――――逢魔が時。
夕暮れの中、世界が朧になるこの時間帯は、読んで字の如く魔との遭遇が増えると言う。
昼と夜とのオーバーラップ、異なる2つのものが重なり合う境界線。そこに、本来あり得ないものが現われると言う事なのかもしれない。
それでなくとも、黄昏時とも――――『誰そ彼』とも言われる様に、視界の効かなくなるために、アクシデントに見舞われやすい時間帯でもある。
事実、乗用車の運転においては、交通事故の増える『魔の時間帯』と、慣わしの中でハッキリと言い伝えられている。
そんな夕暮れの中に、人の心が平常ならぬ何かに想いを馳せる事は、決して珍しい事ではないのかもしれない。
それが、見る人の心をざわめかせると言うのであれば、なお一層の事、それは一日の中で特別な時間帯となるだろう――――。
「――――ん、っ……眠ってしまっていたか…………もう夕暮れだな…………」
安宿の部屋の中、まどろみに沈んでいた青年は、ふと目を覚ます。既に窓からは、太陽の断末魔と言える昏いオレンジの光が差し込んでいる。
西日に照らされていたからか、いつもの厳めしい服装ではなく、タンクトップにジャージ下と言うラフな服装にも関わらず、寝汗をかいてしまっていた。
「……不快だな、夕日は……どうせなら、目覚めるには夜が良かった……」
窓の外の太陽に一瞥をくれると、青年は苛立たしげに短い髪をかきあげる。寝汗を含んだざらっとした髪の感触が、掌に返ってきた。
「……あいつが来るまで、まだ余裕はあるね……準備の前に、汗を流してしまおうかな……」
最低限の設備が整えられている浴室へと入り込むと、青年は身に纏うものを全て脱ぎ去る。ふと目に入った鏡に、視線を向けてみた。
――――細くて華奢な体つき。そこそこに浮き出た腕の筋肉。決して厚いとは言えない胸板。
そしてなにより、男と言っても女と言っても通りそうな、どこか幼さの残る丸みを帯びた、整った顔立ち。
「……くそ、イライラする……!
やっぱり夕暮れ時なんて、碌な時間じゃない……いつだって、そうだ……!」
それを見ていると、青年の中に言い様の無い感情の塊が膨れ上がってくる。瞳に、ハッキリと分かるほどに怒りの色がこみ上げてくる。
その苛立ちを汗と共に洗い流さんと、シャワーから熱湯を出して、頭へ、そして身体へと浴びせる。
「……夕日は、嫌いだ…………いつだって手前の事を、嘲笑う…………」
身体に纏わりつく不快感が、熱湯と共に流れていく。それでも心の苛立ちは、中々ぬぐい去る事が出来なかった。
――――夕暮れ時と言うのは、青年にとって特別な時間だった。それは常に、忌々しさと隣り合わせの経験がついてきたから。
逢魔が時――――魔が顔を覗かせるその時間帯に、凶事が付きまとうのは偶然ではないのだろう。
そんな事を青年に思わせるほどに、夕日と言うものに良い思い出は無かったのだ。
――――自分が魔性を秘めて生を受けてしまったのも、あるいはそのせいなのかもしれない。
思わず、目を逸らしていたはずの鏡を、もう一度強く睨みつけた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「よくも私を騙してくれたなッ!」
「……え?」
――――青年の覚えている一番古い記憶は、鬼の如く激昂する男の顔だった。恐らく彼が父親なのだろう。
「待って、待ってくださいあなた!」
「ふざけるな! この裏切り者!」
そんな父親に、必死に取りすがろうとする母親。それを振りほどいて子供へと向かう父の手には、拳銃が握られていた。
「わぁっ!?」
「悪魔……悪魔の子め! お前が生きていては必ず不幸が起こる! よくもその年までいけしゃあしゃあと……!」
「危ないっ――――――――うっ……!」
幼子だった青年に銃を向ける父は、自らの子を見る眼をしていなかった。その眼は、化け物を見る様なそれだった。
そうして、躊躇なく引き金を弾いて致命の弾丸を発射する。咄嗟に母が身を投げ出して庇っていなければ、子供は即死だっただろう。
「に……逃げなさい……」
「ママ!?」
「逃げなさい! 家から出て、二度とここに来ないで、殺されちゃうわ!!」
「――――う……うぅ……うわぁぁぁぁぁぁ……!」
撃たれた箇所を庇う様に、身体を変な形に丸めながらも、母は子供を叱咤し、逃がそうとする。子供はパニックになりながらも、その言葉に従い、駆けだした。
