その一杯が、誰かの心を繋ぐ。
小さな幸せ配達人、その名は――ティーメイカー。
episode.2 アッサム
カタカタとキーボードが鳴る。
最後にひときわ大きな音でエンターキーを押すと、アイリは伸びをした。
「よーっし、今日のお仕事終わり~~っと」
肩やら首やらを鳴らしながら、結わいていた髪の毛をほどいてダイニングテーブルにつく。
そんなアイリの様子を見て、ハルキはミルクパンで作っていたらしい飲み物をカップに移す。
「ごくろーさん。思ったより早かったな」
「もう、ハルキの方がパソコン得意なんだからやってくれたっていいのに」
「やっとくから終わったらおいしい飲み物淹れてって言ったのはどこの誰だよ」
「だってせっかくおいしいチョコもらったし、飲みたいもん」
「別に紅茶じゃないんだから自分でやれよ。……ほら」
ハルキが湯気のたつマグカップをテーブルに置くと、アイリは途端に仏頂面をぶっ飛ばして目を輝かせる。
「わーおいしそーーー! ハルキありがとー」
「どーいたしまして」
アイリは笑顔のまま、そのホットチョコレートに口をつける。
依頼人からお礼として届いた、外国産の高そうなチョコレートを溶かしてハルキが作ったホットチョコレートだ。彼としては、チョコレートを溶かして牛乳を入れるだけなのだから自分でやって欲しい。
仕事をするうちに、すっかりアイリには飲み物はハルキが作って当り前、という概念ができてしまったらしい。
(いいんだか悪いんだか……)
ため息をつきながら、使ったミルクパンをお湯につける。ポットを使わない分洗い物は楽だが、チョコレートは冷えて固まるとなかなか落ちず質が悪い。
コンロが空くと、今度はやかんを火にかけて、自分の分のカップを持ってテーブルについた。
「そういえばハルキ、さっきまたメール来てたよ」
「そっか……俺はいいけど、おまえどうする? この間のは遠かったし、疲れてたら少し待ってもらうってのもアリだぞ」
「それも考えたんだけどねー、住所見たら今度の依頼人さんの家近いみたいなの。ここ来てもらってもいいかなーって」
「なるほど。ま、それは後で考えるか。どっちにしろ営業時間終わってからのメールなんだろ?」
「うん。さすがに今日は疲れたし、もうパソコンの画面見たくない~」
アイリは先ほどまで、ホームページの更新に明け暮れていた。
今まで依頼で使った紅茶や、淹れ方を紹介する簡単なものだ。どちらかというとメインは仕事を依頼するメールフォームで、仕事の履歴はサブに過ぎない。
ホームページのメールフォームから、依頼人の名前や内容などが送られてくる。
インターネットはまだ、信用性の上では浸透していないらしい。その証拠に、送られてくる依頼は月に3~5件、多くても10件未満というおおよそこなしきれる量であった。
ところで、遠藤愛里(えんどう・あいり)と須上陽希(すがみ・はるき)、この二人が何の仕事をしているかと言うと。
“紅茶仕立人”――些細なことからもつれてしまった人間関係や、人生に疲れた人を、おいしい紅茶で癒すという、一種の心理療法のようなことだ。
彼らを人は、ティーメイカーと呼んだ。
ちなみに、課金はしていない。二人の立場はあくまで契約社員であり、依頼人から直接お金をもらうことはできないのだ。
しかし何も払わないのも心苦しいからと、大抵の依頼人は例えば二人が飲んでいるチョコレートのような、主にお茶うけになる洋菓子やティーポットなどを送ってくれる。
おかげで紅茶グッズには事欠かないのだった。
ふと、アイリが時計を見上げる。
「燐花(りんか)さん、遅いねえ」
