「放出」と書いて「ハナテン」・・・(:´Д`)ハァハァ? (後編)
f.ポリネシア語による解釈
大阪市城東区と鶴見区にまたがる工業地区の名で、古くは「はなちで」とも呼ばれたようです。
ここは淀川旧流路の寝屋川と大和川旧流路の長瀬川が合流する低湿地にあたり、旧河内潟の名残りの新開池の流出口にもあたります。
承応4(1655)年に徳庵川が開削され、野崎参りの屋形船はこの新川を遡り、この川の北側の堤道は竜間越えへ続き大阪と奈良を結ぶ道として利用されました。
この「はなてん」は「水の放出口」の意の「ハナチ(放ち)・デ(出)」から、とされています。
この「はなてん」は、古代の地形が今となっては明確ではないのですが、マオリ語の
「パナ・テンガ」、PANA-TENGA(pana=thrust or drive away;tenga=Adam's apple)、「押し出された喉ぼとけ(のように膨らんでいる地形の土地)」
の転訛(語頭のP音がF音を経てH音に変化し、語尾のGA音が脱落して「ハナテン」となった)と解します。
余談ですが、大阪の人に訊いた話では
「関西では
『あなた、車売るゥ?』
と下着姿のお姉さんが囁いた後
「ハナテン中古車センター?♪」
と歌が流れるCMがオンエアされているようで
「子供の時から聞いてるので、関西人はこの歌を必ず歌えるでー」
という事らしい・・・
が、実はその人も「ハナテン」が「放出」という字だという事は、ずっと後になってから知ったらしく
「へぇ??」と感心していたらしいです (*^m^*)ぶはは
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
「放出」と書いて「ハナテン」・・・(:´Д`)ハァハァ? (前編)
大阪には変わった地名が沢山ありますが、そのひとつに
『放出』
という地名があります。
字を見ると、なんと読んでいいのやらわからない。
まさか
「ほうしゅつ」
では地名としてあまりにも変ですし、さりとて
「ほうで」
「はなで」
といったヒネクレタ読み方も出来るには出来ますが、まあ常識的に考えるなら他に読み方が思い浮かびません。
ところが、これの読みは
『はなてん』
となるのです。
その名の起源には、以下に示すように諸説があるようです。
《以下、あちこちのWebページから引用》
a.まず阿遅速雄(あじはやお)神社の由来によれば、熱田神宮から「天叢雲(あまのむらくも)の剣」を盗んで逃げた新羅の僧を乗せた舟が暴風雨に遭い難破してこの地に漂着した時、その剣を「放」り「出」した事による・・・といわれています。
b.また天智天皇7年(668年)に、この地に「牧」をおいて多くの馬を放し飼いにした事から、この飼育地を放出と呼んだとする説もあります。
c.さらに、昔は「はなてん」と読まずに「はなちでん」から「はなちで」と称していました。
当地は古代から中世にかけて、河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置し、仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かった事から、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれています。
中世の戦史によく出てくる「放出の渡し」は、この地にあったとの事です。
d.入り江に突き出た地で「鼻出」説
e.集落から離れた所のハチナデ(母屋の外に増築した建物)説
ワタクシもずっと前に大阪へ行った時に
「放出住宅行き」
と書いたバスを見かけ
(安売り住宅のモデル展示場かいな?)