――――どこに行けばいいのか。自分の帰る場所はここなのに。パパはなんでボクを撃とうとするのか。
何も分からない。ただ、自分の命が危ない事だけは子供なりに分かった。もう、家族とは会えないと言う事も。
「逃げるな! この悪魔!! 生かしておいて、たまるかッ!」
「止め、て……子供を、殺すのは……ッ!!」
「お前が……お前があんな子を産んだのがそもそもの始まりだろうが!! お前が呪われた血を齎さなければ……ッッ!!」
靴だけを履いて家から飛び出した子供の耳に、2発の銃声が聞こえてくる。
すぐに父親は、自分を追いかけてくるだろう。そして本当に自分を殺そうとしてくるに違いない。
「……パパっ……ママっ……――――っぅぅうううっっ……!」
空は夜を迎える準備をするように、太陽を地平線の彼方へ追いやっている頃合だった。目に眩しい夕焼け。もうすぐ夜がやってくる。
――――暗くなる前に家に帰って、晩御飯を食べなきゃいけないはずだったのに。もう家には帰れない。
もう父親と母親は、二度と自分を抱きしめてはくれない。絶対に、見つかってはいけないのだから。
夕日の中、泣きながらどこともなく走り続ける子供を慰める者は、誰もいなかった。
太陽すらも、子供から逃げる様に地の果てに沈み、夜が全てを抱擁しようと――――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ぐずっ……っぅっ、あぅぅ……っ…………!」
それから2日、子供は路地裏の隅で膝を抱えて、ずっと泣き続けていた。
帰る場所は無い。食べるものも無い。側にいてくれる人もいない。それらは全て、父親によって奪い去られた。
ここから出ていく事も出来ない。いつ父親に出会って、銃で撃ち殺されてしまうか、分からないのだから。
おなかも空いた。喉も渇いた。寒くて疲れた。それでも、どうする事も出来ない。
――――まだ3歳の子供に出来る事は、ただ膝を抱えて、泣き続ける事だけだった。
「――――君、どうしたの?」
「……っ……!?」
そんな子供に声を掛けたのが、通りがかったらしい、長い髪が印象的な女性だった。
まだ成人しているかも分からない、丁度「お姉さん」と言う言葉が似合いそうな女性。社会的に見れば、まだまだ『少女』の部類なのかもしれない。
膝を折って目線を合わせると、女性は心配そうに顔を覗きこんでくる。綺麗な眼をしていた。
「……服もだいぶ汚れちゃって……どうしてこんな所で泣いてるの?」
「……ボク……っ、悪魔だから……! もう、家に帰っちゃ、ぃ……いけないから……ッ」
「…………!?」
丸2日、人目を避けて泣き続けていた子供にとっては、優しく声を掛けてきた女性はそれだけで、心を絆される存在だったのだろう。
しゃくりあげながらも、言葉足らずに自分の事を口にする子供の言葉に、女性も驚いた様子を見せた。
「……でも、君の家なんでしょ? 子供は家に帰らなきゃいけないんだよ? お姉ちゃんが連れてってあげるから」
「で、でも……っ、また……鉄砲で……ぇ、ぐっ……う……撃たれちゃうから……」
「……そこまでされちゃったんだ……かわいそう…………」
沈痛な表情で子供を見据えていた女性だったが、やがて意を決した様子で一つ頷く。
「じゃあ、私と一緒に暮らそう?」
「……っ、え……?」
「私が、君のお姉ちゃんになってあげるから! 君が家に帰れないんなら、私の家で一緒に暮らそう?」
「おねえ、ちゃん?」
「そう! そうすればもう、君もひどい事されないから……私が、ずっと一緒に居るから! ね?」
「ぅ、っ……う、うん……!」
差し出したのは女性の手。それを握り返したのは子供の手。女性はこの子供を放っておく事が出来なかった。
悪魔などと排斥されて、実の親に命を狙われる――――真っ当な神経をしていれば、憐れみを感じないはずはないだろう。そして女性はもう一歩、歩を進めたのだ。
「じゃあ、お名前教えて? お姉ちゃんはアスタルド。アスタルド=ワードナール」
「……ぼ、ボク…………アルク…………」
「アルク、ね。じゃあ君は今日から、アルク=ワードナールだよ。お姉ちゃんの事、よろしくね?」
「うん……!」
ようやく、子供は泣きやむ事が出来た。そして同時に、帰る場所を得る事が出来た。
繋いだその手は、父親や母親に比べて頼りなかったけれど、ずっと暖かい手だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――2人だけの生活は、穏やかに過ぎていった。
