『―――神よ。』
『俺は……今までアンタに祈った事なんて、一度もない。』
『やり方も……よくわかっちゃいないし、此処には神父だっていない。けどどうか―――』
『―――どうか、この懺悔を聞いてくれ、神よ。』
『なあ―――こんな世界を、こんな時代を、一体誰が愛せるっていうんだ?』
『……愛せる筈がない。そうだろう? 少なくとも、俺には無理だろう。』
『だがこの娘には、彼女にだけは、どうか愛して欲しい。どうか、諦めないで欲しいんだ。』
『……ああ。わかってるさ。そう願うのは、きっと残酷だろう。』
『―――それでも、俺は……』
プロローグ
季節は丁度、夏が過ぎた頃だっただろうか。
山々はその姿を緑色から紅黄色へとゆっくり変化させていき、この国ではあまり見られない
所謂"紅葉"と呼ばれる、草木が短くも美しい景観を織りなす時期に入ろうとしていた。
元来、荒涼とした土地が多いこの地では、僅かばかりの山岳が国の端に広がっているだけであり
緋色に染まりかけてきた木々の景観も、短い季節と相まって非常に貴重な物となっていた。
そも、この国は枯れていた。乾燥した大地、砂漠とまではいかずとも、荒野とでも呼ぶのが相応しい様な
殺風景で寂しさを醸し出す光景が地平の果てまで広がった、途方もない大きさの国土。
しかして、そんな大地の上にも人々は営みを築いていた。
農作や酪農を行う上で必要となる、豊かな土壌や多くの技術者に恵まれた周辺諸外国に比べ、
生産力という点では大きく劣る国ではあったが、
巨大な国土に見合った大型の鉱山や油田資源、化石燃料等の巨大産出地を多数抱えており、それらの天然資源を採掘する為に
多くの移民と事業団体が訪れる事で、国全体がこの膨大な世界における一種の『開拓地』と化していたのだ。
ゴールド・ラッシュを夢見る開拓者、新たな油田を求めて採掘を続ける冒険者、時折発掘される太古の"竜"の化石にロマンを馳せる学者。
いつしか彼らの弛まぬ努力が実り、荒野には町が生まれ、人の息吹が根付き、そうしてこの国はゆっくりゆっくりと、
まるで大きな渓谷が年月を経て浸食され荘厳な姿を成していく様に、長い時間をかけて発展を遂げたのであった。
だが、そんな長く、逞しい歴史を持つ故だろうか。
国土の一部には現代の思想に照らし合わせると、原始的で無慈悲、そして非人道的な風習が未だに色濃く残っている地も存在した。
新たに設けられた政府の法律も、それを司る保安官達の眼も、そして人間が本来持ち得る筈の優しさという物すらも
善意という善意の何もかもが届かない、そんな閉鎖された村々も確かに、確かに存在していたのだった。
決して全ての町でそのような事が行われていた訳では、ない。しかし来る物を拒まず、去る物を追わない
この土地の居心地の良さと、広すぎて法の力が届かない広大さを利用して、悪しき人々もまた、静かな発展を遂げていたのだった。
その村に、名前は無かった。
名前など持つ必要が無かったのだ。
誰もこの村の事を知らなくて良いし、知った所で何が出来る訳でもない。
そしてその村に住む人々にも―――否、正確にはそこに『閉じ込められた』人々にも
同様に、まったく同様に、名前と言う物は存在していなかった。
自分の済んでいる場所がどこなのか、そんな事すらも分からない彼等が名前を持つ必要など無い。
そう判断されたからだ。
代わりに、彼らの首元にはこの地で採掘できる安価な鉄で出来た首輪と、手錠と、そして
それらに刻まれたナンバーが存在していた。『1』とか『200』とか、『45』だとか
そんな風に刻印された数字だけが彼等のアイデンティティであり、彼等が産みの親から授けられた
真名を口にする事も、口にされる事も絶対に無かった。多くは名付ける事を許されてすらいなかった。
名前の無い『彼等』の起源は、どうやら開拓が進むよりも前からずっと、この地に住んでいた原住の人間達であると言われている。
元々彼等には彼等の文化があって、村にも人にもきちんとした名前が、誇りが存在していた時期が確かにあったようだ。
しかしそれらは全て、ある変革によって大きく崩れ去ってしまう。そう、『開拓者』達の来訪である。
人種において開拓者たちと差があったのかどうかは不明であるが、少なくとも彼等<原住民>と開拓者達の間には
文明だとか、科学だとか、そういった類の抗い難い明確な『差』があったのは確かなようだった。
決して、開拓者の存在自体が珍しかった訳ではない。前述の通り、この国は数多の開拓者達によって発展を遂げてきた歴史を持つ。
そういった中で、生産力に乏しいこの地に原住していた者たちと、文明を盾に新たな土地を求めて旅してきた者達との
衝突やいざこざは数え切れないほどあったという。そしてそれ自体も、世界を見渡せば決して珍しい事ではないのだ。
しかし多くの場合、原住の人々は次第に集落を去っていくか、若しくは発展を喜び自主的に開拓を手伝うか
共に共生する道を探すかして開拓者たちと大きく争う事も無かった様なのだが―――中には、民族浄化とでも呼ぼうか、
反逆する原住の人々を片端から殺害、力を誇示し、開拓その物よりも虐殺紛いの行為を楽しむ為にこの地に足を踏み入れた
そんな邪悪な人間達もいたらしく―――
ここで言われている『名前の無い彼等』とはつまり、そんな傲慢な人間達の犠牲になった原住の民が、最後に辿り着いた姿であった。
名前が無い村、名前の無い人間達。しかし正確にはそうではなく―――何もかもを、『奪われた』というのが真実だった。
やがてその邪悪な人間達は、抵抗すらままならないままただ殺されていく彼等を見て、在る事を思いつく。
『―――ああ、そうだ、こんな奴等は人間じゃあない。』
『労働力とか、ペットとか、そういう"何か"ではあるけれども。』
『人間じゃあないんだ。なら、どう扱っても俺達の勝手じゃないか。』
―――こうして
『名前』も『誇り』も、そして自分が何者であったのかという過去や記憶さえも奪われた人々が
同じ様に名前を奪われた村に閉じ込められ、最後には自由すらも失い、逃げる事も死ぬ事も許されないまま
何処から来たのかもわからない残虐な人間に『支配』されるという、異常な状況が成立した地が
傍目には穏やかで、平和そのものに見えるこの大地の上に、確かに存在していた。
彼等のような『名前の無い者達』を、開拓者―――否、支配者達は纏めて『奴隷』と呼んだ。
奴隷のいる、所謂『支配された村』という物は、この国の最果てに数箇所点在していたと言う。
1つではなく複数個の村でこういった差別行為が行われていた事自体が、もはや国にとっての消し切れない過去の汚点であり
其れ故に蒸し返すことも余り無いのだろう、今となってはこういった話を好んでしたがる者は、余程の変わり者か人権派を気取った
考古学者くらいなものだという。しかし、そもそもこの歴史については大昔、国がまだ未熟だった時期に起きた悲しい事件であり
今現在この国に住む者達が啓蒙を呼びかける必要性も然程無い上、総じて国端の局所で行われたいわば『一部での悪習』
というのが妥当な評価であり、国際的な問題に発展するような大きな社会問題で無いのは確かなようだ。
―――しかし、発端が大昔の話と言えど、その悪習と呼ばれる物が『つい最近』まで
僻地では極僅かながらに残っていたという事実は
この国に詳しい人間でもあまり、知り得ることは無いと言う。
これはそんな僻地に、つい最近まで僅かに残っていた悪習の、犠牲になっていたどこか名前の無い村の、名前の無い人間達の話だ。
『―――い』
『―――おい。何してんだ、寝転んで俺達をバカにしようってか? あァ!?』
罵声が聞こえる。次いで、耳を劈く様な破裂音が荒野に木霊した。
岩々の間で一人の男が倒れている。殴られたからか、それとも背中をムチで引き裂かれたからか
もしくは体力の無い中一日中炎天下の元働かされたが故に衰弱してか―――理由はどれだか分からなかったが。
ともかく、男はボロボロだった。上半身は裸、下半身には襤褸切れのような布を巻いているだけの格好で
彼は地に伏していた。熱い季節が既に終わりを迎えていても、真昼間はまだまだ気温が高い。
そんな中を、休む事すら許されずにただただ、岩を運び、水を汲んで、木材を組み立てる作業だけを続けていれば
疲労が溜まるのも当然のことであって、彼は決して怠けている訳でも、仕事を放棄した訳でもなかった。
それでも彼は、そういう条件の中を止まる事無く働き続けることを『強いられている』状況にいたのだろう。
倒れ伏し、振るえる腕を大地に突いて立ち上がろうとする彼の背を、二度目の破裂音―――ムチによる追撃が襲った。
引っぱたかれた彼の背は血がにじみあがり、皮が滅茶苦茶な方向に裂かれている。もう一度地面に倒れた彼を
三度、四度と鞭が襲った。彼が立ち上がるまで、彼への暴力が止む事は無かった。
周りにも人間はいる。鞭を振るう人間、そしてそれを横目で眺める人間。更に言えば、そんな光景が繰り広げられているにも関わらず
黙々と自分の作業を続けるだけの、無数の男達―――彼等もまた、鞭を振るわれる側の人間であったが、助け船を出す事は無い。
そんな事をすれば、鞭で叩かれる以上の事が待っているのは間違いないからだった。彼等はただ、働く事だけに集中した。
仮に仲間が倒れていようと、助けようものなら次には自分が苦しむ羽目になる。なら、犠牲は一人で済む方が良い。
なにより一旦暴力が始まると、鞭を振るう『彼等』―――残虐な彼等の眼はみんなそこに集中するので
多少なりとも気が楽になる、というのが本音であった。全員がそんな風に考えていた。
名前の無い村で行われる光景は、いつもこの様な様相を呈していた。
鞭を振るう『支配者』達は、名前の無い奴隷たる彼等を、単なる『労働力』程度にしか考えていない。
人間扱い等する筈もなく、ただ酷使して、働かせて働かせて、死んだらまた別の土地から原住民を補充する。
そして数が足りなくなる事が無い様、これは記述するのも反吐が出る程の物だが、支配者達は夜間には只管に奴隷の女たちを犯した。
次世代の奴隷を孕ませて、そうして終わる事の無い邪悪な円環構造を組み上げ、子供のころからずっと奴隷として働かせ続ける。
自分達が何かをする事は無い、ただ指示を出し、ミスが起きれば鞭を振るい、休もうとする者は叩きのめし、遊び半分で誰かを虐待する。
そういった事に関してもう、『罪悪感』であるとか、『罪の意識』だとか言う物は介在していなかった。それが奴隷と支配者の関係だった。
今日もまた、三人程の男が酷い目にあっていた。夜遅くまで作業をし、解放されるのはその後だ。
翌日の朝早くには叩き起こされる為、ゆっくり休む事すらもままならない。それでも彼等は抵抗する事無く、働いた。
当然だ、これは数カ月の間の出来ごとではなく、もう何十年も繰り返されてきた歴史を持つ事なのだ。
彼等奴隷にとってもこういう生活が当たり前で、苦しくとも、生まれながらに奴隷である者も増えた現状では
もはや抗おうと考える者すらも少なくなっていて。誰もが絶望を抱えながら、彼等はずっと死ぬまで働かされる。
夜の数時間、休む事が出来る貴重な時間すらも、彼等にとってはしょせん、一時の夢にも等しく。
そういった環境もあってか、彼等は支配者から与えられる『痛みどめ』だとか『睡眠剤』だとかを
何の疑問も持たずに呑みこみ、そしてやがてはその薬欲しさに自ら働く事を望みだす。
こうして、麻薬と劣悪な環境、絶望的な状況が合わさり奴隷の彼等の抵抗力を完全に奪っているのが、この村の構造だった。
だがしかし、稀にではあるが、逃げ出そうとする者が居たのも確かだ。
鎖を外し、鍛えた肉体で支配者達を殴り倒して、夜中の内に別の村へと逃げ込もうとする奴隷も存在した。
しかし大半はそんな体力等残らないまでに働かされていた上、麻薬漬けで頭がおかしくなった者も多かった為
一斉に逃げ出すと言う事が起こり得なかった事も含め―――結局の所、脱走に成功した者は誰もいなかったという。
そしてなにより、彼等を脱走という発想から遠ざけたのは、逃げ切れなかった場合に捕まった者が、酷い罰を受ける所を見たからだ。
ある者は、片目を抉られた。遠近感がなくなれば、もうどこにも逃げられない、などと支配者たちは言っていた。
ある者は、足の指を全て折られた。屈強な肉体、逃げ出すだけの力があるのならば、これぐらいのハンデが丁度いい、などと言われて。
またある者は、問答無用で殺された。磔にされ、毎日毎日仲間であった奴隷によって、剣を突きさされると言う処刑方法で、だ。
逃げ出したのは連帯責任として、全員が真夜中に叩き起こされ、翌日までずっと働かされる事もあった。
多くはこの連帯責任を恐れ、脱走を忌み嫌った。当然だ、成功する見込みは低く、その上失敗すれば苦痛が待っているのだから。
なにより、彼等は皆諦めていた。自分がそう言う存在である事を受け入れて
働きながら死んでいく事が宿命なのだと、そう思い込み始めていたからだ。諦念こそが彼等にとって最大の敵であった。
と同時に、其れは甘美な響きを持っていた。諦めてしまえば。一度希望を捨てれば。もう苦しむ事も、痛む事もないのだから。
逃げ出そうとする者より、諦める者の方が多い、そんな空気を生み出す事に成功した支配者達は
まさに奴隷制において盤石を築いたと言っても過言では無かった。そう、『あの夜』までは。
『……―――レイン。レイン。なに、みてる?』
その日は雨の夜だった。それも、かなり酷い雨であって。作業を続ける事は愚か、指揮する側にも被害が及ぶ為に
今日は作業を途中で中断した事もあってか、奴隷たちは余り疲れ果てていなかった。
遠くで雷が唸る声が聞こえる。暴風雨と呼んでもいいだろう、彼等は施錠された掘立小屋の中で
寒さに耐えながら時折聞こえる雷鳴と、稲光に怯えていた。
『―――……ほうっておけ。レインは、雨が好きなんだ。だから、レインなんだ。』
稲光が薄暗い小屋の中を照らす。馬小屋の様な大きさの中に、拾数人がぎゅうぎゅう詰めにされた様子がぼう、と浮かぶ。
そんな中で、一人の少女がじっと、小屋の窓から外を眺めていた。彼女は小さかったが、長い金髪を持った美しい娘だった。
勿論、泥で滅茶苦茶に汚れた身体をしていたし、爪の間には砂が大量に詰まっていて、髪もボサボサであったのに違いは無いが
それでも、彼女は綺麗な瞳をしていた。奴隷の中では良く目立つ、珍しい少女であった。
彼女は何も喋らなかった。同年代の子が話しかけようと、一切それにこたえる事は無い。言葉を知らないのだろうか。
そう言う訳では無い様だが、奴隷に生まれ奴隷に育った彼女は、夜に窓の外を眺める事以外、自分を表現する術を持たなかった。
だが話す事は無くとも、晴れの夜も雪の夜も雨の夜も、変わらずにじっと外を眺める彼女は、奴隷の中でも浮いていた。
そんな様が却って特徴的だったのだろうか、仲間達からは『レイン<雨>』と、シンプルな名前で呼ばれていた。
勿論、そんな事は滅多になかった。奴隷たちは命名の術を失っていただのから。仮に名前など付けようものなら