などと勘違いしていた、アホの一人でしたが ( ´∀`)タハ
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
『一口』 と書いて何と読む?(後編)
パターン3)
《久世郡久御山(くみやま)町に一口の地名があり、現在は字東一口、西一口に分かれています。
かつて巨椋池は宇治川が流れ込み、その出口と木津川、桂川が合流して淀川となっていましたが、巨椋池から淀川への出口は一口一カ所でした。
一口は淀とともに交通の要衝で、漁業が盛んでした。
『山城名勝志』には「むかし三方は沼で、一方より入口ある故に一口と書く」とあり『平家物語』、『源平盛衰記』には一口姓の武将が登場します。
『吾妻鏡』には「芋洗い」とあります。
この「いもあらい」は
(1) 池の入口が一つだから
(2) 農民が土地を耕す際に土地神を祭る神事「地貰い」が「イモライ」になった
(3) 「イマ(今)・アラ(新)・ヰ(井)」から
(4) 疱瘡(いも・いぼ)を村の入口から中に入れないように「忌祓い」をした事による、などの説があります。
かつて江戸には、三カ所も一口の地名があったといいます。
神田駿河台の淡路坂は元「一口坂」と言いましたが、これは太田道潅の娘が重い疱瘡に罹り山城国一口の神を勧請して平癒した後、太田姫稲荷としてそこに祀った事によるとされます。
また市ヶ谷の一口坂、六本木の一口坂も同様、一口稲荷を祀った事によるといいます。
この「いもあらい」は、マオリ語の
「イ・ムア・アライ」、I-MUA-ARAI(i=beside;mua=of place;arai=insulate,hinder,defence)、「隔離された土地(袋地)の付近一帯(の土地)」の転訛と解します(「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」より)》
なるほど、3つともに共通する部分があります。
ちなみに
東京の「一口坂」は「いもあらいざか」が正式な読み方ですが、みんな「ひとくちざか」と呼んでいるそうです。
また訊いた話では、伏見や久御山の人は一口は「いもあらい」であるのを知っているのは当然のことでしょうが、一口に住む人たちは「いもらい」と発音するらしいとか。
もし「いもらい」と言う人がいたら、その人は「現地人」ということになるのでしょうか。
もひとつ余談ですが、プロ野球・元阪神タイガースの片岡篤史選手が「東一口」(ひがしいもあらい)の出身という事で、「西一口」(にしいもあらい)という地名もあるようです。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
『一口』 と書いて何と読む?(前編)
さて、問題です。
『一口』
と書いて、何と読む?
この地名は難解難読地名としてよく採り上げられるので、案外ご存じの人が多いかもしれませんが(勿論「ひとくち」とは読みません)
『いもあらい』
と読みます。
何故にこれが「いもあらい」なのかの由来を取り敢えず調べましたところ、以下のような記述がありました。
パターン1)
《「一口」と書いて「いもあらい」と読む地名がある。
場所は、京都府久世郡久御山町一口。
ここは、淀川の支流に囲まれていて、出口が一つしかない。
そこで「淀の一口」と呼ばれた。
ある時、疱瘡(天然痘)という病気が大流行し、村中が大騒ぎになった。
村にその病気が入らないようにと、一つしかない入口においなりさんをまつった。
それで、ここを「ひとくち(一口)のいもあらい(芋洗い)」と呼ぶようになった。
いつしか「一口」だけが残り、それを「いもあらい」と呼ぶようになってしまった。
いもあらい
※いも=疱瘡(天然痘)の方言
※洗い=追い払うこと。すなわち、病気を追い払うという意味(「珍しい地名」より)
東京の「一口坂」は京都から「輸入した」地名のようです》(某Webページよりの引用)
パターン2)
《「一口=いもあらい」の、そもそも名の由来はなんだろう。
地元でも諸説紛々としており、多くの書物は意味不明としている。
一口(いちくち)の文字は、往古の巨椋池が三方を閉ざされ一ケ所だけ淀川に向けて開口していたからだ、という意見が常識的と見られているが、では「イモアライ」というのはなぜか。
巨椋池が浅く、島や洲がイモの子を洗うように密集していたからだ、という語呂合わせ的見解もある。
