あの日、僕は家を出た。
姉さんにも兄さんにも、小さいほうの姉さんにも内緒で。
理由は、分からない。
でも何となく、あの家に僕はもう必要のない気がした。
……いや、何となく、いてはいけない気がしたんだ。
コレクションは全て、機関が解体される日に埋葬した。
僕は……今、悔いているのかもしれない。何をかは、分からないけれど。
ともかく、あれから……早くも、四年近くが経つ。
青年が、薄汚れた路地裏を歩く。
身の丈は160cmほどだろうか。黒いPコートを羽織り、年季の入ったマフラーを巻き、寒風に逆らうように力強く歩く。
黒髪は不揃いに伸び、横顔はほとんど窺い知れない。
ふと立ち止まり、目前の曲がり角から誰かが走ってくる音を聞く。
小走りの足音だけで、青年には、走ってくる者のおおよその姿が分かった。
男性。年齢は若くはない。靴は革靴やブーツではなく、スニーカー。体重はおよそ65kg。
そして……何かを、担いでいる。
数秒して、その通りの男が目前に現れる。
禿げ上がった頭をしたその男は、死体袋のようなものを担いでいる。
青年の聴覚は、死体袋の中から聞こえる、僅かな息遣いと、心臓の音を聞き逃さなかった。
「……大人しく、『それ』を置いて行ってくれよ。お願い」
目前の青年がそう言ったのを、男はせせら笑った。
刹那、男の視線が、青年の真後ろにいく。
そして、青年の後ろに三つの足音が聞こえた。
振り向かずに察する。後ろの三人は、みな懐に、人殺しの道具を隠し持っている。
だが、彼らは撃たない。少なくとも、今は。
だから、青年は―――駆け出し、真後ろにいた三人のうち、真ん中の男に踊り掛かる。
猫科動物のようなしなやかさで、鳩尾を狙った回し蹴りを打ち込む。
インパクトの瞬間、真ん中の男は浮き上がり、反吐を吐きながらその場に沈んだ。
これで一人、次に、懐に手を差し入れている右の男。
顔面への左のジャブから、右フックを見舞う。
どこかのへし折れた歯が吹き飛び、足元がぐらついた。
逃さず、大きく体勢を崩した背中へ肘を打ち下ろす。
肩甲骨にヒビぐらいは入っただろうか。
そして左の男に向き直ると、銃口がこちらを向いていた。
得意げな顔をしているが、青年は微塵も気後れせず、男の両目を見据えた。
瞬間、男が安物の銃の引き金を引く。
しかし、放たれた弾丸が青年を貫く事はなかった。
間違いなく放たれた弾丸は、青年の真後ろの壁へ弾痕を刻んだ。
直後、青年が男の金的を蹴り上げる。
くず折れる男の顔面に蹴りを見舞い、三人とも気絶したのを見て携帯電話を取り出す。
「31番通りの路地裏に三人倒れてるから来て。あと一人も、すぐ捕まえるから」
電話の向こうの相手の返事も待たずに切り、すでに逃げた、死体袋を担いだ男の追跡を再開する。
入り組んだ路地裏だというのに、青年の歩みは微塵の迷いもなく、逃げた男の足取りと重なった。
ふと、青年の足が止まる。
廃ビルの外壁に手を当て、目を閉じる。
いた。この壁の向こうに。
それを知り、青年は壁に向かってゆっくりと歩く。
するとまるで手品のように、壁をすり抜けてしまった。
そして、先ほどの男と相対した。
「おとなしく返してよ。君が
カノッサ機関の残党だって事は、分かってるんだ」
「なんだって?…てめぇ、何者だ?」
男が死体袋を乱暴に投げ下ろした拍子に、中から悲鳴が聞こえた。
青年の表情が一瞬険しくなり、わずかに起こった静かな怒りとともに、歩いて距離をつめて行く。
崩れた外壁からもれる光で、一瞬のみ青年の顔が見えた。
中東系の、あどけなさを残しつつも整った顔。
そして感情が高ぶった際にのみ、瞳が爬虫類のように細くなる。
「………て、てめぇ……まさか、潜入工作部隊のマリ……」