支配者達にそれが見つかろうものなら、きっと怒られるだろう事は分かり切っていたのだから。
それでも、誰かが呼んだのが切っ掛けだったのだろう。変わった奴隷の少女は、『レイン』と呼ばれていた。
思えば、これもまた一つの変化だったのかもしれない。稲光が再び、小屋の内側を照らす。
金髪が其れに反射して、美しくもどこか妖しい、不気味な輝きを放っていた。
だからこの雨の夜も、ずっと窓の外を流れる水滴を、大空の涙を眺めていた彼女だけが、気づけたのかもしれない。
どんどん、雷が近づいて来ていて。そして、雨の勢いが増していて。なにより、近くの森が―――『紅く』なっていたのを。
紅蓮がゆっくりと広がっていく。空から降る水の勢いよりもむしろ、強く強く、広がっていく。やがてそれは、熱を帯び始めた。
そうして何度目かの雷光の後―――雷が、森の木を撃つ。熱が木々を燃やし、枯始めていた葉を着火剤代わりにし、どんどん広がった。
そしてその燃え盛る紅蓮を見た少女が―――レインが、ゆっくりと窓辺から離れた。何故だかは、わからない。
彼女が何か特殊な力―――例えば"雷"を察知できる超常的な力だとか―――を持っていたのかどうか
それは定かせはないが―――その時、確かにそれは起きてしまう。
木製の小屋の屋根に、強烈な電光が奔る。落雷だ。雷が小屋を貫き、そして其処にもまた、巨大な火の手があがった。
近くの森と同様、火の手が広がり始めて直ぐ、バチバチと音を立て小屋の木々が崩れる。
中にいては、一溜まりもない。誰かがそう判断したのだろう。一人の奴隷が崩れた屋根の跡から、飛び出した。
―――そしてそれを切っ掛けに、大勢が一斉に飛び出し。
その夜、かつてない規模での、『脱走』が起こった。
小屋の崩壊に支配者達が気付いたのは、奴隷が一斉に飛び出していく様を見つけた、その直後だった。
仕事も早々に切り上げていた彼等は、昼間からたらふく酒を飲んでいて。それが災いしたのか、追手の速度は遅く。
馬による追跡も、一部の奴隷を捕まえるだけに留まってしまった。つまり、この事件で拾人以上の奴隷が、脱走に成功したのだった。
『―――……ああ、わかってる。勿論そのつもりだが無茶はするなよ? ドレイク。今夜はこの雨だ。』
『雷も彼方此方に落ちているだろうし、下手すりゃな、電話だって停電でつかえなくなるかもしれな……』
ブツ。そんな音と共に、電話が切れた。同時に、電気が消えて視界には闇が残った。
『ほらみろ、やっぱりな。』―――そんな事を呟きながら、"彼"は溜息と共に家の外へと出た。
恐らく、落雷の影響だろう。電話中だった為に良く聞こえなかったが、近くに雷が落ちたのだ。
停電は苦手だった。暗いのは慣れていても、唐突に電気が消えたり、レンジが使えなくなったりするのは
とても不便だし、なにより雨の中外に出てブレーカーを弄り直すのが大嫌いだった。彼は家の裏へと回った。
『……ドレイクめ。俺の忠告を聞いていれば良いが……ん?』
男の背は大きかった。190cmはあろうか、かなりの大男と言えた。しかもただ背が高いと言う訳ではない。
太く逞しい腕や脚には良く締まった筋肉がつき、さながらボディー・ビルダーのような体系であった。
厚いコートに身を包んでは居るものの、後姿だけでも普通の人間ではないとハッキリ分かる巨大な肉体。
ブレーカーを勢いよく上げて、電源を復活させる大男の顔が、灯りの戻ったライトによって照らしだされる。
顔の中央を走る巨大な傷跡。顔中に刻まれた皺、そして濃い髭。齢は50をすでに超えていようか、そんな印象を与えるだろう。
この年齢にしてこの屈強さ―――歳の衰えを感じさせない、威厳のある風格。表情は硬く、そして眼光は鷲の様に鋭い。
どう見ても一般人ではないと分かる傷跡を光に浮かび上がらせながら、大男は視界の隅に何かを見つけた。
ライトが浮かび上がらせたのは男の肉体だけではなかったのだ。其処に居たのは小柄で、今にも消えてしまいそうな
小さな体躯の"誰か"―――特徴的なのは、長く美しい、去れど手入れがされているとは思えない金髪、だろうか。
少女と思わしき"何か"が、家の裏、ブレーカーの傍に倒れ伏していた。男は眼を見開き、その小さな誰かに、近づいて行った。
『……おいおい、何の冗談だ?』
家出、だろうか。いや、とても家出をするような年齢には見えない。なにより、この天候だ。
親と喧嘩をしたにしても、外に出るより部屋に籠るのが正しい対応だ。勿論決めつけるのは良くないが、
こんなタイミングで家出した少女が、まさか自分の、周囲には『偏屈』で有名な自分の家の裏に倒れている事等あるだろうか。
いや、ある筈が無い。とすれば、この少女は何者か。ともかくこのままではまずいだろうと考え、彼は雷光が天を貫く中
少女の肉体をひょい、と抱え上げて、そのまま部屋の中へと戻って行った。
『……停電だけでも、厄介だっていうのに。』
子供嫌いで通っている自分の元へ、まさか小さな娘が来るとは。何が起きたのかは分からないが
雨でずぶ濡れになっている彼女をまずは温めようと、ソファに寝かせてタオルを取りに浴室へ向かった。
大きな身体がせかせかと動く様は、少々不器用で、慣れていない事態に戸惑いを隠せない様子がありありと出ているが
ぶつぶつと小言を言いながらタオルで少女を拭こうとした、その時。彼はその様子が『異様』である事に気が付く。
いや、家の裏で倒れている時点で異様なのは間違いないが、それにしても、という印象だ。
まず、爪が異常な程汚れている。何をどうしたらこうなるのか、砂遊びで汚れた物とは思えない。
身体も泥だらけだし、靴すら履いていない、いやそればかりか服装だって―――これを服装と、呼んで良いのだろうか。
そう思ってしまう程にぐちゃぐちゃで、襤褸切れの様な布を纏っているだけの少女。やせ細り、栄養も足りている様には見えない。
暗い家の裏では良く分からなかったが、電気の復活した屋内に照らし出された少女はさながら、ホラー映画の幽霊にも見える程で
他人とは言えとても見過ごせるものではなく―――彼は夏の間使っていなかった暖炉に火を起こし、慌てて部屋を暖めた。
すぐに風呂を沸かし直して、電話を取る。繋ぐ先は勿論、警察だ。何らかの事件に巻き込まれた存在であろう事は、想像に容易い。
しかし電話線はまだ復活していないのだろうか、電話が繋がる事は無かった。チッ、と舌打ちをした彼は少女を暖める事に専念し
直ぐ様服を脱がして、風呂へと運ぶ。シャワーで泥を流し、石鹸で髪の毛を丁寧に洗ってやる間も、少女が目覚める事は無い。
脈があるのは確認済みだが、どうも気絶している様だ。それも極度の疲労と衰弱故にそうなったと考えるのが妥当だった。
どうしてこんな事に、と想いながらも、彼は少女の身体を丁寧に扱う。何かあれば、自分も面倒な事に成りかねないのだから。
しかし家にあるのはパンとコーヒーだけで、まともに栄養をとれそうな何かは無かった為、嫌そうに外を見つめながらも
意を決したように少女を馬車へと乗せ、街へ向かって暴風雨の中駆けた。向かう先は、矢張り病院だ。
男の家は街から遠く離れていた。片田舎と、そう呼ぶのが相応しい様な緑の深い土地。
静かで、誰も邪魔する事の無い平和な土地に男は居を構えていた。彼は煩わしい生活が嫌いだったのだ。
だからわざと喧騒からは離れる様に国土の端に家を建てたし、誰も訪ねてくる事は無かったけれど、それで彼は良かった。
偶に仕事をこなし、普段は野菜を育てて、川で魚を釣って過ごす。そんな自由で、開放的な生活に長らく憧れていた事もあり
彼はその田舎での時間を大切にしていた。最も、こうしてけが人が出てきた場合は話が別だ。
頼れるような病院は近くに無いし、隣接住民もそう沢山はいない。一番近い街だって、酒場と射撃場くらいしかないような
そんな寂れた場所に住んでいたのだ。男は自分が怪我する事は無いと思っていたし、事実その通りに健康に過ごせていた為
そんな些細な事を気にした事は無かったが―――こうなってくると、慌てるのも頷けるだろう。ともかく、馬車は街へ向かって走った。
寂れた町にも一つだけ、大きな病院が存在する。と言っても、最新設備に溢れた大病院からは程遠い、普通の病院であった。
それも深夜の診察には対応して貰えるかどうか、そこの所も不鮮明であったが―――彼はそれでも、奔った。
なんとなく、ではあるが。少女を放っておけないと言う気持ちが、彼にはあったのかもしれない。
『―――頼む! 警察に駆け込むのはあとだ! 先に面倒見てやってくれ、夜中に来たのは悪いと思ってるが―――』
『ああそうだよ! 俺の娘じゃないって、そう言ってるだろうが! ええい、面倒だ! 開けろっ、扉を開けろこのぼんくらっ!!』
予想通り、病院は深夜の往診には対応していなかった。だが男が病院の前で、大声で騒いだが為に仕方なく医師が折れて。
事件性もあると言う事で特別に、少女を医者へと預けたのち、念入りに『頼んだぞ』と言って、彼は警察へと駆け込んだ。
事情を説明するのに時間はかからなかった、彼が警察署に入れば警察署は静まり返る。其れは彼が其方の方面で有名人である事を
暗に表していた。1,2分も待たないうちに彼と見知った顔の刑事が―――こちらもまた齢は50を超えていそうな―――が現れて
彼等は暫く話しこんだ後、馬車に乗り込んで共に病院へと向かった。
『……で、ガキを拾ったって? お前さんがか。誘拐したんじゃあるまいな。』
『次冗談を抜かしてみろ、俺は今気が立ってるんだ。ドレイクの奴は電話が繋がらないし、おまけに不良少女の保護ときた。』
『おお、怖いねぇ。いつだったか強盗犯を蜂の巣にしたみたいに、俺もブッ殺されちまいそうだ。だが残念、その娘は不良じゃない。』
『……何? 知ってるのか、お前。』
『目上を"お前"呼ばわりとは、流石に賞金稼ぎは違うねぇ。まあいい、そのガキは恐らく―――っと、着いたか。ま、話は降りてからだ。』
大男と、そして刑事と思わしき男の二人が馬を走らせていたのは、、先程少女を預けた病院であった。
既に雨の勢いは落ちていて、時刻は深夜の2時を過ぎた頃。彼等は院内へと入って行き、少女の元へ向かった。
『―――ついさっきのことだ。警察に面白い情報が入ってきてな。それも同時期に、彼方此方から突然だ。』
『……面白い情報? なんだそりゃ、勿体ぶらずにさっさと教えろよ。ったく、これだから刑事ってのは廻りくどくて嫌いなんだ。』
『まあまあ、吠えるなよジェリコ。……停電より少し前だったかな、この国の西部にある、誰も知らない様なクソ田舎の彼方此方から
似たような内容の通報が相次いでな、もちろん雨も降ってたし雷も酷かったから警察を向かわせるのも遅くなったんだが―――
その通報の内容ってのがな。"薄汚れた服装の人間を保護した、どうすりゃいい?"―――そんな内容の奴ばっかだったんだよ。』
『……、なんだと?』
『同時に、多数だ。まあ、なんかよくねぇ事があったのには違いないよなぁ。―――んでもってな。その中の一つに、……。』
二人が病室へと入っていく。すっかり綺麗になって、ベッドで眠る少女の姿が目に入った。
クセのついた金髪、小柄な体躯、静かな寝息。確かに彼女は生きていた、その事実にジェリコ―――そう呼ばれた大男は
ほっと胸をなでおろした。逆に少女を目にした刑事と思わしき男は、その横顔を眺めて、そして金髪を指で掬い、なでた。
『……話の続きだが。通報の中にな、こんなのがあったんだよジェリコ。』
『"―――奴隷と思われる人間を保護した。どうすれば良いかわからず、通報した。助けてほしい。"ってな。』
『……奴隷、だと?』
『ああ。恐らく一連の通報も"そういう事"なんだろう。この娘も……多分、その一人だと俺は睨んでる。』
『……その、通報があった場所ってのは、』
『お前さんの家から西へ少し行った、小さな村からあった通報だよ。他にも、その周辺の集落なんかから
似た様なのが全部で10件近くもだ。……辻褄が合うだろう。』
『……じゃあ、なんだ。お前は、俺の住んでる場所のもっと奥地に、奴隷が大量に捕まってる場所があると、そう言うのか。』
ジェリコが唸る様にそう問いかける。刑事はゆっくりと頷いたが、その様は力無かった。
当然である、こんな時代にまさか『奴隷』という単語を聞こう等とは思ってもいなかったし、それは警察の無力さを伺わせる事実だ。
未だ法が踏みこめていない『闇』が深くこの国、むしろこの土地その物に根付いていると言う証拠で、眼を背けたくなる話と言えたのだ。
ジェリコは黙ったまま、少女の方へと近づいた。まだ眼を覚ます事は無いが、体力さえ戻ればそれもどうにかなるだろう。
だが、この話はそれで終わるのだろうか。いや、そんな筈が無い。彼女は身寄りもなければ名前もない、そんな少女なのだから。
そして脱走出来た理由が何であれ、奴隷を管理している人間が全滅したとは考えにくい。となれば、血眼になって奴隷を探し
そしてその証拠隠滅に何か大変な事を犯すかもしれない―――この国、この少女の抱える闇の深さを想い、ジェリコは押し黙った。
『……ま、そういうことになるなジェリコ。だが問題は、その通報のあった村だ。』
『……奴隷商は、奴隷を取り戻しに行く。まず間違いなく、その村は連中の襲撃を受けてる筈だ。』
『……分からんぞ? 奴隷が連中に反逆して、全員ブチ殺した上で逃げてきた可能性だって―――』
『無いな。俺はそういう日和見が嫌いだ。―――……警官を直ぐに回してやれ。死人が出る前にな。』
『……酷い夜だ。雷と雨、それに相次ぐ通報。この世界は、どうにかなっちまったのかねぇ。ジェリコ? そう思わんか。』
『……昔からそうだよ。弱い奴ってのは、そうやって踏み躙られる運命を背負ってんだ。どうにかしてんのはな、いいか。
……そんな現実に気付かず、ぼうっと、何もせずに普通に生きてられる俺達人間の方だよ。俺は―――……。』
俺は、違う筈だった。
ジェリコはそう言おうとしたのだろうか。だがしかし、知ってしまったのは自分の無知さだ。
溜息を一つ吐き、今度は医師の方へと向き直る。二人のやりとりを横で見ていた医師が直ぐに、その意図に気付き状況を説明する。
命に別条はないが、栄養不足に陥っている為点滴を打つ必要があるそうだ。最も安静にしていれば直ぐに治る、と。
しかし問題はそこから先に在った。仮に彼女が目を覚ましたとして、一体誰が保護するのか。
彼女には保護者が居ない、警察が保護するのが妥当だろうか。ともあれ、今は安静にしておくのが先か。
事情を聴いた医師が折れて、治療費は遠慮する、と言ったのが唯一の救いではあったが。ジェリコはそのまま
少女が眼を覚ますその時まで、ベッドの横で寄り添う様に待った。やがて朝日が昇り、雨の一夜は明けた。
―――朝。
日が昇り、昨夜の雷雨が嘘の様な空晴れが天を覆う。雨上がりの朝は実に気分が良い物だ。
しかし、今朝ばかりは少し事情が違った。普段ならば大きく伸びをして、コーヒーを飲み、畑仕事に精が出ていた筈だったのだが。
病院のベッドの横、冷たい椅子で眼を覚ましたジェリコは、静かに欠伸をして目の前に横たわる小さな体を見やった。