1人暮らしをしていた『お姉ちゃん』は、あっさりと子供を受け入れてくれたし、本当の姉弟の様に接してくれた。
偶に一緒の休みになると、一緒に思いっきり遊んでくれた。子供にはそれが、何よりうれしかった。
時が過ぎて、何とか学校にも通い始め、子供は普通の生活をこれ以上なく楽しく過ごしていた。
「やっ! えいッ!」
それでも――――徐々に心穏やかならぬ日々も迫ってきていた。
父が『悪魔』と蔑んできた理由が、ここでも周りの悪意と蔑視を、招き寄せてきたのだ。
両性具有。しかも、通常では考えられないレベルでの両立状態。男にも女にもなり切れぬ、子供にとって「おかしな」身体。
奇異やからかいの対象になるのは無理からぬ事だろう。子供も、なんとなくそれが幼い頃の経験の理由であると言う事が、分かり始めていた。
なら、どうするか――――強くなるしかない。そうしたものを跳ねのけられる様に、強くなるしかない。
1人で居る時、子供は棒きれを振り回す事が多くなっていた。他人の心ない言動を、寄せ付けないために。
誰に倣うでもない、児戯の延長みたいな練習だったが、それなりに身についてきた。『お姉ちゃん』が働いている店のおばさんが、色々教えてくれたからだ。
――――振るよりも突いた方が遠くから届きやすい。身体が小さいなら、振り回されないようにしないといけない――――
アドバイスを心に刻み、刺突に重視した剣の扱いを、自然子供はその身に染み込ませていた。
――――武器をもって強くなれば、誰も自分を馬鹿にしないだろうと。
「……アルク、ごめん……今日はご飯、1人で食べてね……」
「お姉ちゃん……また、身体が痛むの?」
ある満月の夜、いつもは夕食を共にしていた『お姉ちゃん』が、疲れた様子で部屋に籠ってしまった。身体が痛むと言い残して。
月に1度、満月の夜は必ずそうしていた。それが何故なのか、子供は知らないふりをしていたが、本当は知っている。
――――満月の夜に、『お姉ちゃん』は『人間じゃ無くなる』からだ。
「ごめんねアルク。もうご飯は冷蔵庫に入れてあるから……」
「…………お姉ちゃん、お姉ちゃんは…………その…………」
「…………」
その事を問いただそうとしたが、その先の言葉が出てこない。いつかは聞かなきゃいけないと思っていた。
恐らくそれが、赤の他人に過ぎない自分をここまで受け入れてくれた事の、理由になるのだろうから。
だが、ドアの前で二の句を継ぐ事が出来ず、子供は黙り込んでしまう。
「……アルク。確かに私たちは、普通の人間の身体じゃないよ。でも、だからって『悪魔』なんかじゃ絶対に無いの」
「…………」
「私も、アルクも、普通に人間として生きていってダメなんて事は、絶対に無いんだよ? 私たちが、そう望んでるんだから
それとも、アルクは『悪魔』になりたい? 人を苦しめて、泣かせて、そんな『悪魔』になりたい?」
「そ、そんな……嫌だよボクは、他の人を傷つけるなんて……」
「でしょう? だから私たちは『悪魔』なんかじゃ無いよ。ちょっと違うだけの、ただの人間なんだから……」
「……お姉ちゃん、ありがとう……!」
ドアを隔てて、『お姉ちゃん』の言葉を受けて子供は、晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
なにもかも、すんなりと納得できた訳じゃない。でも、『お姉ちゃん』の言葉と思えばそれが間違ってるとも思えない。
ただ、そんな日々がずっと続いて欲しいと、そう願うだけだ。その中で、納得できる時が来るだろう。
用意してくれた晩御飯を頂くために、子供は『お姉ちゃん』の部屋の前を離れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――予感めいたものはあったのかもしれない。手に入れたこの日常が再び崩れてしまうと言う事への。
それは、青年が9歳だった頃の
出来事。もう『一度目』とは違い、青年もしっかりとその事を記憶している。だからこその、青年にとっての痛恨事。
「――――ここだ! 化け物の家はここだぞ!」
犂に鎌に鍬。その手に思い思いのものを携えた一団が、家を包囲する。『お姉ちゃん』が、人間と『魔海』の種族のハーフである事が露見したのだ。
殺気立った一団の様子は、子供にも覚えがあった。あの時の父親と同じだ。
「……っ、帰れ! お前らにお姉ちゃんは殺させないぞ!」