言い終わらぬうちに、青年の拳が男の鳩尾に突き刺さった。
「……お前がその名前で僕を呼ぶな」
男がその場に沈んだのを確認し、再び携帯電話でどこかへ連絡を入れる。
またしても返答を待たずに一方的に切ってから、死体袋を開ける。
長い金髪と白い肌を持つ、10歳ほどの少女が入っていた。
そして先ほど投げ落とされたさいにだろうか、額から血が出ている。
抱き起こしつつ声をかけると、少女は目を覚ました。
「大丈夫?名前は言える……?」
そこで青年は気付く。
少女の額の傷が、淡い緑の光とともに塞がって行くのを。
「…セレ……ン…」
「セレンか。……お父さんとかお母さんは?」
尋ねると、セレンと名乗った少女は、力なく首を振った。
「…お家は?」
またしても、少女は無言で首を振った。
サイズの合っていない汚れきった服を着ている事から、それらは事実なのだろう。
青年は、少女を抱き締め、こう告げた。
「…僕と来い、セレン。君は、今から僕の家族だ」
二階建てのやや古い家に、青年は帰ってきた。
少女を伴って帰ってきた青年を迎えたのは、この「家」の最年長の、12歳になるレジーナという少女だ。
「おかえりなさい、兄さん。…って、また増えたの!?」
レジーナは傍らの少女に目をやり、大袈裟に叫ぶ。
この家に住んでいる者は7人。そしてたった今、8人に増えた。
「…いいだろ?風呂に入れて、着替えさせてやってよ」
こめかみに指を当てて目を閉じるレジーナだが、すぐに目を開け、セレンの手をとって浴室まで歩いて行く。
それを見送った青年はマフラーを外し、コートを脱ぎ、シャツのボタンを開けつつダイニングへ向かう。
ダイニングテーブルの上に手紙がいくつかある。
一つは警察から、捜査協力の感謝状と、書留で届いた報酬の小切手。
感謝状を読み流し、報酬の額を確認し、小さく頷く。
これが、青年の今の仕事だ。凶悪犯や保釈中に逃亡した罪人を捕獲し、引き渡す。
無論、この商売を始めてから、相手の命を奪ったことはない。
そしてもう一つは――姉から、だった。
封筒には、改名した姉の名前が記されている。
『父』との最後の晩餐の日、姉と、兄と、青年に、名前が与えられた。
機関がいつか無くなってしまったら、その名前で新しい生活を送るようにと。
青年も、もちろんその名前を名乗っている。
中には、青年の健康を気遣う言葉、そして―――つい先日、子供が生まれたと。
写真が数枚同封されていた。
姉の横に立つ男、姉、そして――胸に抱かれた、生まれたばかりの小さな命。
姉の乳房に吸い付く、小さな命。
ベビーベッドで眠りにつく、小さな命。
その時、レジーナがセレンとともにダイニングへ姿を現す。
「兄さん、それで……この子もなの?」
椅子に座ったセレンの髪についた水分ををタオルで拭いながら、レジーナが尋ねる。
「ああ、そうだよ。……まだよく分かんないけど」
言って、笑う。
レジーナは、生まれた時から魔法を使えた。
次に年長のジャニスは、動物と話すことができた。
最年少のコリンは、まだ三歳だからよくは分かっていないが、とにかく確実に……「能力」がある。
「ああ、そうだ。レジーナ、僕は明日、ちょっと出かけるよ。……久しぶりに、会いたい人がいるんだ」
「…兄さん、また?危ないことじゃないよね?」
「うん。仕事じゃないから。……家のことは頼むよ」
頭を撫でられ、レジーナもまんざらでもなさそうな顔をする。
青年の顔は…暖かな、家庭人のような微笑みを浮かべていた。
父さん。僕は、貴方のようになりたい。
僕の罪は消えない。あまりに、多くの命を奪いすぎた。
だから、背負う。
僕は―――背負えるだけの命を背負って、生きていきたい。
(了)
最終更新:2010年03月27日 22:52