年齢は10歳―――に届くか届かないか。歳の割に身体付きが良くないこの少女は、どうやら奴隷の出身らしい。
点滴は既に打ち終えて、もう体調も大分戻ってきている、という話を先程まどろみの中で聞いたばかりだが
どうにも、未だに目が覚めないらしい。余程疲労が溜まっているのだろう、まるで死んでいるように少女は眠っていた。
美しい白い肌、綺麗な金髪と流麗な顔立ち。こうして見ている分には、とても奴隷とは思えない程の少女だ。
しかしながら、彼女が助けを求めて自らの元へ逃げ込んできた事は紛れもない事実であって。
ジェリコはゆっくりと立ち上がり、首を回してから窮屈そうに伸びをして、病室を出る。向かった先はテラスだ。
院内の自販機で美味しくもないコーヒーを買ってから、外の空気に触れる。そうして今、この状況には場違いな程に
よく晴れた秋空を見上げて小さく息を吐いた。―――もうそろそろ、寒くなってくる時期だろうか。
『……冬は嫌いだ。』
『夏も嫌い、って前は言ってたぞ。』
ふと隣を見ると、見知った顔の刑事が同じコーヒーを持って横に立っていた。何時の間に来たのか、
彼は昨晩から少女の件で世話になっている刑事であった。名前は、ダニエルと言う。
ジェリコとは旧知の仲であり、以前より長らく付き合いがあった男の1人。もっと言えば、偏屈なジェリコにとって数少ない友人だった。
嫌そうな目でダニエルを見るそのジェリコの瞳も、気心が知れた仲だからこそ、という物だろう。
『……秋は好きなんだよ。』
『じゃあ、今は丁度いいな。―――……もっとも、今年の秋は色々大変な事になっちまいそうだが。』
『……マウザー、俺と世間話してる暇はあるのか。電話は復活したんだろう? 奴隷の件はどうなった。』
ダニエル・マウザー。それがこの刑事のフルネームだろう、仕事の進展を問われた彼は、一晩中眠っていないであろう事を伺わせる
疲れた瞳をジェリコへと向けて、首を横へと振った。そうしてコーヒーを一口飲んで、そして吐き出す様に呟く。
『……明け方まで電話は繋がらなかった。だが現場に駆けつけた刑事が無線で連絡を寄越してくれたよ、随分切羽詰まった様子でな。
曰く、"村がブッ潰されてました"―――だとよ。嫌な情報だけ手に入ったって所だな、詳しくは今調査中さ。』
『……証拠隠滅、か。言った通りだろう。』
『面倒なのはな、落雷で山火事があった事だ。まあ、連中が火を放った可能性も無くは無いが、これに巻き込まれたと見る事も出来る。』
『……村中の家が燃やされてたのか?』
『ああ、全部だ。……山火事が及んだ跡も見えるし、特定には時間がかかりそうだとよ。
雨のおかげもあって、朝方には火事が止んでたのは幸いだがね。』
『……賢い連中だな。"撤収作業"の御手本通りで反吐が出るぜ。』
『舐めてかかると痛い眼を見るのは間違いないだろうねぇ。と言っても、進展なし、だ。暫くは情報収集だな。』
『このだだっ広い土地を、逃げた奴隷商追って捜索か。ご苦労な事だ。』
『手伝ってくれても良いんだぜ。久しぶりに"銃鬼"<ガン・オーガ>のお前さんが見れるなら―――』
『―――止せ。』
銃鬼。ガン・オーガ。その名が聞こえた瞬間、ジェリコが低く、唸るような声でダニエルを制止した。
その眼は正真正銘、怒りに燃えていて。同時に、悲しみにも満ちていた。彼が睨みつけると、ダニエルは手を振った。
『―――ジョークだよ。そう吠えるなって、ジェリコ。』
『俺は冗談と、不味いコーヒーが嫌いなんだ。あと……冬と夏もな。』
『……だが、どうする。あの娘は俺達に預けるか?』
『……知るか。そんな事はな、眼が覚めてから本人に聞きゃァいいんだ。』
至極面倒くさそうな様子で、もはや考えるまでもないとでも言いたげな、そんな表情でジェリコは言いやった。
昨晩忙しかった故に吸えなかった煙草を、ふとその存在を思い出したかのように懐から取り出すと
ポケットに入っていたマッチをブーツで磨って火を起こし。物欲しそうに見つめるダニエルにも一本、煙草を差し出した。
二人で煙を燻らせながら、ダニエルは言葉を続ける。
『―――ま、それもそうか。じゃあお前、"一緒にいたい! おじいちゃんといっしょがいい!"なんて言い出したら』
『誰がおじいちゃんだ。』
『おじいちゃんだろー。ま、何か情報が入ったら追って教えてやるよ。―――と、ドレイクの方はどうなった?』
『……さっき連絡があった。"仕事はサクッと片付けましたよ。それより、ボクはその女の子に会いたいな"―――だと。』
『っていうと、例の賞金首も捕まえちまったんだな。ドレイク・トンプソンの名前がまた売れるねえ。』
『言い忘れてたが俺ァ優男も嫌いだ。あの若造は気にいらねぇ。』
『若い才能に嫉妬してるのかジェリコ? 見苦しいぜ。だがまあ、あの若さにしてあれだけの腕を持っていて、
その上バリバリ働かれると俺達警察の面子が立たないのは考えもんだな。今に稼いだ賞金だけで億万長者になっちまうぞ、ありゃ。』
『あと、情けない警察も嫌いだ。』
『……お前さん、嫌いな物増えたなぁ。ま、いい。俺もそろそろ仕事に戻るぜ。』
ほんの数分の間、煙草を吹かしながら続けられた会話。
今までの事と、これからの事、そして今まさに起きている事について言葉を交わしたマウザー刑事とジェリコは
深く、疲れきっている表情で白煙を吐き出しながら。気持ち悪いぐらいによく晴れた青空を見上げた。
『……そういや、こんな天気だが。夕方くらいになったら、また降るそうだぞ。雨。』
『そういう情報はいらねェよ。天気予報ぐらい俺の住んでる所でも見れる。』
『そうだったな。……なぁ、ジェリコ。これは別に忠告、ってワケじゃないんだが。
……あの娘がお前さんの所に来たのは、結構な奇跡だったかも知れんぞ。なんせ、他の奴隷は逃げ切れたかどうかもわからんし
それに匿った村人まで消されてる始末だ。今んところ確認出来てるのは小さい村が一つだけだが……証拠隠滅の範囲は、』
其処まで語ったダニエルを、ジェリコの言葉が遮った。
太い指で煙草を携帯灰皿に打ち付ける様にして揉み消し、そしてこう言った。
『それがどうした。俺に被害が及ぶと、そう言いてぇのか? マウザー。言った筈だぞ、冗談は嫌いだとな。
―――面倒な事に巻き込まれる前に、ガキは手放すさ。俺じゃ手に負えん、相談所にでも行く。』
その言葉を聞いたダニエルは、自身も煙草をジェリコの灰皿へと入れ、そのまま踵を返して歩き出した。
どこかつまらなそうな表情ではあったが、其れは疲労故か、それともジェリコの対応が気に入らなかったのか。
ただ、別れ際に彼が放った言葉は、ジェリコの胸に深く、影を落とした。
『―――確かに、な。それもこれも、全部お前さんの匙加減次第かもしれん。
かもしれんが―――……俺には、ただの偶然に思えないのさ、ジェリコ。何故彼女だけが、お前のいる家まで辿り着けたんだ?』
ジェリコが其れに応える事は無い。迎えに来たのであろう、古い年式のパトカーに乗り込んで、ダニエルは去って行った。
重々しいV型エンジン独特の音が病院のある大通りに響き、煙草のそれよりもっと黒い煙を吐き出しながら、パトカーは戻っていく。
一人残されたジェリコは、視界の隅に消えていく青の車体を眺めながら、灰皿を懐に戻して呟いた。
『……知らねぇよ。そんなこと。知る気もない。―――……クソっ。』
彼が病室へと戻ったのは数分後だった。そして、ベッドが空っぽになっているのを見つけたのもその時が初めてだった。
中に潜っているのかと思い、厚めのタオルケットをどけるがそこにあの少女の姿は無かった。
冷や汗を掻きながら、慌てて病室を見渡す。トイレ、洗面室。どこにもあの美しい金髪の少女はいなかった。
この歳になって何故、こんな事でここまで焦っているのか。それは自分でも良く分からなかったが、
ともかくジェリコはナースセンターに足を運ぼうとし、扉に手をかけた所でふと、足を止めた。
何かが聞こえた気がする―――きゅっ、という音だ。丁度素足で床を擦った時のあの音に近いような、そんな物が彼の耳に届いた。
振り返り、ベッドの方へと近寄る。焦っていて気がつかなかったが、昨晩洗ったばかりの石鹸の香りが、まだ残っている。
齢50を超えて尚、彼の聴覚や嗅覚はとても研ぎ澄まされていた。それには勿論、歴とした理由があるのだが―――。
ともあれ、彼は屈みこんで、ベッドの下を覗きこむ。予想通り、小さく縮こまった姿勢で、彼女はそこに居た。
怯えた瞳を此方へ向けながら、小刻みに震える身体を細い腕で抱きしめて、体育座りの様な格好で、まるで隠れる様にして
ベッドの下へと潜り込んでいたのだった。ジェリコは安堵したのか、溜息をついて手を伸ばす。
『―――……眼が覚めたなら、まずトイレに行け。それからコーヒーを飲んで、トーストかサンドウィッチを食べろ。
ベッドの下で隠れんぼするのはな、朝起きて直ぐにやる事の内に入ってないんだ。……さあ、こっちへ来い。ほら……。』
開いた手を彼女の方へと伸ばすが、彼女がそれに応える事は無い。言葉を発する事も、腕を伸ばす事もせず。
ただ震えてばかりで、ジェリコの太い腕が怖かったのか、ブルーとも、グリーンともとれるような綺麗な瞳を
恐怖の色に染めて、余計に端の方へとずれてしまう。まるで彼の腕から逃れる様に、だ。
ジェリコはこう言う事に慣れていないのだろう、と言うよりもむしろ子供その物が苦手なのか
あきれ果てた様に眉を顰めて、軽く舌打ちをした。どうして良いのか分からず、より強く手を伸ばして。
『はぁ……おい、小娘。頼むから面倒事を増やすな。俺はな、こう見えて忙しいんだ。色々やる事もあるし
そもそもお前さんの事なんて何も知らない、赤の他人なんだ。わかるか? だから―――……だから、頼むよ。』
しかし、面倒くさそうにそう呟く彼に少女が応える事は無かった。長い髪の中に顔を隠してしまい、もはや表情すら伺えない。
寒くて震えているのか、それとも空腹なのか、もしくは目の前の大男が恐ろしいのか、そういった事を察するのも難しい状況だ。
ジェリコはいい加減にしてくれと言わんばかりに、彼女の方へと手を伸ばそうとするが、そこで一度思いとどまる。
力任せに引っ張りだすのはどうなのだろう―――少なくとも、彼女は今の今まで恐ろしい目に在ってきた事は確かなのだ。
追い打ちをかける様に保護した本人が強引に彼女を引きずりだそうとするなんて、医者が見たらなんというか。
いやそれどころか、少女が混乱してヒステリックに叫び始めたりでもしたら溜まったものではない。ジェリコは一旦、身体を起こした。
『……参ったな。』
何も言葉を発しない少女。だが良く考えれば、それもその筈だ。彼女は奴隷であって、出身や名前すらも不明なのだから。
酷い目に遭ってきた事は明白だし、ショックで口も聞けなくなっていても可笑しくは無い。
ジェリコは其処まで考えて、ふと病室の外に自販機があった事を思い出す。
そう、言葉で駄目なら物で訴えてみよう、という考えだ。
『……おい、此処を動くなよ。いいな?』
ベッドの下に向かってそう言うと、足早にジェリコは自販機へと赴く。道すがら担当医―――というと可笑しな表現だが
お世話になっていた医者が丁度様子を見る為に此方へと向かっているのを見て、声をかける。
どうにも怯えて出てこないし、話す事もままならないので、とりあえずジュースで興味を引いてみよう、と。
医者は困惑した表情で『様子を見てあげるべきだ』と言うが、ジェリコはそんなに悠長な事は言ってられないと言わんばかりに
小銭を自販機へと押し込み、2,3種類のジュースを買ってから病室へと戻り、ベッドの下を覗き込む。
律義な事に、少女が其処を動く事は無かった。矢張り髪の中に顔を埋めたまま、小さく丸くなっていた。
『……なぁ、おい。喉乾いたろ。雨の中長い事突っ走ってウチまで来たんだ、そうに違いねぇ。
これ、やるから飲んでくれ。俺が誰かに飲み物奢る事なんて滅多にねえんだ、これ飲んで元気出せ。な?』
ジュースを3本、ベッドの下から差し出すが。少女は微動だにせず、むしろ此方を見ているのかどうかも怪しい。
開け方が分からないかもしれないと、ジェリコが気を利かせて蓋を開けるが、それにも無反応だ。
ただベッドの下には、炭酸の弾ける独特の音と、無言の二人の吐息だけが満ちていた。
『……どうしたもんだ、これは。』
呆れ果てたのか、ジェリコは再び身体を起こし床に尻を着きながら、ベッドに背を預けた。
医者の方も困惑している様で、『とりあえず、怖がらせない様努めるべきだ』とアドバイスはするのだが
この院内には精神科は存在していないのだろう、心的外傷まで担当できる医者は存在していない様で、肩を竦めた。
どうする事も出来ないが、ともかく少女が心を開くのを待つしかない。しかし、そうは言っても病院は無料のホテルでもない。
ともかく安全に少女を預けておける場所が必要だが、そもそも警察や役所に預けようにもこの状態ではどうにもならず。
ジェリコは朝から疲れた、とでも言いたげに溜息を吐いて。医者には『今日中にはなんとかする』とだけ言った。
医者も付きっきりと言う訳にはいかないのだろう、暫くは一緒にいたが、ベッドから一行に出てこない彼女を諦めて
他の患者の元へと行ってしまった。小さな病室には簡素なベッドと大男、そして少女が一人取り残されてしまった。
『よう……聞こえてるか? あのな、俺は別にお前さんを取って喰おうとしてる訳じゃないんだ。
話が通じるかどうかも良く分からんが―――なんていうか、お前さんを"保護"したんだよ。保護、ってわかるか。
……わかんねえよなあ。多分、簡単に言うと……お前さんは、もう自由なんだ。自由ってのは―――……。』
"自由"という、その単語を説明しようとする時に、ジェリコは言葉に詰まった。実際のところ、自由とはなんだろう。
本質的な所で人は、"自由"という言葉の意味を理解出来ているのかどうか、とか―――なんだか哲学的な方に頭がいってしまうのだ。
だから仕方なく、『もう、奴隷じゃなくなったんだよ。』と、そう説明するが。それでも反応は特になかった。
そもそも聞いているのかどうかも定かではない状況で、彼は言葉を続けた。
『怖がらなくてもいい。俺はな、悪い人間じゃ……いや、悪い人間なんだが、お前さんを苛めたり
無理やり働かせたり、殺そうとしたりはしない。絶対にだ。怪我もさせん。だから頼む、そこから出てきてくれよ。
出てきたら飯を食おう。近くに美味いレストランがあるんだ、そこで一服して落ち着いて話し合わないか?』
どこまで話しかけようとも。彼の言葉に、彼女が応える事は無かった。
いい加減諦めても良い物だが、ジェリコは何故か言葉を紡ぐのを止めなかった。
それがどうしてかはジェリコ本人にもよくわからなかったが、それでも彼は会話を―――少々一方的な会話を続ける。
『……警察に行ってどこに捕まってたのか話そう。お前さんの情報次第じゃ、まだ助かる命もあるかもしれん。
仲間を助けられるかもしれないんだ。だから怖がらなくて良い、一緒に出てきて―――……話をしよう。