「だなぁ……。もうすぐ着くってメール入ってたんだけど」
「やっぱり社長さんだしね、忙しいんじゃない?」
「俺らも最近あちこち飛び回ってたしな。そーいやそろそろ春摘みが入る頃だし、買うののリスト作っとくか」
「そだねー。まだ全然春って感じしないけどね」
そんなことを話していると、チャイムが鳴った。
「あ、来た来たっ」
アイリが立ち上がって出て行く。
ハルキはちょうど沸騰したやかんをコンロから下ろし、ポットを温める。
「ハルキー、やっぱり燐花さんだったよー」
「やっと主役登場か」
「あら、忙しい合間ぬって来たのに可愛くなさは相変わらずね」
アイリと一緒にダイニングに入ってきた女性。
彼女は須上燐花、ハルキの母親だ。
落ち着いたグレーのスーツをすっきりと着こなし、背中まである髪にはゆるくウェーブがかかっていて、いかにもキャリアウーマンといった感じだ。
ハルキの整った顔立ちは母譲りのようで、少し近づきがたい雰囲気もよく似ている。
「陽希、また背伸びた?」
「え? あ、そーかも。計ってないからわかんねーけど」
「いいなー。なんでハルキばっかしそんな伸びんのー?」
「知るか。成長期なんだろ」
「もう抜かれそうじゃない。あ、はいこれ夕飯」
「なにー? 燐花さん、開けていい?」
燐花が頷いたのでアイリが包みを開くと、中から餃子や焼売、中華おこわといった飲茶が顔をのぞかせた。
「わーーおいしそう!」
「おー、すげえ」
いつのまにかハルキも覗き込んでいる。
「それ買ってて遅くなっちゃったのよ。あったかいうちに食べましょ」
「そうだねっ。ハルキ、ポットあっためてるけど夕飯何か知ってたの?」
「全然。準備してただけ。おまえ並べとけよ」
「はいはーい」
嬉々として皿を並べだすアイリと、お茶の準備にかかるハルキを燐花は微笑ましく見ていた。
すぐにテーブルの上は飲茶に埋め尽くされ、ハルキの淹れたジャスミンティーも並んだ。
「「「いただきます」」」
三人とも迷いながら箸をつける。
「そういや母さん、事務所最近どうなんだよ?」
「そんな心配してもらわなくても、うまくいってるわよ。あんたほどの秘書はなかなか見つかんないけどね」
「えっ、ハルキって燐花さんの秘書やってたの!?」
「秘書っつーかあれはただの雑用係だろ。一日中引っ張り回されて、おまえの倍は茶淹れろ淹れろって言われてただけだって」
「心外ねえ。そのおかげで今この仕事やってられるんじゃないの」
「それ言われると立場ねーけどさー」
ハルキは少しむくれながら小龍包を食べている。
アイリではとてもハルキを言い負かせないので、拗ねているハルキが見られるのは楽しい。
ハルキと燐花、この親子を見ているのはとても好きだ。
燐花はモデル事務所を経営する傍ら、ハルキとアイリがティーメイカーとして働くための場所と立場を与えてくれた。
二人の雇用主は他ならぬ彼女だ。
更に事務所兼二人の自宅であるマンションも燐花が保証人になってくれて借りることができている。このマンションの家賃や、仕事をするための必要経費、生活費は全て燐花が出してくれている。
あまりにも負担をかけているからとティーメイカーを有料にしようとしたこともあった。
けれどそれには燐花本人が反対した。
お金のために淹れる紅茶で人を癒すことは絶対にできない、と。
まだ未成年なのだから経済支援をするのは大人として、親として当り前だと。
実際燐花の事務所は現在、業界で一、二を争う大手であり、二人の面倒を見ることは造作もないらしい。
(……そういえば)
ふと、アイリは気づいた。
(ハルキのお父さんって、どんな人なんだろ?)