また江戸城構築(1457年)で知られる太田道灌の娘が「いも」(疱瘡=天然痘)に罹って苦しんでいた時、一口(いちくち)村のお稲荷さんに参ると良いと聞き、わざわざ江戸から遥々城南のこの地を訪ね疱瘡退散祈願をしたところ、たちまち完治し「いも祓い」が転じて「いもあらい」の地名(呼び名)になった・・・という説もある。
その真偽は詳らかでないが、この故事に因んでかどうか東京都内にイモアライという地名が三ケ所現存するのは面白い》(某Webページよりの引用)
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
山吹の里・面影橋~落語付き(後編)
それを聞いた道灌は、あの貧しい村娘さえ知る歌を知らなかった己の不勉強を深く恥じて、この後猛烈に学問に励んで当代一の知勇兼備の歌人になった・・・と言われています》
なかなか印象的なお話ですが、残念ながら「山吹の里」の場所についてはここ以外にも横浜市六浦、埼玉県越生町、荒川区町屋などとする説もあって一定せず、伝承内容自体の信憑性が乏しいのはいうまでもないようです。
#恐らくは
、これだけの話では東京圏の人は満足できぬものであろうと思い、以下蛇足として東京ネタらしく落語で締め括ります(「圓窓・道灌」より引用)
《八っつぁんが隠居の家を訪ねた時、床の間の掛け軸の説明を聞いた。
太田道灌の鷹狩の図で、娘が山吹の枝を道灌に差し出している絵である。
「道灌が山吹の里で狩りの途中、雨に会った。
雨具を借りようと、一軒の貧しい家に立ち寄った。
その家の娘が『お恥ずかしい』と言いながら、山吹の枝を差し出した。
これは、雨具がないのでお貸しできないとの断りを現している場面だ。
これはずーっと昔、兼明親王(かねあきら・しんのう)が雨具を借りにきた者へ、山吹の枝を折って与えて帰した事がある。
その人があとで
『どういう意味ですか』
と訊きにきたので、返事として
[七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞ悲しき]
という歌を詠んでやった。
[実の]と[簑]を掛けて『雨具がございません』という事だ。
この故事は[後拾遺和歌集]に載っている。
それを知っていた娘が、とっさのトンチでおこなった事なんだ。
しかし道灌には、その古歌も娘の意図もわからない。
家来がその説明をすると、道灌は
『余は歌道に暗い』
と気づき、その後、歌を懸命に学んで一流の歌人になったんだ」
「あっしも傘を借りに来たやつをその歌で断わるから、紙に書いてくんねぇ」
八っつあんは、その紙をもらって帰る。
帰宅すると、うまい具合に雨が降り出した。
そこへ、友達が「提灯を貸してくれ」と飛び込んでくる。
「傘を」ではなくあてがはずれたが、どうしてもあの歌を使ってみたいので書いてもらった紙を差し出して相手に読ませる。
「なんだい、これは。なけりゃ食へ 腹は空けども 鰹節の 味噌ひと樽と 鍋と釜敷...?
これは勝手道具の都々逸か」
「これを知らないところをみると、歌道に暗いな」
「角(歌道)が暗いから、提灯を借りに来た」》
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
山吹の里・面影橋~落語付き(前編)
6chは「KANSAI
おもろい地名」でしたが、10ちゃんねる (* ̄ー ̄)y-~~~~ にもユーザーの多く見られる関東圏の人には、これらの地名には土地鑑のない人が殆んどでしょう。
地名は知らなくても、読み物としては充分に楽しめるよう心掛けてはいますが、今後は時に気分を変えるため「番外編」として「東京のおもろい地名」を挿入していく事にします(ワタクシの事で、またいつどんな風に変わっていくかの保証はありませんが・・・)
もっとも関西とは違い、東京の方にはワタクシの方が土地鑑がまったくないため、間違いを避けるためにはこれまで以上に引用が多くなると思われ、また今回の「面影橋・山吹の里」に纏わるエピソードについては、門外漢であるワタクシでさえ粗筋は知っていたくらい有名なものでもあるだけに、関東圏の方々なら恐らくは常識として知っていて何ら真新しくなさそうにも思われますが、その分逆に関西を始め他地域の方々には却って新鮮に映るのではなかろうか?
