――――ひとことで言えば、胡散臭い奴だった。
均整な目鼻立ちは大人すぎず幼すぎない印象で、その肌は白磁のように透徹。ふと細められる宝石のような瞳が、この世界を珍しそうに覗いていた。
その挙措はまるで空間に白い筋を引いていくようで、新雪を撫でるみたいに柔らかくて麗しい。
やがてその指がゆったりと動き出し、先生から手渡されたチョークを礼儀正しく受け取ると、目の前の黒板へ本当に白い筋を引いていった。もはや言うまでもなく綺麗な字だ。直線を引けば男らしい力強さがあり、曲線を引けば女性のような丸みを帯びる。チョークの減り幅すらも、作為されたように美しい。
最後に、かたん、というチョークを置く音が、彼の背中に心奪われていた観客達を現実に引き戻す。滑らかな髪をふわりと靡かせて、振り返る。
自身を示す記号が心地よい響きと共に空気中へ送り出され、彼は薔薇でも咲かすような笑みを浮かべた。
「皆さん、今日からよろしくお願いします」
当然のようにその声もまた、脳髄を蕩かせるような甘美な響きであって――――あぁ、うん、無意味。いい加減説明するのが面倒くさいので割愛する。
もちろん、その脳髄を液状化させられた有象無象の女子の中に私は含まれてはいない。だってそいつは、どこまでも胡散臭い奴だったからだ。
花畑の中にでもいるような笑顔は確かに悔しいほど綺麗だが、そんなものは童話の中ででもやれという話。単なる高校のクラスメイトに向けるには、あまりにも分不相応な表情だ。
綺麗過ぎて、隙がなさ過ぎて――――胡散臭い。もっと言えば、気持ち悪い。まるで私のその感情を見透かすかのようにこちらへ向けられた、優しげな瞳などが特に。
「うん、よろしくね。困ったことがあったら先生か、クラスのみんなに何でも聞くのよ?」
「はい、ありがとうございます。何分この国に来たばかりで勝手もわかりませんので、色々と頼らせて頂きますね」
にこりと向ける笑顔が満開に咲き乱れ、クラス中が沸く。転校生に向けて質問が飛び交い、彼は丁寧にそれに答える。先生はとても微笑ましそうにその光景を眺めている。
誰がどう見ても、順風満帆な転校初日の光景だ。それは彼と同じくらいに綺麗で、同じくらいに隙がない。その顔に浮かぶ僅かばかりの不安すら、予定調和のように思えた。
何故私は、こんなことを思うのだろう。転校生だなんて直前まで露ほども気にしていなかった。どんな人間であろうと、私には関係なかったはずだったのに。
――――違和感。それが何なのかは掴めないけれど、とにかく違和感としか言いようがないものを、私の直感は彼の一挙手一投足からひしひしと感じ取っていた。
「キミは、幸徳井佳乃さん…………で合ってるかな? 今日から隣の席だけど、よろしくね」
「…………、………………ふん」
もっとも。
差し迫る現実は、そんな根拠不明出所不明の杞憂なんて気にしていられるほどのんきには進んでいなかったことを、私は隣の席に座った気配で感じ取ることになる。
淡い陽光のような視線。桃色の声色。私は動揺を悟られないように、首を固定したまま出来るだけ冷淡に鼻を鳴らす。冷や水をぶちまけられてもなお、その笑顔は全く曇らなかった。
違和感。違和感。違和感――――その笑顔、その態度から、一際強い違和感を感じる。不快感ではないが、愉快な感じでも決してない。何なのだろうか、これは。
とにかく、このままでは彼と目を合わせることも出来ない。私はひたすら考えを巡らせ、ようやくその違和感の一部分だけを発見して、どうにか自分を納得させた。
そういえば、私の幸徳井(かでい)という難読にも程がある苗字を一発で読めたのは、この学校に入学して以来彼が始めてだったな――――と。
その発見が果たしてどういう意味合いを持つものであったのか、私がそれに気づいたのは、全てが厄介な方向へ転がり出してからだった。
「幸徳井さん、また一人で食べてるのかい? よかったらボクと一緒に食べようよ」
「幸徳井さん、今度の宿題難しいよね。ノート貸そうか?」
「幸徳井さん、暇してるみたいだね。できれば、この仕事をお願いできないかな?」
「……………………はぁ…………」
具体的に言うと、こういうことになってからだった。
私は、この学校では不良ということになっている。特に何かをした心当たりもなくて、ただ素のままでいたらいつの間にか遠巻きにされていただけだ。