ハルキは親と別々に暮らしているから会わないのは不自然ではないが、それにしてはあまりに話に出てこない。
気になったが、もし話しづらいことで空気を壊すのも嫌だったので黙っていた。
「愛里ちゃん、どうかした?」
「えっ、いやなんでも。ハルキ、お茶のおかわりちょうだい」
「はいはい」
ハルキが立ち上がる。
ごまかせた、とアイリはこっそり息をついた。
けれど燐花はそれを見逃さなかった。
「遅くまで悪かったわね」
玄関口で燐花が言う。
見送りに出てきたハルキはべつに、と返した。
「アイリも、母さん来ると喜ぶから」
そのアイリはハルキが最後に食べようとしたエビ蒸し餃子を掠め取った罰として皿洗いをさせられている。
食べ物の恨みは怖いのだ。
「そうだ、愛里ちゃん最近何かあった?」
「いや、すぐ思い当たるようなことはねーけど……」
「何もないならいいの。あんたには愛里ちゃんのこと全部話したと思うけど、あの子は難しいわ」
「わかってるって。その話は何度も聞いた」
「ほんとに頼むわね。私はこれでも、あんたのこと信頼して一緒に住ませたり仕事させたりしてるんだから」
「信頼って、どういう意味で?」
「あんたなら、少しでも昔を忘れさせてあげられるんじゃないかと思って。あ、別に手出したりしないだろうとかそういう意味じゃないわよ。あんたが愛里ちゃん好きだってことくらい、とっくに知ってるわ」
きっぱり言ってのける燐花に、ハルキはしばし絶句した。
「……前から訊こうと思ってたけど、俺ってそんなにわかりやすいわけ?」
「愛里ちゃんは気が付いてないと思うけど。言ってみたら?」
「言えるかよ。俺はそういう対象じゃないからあいつはああやって俺に何でも言うし、笑ってられんだろ? 普通に生活できるなら俺はそれでいいんだって」
「……本当?」
燐花が余裕のある笑みで問うと、ハルキは聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で、
「……悪い、正直一緒に暮らすとかそろそろきついんだけど」
と付け足した。
予想通りの答えだったのか、燐花は頷いた。
「やっぱりね。それに関しては私にも責任があるし、悪いと思ってるわ。でも、もう少し待ってあげて。今はまだきっと、彼女にそれを受け止めるだけの余裕はないわ」
「わかってる」
「あの子を一番近くで見ていてあげられるのはあんただけよ。それ、忘れないで」
それだけ言い残すと、燐花は帰っていった。
ハルキは玄関にしゃがみこんだ。
誰にともなく呟く。
「わかってる……わかってるけど……俺だってもうそんなに余裕なんかねえんだよ……」
台所では、アイリが皿洗いを終えたようだった。
その後二人は依頼人とのメールのやりとりを重ね、最初のメールから三日後の夕方に依頼人と会うことになった。
依頼人の名前は、芹沢夏海(せりざわ・なつみ)。
ある事件がきっかけで学校にも行かず、部屋から出てこなくなってしまった息子を元気にして欲しい、という内容だった。
アイリが言っていたように夏海の家はアイリたちのマンションから近かったため、今回はマンションに来てもらって話を聞くことになった。
約束の時間ぴったりに、夏海はやって来た。
「こんにちは、あの、……芹沢です」
「初めまして。遠藤愛里です。どうぞ上がってください」
アイリが招き入れると、夏海の後ろから少年がひょこっと顔を出した。
「あれ?」
「あ、ごめんなさい。この子は流依(るい)。お願いしに来た息子の……麗(れい)の弟です」
「そうなんですか。初めまして、流依くん」
流依は人見知りしているのか、夏海の影から恐々アイリを見るだけだった。
「あはは、緊張してるのかなー? 芹沢さん、どうぞ」
夏海と流依をリビングに案内して、アイリは台所に入る。
「ハルキ、カップもう一個増やして」
「なんで」
「依頼された息子さんの弟君が一緒なの。小学……3年生ぐらいかな」
「じゃコレの出番か」
ハルキは昨日使ったチョコレートを取り出した。また、ホットチョコレートを作るつもりなのだ。
「こっちはお前と芹沢さんの分」
「はーい、ありがと」
アイリはトレイを持ってリビングに戻る。
「お待たせしました。寒い中わざわざすみません」
「こちらこそ、急にお邪魔してしまって」
夏海はまだ不安そうにアイリを見ている。
大人が初めて自分達と会ったときは、大抵こんなものだ。まだ玄関先で帰られなかっただけマシかもしれない。
