。
地響きがした。
地の底から揺れたような、くぐもった鈍い共鳴音であった。
弾かれたように少年は、歩いてきたであろう背後を振り返る。
それは、予感だった。
直感だったのかもしれない。
少年の脇を、同じく無言で歩いていた年上の友が、やはり弾かれたように振り返る。それを見て、彼もまた、少年と似たような不安を抱えて歩いていたのだということを、少年はその時初めて気がついたのだった。
あ。あ。あ。
喉の奥から、まるで自分のものでは無いような、皺枯れた声が漏れる。
部落の確かにあった方角から、真っ黒な煙が立ち上っているのが見えた。
――あれは。
ごくりと喉を鳴らして、友が震える声で呟く。
――あれは……あれは一体なんだ……?
判らない。
思うより先に身体が動いた。
走っていた。
合図も無いのに、けれど示し合わせたように、二人は一斉に元来た方向へと、駆け出していた。荒地の小石に足を取られ、幾度も幾度もつんのめりながら、押し殺した半ベソをかいて、少年はひた走った。大して歩いてはいないように思えたその距離は、実際に戻ろうとすると、まるで遅々として、先に進まないのだ。水の中をもがきながら走っているように、体が重かった。夢のようだとも思う。
そうだ。これは悪夢に似ている。
地割れに足を取られ、勢い少年がもんどりうって転ぶと、年長の友が抱え起こす。無言だった。その顔は恐怖で青褪め、強張っていた。転げた痛みも、伴って泣くことも忘れ、引き摺られるようにして、彼は走った。
そうして辿り着いた村には、
村には、
「村には箱が埋めてあった……か?」
「はぁ?」
一体何を言っているのだ。そんな怪訝な顔をして、マルゥが助手席から振り返る。
久しぶりに三人で飯でも食うか。
そう言い出したのは自分だ。カークの運転するピックアップで、後部座席にいつものように陣取り、窓の外を流れる風景を見るとは無しに眺めていると、唐突に記憶の何かが、ささくれ立ったように感じて、ヒューは思わず声を上げる。
「なぁ。マルゥ」
「な……なによ?」
「敢えて聞いてもいいか」
「……なにを?」
「俺は、」
――俺は一体何だ?
「……マスタ?」
ぼそり、呟いたヒューを、怪訝な視線から、次第に探る目付きで眺めて、マルゥは眉を顰めた。
「若年……ボケ?からかってるワケじゃあない……の、よね」
最近、ヘンよ。
本気で案じる声に、ヒューは苦笑いを一つ返してけれど、
「なぁ」
不意に沸き起こった疑問が、今日はやけに止まらない。
「……ん?」
「俺がもし、話していたなら聞かせてほしいんだが。俺はP-C-Cで生まれた……んだったな?」
「そう言ってたようにアタシは記憶してるけど……生まれた時からずっと、あの家だったって」
ねぇ?
躊躇いがちに答えながら、じっと前方を見つめたままの、運転席の相棒に視線を流し、マルゥはそうして同意を求めた。静かな頷きが返って来るのを見て、安心したのか、
「ほら。」
マスタ。だいじょぶ?
「……俺は、小さい頃に事故で両目を抉ったんだったな?」
「とか言ってたと思う……けど。それが……なにか?」
「その事故ってのは、一体どんな事故なんだ?」
「……え?」
額に拳を当てながら、ヒューは思わず考え込んだ。ごつ、ごつと軽くリズムを刻んで打ちつけながら、独り言のように呟く。
「深く考えたことがなかったが。考えないようにしてたのか……?それとも……考えることが出来なかったのか?」
「マスタ?」
本格的に訝しんだのか、首を捻りながらおずおずと声をかけるマルゥを見やって、ヒューは皮肉な笑いに口元を歪めた。
「おかしくはないか?」
「……え、」
「お前を闇取引の場で見かけたことは憶えている。まだ一人だった時分、こなした仕事のことも覚えている。カークを拾った雨の日のことも、勿論覚えている。だが、その……何と言うのか。小さい頃……か?父親と遊んだ記憶だの、母親がキッチンに立っていた記憶だの、それら二人が他界しただの。朧げな、……漠然とした記憶はあるぜ?」
台本に書かれた筋書きのようにな。
「それに」
記憶にある両親はもとより、
幼い頃の記憶はどこか曖昧模糊としていて、そう、まるで造り物のように整然としすぎている。出来事だけを憶えて、そのときに感じた自信の記憶がまるで無いことに、今更ヒューは気付いた。
「俺は小さい頃に、犬を飼っていたらしいんだが」
俯き加減、記憶の糸を辿るようにゆっくりとヒューは目を閉じる。思い出さない。
……思い出せない?
「そりゃ一体どんな犬だった?大きかったのか?何色の、毛足はどれ位の犬だったんだ?思い出せないなんて、……なんて、おかしいだろう?」
記憶にようよう引っかかっているのは、名前たった一つだけ。
「俺は本当に犬を飼っていたんだろうか?」
「そんなの、」
そんなのアタシに判るわけ無いじゃない。
返事に困ったマルゥは、もう一度運転席へ助けを求める視線を流す。彼女の視線を追って、ヒューもまたバックミラー越しに運転席のカークへ眼をやった。いつものように、茫洋とした表情で前方を見ているかと思った彼は、
彼は、
最終更新:2011年07月28日 08:10