機関が解体された日、もしかすると私は死んだのかもしれない。
あの日、私と家族達は住む場所を失い、そして「正騎士」としての私は滅んだ。
市井に暮らし始めて三年。
まず、マリクが置き手紙とともに出て行きました。
定期的に手紙をくれるからには、彼も健やかでいてくれるのでしょう。
レオも、二年前から違う街で伴侶とともに暮らしています。
去年子供が産まれたと連絡があった時は、私も思わず胸が躍ったものです。
私は、今は…………。
通りに面した窓を開け、静謐な空気を取り込む。
すでに雪が積もっており、空気は身を切るように冷えている。
石造りの家が立ち並ぶ、人が絶えない大きな通りに面した二階建ての家に彼女は住んでいる。
今日は、「あの人」が帰ってくる日だ。
彼女の顔が綻び、窓から取り込んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、一階へと続く階段へ足を向ける。
純白のワンピースに着替え、二の腕あたりまで延びた髪を梳かし、琥珀色のバレッタで留める。
手慣れた動作で紅茶を淹れ、リビングへ運び、テレビをつけてニュースを確認する。
内容は他愛もない事件、政治経済の話といった、至って普通のニュースだ。
ふと、見て取れるほどに膨らんだ腹部に手をやる。
命を宿して、25週になる。「母親」の手のぬくもりを感じてか、小さな命が僅かに蠢く。
彼女は愛おしそうに腹部を撫で、微笑みかける。
かつて剣をとり、人の命を奪っていた右手。
今はもう、人を傷つけるために用いられることはない。
暖炉の上に飾られた細剣は、最早オブジェでしかない。
輝きこそ放ってはいるが、「あの人」と結ばれた日、彼女自ら刃引きを施した。
もう、その剣は人を殺める事はない。
ロッキングチェアに座り、暖炉の前で読書に勤しむ彼女を見て、誰が「
カノッサ機関・正騎士」だったと気付くだろう。
膝にかけられたブランケットは、機関時代より愛用している品だ。
色あせてこそいるが、なかなか捨てる踏ん切りがつかない。
彼女の過去を示す、いくつかの品の一つでもある。
小さな命を宿しているせいもあるだろうか、次第に彼女の目が蕩けたように閉じていく。
暖炉の心地よい暖かさも相まって、彼女は眠りに落ちた。
いやな、夢だった。
両手の爪の間から、血が絶え間なく噴き出す。
洗えば洗うほど血が噴き出て、水が鮮血へと変わる。
やがて鮮血は行き場を失い、その場に溜まっていった。
すでに水位は、へその辺りまで来ている。
なおも爪の間から血が噴き出し、水位をさらに上昇させる。
喉の奥から乾いた悲鳴を上げ、どうにかしようともがいた挙句、転倒する。
水位が容赦なく上がり、彼女を溺れさせる。
息を吸い込んだ拍子に口の中に血が流れ込み、錆びのような味が広がる。
―――その瞬間、一気に目が覚めた。
目の前に、「あの人」の顔があった。
とたんに言い知れぬ安堵感が広がり、「あの人」を抱き締めた。
目の端に涙が浮かぶのを感じ、視界がわずかに歪む。
静かに「おかえりなさい」と告げると、すぐに「ただいま」と返ってきた。
私が、ずっと聴きたかった声。目の端から、涙が一筋だけ零れた。
しばらくそうして、互いの温もりを確かめ合う。
十分ほどしただろうか。その間、交わした口付けは一度だけだった。
ソファーへと移った私の右手は、「あの人」の左手と繋がっている。
頭を彼の肩へと預け、静かに時が過ぎ去っていくのを感じている。
「あの人」の匂いと温もりが、私を包んでいく。
不意に、再び胎動を感じる。
彼に告げると、彼は耳を膨らんだ腹部に当て、語りかける。
その所作になにやら奇妙なむず痒さを感じ、くすくすと含み笑いを漏らしてしまった。
彼は気付いてか、私の頬に軽く口付けする。
私は一瞬強張り、そしてすぐに頬が緩み、笑い混じりに小さく抗議してみた。
――――その夜、私は久々に、「あの人」と手をつなぎながら眠った。
――――今度は、悪夢など見なかった。
(了)
最終更新:2010年03月27日 22:51