まぁ、気持ちはわからなくもない。このレイリスフィード学園では〝能力〟というものは禁忌であって、必然的に〝武力〟と接する機会も少ない。その点私は、生意気だとか言って絡んできたチンピラ集団を蹴散らしたり、ちょっとだけやんちゃして学校の制服のまま武闘大会に出場してみたり、そっちの世界に浸りきりだ。
みんな、私が怖いようだった。入学から三年半、先輩後輩はもちろん同級生も、果ては先生に至るまで、いつしか私の傍には人の姿がなくなっていた。かといって寂しいと思ったことも、ないけれど。
とにかくそういうわけで、この学園内に私の友達はひとりもいない。友情すらもまともに知らない私に――――恋だの愛だの、そういう機微がわかるわけがないのだ。
何度か告白されたこともあったけれど、普段通りにしているとやっぱり勝手に怖気づいて逃げていく。最初の頃は結構真剣に返事を考えたりしていたのに、馬鹿らしくなってすぐにやめてしまった。
…………だから、逆に。その必勝法(何もしていないけれど)が通用しない場合、私にはただ冷淡にするぐらいしか打つ手がない。そしてそれが彼に通用しないことは、転校初日に証明されていた。
つまるところ、万事休す。いっそぶん殴って終わりにしたいぐらいだけれど、さすがそれは気が引ける。
更に悪いことに、敵はやたらとずる賢い。あの転校日から一瞬にして人気者にのし上がった彼には人脈があって、そこには有り余るほど情報が転がっている。私がお弁当をどこで食べているのかも、私が明日提出の宿題にまだ手をつけていないことも、私が学園祭の準備をこっそりサボろうとしていたことも、彼は瞬く間に知ることが出来るのだ。
この私が、幸徳井佳乃が――――追い詰められている。
自分と同じような〝武人〟と語り合うのは楽しいが、それ以外の人間、特にこのレイリスフィード学園の軟弱な生徒たちと積極的に係わり合いになる気はない。入学してからこっち、ずっとそのスタンスでやってきて人を寄せ付けなかった私が、いまやたった一人の転校生相手に水際のラインまで追い込まれつつあった。
何度冷たくあしらってもまったく諦める気配がない。どころか、こちらの情報を的確に掴んでより断りづらい手法で取り入ってくる。これが戦の世であれば、彼は間違いなく策士と呼ばれていただろう。
「――――そろそろ学園祭の期日も近づいてきています。
準備等で一般の方と打ち合わせをすることもあるかと思いますが、皆さん、くれぐれも我が校の生徒として恥ずかしくない行動を――――」
そして、いまこの時も。全校集会だなんて面倒なもの、私は一度たりとも真面目に聞いたことなんて無かったというのに…………壇上で小うるさい演説を行う生徒会長の横に、たったの二ヶ月で生徒会役員にまで上りつめた彼の姿がある。その双眸がばっちりこちらを捉えているように見えるのは、多分気のせいではない。
表面上だけ真面目を装いつつ、心の中で深く深く嘆息する。例の違和感の正体も相変わらず掴めないまま、私の精神力だけが日に日に削り取られてゆく…………。
彼が転校してきてから、そろそろ三ヶ月。私が彼のアプローチをかわすのにもそろそろ限界が来ていた、ある日の事だ。
学園祭の準備もいよいよ終盤といった頃だった。もはや誰もが認めるクラスの中心人物となった彼を主導に、私にもいくつかの仕事があてがわれていた。
そして今日頼まれたのは、小道具の着色に使う絵の具を美術室から調達してくるという、ごく簡単な仕事だった。彼の差し金で一緒に付いてくることになった女子生徒がいたのだが、彼女は何故だか顔を真っ赤にして緊張した様子で、美術室に着いて私がひとこと声を掛けた瞬間、緊張が許容量を超えたのか涙ぐんで逃げ出してしまった。
私と一緒と聞くと大抵の人間は怯えたり嫌そうな顔をしたりするのだが、たまにああして熱っぽい視線を送ってくる手合いもいる。不良に憧れる女子生徒とか、女子が女子に送るラブレターとか、そういうのは漫画の中だけにしてもらいたい。いやもう、本当に…………。
私は眉根を思い切り顰めた表情のまま、頼まれた道具を乱雑に袋へ突っ込む。それは全部合わせても小指一本で持てるほどの重さしかなく、そこからまた彼の優しさが滲み出ている気がして、更に気が滅入ってきた。