お前さんが望むなら養子に出してどっかの里親に引き取って貰って、幸せに暮らす事だって出来るんだ。』
『……俺にはな、奴隷の気持ちってのはよく、わからん。そりゃそうだろ? 生まれてからずっと自由に生きてきた人間なんだ。
羨ましいか? それとも憎いか。一日中働かされて、飯も碌に喰えず時には暴力を振るわれて、そんな人生だったのかはわからんが
そうじゃない人生を歩んでる、一般的に"幸せ"だとか言われる人間ってのがいる事実は―――どうだ、悔しいか。悔しいよな。』
『俺ならきっと、自分と違って満ち足りた人生を歩んでる奴が居るなんて事実を知ったら、嫉妬で怒り狂ってるな。
腹が立って、悔しくて、悲しくてしょうがないと思うぜ。けどな、別に幸福に生きてる連中は悪い事してるわけじゃねえんだ。
間違ってるのはいっつも―――いっつも、時代だよ。この世界そのものが、可笑しい事になってるから、こんな事が起こっちまう。』
『人が死んでも2、3日経てば、頭の中から記憶がすっぽ抜けて誰もかれもがみーんな忘れちまう。悲しい事にな。
けど当事者になるとわかるんだ、忘れられる連中ってのは、自分の事じゃないから簡単に忘れられるんだ―――ってよ。
どうにも、ずっと忘れられなくて。過ぎた事をいつまでも、忘れられずに……生きてる人間も、まあ、いるわな。残念ながら。』
『惨めだと思わんか。自分以外の誰もが忘れちまって、とっくに幸せな日常に戻ってるのに。
自分だけはずっと、忘れられないまま―――……忘れる事を、"赦されない"まま、生きていくのはよ。くだらねえ、そうだろ。
……けどな、俺はそんなくだらない生涯を、ずうっと歩んでるよ。もう何年も、何十年も前の事なのに。なあ、嫌な事ってのはよ。』
『―――そんな簡単に、忘れたり考えずにいられるもんじゃあ、ねえよな。だから、俺は奴隷じゃあねえけどな。
お前さんが抱えてるモンと同じ様に、長い事苦しい気分を味わったから……良く分かるぜ。そう簡単に、切り替えなんて出来ねえよな。』
『何も発せず、何も聞かず。ただただ、時間が流れるのを待つ。そんな人生さ。俺の言ってる事、難しいか? 難しいよなあ。
なんたって俺自身、こんなこと言っちゃいるがよくわかってねえんだからよ。けどな、只一つ分かってる事もあるんだ。
―――しょうがねえんだよ。胸に付いた傷ってのはな、死ぬまで付き合っていくもんなんだ。簡単にわりきれねーもんなのさ。』
『だから、重要なのは付き合っていくっていう事実から目を背けず。この厄介なクソッタレと、どう一緒に過ごすか考える事だ。
忌々しい記憶ってのを、受け止めて自分の中で変えていくか―――もしくは、自分が変わるか。付き合い方はひとそれぞれだが
他人には決められない、って所は共通してる。お前さんはお前さんの傷をどうするのか、お前さん自身で決めなきゃならん。』
『……出来るかよ、小娘。大人が滅茶苦茶言ってるのは、俺だって分かってるつもりだ。"前を向け"とか。
"いい加減忘れろ"だとか、暴論だよなあ。けどよ、あながち間違っちゃいねえのさ。前向かなきゃ歩けねえし、一時的にでも
頭からほっぽりださなきゃ、前を向けねえ。キッツイ話だが、他人事みてーにそう言う大人の言葉ってのは、其の通り正しいのさ。』
『なにも今直ぐ、って話じゃねえ。俺なんて振り切れねえままもう30年近くになっちまった。だから、ゆっくりでいい。
お前さんも、ずっと震えてるばかりじゃなくて―――どうするべきか、考えないとな。でも、その前に飯を食おう。
腹が減ってたら、なにも出来やしないんだ……なあ? 俺は腹ペコだよ。お前さんどうだ、減ってねえか。』
長い長い、懺悔にも近い様な言葉を終えた。このままもう一本くらい、タバコが吸えればよいとも思ったのだが
此処は病院で、此処は病室だった事を思い出し、取り出しかけた煙草を懐へと戻す。
そうして、もう一度だけベッドの下を覗き込むジェリコは―――戦慄した。
先程見た時は、確かに青かった筈の瞳。だがしかし、今はそんな美しさは消え去っていた。
真っ赤に充血でもしたような、激しい怒りの色を浮かべて。確かに少女は、眼を見開いて此方を睨みつけていた。
金色の髪が、ベッド下の闇に隠れて不気味な色彩と化し、その中からぼうっと浮かび上がった二つの瞳は、さながら亡霊にも近しい程。
振るえていた身体も今はピタリ、と止まっており―――ただ、黙って隅の方で、ジェリコをじっと睨みつけていた。
長い言葉の中、彼女はずっとその言葉に耳を傾けていたのだろうか。だからこそ、綺麗事を語るジェリコを睨んでいるのだろうか。
ともあれ、自分の知っているそれとは全く違う、先程までの様子とは見違えた彼女に対しジェリコは言葉を、詰まらせた。
もっとも、一番恐ろしかったのはその後彼女はずっと、そんな調子だった事だろうか。
眼を覚ましたという情報を聞きつけた警察が事情聴取に来ても尚、彼女がベッドの下から出てくる事は無く。
何度話しかけた所で、彼女が言葉を発する事も、頷く事も、飲み物を口にする事も何も、無かった。
どれだけの説得も通じる事は無い。ジェリコも、警官も、医者も、そして事情を聞いて駆けつけたマウザーすらも
誰も彼女の心を開く事は出来ず。やがてそのまま、日が暮れ、夜になり。少女が眠りに就いた時に、ようやっと緊張の糸は切れた。
窓の外には雨が降っている。暫くは止みそうにない程の、叩きつけるような強烈な雨が、だ。
―――夜。『名前のない村』の付近、小さな集落に、悲鳴がとどろいた。
どろり、とした真っ赤な液体が宙を舞い、女の叫び声が森の中へ木霊する。
裸足で駆ける誰かの足音が、パキリ、と小枝を踏んで木々の間に響き渡り、そしてその直後、また悲鳴―――。
連続した誰かの呻く声と、火薬が破裂し金属の薬莢が地面を叩く音が、激しい雨音すらも遮っていく。
『ひっ……やめろ! たすけてくれ! お、俺達は奴隷を匿ってなんか―――っ!』
泥の中に倒れ伏した一人の男が、弁明する様にそう叫ぶも、言葉が届く事は無く。一方的にその命は
首元をナイフでバッサリと斬り伏せられるという残忍な方法で絶たれる。それを見ていた別の女が―――恐らくは男の妻が
怯えたように蹲る。既に集落の家々は半分程が破壊し尽くされ、この雨の中で火を放たれて、そして住んでいる人々もまた
次々に殺されていた―――そう、平和な集落に現れたのは武装した"襲撃者"達。
もっと言えば、彼等は脱走した奴隷の"持ち主"たる蛮族達であって―――。
『お、おねがいですっ! 私たちはだれも、奴隷を匿ってなんていません! しんじてくださいっ!』
跪き、銃を構えた男達の前で一人の女が赦しを乞う。恐らくは彼女にも子供や家族が居るのだろう。
自分が殺される事があっても、誤解を解いて家族は、子供だけは護らねば―――そんな願いも無残に散る。
男たちはボルトアクション式のライフルを容赦なく女の額へと近づけ、問答無用でその引き金を引いた。瞬間、女の頭部が吹き飛ぶ。
もはや虐殺は彼方此方で行われており、全ての家に火が放たれていた。だが、これも少しおかしい。
―――こんな大雨の中で、一体どうやって、彼等は火を起こし、そしてそれを家屋に引火させているのか。
『ったくよォ……別に奴隷を匿ってようが匿ってなかろうが、もう奴隷が逃げ出してるって事と
俺達の存在を知ってる時点でアウトなんだっつーの。顔見た瞬間弁明始めやがって、さては逃げてきた奴隷を追い出しやがったな。』
『ああ、恐らくそうだな。逃げ出したクズを探しに俺達が来る所まで読んで、こいつらは奴隷を追っ払ったんだろう。笑えるぜ。』
『奴隷も奴隷で哀れなもんだよなァ? せっかく逃げてきたのに、自分の身可愛さにみんなからそっぽむかれてよォ!』
『おい! "アンドリュー"の旦那ァ! ここの連中は気にいらねぇ、毛の一本も残さず吹き飛ばしちまってくれや!』
ボウ、という恐ろしい音と共に、また新たな家に火が付いた。マッチや松明による引火ではない、もっと強烈な―――"着火"だ。
燃え盛る家から一人の男が影と共に出てくる。陽炎がそのシルエットを浮び上らせると、"それ"は口角を上げてニィ、と哂った。
『んんん~? 元々鼠一匹いやアリンコ一匹たりとも生かしておくつもりなんてないさなーにを言ってるのかね君たちはぁ~』
長い長い、不気味なシルクハット。煌びやかな金の装飾が施された、青いビロードのジャケット。
泥をぐちゃぐちゃと突きまわす杖に、皮の手袋。そしてその胸元から、数枚の"トランプ"を取りだす男の格好は正に
どこぞの売れない奇術師<マジシャン>を彷彿とさせる、なんとも悪趣味で妖艶な姿だった。アンドリューと呼ばれた彼は
素早く指でトランプを挟み、そして眼にも止まらぬ速さで振るう―――鋭い、風を切る音と共に、トランプは飛翔。
剃刀の様に薄く鋭利な"刃物"と化したトランプが、森へと逃げようとしていた子供達を数人、貫通。鮮血が吹き上がり木々を濡らした。
更にそれに続く様に、彼は大きく息を吸い込む。肺一杯に酸素を取り込んで、彼はクルリとその場で回転、そして―――
またも、"ボウッ"という轟音と共に火の手が上がる。いや、正確には"炎が現れた"のだ。
その正体は、彼が口内から吹きだしていた火炎の息吹―――龍のブレスにも等しい業火が口から放たれ、また家へと移った。
中にはまだ逃げ遅れた人間が居たのだろう、悲惨な断末魔があがる。泣き叫ぶ声に続いて、ドアを撃ち破り独りの男が躍り出る。
手には猟銃を持ち、覚悟をしたように火を吐き出し終えたアンドリューへと向かって銃弾を放とうとするが―――しかし。
『あはははぁ、能力者の僕に猟銃一本で無能力者で無能な人間が立ち向かおうなんて愚かさここに極まれりだね無駄な事はやめたまえ
けれども僕は君の挑戦を引き受けるよなんたって僕はマジシャン<奇術師>だからね素人に手品で負ける訳にはいかないそうだろう?』
一息つく事もなく、そんな長い言葉をつらつらと、半ば楽しむかのようにのたまうアンドリューめがけ、男は銃を構えた、が。
その腕は何時の間にか勝手に動き出し、男の意思とは反して銃口が"自分"の方を向く様に構えられていて。
男は悲鳴を上げるが、もはやそれすらも間に合わない。引き金は容赦なく引かれ、男は自分を自分で撃ち抜き、頭骨を散らして死んだ。
『ッハハハハハハァァーッ!! やっぱアンタサイコーだぜッ、アンドリューの旦那ァッ!! おい、見たかよいまの!』
『とんでもねぇパワーだ、アンタの能力<プレステージ>はもはや敵なしだぜ!』
火を放たれた家々から、耐え切れなくなった住民たちが次々と逃げだしてくる。
ある者は子供を庇って撃ち殺され、その子供すらもアンドリューの持つ不思議な"奇術"の前に成す術無く殺害された。
またある者は直接的に火を吹き掛けられて、もがき苦しみ激痛の中で死していく。
ほんの10数分も経たない短い時間の間、小さな小さな集落に生きている人間は誰も居なくなった。
『……しっかしトンデモねぇな、能力者ってのはよ。アンタを雇って正解だったぜ、アンドリュー・ウェッソン。』
燃え盛り、全ての証拠が橙色の輝きの中に消されていく光景を美しいとでも言わんばかりに恍惚とした表情で眺めながら
奴隷商の1人が声をかけた。茶色い馬に乗った痩せこけた男だ。身形は整えられていて、雨に塗れぬ様馬の上で傘まで刺している。
彼がこの集団のリーダーであろう事は明白だった―――踏ん反り返った男はアンドリューに声をかける。
雇い主と雇われ、つまりはこう言った事が起きた際の"保険"として、奴隷商が用意していた用心棒がこの能力者アンドリューなのだろう。
不可思議な奇術はまだ終わらない。自らにかけられた言葉に応える事すらなく、彼はジャケットの中へと手を突っ込んだ。
『生憎今日も雨で火はその内消えてしまうねまああまり広がり過ぎても困るから落雷のせいにする分には問題ないんだが
このままじゃ死体が残ってしまうそれはまずいねそんなわけで君達死体をどこかの家に集めてくれたまえまとめて消し飛ばすから』
息つく間もなく一呼吸でそう言いきると、銃を持った襲撃者達が次々と死体を担ぎ、この集落で一番小さな家へと集めていく。
全ての死体が担ぎ込まれた後、アンドリューはそれを確認するとビロードの内ポケットから何か―――細い物体を取りだす。
掌に包めるサイズのそれは、円柱形の茶色い物体であり、先端からは"導火線"らしき紐が露出しているつまりは―――爆薬であった。
ダイナマイトが一本、二本、三本と、どこに隠していたのか分からぬ程大量に、次から次へと細みのジャケットから湧き出てくるのだ。
まさに奇術―――合計して15本ほどの多量の爆薬を家の内部にばらまきながら、アンドリューは大きく息を吸い込み、そして
勢い良く吐き出す―――瞬間、炎のブレスが連続してダイナマイトに引火し、連鎖しながら爆風を巻き起こした。
強烈な炸裂音を響かせながら、アンドリューはケタケタと嗤い自身も馬へと飛び乗る。あとは火炎に全てを任せればよい。
消し炭になってしまえば証拠にはならないのだ、撤収作業をして今日は終わり、と行きたい所であったのだが。
『おおい、ドナルドさん! だめだ、この集落にもあの"クソガキ"は見当たらなかったぜ。』
独りの襲撃者が雨の中、声を張り上げてそう報告する。その言葉を聞いた首領と思わしき奴隷商―――ドナルドと呼ばれた男は
頭をポリポリ、と掻きむしりながら面倒くさそうに眉を顰めた。これで襲撃した村は三つ目、しかし残り独りの脱走者が見当たらない。
他の連中は大体、初日の夜にとっ捕まえて撃ち殺してしまったのだが―――どうにも、最後の1人、子供の奴隷が見つからなかったのだ。
もっと離れた所に居るのか、それとも上手く逃げおおせたのか。なんにしろ、自分達の事をペラペラ喋られるのはあまり得策ではない。
出来る事なら殺して口封じしたい所であったが、余り捜索範囲を広げ過ぎて警察の連中とブッキングするのだけは避けたいところだった。
さて、どうするか―――ドナルドはアンドリューの方を見やった。この男がいれば、これほどの戦力があれば警察すらもあるいは―――。
いや、余り大きな賭けは出来ない。後少しだけ森を探して、見つからなければどこかの国へと逃亡する。彼はそう判断した。
『チッ……あのクソガキめ、手間かけさせやがって。アンドリュ―の旦那、後少しだけ捜索しよう。それが終わったらとんずらだ。』
『僕はそれでも構わないがガキがペラペラ吐き出せば君等の事は世に知れ渡って同じ職種で生きていくのは到底不可能になると思うよ
奴隷商を止めて真面目に働くと言うのも今更無理な話だろうし人身売買は暫く控えつつ身を隠すのがベストかなまあその前に
僕がガキを見つけて全て丸く納めるけどねそれが僕に課せられた仕事でその分の金は貰ってるなにより――――――』
『―――――――この仕事は愉しい。他人を喜ばせるマジックより、ずっと、ずっと上等で――――甘美だ。』
狂気を孕んだ瞳が、まだ物足りない、とでも言うかのようにドナルドを見つめる。この男は確かにイカれていた。
恐らくガキはそう遠くまで逃げてはいない筈。問題は警察に保護されている可能性、か。まあ、仮にそうだとしても