「全然大丈夫です。あ、冷めないうちにどうぞ。流依くんはもうちょっと待ってね」
アイリがにっこり笑うと、流依は不思議そうな顔をしたが、何も言わずに夏海にしがみついていた。
「それで早速なんですけど、息子さんのこと聞かせてもらえますか?」
「はい。さっきも言いましたけど、私には麗っていう中学2年生の息子がいまして。サッカーをやっていて、選抜メンバーにも選ばれたりして割と有望視されてたんです。本人もサッカー好きで、楽しそうにやってたんですけど……」
夏海はそこで一旦言葉を切った。
アイリは来るな、と思って少し身構える。
「でも先日の試合で……膝を痛めてしまって。医者にもうサッカーはできないと言われてから、ずっと閉じこもったきりで」
「そんなにひどかったんですか?」
「ええ。私も見ていたんですが、明らかに相手のファールでした。初めに突き飛ばされて、よろけたところに足をかけられたようになって」
「そんな……」
「あんなに毎日楽しそうに過ごしていたのに……もちろん、リハビリすれば可能性はゼロではないとは言われましたけど、以前のように選抜になれるほどには戻らないらしくて……もう、私、どうしたらいいか……」
夏海はそう言ってうなだれてしまう。
「お母さん?」
流依が不安そうに夏海の袖を引っ張る。
アイリは落ち着かせようと紅茶をすすめた。
「流依くんが心配してますよ。とりあえずこれ飲んで、落ち着いてください」
「……はい、いただきます……」
夏海がゆっくりと紅茶を飲む。
「……とってもおいしいです」
「ありがとうございます」
いきなりハルキが答えて、アイリも夏海も流依も驚いてハルキを見る。
ハルキはいきなり注目されて少し驚いたが、すぐに普通に戻ってマグカップを流依の前に置いた。
甘いチョコレートの匂いに流依が目を輝かせる。
「自己紹介が遅れました。須上陽希です」
「あの、この紅茶、あなたが……?」
「はい」
「お母さん、これ飲んでもいいの?」
流依がマグカップを指して訊く。夏海がハルキに確かめてから頷く。
「すみません、わざわざ」
「とんでもない。こちらこそ出向いてもらったんですから」
ハルキは夏海に答えながらも、ホットチョコレートを飲む流依をこっそり観察していた。
その様子に気づいたアイリは、再び切り出した。
「彼の腕はこの通りです。お仕事任せていただけるんなら精一杯努力するとお約束します」
「はい、……お願いします」
夏海が深々と頭を下げる。
「それじゃ、もう少し麗君について詳しくお話聞かせてもらっていいですか?」
「ええ」
「あ、流依くんはこちらの彼が面倒見てますので」
「は!?」
いきなり話をふられて、ハルキが面食らう。
(なんで俺がっ)
(いーじゃん別に。どうせ向こうから話聞いてたんでしょ? さっき流依くん観察してたし、流依くんからも何か聞き出しといてよ)
(……わかったよ)
ハルキはため息をつきつつ流依を見た。
ちょうどカップを空にしたところだったので、急いで部屋からサッカーボールを持ってくる。
「流依、だっけ? サッカーやらねーか?」
「うん! やる!」
「よしじゃあ公園行くぞー」
ハルキは夏海に一礼して、部屋を出て行った。
「あの、いいんですか?」
「大丈夫です。多分一時間は戻ってこないでしょうから、ゆっくり話してください」
「ありがとうございます」
「流依くん、麗くんのこと大好きなんですね」
「ええ。……年が離れているのに麗と流依は仲が良くて。私も安心してるんです」
安心、と聞いてアイリは眉を顰める。
夏海は続けた。
「麗と流依は、血がつながっていないんです」
「……血のつながりって、家族が仲いいのと関係あるのかなぁ……」
その夜、アイリは自室にこもって考えていた。
夏海の話はこうだ。
麗の父親と夏海が再婚することになった。流依は夏海の連れ子だったが、寂しがり屋なせいか麗にすぐなついた。
麗も別に、夏海に冷たくするわけではないし父親と仲が悪いわけでもない。でも流依といるときのように夏海に笑うわけではないし、今回のことではすっかり心を閉ざしてしまっている。
夏海はそれを血のつながりのせいだと感じているのだ。
自分と麗に信頼関係がないから、心を開く言葉もかけられないし、麗も部屋から出てきてくれないのだ、と言っていた。
「あんな優しいお母さんなのに……何が不満なんだろう麗くんは」
(……あれ?)