「このガキは!?」「ここに拾われた子供だ!」「そんなガキ放っておけ!」
ヒートアップした群衆の前に、身の丈にあった鉄の棒1本を携えただけの子供の言葉など、通用するはずがない――――尖った棒を構える子供の手が、自然と震えていた。
自分たちの日常を守るための、その為に覚えた剣の扱いなのだ。今使わなくてどうするのか。怖くても、もう逃げる事なんて出来ない。
「――――――――うぅああああああああああああああああああああああッッ!!」
「……!?」
頭が真っ白になる。ただ、『お姉ちゃん』を殺すかもしれない目の前の連中を許す事なんて出来ない。
腹の底からのか細い雄叫びと共に、子供は大人たちに突っ込んでいった。
――――時間の感覚もない。だが後から考えれば、ほんの5分程度しか経っていなかったのだろう。子供は打ちのめされ、抑えつけられていた。
周りには、自分が倒したと思しき、臀部や太腿、腹に大きめの刺し傷を負った、8人ほどの大人たち。
体格に恵まれない子供の自分が、これだけの相手を倒せた事が、既に称賛に値する事なのかもしれない。
――――しかし、そんなもの意味は無い。子供はそんな事をしたい訳ではないのだから。
「捕まえたぞ! 殺せぇぇぇぇぇぇッ!!」
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ――――ッッ!!」
にわかに湧き立つ群衆。何が起こるのか――――子供で無くても分かるだろう。最も大切な人が、殺されようとしている。
「止めろぉぉぉぉぉッッ!!」
「――――アルクには、その子には手を……ぉ、ぐぁ……ッ」
「お姉ちゃん……お姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「アルク……ごめん、ごめんね……っぎぃィ……ッ!! …………ごめん…………ごめん……ぇ……ごめ……――――――――」
怒号や歓声に紛れて一瞬だけ聞こえた声は、ずっと自分に向けられていた。『お姉ちゃん』は最後まで、自分の身を案じてくれていた。
やがて、育った家に火の手が上がる。なにもかも燃えてしまう。周囲の悪意を孕みながら、大きく煽られる火によって。
「このガキどうするよ?」「ガキを殺すのはなぁ……」「放っとけよ。どうせ同じ事だろ? 化け物に育てられた子供なんてよぉ」
やがて子供は解放される。しかし、もう動く気力も無かった。やはり、あの時と同じだ。泣く事しか自分には出来ない。
呆然と炎を見つめながら、子供はただ涙を流す事しか出来なかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夕焼けの中、大きく炎が燃え上がる。やがて響いてくるサイレンの音に群衆は散り散りになった。何事も無くなった様に。
ただ、自分が周りの人たちを刺した事で捕まるんだろうと言う、漠然とした予感だけはあった。
しかしそれがどうしたと言うのだ。もう何もかも無くなってしまった。ならば、このまま捕まっても、同じ事でしかない。
「――――こいつか。ここで育てられてた半陰陽のガキって言うのは……」
「…………?」
いつの間にか、再び数人の大人に囲まれていた。だが、先ほどの連中とは様子が違う。また違った悪意が、わずかに感じられる。
何が何やら分からないまま、その大人たちに取り押さえられる。リーダー格らしきサングラスの男が、耳元で囁いた。
「おい……お前は『神様』だ。俺たちと一緒に来い。お前には、存分に役に立ってもらうからよ……」
「……何だよ、『神様』って――――――――っつッ!?」
問い返そうとして、返ってきた答えは鉄拳。頬を遠慮なく殴りつけられた。
「お前は余計な事を言うな! ただ俺たちに従ってれば良い……選べよ! 『神様』になるか、それとも死ぬか!? 死にたくなきゃあ、俺たちの神になれ!」
「……っ、わ、分かった…………分かったよ……」
「ようし……これで準備は全部整った……引き上げるぞ! 旗揚げはもうすぐだ!」
もう、子供にとってはどうでも良かった。されるがまま、男たちに連れ出され、焼け落ちようとする家から離れる。
入れ違いにやってきた消防車を横目に、子供はただ心の中で、『お姉ちゃん』へ、そして自分の幸せへの別れを想っていた。
「――――ここに完全なる人間が降臨された! 神の力はこの少年に宿され、我々を通じてみなを救済される!