…………もういい。あの子が逃げてくれたお陰で、多少時間が掛かっても何も言われないはずだ。ここで少し休んでいこう。
私は袋を机の上に放り捨てると、椅子に座って大きく溜息をつく。夕暮れ時のこの時間、美術部の連中もクラスごとの出し物の方に掛かりきりの筈だし、美術室に用がある人間なんてそうはいないだろう。
これで久々に、ひとりになれる――――――と。その瞬間、がらりと無慈悲に扉が開いた。
「失礼します、生徒会の…………って痛ぁ!? ちょっと佳乃、いきなり蹴りかからないでよ!」
「…………何で来るのよ。最悪だわ…………」
私はそいつの脛にねじ込んだつま先を元に戻すと、思い切り悪態を付きながらふらふらと椅子に戻って、倒れ込むように座り直す。本当に最悪のタイミングだ。
痛そうに悲鳴を上げるこの男子生徒は、元々の黒髪を風情のかけらもない茶色に染め上げ、前髪を整髪料で上げた身形のチャラチャラした輩である。男子の癖に百七十にも届かない身長と中学生のような童顔、それに腑抜けた双眸のお陰で人を威圧するような雰囲気はないが、それが一層鼻に付く。
言っておくが、「私に友達はいない」という前言に嘘はない。そこにいるのは友達でもなければもちろん恋人でもなく、私の幼馴染だ。まあ、それなりに長い間一緒にいる腐れ縁みたいなもので、この学園で私と対等に話せる唯一の人間でもある。
何でここにいるのさ、という問いに、私は何でもいいでしょと適当に返す。家に帰れば嫌でも顔を合わせることになる相手と、よりにもよってどうしてこの疲れている時に話さないといけないのか。
というかそっちこそ、何でここに来たのよ。私がぶっきらぼうにそう言い放つと、そいつは一瞬言い淀んだが…………私が蹴りの構えに入ると観念して答えた。
「生徒会の仕事の一環で、ちょっと話を聞きに来たんだよ。
実はこの間の夜、美術部の子が友達に頼まれて部室棟に忘れ物を取りに行ったらしいんだけど、そこで何か不気味な唸り声を聞いたって騒ぎになっててさ」
「…………唸り声ですって?」
こいつは私と同じ一年生だが、私とは真逆に誰とでも仲良くする人間だ。八方美人と罵ってやりたいが、こいつの場合先輩だろうが先生だろうが一度話すだけであっという間に良い関係を築いてしまうので質が悪い。
昔の様子からは、到底考えられないが――――ともかく、こいつは不思議と人に好かれる。
そんなこいつの人脈はとんでもなく広く、どういう縁故なのか知らないが入学当初から生徒会に顔を出して仕事を手伝っていたようで、ついこの間生徒会選挙に立候補するや否や余裕の当選を果たして正式に生徒会入りしていた。元々の人脈の広さが、これで本当に磐石のものになったということだろう。私には理解不能な世界だが。
閑話休題。今回は、その人脈が私にとって得に働いてくれたようだ。
夜の部室棟から、謎の唸り声。〝幽霊〟という言葉を連想せずにはいられなかった。私は選挙の時断固としてこいつには入れなかったが、こういう面白い話をこれからも私に回してくれるのなら悪くない。
私の目が爛々と輝き出したのを見かねてか、そいつは大きく溜息をつくと、表情をいつもの苦笑いに変えて――――仕方ないなぁ、という口癖を言い放つ。
私は…………それが、好きではなかった。いくらやめろと言っても、すっかり体に染み付いているようで一向に直す気配がない。そういう、摺れた大人のような仕草をやめてくれれば、少しは態度を変えてもいいのだけれど。
まぁ、結局のところ。私たちはいつも通りなのだった。睨む私の視線を軽く受け流して、そいつは幽霊騒ぎの詳細を話し始める。
――――ただ、その時の〝いつも通り〟は、長くは続かなかった。
がらりと、無慈悲に扉が開く。
「おいおい、女の子にそういう話をするのは、あんまり感心しないなぁ」
その時の私の表情は、流石に女として省みるべきものだったかもしれない。
あぁ、最悪…………最悪だ。美術室の入り口に、柔和な口調で微笑みかけてくる美少年がいた。あの転校生の姿が、そこにはあった。
「うーん、ぼくとしてもそうしたかったんだけどね。こうなった佳乃はもう何を言っても聞いてくれないんだ。話さないと殺されちゃうよ」
「ごめんごめん、軽い冗談さ。ボクも幸徳井さんの性格は知ってるし、学園内でも一、二ってくらい強い彼女がそう簡単にやられるわけないしね。