そのとき、何かが心の琴線に触れた。
それをつかもうとしたとき、ドアがノックされた。
「アイリ、ちょっといいか?」
ハルキの声だ。
少しむくれながらドアを開ける。
「な、なんだよ」
「今ちょっと解決のヒントになりそうなことが浮かんできたのに絶妙なタイミングでノックしてくれてありがと」
「そりゃ悪かったな。で、夏海さんから聞いた話俺にも話してくんねーか? それがないとどうにも進まないし」
「あ、そっか。そうだね。あたしも流依くんのこと訊こうと思ってたんだ」
二人はリビングに戻り、お互いに聞いた話を交換した。
ハルキの方は、これといって糸口になりそうな話はなかった。ただ流依も、麗がサッカーをやれなくて苛立っているということはわかっているので、なかなかいつも通りに接することができないでいるということだけだ。
「あいつは本気で兄ちゃんが好きなんだな」
「それは麗くんもわかってると思うよ」
「わかってないよ」
「え?」
「麗はきっと、家族の心配を履き違えてる」
「どういうこと?」
「おまえ、明日突然味がわからなくなったらどうする?」
いきなりの質問に、アイリは少し考えてから言った。
「とりあえずパニックになる。で、もう仕事できないってことだから落ち込む」
「そういうときに、俺が一生懸命励まそうとしたらどう思う?」
「……ハルキは元のあたしに戻って欲しいんじゃないかって、感じるんじゃないかな……」
「そこが間違い」
「戻って欲しいって思わないってこと?」
「思わなくはないと思うけど。その味覚がなくなったっておまえはおまえなんだから、俺はずっと、……」
ハルキはそこで唐突に言葉を切った。
(あぶねー)
燐花に釘を刺されたばかりだというのに、言ってしまいそうになった。
まだ、だ。
まだ言ってはいけない。
「ずっと、なに?」
アイリが不思議そうに続きを待っている。
とっさにごまかした。
「居場所くらいは提供してやるよ」
それでもギリギリだ。
「……うん」
アイリは笑って頷いた。
だけどそれは、ハルキに言われたからじゃない。“居場所”があることが嬉しいからだとハルキは知っている。
もうそんなことにも慣れた。
「あれ? それと麗くんの話とどう繋がるの?」
「あー……だから、おまえにとっての味覚が麗にとってのサッカーってことだよ」
「要するに、夏海さんや麗くんのパパさんは前みたいにサッカーをすることを望んでないってことだよね?」
「そこまで言ったら正解もわかるだろーに」
「ん~~~……………………………………あ!!」
わかっただろ、と訊くハルキに、アイリは別のことに行き着いて勢いよく頷いていた。
(あの二人が近づけないのは、麗くんのせいじゃなかったんだ――)
それから数日後、二人は芹沢家を訪ねた。
前日まで二人でひたすら試飲をし、今回使う紅茶を決めた。
ハルキは解決の鍵を流依に託すことにして、『誰でも簡単に淹れられる優しい味の紅茶』を選んで欲しいとアイリに頼んだ。
そして今日持参したのは、アッサムティーの中でも細かくてミルクティー向きな種類のハプジャンパルバットだ。
平日の昼間だったので家にいたのは夏海、麗、流依だった。
リビングに通してもらってハルキが早速キッチンを借りて準備を始めると、アイリも夏海に切り出した。
「あの、あたしたち来ること、麗くんは……」
「一応は話しました。返事がないので伝わってるかどうかは、わからないんですけど……」
「十分です。ありがとうございます」
自分達は信用されなくたっていい。
必要なのは、二人で選んだ紅茶を飲んでもらうことと、忘れてしまった気持ちを思い出してもらうことなのだ。
ハルキが準備を終えたようで、キッチンから声を上げた。
「流依ー、ちょっと手伝ってくれ」
「おれ?」
「そう。お前にしか、できないことがあるんだ」
ハルキが言うと、流依は嬉しそうにキッチンに入っていった。
「どういうことですか?」
「ごめんなさい夏海さん。この間ハルキの紅茶褒めてもらってとっても嬉しかったんですけど、今回紅茶淹れるのは彼じゃないんです」
「それじゃ……」
「そう。麗くんに飲ませてあげる紅茶を淹れるのは流依くんです。ハルキの提案なんですけどね。流依くんも、麗くんに元気になって欲しいって思ってるひとりだからって」