この男と一緒に居る限りはどうにでもなるだろう―――そんな風に考えていたのは、言うまでも無かった。
『……たまらんねえ、旦那。それじゃとっととガキを見つけて酒浸りの日々に戻るとしよう。なぁに……邪魔する奴は消せば良いんだ。』
邪悪な笑い声が響く。火の手が弱まる頃には、破裂音を聞いた警察の調査隊も到着していたのだが―――
集落があった場所に残っていたのは、何もかもが焼け焦げた跡だけであった。
『―――なにが、"おじいちゃんと一緒に居たいって言ったらどうする"だよ。』
『……悪かったなぁ、まさかここまで状況が酷いとは思ってもなかったんだよ。いやはや、こりゃ重症だな。』
『冗談じゃねえぜ。このままじゃ折角保護したのに衰弱死しちまうぞ。そもそも、てめーから脱走してきた癖になんだって―――』
『おいおい、そう言うなよ。混乱してるのさ、こんな世界があったっていう事にな。そりゃそう簡単に心は開けんだろう。』
夜になって、ジェリコとマウザーは今後についてどうするかを話し合っていた。
どこかに連れていこうにも、こんな状態ではそれすらままならない。寝ている時でないと移送すら難しい状況なのだ。
勿論、無理やりに引きずりだす事は可能だろう、彼女は衰弱しているし所詮は少女なのだ。力で負けると言う事は無い筈。
が、しかし。トイレにすらも行かず、ずっとこのままの彼女を引き取る施設等あるのか。里親などいるのか。
暫くはカウンセリングが必要かもしれないが、それにしても病院にずっといる事等出来やしない。
となれば、数日の間に引き取れる人間を―――事情を理解している人間で、という注釈つきでだが、探すしかなかった。
そしてその候補は目下の所、警察に属するマウザーか発見者のジェリコ、のみであった。
『……施設じゃ引き取れないのか。』
『わからんが、この状態じゃあなあ。そもそもお前、ほっぽり出せるのか。
今朝はそんなこと言ってたが、一日一緒に居てどう思った。』
『……無茶言うな。俺はな、子供の世話なんてした事は―――』
『そういう話じゃねぇよ。』
ジェリコが言葉を濁そうとしたのを、マウザーが遮る。"俺が言っているのはそういう事じゃない"と
視線で訴えかけるその眼は、少量の呆れと、そして多分な憐れみが含まれていたのをジェリコが感じ取った。
『―――……わかってるよ。だが、あの様子じゃどうにもならん。子育て以前に、俺にはアイツを救う事なんて―――……。』
『どうかな。やり方次第じゃ、お前さんには出来ない事もない筈だ。ジェリコ、眼をそむけるな。』
『お前さんのあの"力"なら、彼女を救えるんじゃないか。言った筈だぞ、"偶然とは思えない"って、な。』
マウザーはそう言い放つと、腕時計をちら、と確認する。もうかなり遅い時間だ。事件の進展を調べるためにも
そろそろ警察署に戻らねばならないのだろう。言うべき事は言った、と判断したのか彼は出口へと歩みを進めていく。
『……おい、また俺をあのガキと二人きりにする気か。』
『答えが未だだぜ。俺には目の前に解決するべき事件<仕事>がある。じゃあ、お前さんの仕事はなんだ、ジェリコ。
―――俺にはな、"あの娘"をどうにかする事が最優先だとしか思えん。このままじゃ、衰弱して死んじまうぜ。』
『……だがマウザー。仮に俺が彼女を"救った"として……もう、彼女から情報は聞き出せなくなるぞ。事件の情報は消えるんだ。』
『……はっ。おいおい、甘く見るなよ警察を。子供に頼り切りなんて格好がつかねえだろうが、良いから……助けてやれよ。』
自動ドアが開き、マウザーは雨の中へと消えていく。暗い闇が広がった夜空は、今夜も懲りずに泣いていた。
漆黒と雨音が混ざり合い、墨の様にどろどろとした液体が下水へと流れていく。しかし、雨はいつか止むとしても
決して心の傷だけは、消す事が出来ない。そう、決して―――決して消す事は出来ない。筈、だったのだが。
ジェリコはじっと、自分の右手を見つめた。こうして良く見ると、歳をとった事を認識させられる。
掌には皺が多く、そしてどこか指は先細り、そこにはもうかつての自分が思っていた"掌"は存在していなかった。
ぎゅ、と握り締めた拳すらも、どこか弱弱しい。だがしかし、自分にはこの拳を握るだけの力と意思が、存在していた。
『……救う、なんてものじゃねぇ。俺の力は……そんな上等なものなんかじゃ、ないんだ。』
力無くつぶやいた言葉も、雨音の中に消えていく。だが、ジェリコはそれでも前を向いて。
そしてマウザーとは逆に、院内へと―――彼女の待つ病室へと戻っていく。一体自分はどうするべきなのか。
良く考えてから行動しなければならなかった。結局の所、自分に出来ることは彼女を救う事等では無く、"奪う"事なのだ。
だがそれが彼女にとって幸せな選択であるのなら、そうするべきなのかもしれないと、そう考えているのは他人であるジェリコであって
決して彼女の意思で成される事ではない―――考えれば考える程、頭がおかしくなりそうだった。
ならば聞いてしまえばいいじゃないか、とジェリコはそう判断する。彼女にどうしたいか、確認してみるのも手だ。
もっとも―――言葉を発する事が出来る状態には、思えなかったが。根気良く続けてみなければなるまい。
結局の所、彼女の人生を決めるのは彼女自身なのだから―――そんな綺麗事を言い訳に、彼は病室に戻って
再び、蛻の殻となったベッドを発見するのだった。
『……おいおい、そんなにベッドの下が好きなら……』
―――しかし先程と様子が違っていたのは、今度は"ベッドの下"にすらも彼女の影が無い事だった。
ベッドにも、その下にも、トイレや洗面所は愚かどこにも彼女の姿は無い。まさか―――そう思って窓の外を、見やると。
雷鳴と共に稲光が遠くの方で唸る。一瞬だけ明るくなった病院の外、庭になっている部分に小柄な体躯を彼は、発見した。
慌てて部屋を飛び出し、彼は病院の外へと駆ける。齢50を超えているとは思えない、俊敏な動きでドアを潜り抜け
病室の窓から見えた庭先の方に向かうと、確かにそこに彼女はいたのだった。患者衣を泥だらけにしながら
病院の外に併設された小屋―――恐らくは物置小屋であろうそこから、木材を独りで、抱えて。
何度も何度も転びながら、訳もなく木材を運んでは積み上げて。また、転ぶ。彼女は―――彼女は、一体何をしているのか。
せっかく洗ったばかりだと言うのに、身体はあちこちが傷だらけになっていて、おまけにその身体は小刻みに震えている。
当然だ、まだ少し夏の陰りが残っているとは言え、既に季節は秋を迎えている。冬も目の前になったこの時期に
大雨の中傘も指さずにこの娘は―――ずっと、"こんな事"をしていたのだ。風邪をひいて居てもおかしくはない、筈だった。
だが震えながらも彼女はまた、小屋へと戻り木材を取りだしては、運び、そして積み上げている―――ジェリコは暫くの間
その光景を呆気にとられて見ていた。何をしているのか。この行為に何の意味があるのか。何故木を積むのか。
頭の中で情報が滅茶苦茶に転がりまわり、その処理が追いつかなくなったその時、出会ってから初めて、ようやっと
彼女が何か―――言葉を紡ぐのが、聞き取れた。か細く、今にも消えてしまいそうなその言葉を、ジェリコはしっかりと聞きとった。
『――――――――――――ごめん、なさい……』
気が付いたときには、既にジェリコは彼女の身体を抱き締めていた。もういい。もうたくさんだ。冗談じゃない。
何故子供が謝る必要がある。この娘が何をしたと言うのか。何をどうしたら、言葉を失うまで傷つくのか。
何をどうしたら、あんなに鋭い、世の中すべてに対して憎しみを込めた目を、10歳の子供が持ち得るというのか。
何をどうしたら、こんな夜中に、雨の中で外に出てまで忌々しい"作業"をしなくてはならないと、そう思ってしまうというのか。
だが腕の中で、呪詛の様に彼女は繰り返す。止む事の無い雨の様に、ただ只管に『ごめんなさい』『ごめんなさい『ごめんなさい』と。
誰が。誰がこんな風にしてしまったのか。誰が彼女を、こんなになるまで傷つけてしまったのか。ボロボロにしてしまったのか。
10歳の少女が背負って良い様な業ではなかった。目をそむけず前を見ろだなんて。受け容れて抱えて生きて行けなんて。
そんな事、出来る筈が無い。一度はそう説いたジェリコですらも、もうそんな綺麗事は通らないのだと。
肌身でそれを実感していた。このままでは、この命は消えてしまうだろう。そんな時に、正論など通る筈が無い。
もし正論を通し続けるとして、ならばこの命は消えるべくして消える命だとでも言うのだろうか。救う価値の無い命なのだろうか。
雷雨の中、何の因果か自分の家に転がり込んだ彼女を、見捨てる事等出来るのか。それとも、専門家なら救えるのか。
その専門家が彼女の心を開くまでに一体何日かかる。何週間かかる。それまで彼女が、こんな小さな子供が、生き長らえる事が出来るか。
この娘は脱走した事実に、恐怖を抱いているのだ。自分を追いかける存在がいて、自分が犯してはならない罪を犯したその事実に、
恐怖しているのだ。だからこんな時間にこんな場所で、わけもなく奴隷だった頃の記憶を頼りに、自分に罰を与えている。
誰に謝っているのか。ごめんなさい、この六文字の呪詛は誰に向かって投げかけられているのか。謝る必要など、ないのに。
だが彼女の目に映る全ては奴隷か、そうでない人間か、その両極しか存在しないのだ。であれば、自分も彼女の目には
奴隷ではない、奴隷を支配する側の恐ろしい人間に見えていても可笑しくはない。何より、この娘はまだ子供なのだ。
まともな判断力などあるわけがない。そもそもあるわけが無いのに、それで尚こんな酷い状況に追い込まれてしまった彼女を
一体どうすれば救えるのか。答えは簡単だ、もはや救う事など出来よう筈が無い。ならば―――ならば、どうするか。
『……もういい。もういいんだ。こんなこと、こんな……こんな、クソッタレなことなんてしなくて良いんだ。』
『お前さんには進むべき未来があるんだ。助かったんだ。それを……それを俺達が無駄にするわけには、いかないんだ。』
『いいさ……恨むなら、恨め。世間になんと言われようと、それで構うものか。』
『俺はそもそも、罪人だ。もう、赦される事なんてあるわけがない。』
『だから―――』
『だから、俺が―――全部、"奪って"やる。お前の抱える闇を、消してやる。』
『……これで三件目か。連中の移動速度は早い。それも俊敏に事を為して直ぐにとんずらしやがる。』
『そもそも、この国は広大ですからね……それに今回の舞台は西部の開けてない地方だ。これじゃあ、全てを警戒するのは……』
『そんな必要は無い、これまでの動きから"次"が予測できるはずだ、候補としてはこの集落、それからこっちの村だな。』
『……被害者が出る前に全員を非難させる事は、出来ますか?』
『……どうかな。ともかく、警官の増援だ。それから武器もな。』
病院があるのと同じ街、マウザーが身を置く警察署の署内。そこでは現在起きている"奴隷事件"に端を発する
一連の襲撃に関して緊急対策が練られていた。昨日今日とで三件もの集落が、小規模とはいえ消滅している。
能力者による犯罪が激化する中、都市部でのテロは増加していたがこうも田舎の土地でこういった陰惨な事件が起きるとは
警察もそしてこの国の全員も想定していなかったのは間違いない。完全に虚を突かれる形となっていた。
対策が遅れれば更なる被害の増加は確実であって、現在事件のおきた周辺地域へと多量の警官を送り込んで
その警備に当たらせる事が確定したが、本部の腰は重い。その上、戦力から判断して敵には恐らくであるが―――
"能力者"の存在が垣間見える事も確かだ。でなければ、この道のプロである火消し役が存在するか或いは、両方か。
ともあれ、絶対に見逃す事が出来ない凶悪な事件である事に違いはない。被害の拡大を食い止め、そして首謀者を
絶対に死刑台に送り込まねばならなかった。マウザーは若い刑事と話をしながら、片手に掴んだ12ゲージショット・シェルを
ウッド・ストック装備のレミントンM870―――つまりはショットガンに装填し、フォアグリップをガシャリ、とポンプさせた。
装填完了、合計して5丁ものショットガンと3丁のハンドガンを愛車のフォード・マスタングへと積み込む。
パトランプを点灯させ、運転席へと乗り込み、ハンドルを握る。ローに入れたギア、アクセルとクラッチが感応し、重い車体が動き出す。
V8エンジンの強烈な吹き上がりを感じながら、警察署を飛び出したマウザーは車の中で祈った。
『―――……もう、死傷者は出させねえぜ。』
ジェリコは雨の中気絶した少女を抱きかかえたまま、今度は『あの日』とは逆に、馬を走らせて自分の家へと向かっていた。
自分が為すべきことは何か、それがわかった。そしてその覚悟も出来ている。ならば、もう病院にいる必要は無い。
その後の事など、知った事か。退院の手続きくらい、マウザーに押し付けても罰は当たるまい。
そんなことよりも先に、自分には成すべきことがあった。そしてそれを行うためには、彼はどうしても
自分の家で、自分の思い出が残っているこの場所で、それを為したいと言う思いが強かった。
真夜中の荒野を走り続けるうちに、雨は小降りになっていった。そして彼等が家に到着する頃には
もはや霧雨のような状態となっていた。ジェリコは少女を抱きかかえたまま、自室へと向かい
大きなベッドに彼女の身体を寝かせる。そして部屋の電気をつけて、背後に飾られた一枚の写真に、視線を合わせた。
『……なあ、セレネ。俺は……またひとつ、罪を犯すよ。だけどな、お前にだけは……それをきちんと、見ていて欲しいんだ。』
『くだらん拘りだろう。お前は何時かみたいに笑うか。なら、笑ってくれ。笑っていてくれ。それが俺にとっての、幸せなんだ。』
額縁に入った一枚の写真に写っているのは、美しい金髪を持った一人の女性だった。年の頃は20歳を超えた辺りだろうか。
優しく微笑む姿は見る者にどこか安心感を与えてくれるような気さえする程で、その額縁の下には
金色の文字で『セレネ・ブロウニング』―――という、名前が記載されていた。そしてそれと同時に、彼女が生きたであろう年代、
生まれてから20数年後までの経過を表す数字も刻銘に残っており―――彼女はもうこの世には存在しないであろう事を示していた。
写真自体も所々が色褪せている部分が散見され、かなり昔のものであることを物語っている。
ジェリコは写真に話しかけるように言葉を紡ぐ。そして目を瞑り、重苦しい息を吐き出した。覚悟を決めたように、
やがて少女に向き直って、静かに眠る彼女の元へと跪き身体を寄せる。そして掌を、分厚いそれを彼女の頭の上に、乗せた。
『―――神よ。
俺は……今までアンタに祈った事なんて、一度もない。
やり方も……よくわかっちゃいないし、此処には神父だっていない。
けどどうか―――どうか、この懺悔を聞いてくれ、神よ。
なあ―――こんな世界を、こんな時代を、一体誰が愛せるっていうんだ?