アンドロギュノス――――人間の完全体が、ここにいらっしゃるのだ! 我々がみなを救って見せよう! それが神の意志なのだ!」
――――こうして子供は『神様』になった。カルト宗教の信仰対象と言う『神様』に。
この為に、自分を使いたくて彼らは自分をさらってきたのだろう。ただ無表情のままに、座っているだけで良い。後は全て、教祖を名乗るあのリーダーがやってしまう。
「――――神の御力をここに示そう! 神は無限の魔力を持っている……みなの傷を癒し、心を癒し、全てを癒される!」
「…………っ」
教祖の男が、魔術を行使する。自分の身体から魔力を吸い取って。
貧血に似たふらつきが襲ってくる。無理やりに、強力に魔力を吸われるこの感覚は、耐え難い苦痛でもあった。
「…………おい、倒れるな。死にたくなかったらしっかりしろ」
「…………ッ!」
側に控えている神の小間使い役の男が、後ろからそっと身体を支える――――同時に、わき腹にナイフを突き立てて。
痛みが、わずかに意識を覚醒させる。身体の震えを無理やり抑えながら、何とか背筋を伸ばして姿勢を保つ。
「――――神の御力と教えを広め、全ての衆生を救済するには、我々には金が足りない! この汚れた世にあっては、金がなければならぬのだ!
神の役に立ちたいと言う心を持っているなら! 我々の為にみなの喜捨を求めたい――――――――」
かつては『悪魔』として殺されそうになり、今は『神様』として詐欺の根拠に使われている。
寄付を募る教祖の声は、子供はもう擦り切れた心に何の感慨も齎さなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「兄貴、やったっすね! 稼ぎがもう段違いっすよ!」
「あぁ……これもあの『神様』のおかげって奴だな! おかしな身体で生まれてきた奴は、魔力だの霊力だのを帯びやすいって言うが、本当にその通りだ……!」
宛がわれた小さな部屋へ、隣の部屋の男たちの酒盛りの声が聞こえてくる。
散々に魔力を吸われ、意識朦朧とした状態で放り込まれ、ようやく意識がハッキリしてきた。
――――言わずもがな事だが、自由などない。それどころか、酒に酔ったあの面々の前で機嫌を損ねれば、再び暴力を振るわれかねない。
申し訳程度に部屋に置いてあるスープとサラダに、震える手を伸ばした。食べなければ、とても身体がもたない。
「……死にたく、なんてない…………でも、もう嫌だ…………ッ!」
疲れ果てていた身体は、あっと言う間に全てを平らげてしまう。とりあえず腹は満たされたが、次に襲ってくるのは言い様の無い悲しみだった。
悪事に加担しようが、救いに見せかけた搾取の片棒を担ごうが、もうどうでもよかった。その事に思う事なんてない。
しかし――――ただ、ままならぬ状態にある中で、生殺与奪の全てを、自分にもどうにもならない理由で握られている日々に嫌気がさしていた。
「ボクだって……ボクだって、こんな身体で生まれたかった訳じゃない…………!」