――――それに、こんな美人に頼まれたらボクだって断れないよ」
「ははっ、正直言うとそれもあるよ。いくら見慣れた幼馴染とはいえ、佳乃ぐらい綺麗だと時々困っちゃうんだよね」
…………な、何か、当人の隣でとんでもない会話が繰り広げられている気がするのだけれど。こういう場合、どういう顔をするのが正解なのかしら…………。
目を白黒させる私をよそに、二人は楽しそうに会話を続ける。というかいくらなんでも話が弾みすぎている気がした。クラスが違うので普段話している姿こそ見かけないが、考えてみればこの二人、同時期に生徒会入りしたという縁もある。どちらも穏やかで人当たりのいい性格だし、確かに馬が合いそうだ。
しかしまあ、これは予想以上に困った事態になっているのかもしれない。
実はこの幼馴染、不可思議だが結構女子に人気がある。災難なことに、少しそれに近しいというだけでお門違いな嫉妬が私に向くこともあるのだが、そこへ来て今回の転校生の件。いつものことだと思って気にしていなかったけれど、いま思い返すと明らかに、やっかみの視線の量は増えていた気がする…………。
ということはこれからずっと、あの気苦労が二倍になるのか――――ああ、ますます最悪な気分になってきた。これ以上二人の会話をここで聞き続けていても気まずいだけだし、憂さ晴らしも兼ねてとっとと部室棟へ行ってしまいたい。
多分彼は、私の帰りが遅いから様子を見に来たのだろう。だったら仕事を終わらせさえすれば文句はないはずだ。私は絵の具類を詰めた袋を手に取ると、すぐさま席を立って美術室の出口へと向かった。
「…………今日の仕事はこれだけだったわね。私はもう行くわ」
「あ、うん。それを教室に届けてくれれば大丈夫だよ。ありがとう、幸徳井さん。それじゃあ頑張ってね」
「佳乃、わかってると思うけど気をつけなよ。それとあんまり遅くならないこと!」
すれ違いざまに私が小さく発した言葉を、彼は耳聡く拾って笑いかけてくる。屈託のない優しい笑みも耳を擽る甘い声もすべてを一様に無視して、私は早足で歩き出す。そんな私の背中へ追撃のようにあいつのお小言が突き刺さる。敵ながら見事なコンビネーション。
方向性こそ真逆だが、しかし押し並べて私の心をすり減らす言葉の数々――――ああ、何だかもう、無性に腹が立ってきた。
私の心を煩わせてやまない二人の同級生へ、私は最後に一度振り返って、いかなる妖魔でも尻尾を巻いて逃げ出すぐらいの気迫でもって思い切り睨みつけてやる。
そのつもりだった。
「…………? どうかしたの、幸徳井さん?」
「どうしたのさ佳乃、そんなに驚いちゃって?」
――――あ、と。私はそんな間抜けな声すら上げて、瞠目してしまっていた。
すとんと腑に落ちた。並んで立つ二人の姿を見た瞬間、私がこの転校生からずっと感じていた違和感が、音を立てて氷解した。
・・・・
似ている。
きょとんとして右側に立つ転校生と、不思議そうに小首を傾げて左側に立つ私の幼馴染は、似ていた。似すぎている程に。
背格好が似ている。顔立ちや柔和な瞳が似ている。もっとも左の奴はそこまで綺麗ではないけれど、そういうことじゃない、外見の話じゃない。
なぜ気づかなかったのだろう。思えば、転校生の強引な切り口。あれは私とあいつが長年してきた会話にそっくりだった。こっちがどれだけ怒ろうが罵ろうがどこ吹く風で、懲りることも悪びれることもなく話しかけてくるやりづらい手法。私はそれのせいで未だに口で幼馴染に勝ったことがないし、それのせいで転校生からのアプローチを振り切れずにいるんじゃなかったのか。
こうして隣同士に並ぶと、よく分かる。雰囲気とか、気風とか、そういうものが――――この二人は、双子のように酷似している。
女の勘なんて言うととてつもなく陳腐だけれど、そうとしか言いようがないところで、私には二人の色合いがどうしようもなく一致している気がしてならなかった。
いつも隣にあった匂いが、別の場所からも漂っている。それが、私がずっと感じていた違和感の正体だったのだろう。
だから何だ、と言われればそれまでだ。二人がどれだけ似ていようがいまいが、私には何の不都合もない。私には、関係ない。