……愛せる筈がない。そうだろう? 少なくとも、俺には無理だろう。
だがこの娘には、彼女にだけは、どうか愛して欲しい。どうか、諦めないで欲しいんだ。
……ああ。わかってるさ。そう願うのは、きっと残酷だろう。―――それでも、俺は……』
『―――俺は、この娘を、諦めないぞ。』
懺悔が終わり。ジェリコの掌が、銀色の輝きを灯す。美しい、光だ。しかしそれは同時に、残酷な光でもあった。
全てが終わったとき、まだ彼女は目を覚まさずにいたが。ジェリコは確信していた。
自分が赦されない事をしたことを。そして、そうする事で彼女を解放できるだろう、という事を。
立ち上がり、セレネの写真にもう一度視線を合わせて。"此れで良かった、とは言わないぜ"―――そう、呟いた。
暫く彼女が目覚めるのを待とうとしたが、ふと窓の外に怪しい光が映ったのをジェリコは見逃さなかった。
警察のパトカーか。いや、パトランプの色はもっと明るくて、それに赤と青の二色が交互に点滅するはず。
だが今見えたのは正真正銘、旅人が暗闇を歩くときに使うランプと同じ暖色の淡い灯火だった。
こんな時間に、しかもこんなタイミングで外を出歩く人間がいるだろうか、いや居る筈が無い。
で、あれば先ず間違いなく―――そう。ジェリコの瞳の色が変わった。
捻くれた頑固な爺の其れでは無く―――どこか鋭い、獲物を狩る猛禽のような、獰猛な瞳が姿を現した。
『おい、ドナルドさん! こっちの方にはもう村はなさそうだぜ!』
『ああ、わかってるさ。だが見ろ、あの草臥れた一軒家を。
距離も俺達の本拠地から離れてない、ここに逃げ込んだ奴がいるかもしれん。』
『明かりが着いてますねぇ……まあ、村を焼き払うよりは幾分か楽なはずだ、チャチャッと片付けましょーや。』
『決まりだな、アンドリューの旦那ァ! 今夜はあの腐れた家を吹き飛ばして終了としましょうや、警察の来る前にとんずらだ!』
馬が10頭、そこに乗った男達が合計で12人以上。全員が銃器と刀剣類を持ち武装した状態で、ランプの明かりだけを頼りに
村々を渡り歩き、奴隷の捜索をしていた時。ふと視界に入ったのは森にぽつん、と立った一件の家だった。
電気が通っているかも怪しい偏狭にひっそりと立っている家は、木造で直ぐにでも壊せそうなほど年季が入っている。
丁度良い。今夜は収穫ゼロで気分も晴れないし、腹いせに吹き飛ばしてやろう。
それで最後の一匹が見つかれば一石二鳥、これ以上ないほどご機嫌だ。ドナルド率いる奴隷商の襲撃者達は
家へと向かって馬をゆっくりと進めていく。隊列を崩さず10もの馬が進むさまは、さながら騎兵隊か。
手にした武器類を振り回しながら、全員が瓶の酒を煽っており―――まさに無法者に相応しい、というような体であった。
距離にして家から100m程だろうか、彼らの馬が一旦そこで停止する。というのも、中から一人の男が、そう
老人と思わしき人物が"何か"を引きずりながら出てきたためだ。お喋りは止み、ドナルドが全員に静まれ、と命じる。
ずる、ずるずる。家から出てきた男はゆっくりと、しかし確実に隊列に向かって歩みを進める。何か大きな物を、引きずりながら。
『……ドナルドさん、ありゃなんですか?』
『知るか。耄碌の爺だろう、おいみんな、まずはアイツから嬲るぞ!』
『ハッハーッ! 爺が相手じゃ締まらねぇな、せいぜい金目のモンでも持ってりゃいいんだけどよォ!!』
ドナルドの号令で、襲撃者達は馬を走らせて老人の周囲へと展開。
素早くその身体を囲うように逃げ道をなくし、全員で男を見下ろす。思っていたよりもずっと大柄で、よぼよぼというわけでもないらしい。
爺の割には―――とそう思っていたドナルドが、いやむしろ襲撃者全員が、男の引き摺っていた物の正体を知って戦慄する。
―――棺桶。それは人が二人は入りそうな巨大な棺桶であった。漆黒のボディに十字架が掘られた、厳つい棺桶。
この男はこんな物を引きずって一体、何をしているのか。ドナルドは面食らいながら男へと怒鳴った。
『……おい、ジジイ! その棺桶に入ってるのはなんだ、嫁さんの死体か? これから埋めに行くのか?』
ドッ、と笑いの渦が起こる。襲撃者達は笑っていた。
一人が馬を降り、調子に乗って棺桶をガツン、と蹴り上げて
蓋が開いたときに中身が垣間見える、その瞬間までは。
『なっ―――――――――――――!?』
棺桶の中に眠っていたのは死体ではなかった。
ライン・メタル社製重機関銃MG3が二挺。
モスバーグ社製M500ショットガンが三挺。
イスラエル製サブ・マシンガンUZIが二挺。
トンプソン機関銃が一挺。
コルト・ガバメントが四挺。
カール・グスタフ無反動砲が一挺。
他にも羅列すれば限が無いほど、多量の重火器、重火器、重火器が山ほど眠っており―――瞬間。
老人は羽織っていた薄茶色のロング・コートをバサッ、と放り投げてその身を翻す。
蓋を蹴り開けた男をすかさず、棺桶に入っていたUZIサブマシンガンで銃撃、1マガジンをぴったり使い切って
合計40発もの9mm弾丸を全弾、一切ブレることなくその身に完璧な照準でブチ込む。
断末魔の悲鳴すらも上がる事無く、噴け上がる強烈な煙と銃声が闇の中に消えた。
その間僅かに数秒、呆気に取られていた他の襲撃者達は銃を抜くことすらもままならず。
撃ち終えたUZIを勢い良くブン投げる事で投擲、首領と思わしきドナルドの顔面に命中させる。
そしてそのまま乗り手を失った一頭の馬に飛び乗って、とても人が持てるはずは無かろうその棺桶を引きずり、爆走―――!!
『なっ……撃てッ!! 撃てッこのバカ野郎ども何ボーッとしてんだゴラァ!!』
激走する馬がある程度の距離をとったところで男は飛び降り、棺桶を―――なんと持ち上げて縦代わりにし。
やっと銃を引き抜いた襲撃者達からの一斉射撃を全て防ぐ。頑強な棺桶はとても木やプラスチックで出来ているとは思えず。
鋼鉄に鉛がブチ当たった際に起きる強烈な金属音を響かせ、襲撃者達の貧弱な銃器を全て防ぎきってしまった。
すかさず反撃が開始された。棺桶の陰から躍り出た"老人"が両手に握ったコルト・ガバメントが火薬を弾かせ疾駆する。
45口径の弾丸が音も無く忍び寄り瞬間、男達の持っていた―――そう、11人もの男達が持っていた、全ての銃器を
精確に、一片もブレることなく、完璧に撃ち抜いて弾く―――その高速精密射撃の速度たるや、
まさに音すらも置き去りにしているほど。比類なき射撃の技術と、その感覚。この間に襲撃者達は理解していた。
『……よう、小童ども。最近は銃の撃ち方もなってねぇ賞金首が増えたんだな。』
『俺が"銃"の使い方ってモンをたっぷりと教えてやるよ。』
―――襲撃されているのは、追い詰められているのは、むしろ自分達であったという事に。
パニックに陥った襲撃者達が滅茶苦茶に馬を走らせ、散り散りになろうとするが、しかし。
男は棺桶の中から取り出した二挺のMG3を両脇に抱え、二挺同時にフル・バースト―――老人とは思えない怪力で
強烈な重機関銃の跳ね上がりすらも物ともせず、腰溜め撃ちで弾幕が張り巡らされた。
さながら暴風雨のような弾丸の雨霰が、逃げ出そうとした襲撃者達を問答無用で貫いていく。
あるものは弾丸を喰らい、落馬しながら重力の影響を受けつつもまだその身に弾丸を叩き込まれる。
ボロ切れのように吹き飛ばされた片腕を探しながら、続いて足、もう片方の腕と何もかもを穿たれる者もいれば
最初から頭部に弾丸を貰っていたにも拘らずそれではまだ足らないとばかりに7.62mmの洗礼を受け続ける者もいた。
弾丸を使い切って銃身が熱で焼ききれそうな状態のMG3を両脇へと放り、今度はトンプソンとショットガンを構えて老人は躍り出る。
果敢にも反撃を繰り出そうとした一人は銃を構えた腕を最初に吹き飛ばされ、続いて両目を抉るようにトンプソンの45口径で狙撃された。
剣で切りかかろうと錯乱した一人の男が背後から襲いかかるも、老人は振り返りもせずにモスバーグを後方目掛け射撃。
視認すらせず音と、空気の振動のみを頼りに散弾が放たれるが、心配は無用で襲い掛かった男は身体を真っ二つに吹き飛ばされた。
逃走手段に成りえる馬すらも全てが散弾の嵐に巻き込まれ、いまや戦場と化したこのフィールドでは一方的な虐殺が行われていた。
忍び寄った襲撃者の一人が棺桶の銃器を奪おうとするも、棺桶には"何故か"ロックがかかっていて空く事が無く。
代わりに老人が反対側から蹴り倒したおかげで超重量の棺桶の下敷きになり、骨格ごとぐしゃぐしゃにひしゃげてしまった。
残る全員にも銃弾をすべからく、叩き込み。残弾数がゼロになったところで、老人―――ジェリコは、銃を放り投げた。
暴力的な弾丸の嵐が終わって、その場に生き残っていたのは二人。うずくまって只管に震える男―――首謀者と思わしきドナルドと。
そして早々に木の上へと逃れ、此方の様子を見ていた一人の男―――アンドリュー・ウェッソンであった。
ドナルドはタダ震えながら『勘弁してくれ……』だの、『おかしい、どうして、こんな……』だのと呟いていたが
もはや心神喪失状態、相手にする必要は無いと考えたのであろう。ジェリコは木の上へと声をかけた。
『全部で12人。殺したのは10人。あと二人居るのは分かってるんだ。降りて来いよ、ゲテ野郎。』
『へぇボクが頭上に逃げた事も把握してたんだ凄いね驚いちゃうなそれにさっきの戦闘でも不思議な事が起きていたね
仲間の一人が棺桶の蓋を開けようとたのに開かなかった最初は蹴り空ける事も出来たのに可笑しいね鍵は無かったはずだけど』
ぺらぺら、と。長台詞を噛む事すらなく不気味に、呟きながら。ビロードの蒼いジャケットを闇に溶け込ませて
能力者、アンドリュー・ウェッソンはふわふわ、と。奇術のように空を舞いながら着地する。
ジェリコはその様子をまるで興味なさそうに見ていたが、彼の着眼点にはどうやら興味を誘われたらしく。
『……よく気が付いたな、饒舌クソマジシャン。俺は何でも"ロック"できるのさ。鍵なんていらん、触れればなんでも、な。』
二人は対峙した。ニヤニヤとしているアンドリューと、対照的に鋭く彼を睨み付けるジェリコ。
お互いの動きが硬直したその直後、遠くで雷鳴が鳴ったのを切欠に―――二人は、一斉に動き出した。
先に動いたのは以外にもアンドリューだ、腹部から数枚のトランプを引っつかみ、鋭くそれらを投擲。
数枚がジェリコへと向かい、ジェリコはそれを回避する。トランプは彼の背後の木々へと突き刺さった。
恐るべき切れ味と勢いだ、しかもそれが続けて何枚も何枚も、絶える事無くジェリコへと降り注ぐ。
木々の間へと身体を翻し、最初はそれらを避けていたジェリコだったが、次なるアンドリューの攻撃には思わず、怯む。
思い切り息を吸い込んだアンドリューの口から放たれる火炎が、ジェリコとその周囲の木々を襲った。
連続して何発も火が放たれて、ジェリコは成す術無く回避行動に専念せざるを得ない。
そしてそこに、再び何処から現れたのか、奇術のようにダイナマイトが放り投げられ、更には口から吐き出す火炎で引火。
大爆発を起こし、更にはトドメとばかりにトランプの雨霰が降り注ぐ。煙が上がって、暫しの間沈黙が流れる。
―――が、返答は思わぬところから返ってきた。アンドリューの背後、先程の棺桶があった付近から
ジェリコの面倒くさそうな声が、聞こえてきたのだ。
『……面白い能力だ。特定のスペクトルに技術が傾かず、オールマイティに使用できる汎用性の高さは魅力的だな。』
『だが俺の目には残念ながら……なあ、お前さん素人なのか? "なんでも出来る"ってのと"全部半端"ってのは違うんだぜ。』
『とっ散らかってるようにしか見えねえな。それで、用心棒を気取ろうなんてちょいと甘いんじゃないか、奇術師よ。』
爆風、連撃。どれもこれもが完全に、見切られていたとでも言うのだろうか。ジェリコはかすり傷一つ負っておらず。
造作も無く棺桶を"開け"ると、中からガン・ベルト―――二対のホルスターを取り出して、腰に装着する。
ホルスターに鎮座しているのは、二挺のコルト・S.A.A―――大昔の銃器だ。バカにしているとしか思えない。
だがそのグリップには確かに、凶悪な"鬼"のシルエットが紋章として描かれており―――。
『……冗談はよせなんの力を使ったか知らないが防御系の能力と見た次はこうはならない死ぬのは君だ腐れジジイ』
アンドリューは誘い言葉に乗って、全身から複数枚のトランプを浮かばせ、宙に配置する。
そしてそれら一つ一つが鋭利な武装となって瞬間、踊り狂うように乱舞、乱舞、乱舞―――!!