そう――――誰が悪い訳でもないのだ。自分が悪いはずもない。両親が悪い訳でもない。ただ、運が悪かっただけ。
こうした身体で生まれる事自体、悪い事でも何でも無い。だが、それを排斥せんと、あるいは利用せんとする悪意を巻き込んで、こんな事になってしまった。
この状況で、心を強く保っていられるはずもない。
「……『神様』も、『悪魔』も……もう嫌だ……ッ!」
『神様』だろうが『悪魔』だろうが、子供にとっては同じ事だった。どちらも、自分を苦しめる存在でしかないのだから。
死ねば楽になるのではないか――――どうしようも無い苦しみにまみれた日々は、そんな事をすら子供に思わせる。
だが――――死ぬのは怖い。生物全てに共通する、とてつもない恐怖だ。
今の状況からは解放されるだろう。だが、その先に何が待っているかは分からない。あるいは、今以上の苦痛が待っているのかもしれない。
あるいは――――自分を『神様』として持ちあげようとするあの連中が、死ぬ事をすら許さない状態に追い込んでくるかもしれない。
「……くっ、うぅ……! ぅっ……っ、っ――――――――!」
気持ちが高ぶり、涙があふれてくる。もうこんな事、何度も繰り返してきた。
だが、決してその感情そのものをかみ殺す事は出来ない。何度試みても、喉が締まって呼吸が乱れ、涙が溢れてくるのを止める事は出来なかった。
だがせめて――――泣き声だけはかみ殺さなければならない。この声を漏らしていて、もし聞かれでもしたら――――――――。
「――――うるっせぇこの野郎! せっかくの酒に水を差すんじゃねぇ!!」
「う、がはっ……!! ご、ごめんなさい……!」
部屋に乗り込んできた男に、腹を殴られた。人前に出れなくなってしまうから、もう顔を殴られはしない。
――――泣く事すら、自分は自分で自由に出来ない。泣きたくなんてないのだ。また殴られるから。
しかし、心を自由にする事なんて、出来ない。本当の宗教なら、そこに答えは用意してくれるだろう。だが、自分たちのはただの詐欺の道具に過ぎない。
大体、『神様』も『悪魔』も、自分を救ってなんてくれないじゃないか。
――――ベッドに飛び込み、ぎゅっと身体を丸めながら、噛み殺した泣き声だけが、小さな部屋の中に響いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――12歳。人生の転機がやってきた。豪快にして細心な、もう一つの救いの手が。
「兄貴ぃッ、魔術師が、魔術師が殴りこんできます!」
「くそ……すぐに魔術で追っ払ってやるから、お前ら先に行け! 魔力の量はそう簡単に負けは――――――――」
「――――愚か者。お前たちの付け焼刃の魔術で、わしがどうこうなると思うたか!?」
突如、教団の動きがおかしくなる。いつものように人前にただ座って魔力を吸われているだけの日々に、異常が起こる。
「……これは正式な、国からの依頼じゃよ。お前らカルト教団を壊滅させてくれ、とののぉ?