「そうだったんですか。本当に、ありがとうございます」
夏海が深々と頭を下げた。
キッチンからは、ハルキと流依が何やら話しているのが聞こえてくる。
ハルキが『誰にでも淹れられる』と言ったとき、アイリにも彼の考えがわかった。
流依にはティーポットを使った、いつもハルキがやっている淹れ方は難しいかもしれないと思ったので、ミルクパンで入れる方法にすることにした。
鍋に水と茶葉を入れて、沸騰して茶葉が開いたらミルクを入れるという簡単なやり方だが、アッサムのように細かい茶葉の場合ならポットで淹れるよりもコクのあるミルクティーができる。しかもハプジャンパルバットくらい細かければ満点だ。
しばらくするといい香りが漂い、カップをのせたトレイを必死で持った流依とハルキが出てきた。
「さて、舞台は整ったぞ。アイリ、こっちはまかせた」
「うん。流依くん、がんばってね」
アイリの言葉に、流依は必死なまま頷いた。
「あの、私も二階に行ってもいいでしょうか?」
「その前に、少しだけ訊きたいことがあるんです」
アイリは改めて、夏海に向き直った。
二階へ上がり、麗の部屋をノックする。
「兄ちゃん、……」
トレイを一生懸命持って、流依が恐る恐る呼んだ。
「流依?」
「ちょっと、出てきて」
「…………」
返事はない。
ハルキはため息をついて言った。
「夏海さんから話聞いてると思うけど、俺、須上陽希。一瞬でいいから出てきてくんねーかな」
「――他人に何がわかるって言うんだよ」
「気持ちいいくらい正論だな。俺は確かに他人だ。でも流依はそうじゃない、お前の弟だろ? その流依が出てきて欲しいって言ってんだ」
「兄ちゃん、出てきてよ! おれ、がんばって紅茶作ったんだよ!」
「紅茶?」
「そう! 初めて、作ったから……飲んでほしくて……」
流依が泣きそうになるのを堪えて言った。
きっと本当に、兄に元気になってほしい一心で紅茶を淹れていたのだ。
キッチンに牛乳をぶちまけたり、やけどをしそうになりながら、それでも一生懸命に。
『これを飲む人に少しでも元気になってほしい』、その思いが技術よりも何よりも紅茶を美味しくすることをハルキは知っている。だからこそ、流依にやらせた。
流依はまだドアの向こうを呼んでいた。
しばらくして、ゆっくりとドアが開いた。
「兄ちゃん……!」
目に涙をためて、それをこぼさないように必死の流依に、麗は僅かに目を瞠った。
麗は線の細い、涼しい要望の少年だった。それでも身体は日によく焼けて逞しく、頼りない感じはない。最も今は状況のせいなのか、目に力もなく、覇気も感じられなかったが。
「これ、飲んで」
「……うん」
流依が差し出すと、麗はゆっくりとカップを受け取った。
一口飲むと、
「うまいよ。これ、本当に流依が淹れたのか?」
と、おそらく久しぶりに笑顔を浮かべた。
それを見て、流依も笑った。
麗はしゃがみこんで流依の頭を撫でて言った。
「ごめんな、ずっとほったらかしにしてて。おまえ、オレがサッカーしてるの好きだったもんな。見れなくなってがっかりしたろ?」
「そんなことないよ!」
「流依?」
「おれ、サッカーしててもしてなくても、兄ちゃんと遊ぶの好きだよ! もっと、前みたいに、一緒にごはん食べたり宿題教えてもらったりしたいんだ、よ……。だか、ら、もう、……」
流依が堪えきれずにぼろぼろ涙を流すのを見て、麗も表情を歪めた。
「今の聞いたか?」
それまで傍観していたハルキが口を開いた。
麗が驚いて振り向くと、続けた。
「お前はずっと、サッカーができない自分を責めていたんだよな? それは当然だと思うけど、家族もまたサッカーをして欲しいって思ってるっていうのはお前の思い込みだ」
「え……?」
「流依も言っただろ? 『サッカーしててもしてなくてもいい』って。家族はお前に、元のように普通に生活して欲しいんだよ。だけど、下手にそう言ってお前がもっと傷つくのが怖くて、言えなかったんだ」
「そうなのか? 流依……」
流依にはハルキの話がどこまでわかっているかわからなかったが、頷いた。
「ごめんな……ほんとに、悪い……。お前にまで、そんな気遣わせてたなんて……」
麗は流依を抱きしめた。目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「謝るのは私の方よ、麗」