ジェリコ目掛けて飛来するが、しかし。
音すらなく、トランプが全て"撃ち"抜かれた。
確かに、ジェリコは銃を抜いていた、"らしい"。いやそれすらも、もはや速過ぎて目で追えるレベルの抜き撃ちではなかったのだが
それにしても、無音。銃声すらせず、音も無く、全てのトランプが、そう、トランプがだ、横からではなく正面から、つまりは―――
薄皮一枚にも満たないであろうその厚みを真正面から撃ち抜かれていたのだ。しかも45口径の弾丸で、だ。
飛翔し、凄まじい速度で向かう来る"紙切れ"を"視認"し"照準"を合わせ"発砲"する、この3アクションを音速の世界でこなし
その上どれも正確に一寸のズレすらなく全てを完遂する驚異的なまでの射撃技術―――何が起こったのか、アンドリューには理解できない。
『ああ、そうだ。さっき言ってた"ロック"ってのはな、言い換えれば<封印>だ。』
『俺の持つ"力"の名は"アンフォーギブン"―――指で触れて、感覚を掴んだ物を何でもかんでも封印する力だ。
今は"銃声"をロック<封印>した、だから俺の射撃には音が無い。一切の音がな、まあ仮に音が在ったところで
お前さんのトロい感覚じゃ俺の抜き撃ちを見切ることは不可能だと思うがね。せっかくだし音もいれてやってみるか?』
この男が何を言って居るのか。アンドリューは困惑した、音の無い射撃。能力に使用。そこまではわかる、だが、だがしかしだ。
ならばトランプを、乱舞する複数枚のトランプを、たかがシングルアクションのリボルバー二挺で
一発も外す事無く正面からブチ貫くその技術其の物は、まさか本当に能力でもなんでもない"テクニック"だとでも言うのか。
ありえない。コンマ00秒の射撃自体もイカれているが、何よりその精密性、こんな事を為し得る人間が本当にいるのか。
困惑が恐怖へと変わっていく。有る筈が無い。自らが奇術が全て見切られることなど、有る筈が無い。
『……ふ、ふざけ、け、るな!!』
取り出したのは刀剣。8本の長い刀剣を口の名から次々と取り出して、それぞれ四本ずつ片手に構え、
そして今度は弾かれるわけが無い、とそう言わんばかりにびゅん、びゅん、と風を切らせて投擲する―――!
振りぬかれた刀剣が合計八本、ダーツの矢の様に精確に精密に、ジェリコの肉体を目掛けて飛来する、が―――。
『面白いのは能力だけ、それ以外はお粗末にも程がある。』
たった一発。放ったピース・メイカー<S.A.A>の45口径弾丸が、先頭の一つの剣を正面からではなく
唾の部分を撃ち抜き、軽々と弾けば―――面白いのはここからで、まるでビリヤードの球の様に刀剣は次の刀剣を弾き
そして又その次も、その次も刀剣はそれぞれがガツン、ガツンと弾き合ってジェリコに届く手前で失速、全部がバラバラに堕ちてしまう。
八つ、迫り来る剣を―――中々の速度であった筈のそれを、全て無効化するのに使った弾丸はたったの、一発のみ。
アンドリューは唖然とした。何がおきているのか。目の前のこれこそ、まさに奇術染みているではないか。
自分のそれよりも、ずっと恐ろしいまでに―――……。
『ア、ああああ、ああああああああああ!!』
怒り狂った様に今度はダイナマイトを出現させるも、手元に現れたそれの導火線が全て、気が付いたときには撃ち抜かれる。
手にとって、火をつけようとしたときには既に弾丸が飛来し、自分を傷つける事無く精確に導火線のみを、切り裂いて。
バラバラバラ、と導火線を失ったダイナマイトが哀愁を漂わせて落下していく。冗談じゃない。
アンドリューは慌てた手つきでゆっくりと歩み寄ってくるジェリコに対し、最後の手段たる"奇術"をかけた。
それは村民達を虐殺する際に最も"仲間受け"が良かった残虐な奇術の一つであり、"相手の行動を操る"というものであった。
この奇術にかかれば相手はアンドリューの意のまま、自分で自分の喉元に銃口を運び引き金を引いてしまう。
恐ろしい奇術であった。この技が破られた事は未だかつて一度たりとも無かったのだ、これなら。
アンドリューは覚悟し、ジェリコ目掛け普段どおりに"術"をかけようとして、そして―――
『ん? なんだこりゃ……』
ブチ。という、何かが千切れる音が木々の間に響く。それは細くしなやかで去れど強靭な"糸"が引きちぎれた音であった。
ジェリコの周囲に彼を覆うように展開していた複数の糸が彼を絡め取ろうとして、いたのだ、が。
ジェリコはまさに、意に介することすらなく怪力で全てを引き千切る。『邪魔臭いな、なんのつもりだ?』等と呟きながら。
ブチ。ブチブチブチ。糸もまた哀愁を漂わせて地面へとふわふわり、堕ちていった。可笑しい。そんなはずは無い。
アンドリューは激怒した。
『じゃ、じ、じょうだんじゃない!! ふざけ、ふざけっンなよお前ぇぇぇェぇぇェ!! あァ!? おkしいだろうgよ!!
なんっでワイヤーが、キレ、キレちまうんだよッ!! おい!! ザッケんナヨ!! おま、おまえおかし、おかしいぞ!!』
『マジシャンが客にキレるなよ。この糸と一緒で脆いもんだな。安物はこれだから……ああ、そうだ言い忘れてたが。』
『―――俺はな、夏と冬とクソッタレの手品師が"大"嫌いなんだ。』
再び、無音の射撃が行われる。無慈悲に、なんの容赦も無く、アンドリューの肉体のうちまずは右腕が、吹き飛んだ。
バラバラと袖に隠していたトランプが落ちる。次いで、左手首が弾け飛んだ。ナイフが数本、零れ落ちた。
右足にも一発、左足の関節にも一発。四肢の全てが撃ち抜かれる。断末魔の悲鳴が上がり、子供のような甲高い声で
ちょっと言えば気色悪い程の声で、泣き叫ぶアンドリューへとジェリコは近づいていく。
そしてその胴体を踏みにじりながら、S.A.Aに弾丸をリロードし、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見下ろす。
悲痛な筈だが、どうしてか情は湧かなかった。まあ、そんな物だろう。ジェリコは血塗れになったビロードのジャケットを見て、呟く。
『……賞金首、じゃねえよな。どうするかな……おいお前。賞金かかって無いよな。』
『ひ、ひひ、いいい! か、ね、かねあるタスケテ!ッ かね、かね渡す!!』
『おお、そうか。そいつは有難いな。因みにその金はどこにある?』
『あい、あいつあいつがもってる!!あいつが、おれのやといぬしだドナルド・スミス!!ドナルド・スミスだよ!!
お願いだもうやめ、やめて、やめてくれ!! 金なら渡すからおね、おねがいいのちだけは』
『そうか。ところでお前、俺がさっき丁寧に、お前に対して俺の能力をペラペラと喋くって説明してやったのは何故だと思う?
知られたら面倒な事だらけだよな、普通は敵に対して自分の手の内を明かすなんてバカな事はしない。
ましてその相手が戦闘後に"生きて"いたのなら―――後々、面倒な事に繋がるんだぜ。なあ、そうだよなぁ?』
『……ぬ、な、に、をいって――――――……!』
『その金とやらは、お前をブッ殺してから有難く頂くとするよ。インチキ野郎。』
アンドリューは頭が可笑しくなったかのように、猛烈な勢いで指を差す。その先にいるのは蹲ったままのドナルドだ。
恐らくは、というより矢張りアレが首謀者か。ジェリコは何のためらいも無く煙草に火をつけて、そして
一息ついてから導火線が切れたままのダイナマイトの群れに煙草を放り、そして動けなくなったアンドリューから離れる。
『ア、手、てめ、てめえええええええええええええええええええあああああああああああああああああああああ!!』
―――不思議と、爆発音はしなかった。爆発したのは確かで、彼の身体は滅茶苦茶に吹き飛び、
腕やら足やら内臓やらがそこいら一帯に滅茶苦茶に広がっていたのも確かなのだが。
爆発音は恐らく、"ロック"<封印>されていたのだろう。当然だ、まだ少女は眠っているのだから。
大騒ぎして起こしてしまっては可哀想だ、もっとも先程MG3を滅茶苦茶に振り回した際には消音しなかったのだが。
ジェリコはドナルド―――ドナルド・スミスへと近づいていく。
『……ちょ、ちょっと、ちょっと待て。なあ、違うんだよ俺は別にアンタを襲おうとしたワケじゃ――――!!』
彼の首根っこを捕まえて。ぐい、と視線の高さまで持ち上げる。もはやドナルドに勝ち目は無かった。
いや最初から無かったのだ、ドナルドは老人の顔を、その傷を見て確信する。この男が一体誰で
自分達は一体誰に喧嘩を売っていたのかを。
『て、てめ―――てめぇ、ジェリコ・バーンズだなッ!! 銃鬼<ガン・オーガ>の、ジェリコだなッ!!
クソッタレ、なんでてめぇが……都市伝説扱いされてるはずじゃなかったのか!!クソッ!!』
『そうだな、実際都市伝説と化してるらしいぜ。あまり素性を嗅ぎまわられるのは好きじゃなくてな、
事件に関わってるヤツの俺に関する"記憶"は大抵その場でロック<封印>してた。あながち間違いじゃあない。』
『は、ハハッ……
地の国じゃ、ここいらじゃ伝説の賞金稼ぎの名を欲しいがままにしてる爺が、は、ハハハッ!
まさか、こんな偏狭のクソ田舎に―――へへ、住んでるとはなぁ!! ハハッ!! だがこれではっきりしたぜ!!
おまえに、おまえに俺は殺せないぞジェリコ!! おれはな、賞金首だ!! ドナルド・スミス―――強盗団の一員だよ!』
『……ほう?』
『しかもかかってる賞金は100万やそこらじゃねえぞ、1000万超えだ! オマケにデッド・オア・アライブ<生死問わず>でもねえ!
生きて警察に連行しなくちゃ金にもならねえんだ、、へへ、へへっへ! ざまあみろ!!
懸賞金がついたのは奴隷商売を始める前だったからなぁ! 明るみに出てりゃ今頃DOA入り確定だったのによぉぉ!!
ひゃは、はははひゃははははははは!! 殺せねえ、おまえに俺は―――賞金稼ぎのお前に俺は、殺せねぇぞ!!』
―――地の国。この大地の上に根付く深い"闇"を代表する者が、ジェリコの目の前にいるこの男、奴隷商なのだろう。
だが、この国は矢張り広かった。闇があるのなら、其処には光も同時に存在するのだ。その"光"の象徴ともいえるのが
かつてこの地で名を馳せた伝説とまで云われる独りの男―――"銃鬼"<ガン・オーガ>の異名を持った、
この"ジェリコ"という老人なのかもしれない。彼はかつて、腕利きの賞金稼ぎであった。
今でこそ訳在ってそういった"野蛮"な仕事からは手を引いている物の、その腕が衰える事はどうやら、無かったらしい。
鋭い瞳が、揺れる事の無い怒りの炎がその輝きを増していき、ドナルドを真っ向から睨みつける。
しかし双方の関係は"賞金稼ぎ"と"賞金首"―――そう、こうなってくると取るべき選択肢は一つだけ。
ジェリコはこの男を、生かしたまま警察へと連行しなければならない。
『……なるほど、な。確かに、其の通りかもしれん。』
この腐った男が、"あの少女"を生み出した張本人。腐敗しきった人間の御遊びで彼女はあんな風になってしまった。
その怒りが収まる事は無い、だが彼はあくまで"賞金稼ぎ"であった。
―――脳天を撃ち抜き死体を滅茶苦茶に踏み砕いて怒りをぶつけ、神罰の代行者"アヴェンジャー"となる事は容易いだろう。
こんな人間が生きて居て良い筈が無い。彼女のこれからの為にも、殺すべき人間なのは明らかだった、それでも尚。
ジェリコは、どうするべきか悩む。自分はあくまで、賞金稼ぎでしかないのだから。
『は、はははッ! ドブに捨てるかよ、大金をッ! 悔しいか、分かってるんだぞクソッタレ!
てめーだろ、てめーが匿ってんだなあのクソッタレのメスガキをよッ!! その復讐か、ヒャハハハ! ざまあねえぜ!
こ、これで納得がいったぜ……たかが夜盗相手に、ジェリコ・バーンズがここまで怒りを見せる筈が、ねえんだからなッ!
あの家かッ!! あの家に居るんだな俺の"奴隷"がよォォッ!! あいつはどうだ、元気か!? ブルブル震えて飯も喉を通らねえか!?』
この世の憎悪を煮詰めてひり出したかのような、下卑た笑いが木々の間に響き渡る。
そう、単に彼等を追っ払うだけならばジェリコ・バーンズが武器を用意し待ちかまえていた理由が分からない。
だが彼が事情を知っていて―――つまり奴隷を匿っていて、彼等の襲撃を予期していたとなれば話は別だ。
ドナルドはそこまで理解したうえで、バーンズと、そしてあの少女を罵倒し続ける。
『"オーガ"の異名も腐ったもんだなッ! あんなメスガキ一匹を相手に同情でもしちまったか、ええおいジジイ!!
それともなんだ、ひ、ひひひ! まさかてめぇ、"そういう趣味"でも持ってんのか、ハハハハハハッ!!
そうだよなあ、奴隷のメスガキなんざやりたい放題できるもんなぁっ!? 宝物拾っちまったなぁ、あっはははははは!!』
『あ、あのガキはなっ! クソ揃いの奴隷共の中でも一番クソッタレだ! 何も喋らねえ、力はねえ、おまけに身体つきも
鳥ガラみてーな貧層さだ、遊び相手にもなりゃしねえ! あんなクソガキはもう絶対に奴隷生活から抜け出せねえぞ!