さぁ……さっさと去るが良い。所詮偽物の信仰では、わしの魔術に傷一つつける事は出来んからの……!?」
「ぐっ……ち、畜生!!」
「あ……!?」
乗り込んできたのは、1人の老人。魔術師を思わせるコートとハット、そして大きな杖を振るい、教祖や教団員をあっと言う間に振り払う。
蜘蛛の子を散らす様に逃げ出す面々に置いて行かれ、子供は1人置き去りにされた。場に居るのは、教団を壊滅させた魔術師の老人だけ――――。
「う……ぁあ……ッ!!」
「……魔術の素養のある子供を神に据え、好き勝手やってたと言うが、本当の様じゃの…………むごい事を」
「う、あ、あ、あ……うあああああああああッッ!!」
「ぬっ!?」
騒乱の中、手元に転がり込んできたレイピアを手に、子供は老人へと飛びかかった。杖でいなされるも、すぐに追撃する。
「…………っ、…………ぁ…………はぁっ!!」
「わああッ!?」
だが、一瞬の隙さえあれば、魔術の発動で全てがひっくり返される。子供の身体は急に重くなり、レイピアも取り落としてしまう。
「……小僧、何故わしに飛びかかってきた? わしがお前を殺すとでも思ったのか?」
「ぼ、ボクは……『神様』だから! 『神様』でなきゃ、『神様』にならなきゃ殺されるから! ……死にたくないぃぃッッ!!」
――――殺される。その恐怖だけが子供を突き動かした。教団の壊滅が何を意味するのか、子供にはそれを冷静に考える事など出来なかった。
ただ、自分の居場所が無くなる。それだけしか頭になかった。そしてそれは、常に命の危険と隣り合わせだったのだ。
子供には、目の前の老魔術師が、死神に見えてもなにもおかしくは無かっただろう。
「お前は神ではない。もうお前を神として、何かを強制する者など誰もいない。お前は自由じゃよ……」
「……自由…………?」
「そうじゃ……お前はどうしたい? 恐らくもう、頼れるものは誰もいないんじゃろう? なら、わしと共に来るか
お前自身、どうしたいのか分からないんじゃろう…………それを知るために、学ぶために、わしと共に来る気はどうじゃ、無いか?」
藪から棒に自由と言われても、子供にはどうしようもない。自由の中で何かを出来る裁量などないのだから。
老人も、それを分かっているのだろう。共に来ないかと言葉を掛けてきた。
(――――そうか…………これは、お姉ちゃんの時と…………)
子供は、かつての自分の体験を思い出した。居場所を無くした自分にこうして声を掛けてくれる。それは、あの『お姉ちゃん』と同じなのだ。
差し出されたその手を握らない選択肢は、子供には取れない。しかし、その後には自分の思いのままに取れる選択肢は、必ず待っているはずだ。
「…………アルク、アルク=ワードナールです」
「……うむ。わしはアルベルト=フォルス…………これから、お前の『先生』じゃな…………」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――16歳。アルベルトの下で魔術の修行に励み、同時にそれ以外の色々な事を学び、子供はやがて青年へと成長していった。
自分の身体がどうなっているのか。自分の目指す生き方は何なのか。ようやくおぼろげに掴み始めて。
それらは全て、魔術の師であり、新しい保護者でもあるアルベルトのおかげと言えた。
――――いや、あるいは同じく学ぶ仲間たちの影響もあったのかもしれない。特に、とある男の影響は、無視できないだろう。
「……なんじゃ、あの騒ぎは……?」
『先生』アルベルトと、3人の仲間たちと共に、とある山村に足を踏み入れた時、その騒ぎは起こっていた。
何の事は無い。数人の男たちが村娘をかどわかそうとしていた、ごくありふれた悪徳。
――――だが、その光景はかつての自分の姿を思い出し、青年は不愉快だった。
「……師匠。ちょっと時間を頂けますかね? あの山猿共を片付けてきます……」
「ほう……レグルス。お前がかの?」
「魔術を使うまでもねぇ……師匠の名に傷はつけませんぜ……ですからお願いします……!」
「ふむ……分かった、行って来い……」
だが、青年よりも先に、4人の中で一番の新参である居丈夫が、杖を携えて一歩前へと出て行こうとしていた。
「……先生、手前も……」
「むぅ、アルクもか? …………まぁ良いじゃろ」
後れを取る訳にはいかない。こうした光景を叩き潰すのは、自分の役目だ。
「……おっ。お前……自信はあるのかよ?」
「それは手前のセリフ……そっちこそ、魔術を使わずに大丈夫……?」
「へっ、任せろってんだ! なら、勝手に行くぜ?」
「……任せる……」