いつの間にか、夏海とアイリも上がってきていた。
夏海は二人に駆け寄ると、麗をまっすぐ見て、
「本当に、ごめんなさい。私があなたに思っていることを言わなかったのは、あなたに受け入れられてないと思っていたからなの。それが結局、かえって麗を辛くさせていたなんて……」
アイリは黙って、夏海を――夏海と麗、流依を見ていた。
その瞳が意味するところは、ハルキしか知らない。
「オレ、再婚早々こんなになって、家族に迷惑かけることになって……。何度も、部屋から出ようとした。でも、オレがこんなじゃ、せっかくうまくいきかけてるのに、そういうの全部壊すことになるんじゃないかって、そう思ったらやっぱり、できなかった……」
夏海は首を何度も横に振って、泣きながら、「大丈夫よ、そんなこと」と「ごめんなさい」を繰り返していた。
夏海も麗も、互いを気遣いすぎるあまり、本当のことが言えなくなっていた。
ずっと流依と過ごしてきて、いきなり麗くらいの子どもの母親になることになった夏海。
初めて挫折を知ったときに、家庭環境が変わってしまった麗。
受け入れることも、突き放すこともできなかった。
言葉にしなければ伝わらないことの方がたくさんある。
わかっていたが、どうしても言えなかった。
「これからは、もっと何でも話す」
「私もそうするわ」
そう言うと夏海は立ち上がって、ハルキとアイリに頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ、俺たちは何も。今回の功労賞は流依ですから」
「本当にそうね。流依、がんばったわね」
「おれだって兄ちゃんとしゃべりたかったもん」
得意そうに流依が言う。
「夏海さん、麗くん。お互い相手の考えてることも無事わかったことですし、流依くんに紅茶淹れてもらったらどうですか?」
アイリが提案すると、夏海と麗が頷いた。
流依はさっきよりもっと嬉しそうに笑って、二人を引っ張ってキッチンへ下りていった。
「今回も、ちゃんと終われてよかったぁ」
アイリが呟いた。
「難しいよな、こういうの」
「流依くんがいてくれなかったら、もっと大変だったかもね」
「そーだな。あーなんか疲れた。……帰るか」
アイリが頷いて、二人は芹沢家の三人に別れを告げた。
次の日の夕方、二人の元へ小包が届いた。
「ハルキー、夏海さんから何か来たよ」
「何だ? でかい割には軽そうだな」
アイリが包みを開くと、中から出てきたのはミルクパンだった。
「ミルクパン? なんで?」
「実は流依がこの先もあの紅茶淹れるってんで、葉っぱと一緒にやったんだ」
「ていうか、いつの間にうちの持ち出したの?」
「フライパンほどどこの家にもあるってもんじゃないし、ないとどうにもならなかっただろ?」
「まーそうだけど。でもいっか、かわいいし」
「つったって使うのは俺」
「わかってるよー。あ、手紙入ってる」
手紙には、あれから夏海と麗は“本当の親子”になれた、と書かれていた。
麗はサッカーの変わりに打ち込めるものを探し出し、夏海もそれを応援しているという。
驚いたのは、流依が本格的にサッカーを始めた、ということだ。
「えっ、流依くんが!?」
「麗の代わり、ってとこだろうな。そういやアイリ、あのとき下で夏海さんに何て言ったんだ?」
「ああ、そんな大したことじゃないよ。麗くんはきっと、家族を大事に思ってるからこそ、部屋から出てこないんじゃないかって。あと、夏海さんがちゃんと麗くんのこと本当の息子同然に思ってるなんて、言わなきゃ伝わらないですよって」
「さてはお前、最初に俺の話聞いたときやたら納得してたのはそのことだな!?」
「ごめん、バレた? でもハルキのおかげで、夏海さんにも原因あることつかめたんだし、まあ結果オーライってことで。ね?」
アイリは一気にしゃべって煙に巻いた。やはり図星だったのだ。
ハルキはやっぱり、とため息をついて届いたばかりのミルクパンを手に取った。
「これの第一号で淹れるミルクティーでも飲むか」
「うん、飲む飲む!」
笑顔でアイリが言って、ハルキはキッチンに入った。
また幾日も経たないうちに、メールは届くのだろう。
だから今はほんの少し、次の最高の一杯のための休息を。
最終更新:2010年04月19日 17:47