俺達は全部奪ってやったんだ、尊厳も未来も何もかもを、全部な!! 救おうなんて考えるだけ、無駄ってもんだぜジジイ!』
『ははは! クソジジイと貧弱メスガキ、どっちが先におっ死ぬか見ものだぜこりゃァよォ!! 死ね! 死んじまえ!!』
人はここまで醜くなれる物か。いや、そんな筈は無い。もはや彼は―――この男は、"人"ではないのだろう。
こうなってしまえば正に人で無し、そう言う他あるまい。ジェリコは彼の肉体を地面へと叩きつけ、S.A.Aのハンマーを、起こす。
ガキリ、という鉄と鉄とが組み合う重厚な音すらも、ドナルドの嘲笑の中に消えていく。
シリンダーが回転し、次弾が装填される。後は撃鉄<トリガー>に指をかけ、少し力を入れるだけで全てが、終わる。
もうこの声を聞く必要もない。賞金稼ぎとしての吟じ。もはやそんなもの等、大金等、どうでもよい。
すべてくれてやる、ジェリコはそう思った。引かねばなるまい。誰かがこの男に引き金を、鉄槌を下さねばなるまい。
―――指に力が入っていく。弾丸が放たれるその瞬間は、いつも感覚が研ぎ澄まされた。
時間が酷くゆっくりと流れている様に感じられる、刹那の際。しかしその直後、彼の指は動きを止めた。
停止した空間の中で、一瞬だけ―――火薬に火がつくそのほんの少し前に、一瞬だけ、ジェリコの脳裏を何かが過ったのだ。
その何かが、何だったのかは分からないが。
寸刻遅れて、銃声が響く。そこでこの狂騒の全ては終わった。
『……あなたは、だぁれ?』
『……俺が誰か、か。子供は難しい質問をするな。そんな事より腹が減っただろう。』
『……うん。これ、たべてもいーい?』
『お前の為に作ったんだよ。全部平らげて構わん。……俺の名前はジェリコ。お前は―――……』
『……? わたしは……わたしは、だぁれ?』
『……さあな。それは自分で決めろ。今日は、お前の誕生日だよ。だからプレゼントをやろう。』
『たん、じょうび?』
『そうさ、お前が……お前が、生まれた日って事だ。だからそれを、お祝いするんだよ。ほら、これを見ろ。』
『……? これ、なぁに?』
『……お前の、名前だよ。これがお前の、新しい名前だ。だが、重要なのは名前じゃない。』
『お前が……お前を、お前自身を、お前の手で、見つけていくことなんだ。それが、生きるってことなんだ。』
『……よく、わからないよ……』
『……そうだな。だが……それでいい。』
『今は分からずとも、それでいいんだ。いつかきっと―――分かる筈だから。』
エピローグ
『おい、逃げるなよマット! お前が鬼だろ! 罰ゲームするぞ!』
『そうだよ! おまえ、足がおそいんだよ!』
『ええぇ~……だ、だってぼくもう、5回も鬼をやってるもん……』
『あ、弱音吐いたな! 罰ゲームけってい!』『けってい!』
子供が三人、遊んでいた。
気の強そうな男の子が二人。うち一人は白いシャツを着ていて、どこか育ちの良さそうな印象を与えるだろうか。
もう一人は赤いシャツに短パンと、子供らしい格好だがその目つきはいかにも"ガキ大将"と言う様な体だ。
彼等は鬼ごっこの最中だろうか、子供特有のよくわからないルールがどんどん付随されていって
もはや何の遊びなのか分からなくなったものをかれこれ数時間も続けており、最初は10数人いたメンバーも
一人、また一人と減っていき、とうとう残ったのは先述の気の強そうな男の子たちと、そしてそれとは逆に
どこか気の弱そうな、青いTシャツの少年の合計三人だけであった。
青いシャツの男の子は、どこのグループにも必ず一人は居る様な、気弱で非力な、控えめの性格をしているタイプの少年なのだろう。
比較的気が強そうな二人とは一緒に遊びつつもゲームの最中はどうやら良い"標的"にされているようで、へとへとになりながら
彼等に反抗する事も無く、"罰ゲーム"としてぽかぽかとげんこつをくらっていた。所謂、いじめられっ子、というものだろうか。
勿論陰湿なそれではないし、子供のやる事だ。見ていて微笑ましい限りだが、マットと呼ばれたそのいじめられっ子は
どうにも結構本気で嫌がっている様で、段々と涙目になってきているのが見て取れた。
じゃれあい、と言われればそれまでだがどうにも、子供の世界には子供の世界のルールと言うかカーストというか、
そういう複雑な物があるのだろう事を如実に伺わせる構造の縮図は、唐突な"乱入者"の存在によって崩壊した。
『も、もうやめてよドウェイン君、い、いたいよ~……うぅ……、』
『まだまだーっ! これからだぞマット、日が暮れるまではまだ時間が―――』
『キーーーーーーーーーーーーーック!!』
どすん。という、鈍い音がドウェイン―――いじめっ子の赤シャツの背後から響いた。
と同時に、衝撃が彼の後頭部を襲う。彼は頭から押される形となってマットを吹き飛ばしながら前方へと飛び出した。
そのまま身体が地面を穿ち、ドウェインは倒れ伏す。一体何が起きたのか、答えはドウェインと一緒になって
マットをいじめていたもう一人の少年にのみ理解できた。唐突に、本当に唐突にだが、
知らない女の子が此方に向かって走って来て、そして美しい曲線を描きながらジャンプ、そのまま脚を正面に突き出し
どこかのヒーローも真似できない程完璧なフォームで"飛び蹴り"を繰り出したのだった。結果、その強烈なキックは
マットとじゃれあっていたドウェイン少年の後頭部にクリティカル・ヒットし前方へ1,2m程吹き飛ばす事となった―――。
『い――――ってぇぇな! な、なにしやがんだガリル!』
『ぼ、ぼくじゃないよ! こ、この女の子が急に――――――!』
立ち上がったドウェインは後頭部をさすりながらガリル―――白いシャツの少年に詰め寄る。が、しかし真犯人を発見して
その怒りの矛先を、突然乱入してきた謎の少女へと変えた。一方少女はきょとんとした表情で、ドウェインが睨みつけるのも素知らぬ風。
夕暮れが近づいてきた事を表す沈みかけたオレンジ色の太陽光が、少女の綺麗な金髪を―――少々クセのついたその金髪を、照らした。
『ん? どうしたの? あそばないの? あそぼうよ! "たたかいごっこ"でしょ! あたしもできるよ!』
『て、てめ……おい! いきなり後ろから蹴るなんて反則だぞ! だいたいおまえ、だれだよ!』
『はんそく……? はんそく、わかんない……、 あたしは遊びたい!』
『人の話をきけ!』
ぶん、と拳を振りかざしたドウェインのそれが、少女の頭をぽかり、と殴った。普通なら此処で少女が泣きだす筈だったのだが。
少女は恐れず反撃をした、『やったなー!』と、愉しそうに叫びながら自身も拳を突き出し、美しいフォームの正拳突きが
繰り出されドウェインの腹部へと命中。思わぬ反撃と女子児童らしからぬ勢いに呻いて怯んだ彼をしり目に、
少女はマットの腕をひっつかみ間逆の方向へと駆けだす―――。
『にげろ~! こんどはおいかけっこだーっ!』
『あ、わ、ままま、まってよ! ていうか、きみだれぇぇ~っ!』
『あっはははははははは!』
少女は駆けだす。マットはその尋常では無い程元気な彼女に引き連れられて、彼方此方擦りむきながら
ドウェイン、ガリル両名の追跡から逃れようと奔る。『待てよマット! お前も赦さないからな!』『どうしてぼくがぁ~……!』
そんな子供らしい滅茶苦茶なやり取りが交される中、少女はずっと笑っていた。
白い肌を乾いた風が撫でる。冷たくなってきた空気がじん、と指先を貫く。それでも今、少女は生を感じていた。
首輪も何もない。彼女を繋ぐものはもう、何も。ただ、走れる所まで―――この風が止む、その場所まで。
少女はずっと、駆けぬけていく。
『―――どうして、撃たなかった。賞金稼ぎとしての欲が、怒りに勝ったのかジェリコ?』
電話越しに聞こえてくる声は、どこか嬉しげな、それでいて少し此方を心配している様な、そんな不可思議な物だった。
ジェリコは窓の外を眺めながら、沈みかけた夕陽に不機嫌な視線を向けつつ、その声に応えた。
『うるせえぞ役立たず。手前の増援が遅いから、俺が連中を片付ける羽目になったんだ。金を余分に寄越せ。』
『まあ、そう言うなよジェリコ。悪かったとは思ってるさ、だがお前さんの事だからドナルドもブチ殺しちまってるかと思ってな。』
『意外だったか?』
『俺はな、立場上あれだが、正直撃っても構わなかったと思ってるんだよ。心臓でも頭でも股間でも、
好きに撃ち抜いて貰って構わん様な男だ、あれは。どうせ死刑台送りは確定してるような物だしな。だがそこをお前が
よくまあ脚を撃ち抜くだけに留めたもんだと正直驚いてる。金に困ってる訳じゃあるまい、どうしたんだジェリコ。』
マウザーの声はジェリコにとって聞き慣れた物であったし、嫌味や皮肉を言われるのも一度や二度の事では無かった為
普段からこんな調子のこの刑事に対してジェリコも強く言葉を返していたものだが、今日ばかりは少し事情が違った。
ジェリコは言葉を濁し、なぜあの場で―――あの夜に、ドナルドを殺さなかったのかその返答に困り果てていた。
何故なら、理由は自分にもよく分かっていなかったからだ。自分に分からない物を人に説明するのは、骨が折れそうではある。
『……俺にもよくわからんな、お前はなんでだと思う。意見を聞かせてくれ、参考にしたい。』
『……は? 何を言ってるんだ、お前。』
『自分でも納得が行ってないってことさ。殺しておけば良かったとずっと思ってるよ。』
『……そうだなあ、そりゃ難問だ。お前に分からん事を俺が理解できる筈もない。ただ想像するには――――』
『―――彼女の顔でも浮かんだか、ジェリコよ。』
『……。』
図星、であった。だが、それが理由になるのだろうか。其処が分からない為に、彼はずっと悩んでいた。
確かに浮かんだ、二人の人物の顔が。一人はかつて愛した女性、今はもう其処に居ない"セレネ・ブロウニング"の悲しそうな顔だ。
そしてもう一人は―――何故だろう。何故、"あの少女"の顔までもが、ジェリコが撃つのを止めようとしたのだろうか。
なにより不可思議だったのは、少女の顔は笑っていた事だ。可笑しい、見た事もない少女の笑顔が、何故頭に浮かんだのか。
ジェリコはどこか呆けた様子で、マウザーの"想像"に対し無言を貫く。そういう場合は、向こうが察するからそれで良かった。
『……正解、か。まあ、良いんじゃないかそんなのも―――なあ、それで結局、あの娘はどうする。』
『……どうするもこうするもあるか。もう記憶は"ロック"<封印>しちまったよ。あの娘は今までの事を何も覚えていない。』
『10歳だったか、生まれてから10年間の記憶が無いって中々の物だな。成人したあたりで怪しまれるぜ、ジェリコよ。』
『バカだったから頭打って記憶がすっ飛んでる、とでも言っておくさ。それから空き地で拾った、ともな。』
『今の時代、そんな言い訳が通るかどうかは分からんぞ? まあ、でもその様子じゃ上手く行ってそうだな。安心した。』
『……そうかい。心配しなくても、多分あの娘は大丈夫だ。なんていうか―――……別人のようだよ。いや、別人なのか。』
ジェリコの持つ特異能力、"アンフォーギブン"。赦されざる者という名を持つその力は、この世のあらゆる物を"封印"する事が出来た。
銃声をかき消して無音の射撃を行う事も、爆発の衝撃や規模を封印しピンポイントでダメージを与える事も、
そして―――傷を負った少女の過去を封印し、新たな道を与える事も、出来たのだ。彼はあの日の夜、少女の記憶を封印していた。
その結果、何もかもを忘れまっさらな状態となった彼女は徐々に回復し、そして今ではまるで別人の様に―――そう。
今までの人格など無かったかのように、明るく毎日を過ごしていると言う。事実、それは彼女であって彼女で無いのかもしれない。
だが、他に彼女の命を繋ぎとめておく方法があっただろうか。ジェリコには分からなかったし、其れが正解であるかどうかも
ハッキリ言って自信は無かった。だがそれでも、彼は後悔する事等無いだろう。結局、正解などこの世に存在しないのだ。
重要なのは何時でも、選択に対し責任を負う事。そしてジェリコはその責任を負う為に、彼女を養う事を決めた。
最終的に何が正しかったのかは、彼女が見極めていけばよい。そう、年齢を重ねるとはそういう事なのかも、しれない。
『ふふ……じゃあ、その別人のお嬢さん―――名前は? もう決めたのか。』
『ペットみたいに言うなよ。……ああ、まあ決めたけどな。名前は―――――――――――。』
『じょ……冗談みたいな、ハァ……女だな、おまえ……っ!』
『体力あり過ぎ……マットは愚か、ぼくやドウェインより、かけっこが早いなんて……、』
『ぼく、もう疲れたよ~……傷だらけだよ~……』
『ん~! 愉しかったね! ねえ、もっかい走ろっか!』
『『『ことわる!!』』』
少年三人と不思議な少女は、長い長いかけっこを終えて大きな木の下で一息ついていた。
もう、陽も暮れてしまう。そろそろ帰らないと、夕飯の時間になってしまう。
あまり遅れるとご飯が抜きになったり、こっぴどく怒られたりと大変だ。
とくに最近はなんだか"大きな事件"が起きたとかなんとかで、早めに帰って来いと
今朝出かける時にもそう言われたばかりだった、だったのだが―――。
その前に、この、乱入してきた誰だかもわからない強烈に元気な少女の正体を、
少年たちは突き止めねばならないと、全員がそう思っていた。
『ハァ……もういい、疲れたよ。おまえ、どこの家のヤツだ? ここいらじゃ見かけない顔だよな。』
『うん、ぼくも見た事無いや。こんな綺麗な娘、この辺にいたっけ?』
『そういう話じゃねーだろ。おい、おまえ! 名前くらい名乗れよ! お前どこの誰だ! いつ越してきた!』
『ど、ドウェイン君、そんな、女の子に怖い顔したらまた喧嘩が……』
『泣き虫マットは黙ってろ!』
ドウェイン、いじめっ子のガキ大将は少女に詰め寄った。それを止めようとする気弱なマットも一蹴、
可愛い子だよねと褒めたガリルも無視し、少女の前に仁王立ちになる。
少女はしかし、それでも尚笑っていた。まるで何もかもが新鮮で、愉しくて仕方が無い、と言った風な様子で。
そして膝についた草やら土やらをぱっぱ、と払いながら―――すくっ、と立ち上がり。ドウェインと正面から、向き合って。
そして、彼女は言った。大きな声で、名乗った。
『―――セリーナ! あたしの名前ね、セリーナっていうんだ! 』
電話を切ったマウザーは、すっかり暗くなった警察署の中で一人微笑んだ。
若い刑事が其れを見つけ、不気味そうに此方を見つめる。まあ、おじさんが一人でにやにやしていれば
若人の目にはそれはそれは気味悪く映ってしまうのであろう。マウザーは『なんだよ。』と噛みついた。
『あ、い、いえ別に……なにか、良い事でもあったんですか? マウザーさん。』
『ん? ……そうだな、あったよ。長年突っかかってた物が取れた気分だ。最良の一日、かもしれんね。』
『そんなにですか。……あ、もしかして例の女の子が―――』
マウザーは今回の一連の事件の報告書を纏め、若い刑事の胸へと押しつけた。
『報告書、渡しておけよ。あとそれから……もう"例の女の子"じゃあない。』
『……?』
『セリーナだ。彼女の名前だよ。どっかの誰かさんに似た名前だと、思わんか。』
『……!……ああ!』
セレネ・ブロウニング。ジェリコの―――今回彼女を引き取ったあの賞金稼ぎの、昔の恋人の名だ。
確か彼を恨んだ賞金首の仲間から狙われて、惨殺されたと聞いた事があった―――若い刑事はその名に納得した。
『……それで、"セリーナ"、ですか。』
『セレネは綺麗な女性だった。それに、殺された時は身籠ってたんだよ。それも女の子をな、知ってたか?』
『……いえ、そんなことが……初耳ですよ。』
『それからさ、ジェリコが関わった事件の関係者を、念入りに"忘却"させる様になったのはよ。』
『……なるほど。』
『けどまあ―――あれからもう30年近く経つ。ある意味で、アイツも新しく一歩を踏み出せたのかもしれん。
なあ、やっぱり偶然じゃ無かったと思うんだ。俺はよ、こういうのを"運命"って言うんじゃないかと、そう思うね。』
そう言って、マウザーは外へと出て行った。多数の死傷者を出した今回の事件はきっと尾を引くだろう。
もしかしたら、外部の国にこういった"後ろめたい現実"を隠す為に、政治家によって圧力がかかるかもしれない。
闇に葬られる可能性すらある、そういうデリケートな案件である事に間違いは無い。だが、この国に蔓延る
小さな悪の芽を見逃す事の無い様、警察はより一層パトロールを強化していく予定だ。
マウザーはさっそく、愛車のフォードを転がし別件の聞き込みに奔走する。そう、これは幕引きではあっても、終焉ではない。
むしろこれから色々が始まるのだ。ジェリコも、マウザーも、そしてセリーナというあの少女にとっても。
全く新しい一日が始まる。愛車の窓越しに見上げた空には、静かに夜の帳が降り始めていた。
END.
『Born Again』
ジェリコ・バーンズ 能力名『アンフォーギブン』
ドレイク・トンプソン(名前のみ)
ダニエル・マウザー
セレネ・ブロウニング(名前のみ)
マット・スプリングフィールド(幼少)
ドウェイン・モスバーグ(幼少)
アンドリュー・ウェッソン(能力者用心棒・奇術師)能力名『プレステージ』
ドナルド・スミス(買人元締め)
最終更新:2014年03月24日 22:35