道端に落ちていた手頃な薪を拾い上げると、杖を携えた居丈夫と共に暴漢達の下へと歩いて行った――――。
「……お前、やるじゃねぇか……! 身体のキレ、かなり良かったぜ!」
「……君の方こそ……」
結論を言えば、あっと言う間に魔術を使わず男たちを退散せしめることができた。それも、仲が良い訳もないのに、抜群のコンビネーションで。
正面から飛び込んだ居丈夫の陰から青年が飛び出し、一気に意表を突いて村娘たちを解放。暴漢達を一挙に叩きのめしたのだった。
「あぁ、ありがとうございます! ……ですが、彼らの仕返しがやってくるでしょう。あなた方は今すぐ、ここを立ち去った方が良いかと……」
「へっ、冗談……後始末も含めて、俺らに任せろって! ……師匠、先に行っててください。俺らが後から追いつきますんで……」
「……仕方がなかろう。魔術の使用を許可する。今のお前らなら、その程度は用が足りるじゃろうからな……」
「……分かりました、先生……」
その後の事も、特筆には値しないだろう。暴漢達の集団を魔術を以って撃ち払い、2人の力で壊滅させる事が出来た。
この時から、青年たちは1人立ちを許され、同時に今に繋がる長い腐れ縁が始まるのだが――――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……っ、ふぅ……もう良いかな……」
少し、長くシャワーを浴び過ぎてしまった。青年は髪だけを拭うと、浴室から外へと出る。
「おっ、アルク……てめぇ、なんて恰好してやがる。服ぐらい着ろ……」
「っ、レグルス……もう来ていたのか……!?」
部屋には、居丈夫が既にくつろいでいた。ぐたっと足を延ばして座り込み、テーブルには持ち込んだらしい酒が置いてある。
身体も碌に拭わず、何も着ていない青年は、慌てて浴室へと引き返した。
「……すまない、少しのんびりし過ぎたようだ……」
「……まぁ、俺一人ぐらいなら構わねぇけどよ……それよか、用意してくれてたんだって?」
「あぁ……調理室を借りて、用意してみた……シュガーラスクとガーリック風味ラスクだ……ビールの共には良いんじゃないかな?」
「おぉ、マジか! ……こりゃ今日のスタウトのペースも上がりそうだぜ……!」
ちゃんと身体を拭いて、先ほどの部屋着を着こみ、改めて居丈夫を歓迎する青年。
――――自分の身体の事を知っても、全く動じずに受け入れてくれた者は、数少ない。居丈夫はその1人だった。
あらかじめ用意しておいた酒の肴を見せると、居丈夫は嬉々として持ちこんだ酒の栓を空ける。
「……うん、やっぱこの食感が良い酒肴だよな! お前、少し腕あげたんじゃねぇか?」
「それは、流石に君の勘違いじゃないか? 手前としては、久しぶりで勝手が違ってたんだがね……」
「へっ、じゃあ怪我の功名って事じゃねぇか?」
「……それはそれで、少し癪に障る気もするけど……」
豪快に酒のペースを上げていく居丈夫に合わせ、青年も酒こそ飲まないが付き合う。
――――こんな風に、互いに飾らず楽しめるのは、あの日から何も変わっていなかった。妙に馬が合ったのだ。
「まぁ、本当なら君の飲酒癖も戒めたいところだけど……今日は野暮を言うでもないか……」
「何言ってやがる、わざわざこんなもんまで用意してくれやがって……俺に飲ませる気満々じゃねぇか!」
「……手前が作りたかったってだけで、君に酒を進めている訳じゃないんだよ……分かるかい?」
――――こんな日々も、いつかは失われてしまう。それは今の青年には良く分かる事だった。
どんな幸せも、いずれは失われる。その代わりに訪れるのは、生き地獄の苦しみかもしれない。あるいは、死と言う名の終局かもしれない。
それは、人として生きている限り――――否、この世に存在するものである限り、逃れられない定めだ。
だが、それを受け入れる事は、容易な事ではない。だからこそ、努力してそれを受け入れなければならないのだ。
平穏の果てに、真の救済はある。心が救われうるのは、平穏の中にしかあり得ない。
それが、青年が『先生』の下で学んだ、最大の事だったと言っても良い。それを言えば、こうして居丈夫と馬鹿騒ぎしている事も良くは無いのだが――――。
「……そうだな。今日ばかりは無粋を言っても仕方がない……手前も、精々楽しむとしよう……」
それも悪くないと思っている自分がいる。居丈夫との空気は、何をするでもなくぴったりと合う。それはそれで、貴重な絆だ。
矜持に一時目を逸らしてでも、青年はこの居丈夫と共に居る事を臨もう。
――――無情な夕日も今は沈み、優しい夜が待っていた。
最終更新:2013年07月28日 13:58