けれど、何故だろう。これが、私の中に流れる〝神の力〟が齎す啓示なのか、それともやっぱり女の勘なんて下らないものによる邪推であるのか、それはわからないが。
ひたすらに胡散臭くて、ひたすらに気持ち悪い。それはまるで、何か悪いことの前触れみたいに――――どうしようもなく、不気味に思えた。
「…………………何でもないわ。じゃあね」
私は二人の返答を待たず、すぐさま踵を返して早足で歩き出す。これ以上、この場にいたくなかった。
敵が妖魔の類であれば、私は絶対に逃げない。例え凶刃を振りかざす悪人であっても、私は立ち向かって打倒するだろう。けれどいま、胸中に渦巻く何か冷たくて大きな流れのようなものを前に…………私は、逃げる他に術を持たなかった。
早く教室へ行こう。そこで荷物を預けたら、すぐに部室棟へ向かおう。その唸り声とやらが妖魔の仕業であるかどうかを確かめなければならない。それが人に害を成すものであれば、私には退魔師として打ち祓う義務があるのだから。
ああ、そうだ。それが終わったら、少し愚痴を聞いて貰うのもいいかもしれない。幸い、学校の外であれば友達がいないわけでもない。あの寂れた教会へ、久々に顔を出しに行ってみるのもいいかもしれない。突飛な考えだが、それは存外いいアイデアであるように思えた。
――――私はそうして言い訳のように自分に言い聞かせ、右手の荷物の軽さに必死に耐えながら、早足で教室へと向かっていくのだった。
いま思い返せば、この後部室棟へ行った先で起きた事が、その冷たくて大きな流れの最初の一幕だったのかも知れなかった。
学園内に浸透していた〝GIFT〟の刺客。水面下で牙を剥いた悪意の中で私が得たものは、小さな忍者の知り合いと、二人の同志と――――知らず植えつけられていた邪悪の芽に対する、漠然とした恐怖。
その日私は、学園という私たちの小さな世界に、いびつな亀裂が走る音を聞いたのだった。
しばらくして、学園から数名の不良が消え去り、ひとりの転校生が追放された。不良たちは突如として自主退学し、転校生は書類の不備で転校そのものが取り消しになったらしい。真実を知らない生徒たちには、表向きそのように公表されている。
けれど、私は知っている。その裏に、血塗れた大人の世界があることを。黒々と渦巻く、混沌があることを。
私たちの世界に内側からヒビを入れ、闇の中へと去っていった者の名は、マリオン・リヴァーズ――――転校生として学園に潜り込み、内部から生徒を誘惑して仲間に引き入れたGIFT構成員。学園の巡察に入った自警団の調査隊を卑劣な策略で皆殺しにしようとした、まさしく悪の権化のような男。
蒸発してしまった不良とその家族共々、現在も自警団や警察が痕跡を追っているそうだが、その行方は未だ杳として知れないそうだ。
「…………あいつもそうなんじゃないでしょうね」
「ちょっと佳乃、流石に失礼だって…………あぁ、ごめんごめん! 何でもないんだよ、ははは…………」
そいつは表向き、クラスの人気者であったらしい。別のクラスの子たちの中には、あまりに突然すぎる別離に号泣するものもいたそうだ。
思わず疑いの目を向けた私を、こいつは生意気にも諫めようとする。事の真相を知っている生徒は学園内でも私とこの幼馴染だけなので、当人に私の視線の意図が伝わるわけがないのに。
…………ただ、それは確かに失策だったようだ。彼はその視線を会話のきっかけと受け取ってしまったらしく、綺麗な水色の髪を靡かせてこちらに近づいてくる。私が露骨にしまったという顔をしても、相変わらずお構いなしだ。
とはいえ、彼と話すのも久々だった。私とこいつと彼が美術室で一堂に介したあの日以来、私が去った後に二人が何を話したのかは知らないが、彼のアプローチは少し落ち着いている。助かりはしたけれど、こいつにまた借りを作ったと思うと気が重い。
八つ当たり気味にじろりと真横を睨んでやると、また例の口癖が飛び出して私の神経を逆撫でする。帰ったらまた模擬戦に付き合わせてやるから覚悟しなさいよ。
こうしてすべてはいつも通り。ヒビの入った世界の中を、日常が廻ってゆく。
幼馴染の鳴子一颯と、転校生のリチャード・トラヴィスを否が応にも隣に置いたまま、私の〝いま〟は続いていく。
いつかまた、がらりと無慈悲に扉が開かれる日が――――がらりと世界の全てが崩れるその日が、訪れるまでは。