などと勝手に期待しています。
以下、本文は殆んどがあちこちのWebページからの引用となります。
《面影橋は江戸時代には「姿見橋」と呼ばれ、特に大きな蛍の名所だったようです。
橋名の由来は、昔この近くに住む和田某の娘お戸姫がその美貌ゆえに次々と災難に会うのを苦に髪を切り、深夜この橋の上で変わり果てた自分の面影を川面に映したという悲話によると聞きます。
その面影橋のたもとには「山吹の里」の碑が建っています。
この辺から下流の江戸川橋までの一帯は、昔「山吹の里」と呼ばれていたようです。
江戸川橋の右岸が「新宿区山吹町」と呼ばれるように、今もその名残が地名に残っています。
この地には、こんな逸話があります。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったと広く知られている太田道灌は、関東管領・扇谷上杉氏に仕え文武両道に秀でた室町中期の武将で、江戸っ子から「道灌さま」と親しまれていた。
若い頃の道灌は武勇の名声は高かったものの、学問や風流を解せずただ野山をかけては狩猟を楽しんでいた。
そんな道灌が、歌道に励む動機となったのが「山吹の花」のエピソードである》
《その昔、かの有名な太田道灌が武辺一徹だった頃、この辺りまで狩りに来たそうです。
急な雨に往生して困り果て、ふと一軒の民家を見つけ蓑(みの・雨具の一)の借り受けを所望しました。
ところがうら若い女性(老婆という説も有る)は、ただ黙ったまま蓑の替わりに一輪の山吹の花を太田道灌に差し出したといいます。
しかし、道灌はその意味がさっぱり分からず
「花を求めたのではない」
と不機嫌のまま帰城してしまいます。
城に帰って側近の者にその話しをするとその側近は、それは後拾遺集の醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王が詠まれた
『七重八重花は咲けども山吹の みの(実・蓑)ひとつだになきぞかなしき』
という有名な古歌(後拾遺集)にかけて
「花が咲いても実のつかない山吹のように、余りにも貧しくてお貸しする蓑のひとつもございません」
という返答でございますと言上しました。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
紫野 (= ̄∇ ̄=)ニィ
かつて京都の大学に入学したワタクシは、愛知からこの古都へ引っ越すことになりました。
なにはともあれ、まず下宿先を確保しなければならないものの、なにせそれまで京都といえば小学生の時に修学旅行で行ったきりでまったくの不案内な土地。
で、取り敢えずは北大路辺りをブラブラと歩きながら、偶然視野に入った不動産屋に相談すると
「ほな、ちょうどにエエ物件がありまっさ」
と、狸のように小太りな絵に描いたような「不動産屋のオヤジ」が真っ先に勧めてきたのが、かの有名な「大徳寺」ワキに建っていたマンションでした。
確か
「紫野大徳寺門前町」
とかいう住所で、なにしろこの
「紫野」
という名が、何故か訊いた途端に気に入ってしまった ( ̄ー ̄)ニヤリッ
「『紫野』なんて、なんか情緒ありげな名前だね」
とオヤジに言ったところ、即座に
「《あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや君が袖振る》
と、万葉の歌人・額田王の歌にも詠われているよ」
と顔に似合わぬ博学ぶりを開陳され、少なからず驚かされたものでした (;^。^
さて、この「紫野」の由来ですが
《丘を眺めた時、空の雲が紫色をしていたので、その丘を「紫野」といった》
とか
《むかしむかし禁野だった頃、染色に使う紫草を摘んだりした。
紫草が生えていて、その色がたなびく雲に映って紫だった》
とかいう話を訊いた記憶があります。
「紫」というのは、大昔から高貴な藤色と言われていたようですが、紫野は歌舞伎「戻駕色相肩(もどりかご いろにあいかた)」の舞台にもなっている・・・といった話も訊いたことがあります(ワタクシ自身は歌舞伎にはサッパリ疎いため、細かいところはよくわかりませんが (^^ゞ
ちなみに「紫野」近くにある「紫竹」という土地には
《牛若丸誕生の地(産湯の場所)》
という石碑がありますが、この地名の由来は単純に
「紫色の竹が生えていたから」
という事のようです ( ´艸`)ムププ
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
膳所とはなんぞや?(後編)
《地名としてのそもそもの由来は「太平記」に「ぜぜの瀬・是世」とあるのが初見であり、地名の由来は御厨の陪膳(おもの)から転じられたもの(膳の所=ぜんどころ)・・・・のようです
(*江戸時代に膳所城が築かれ、城下町となった)》
《大昔、湖岸の田園であり「浜田」と称したが、近江朝廷の御厨所(みくりや)になってからは「阿膳(おもの)の浜田」と呼ばれるようになります。
それが「膳所」と称するようになったのは、「阿膳の所」の意からである。
「膳所」と書いて「ぜぜ」と読むようになったのは、この付近は相模川が湖水に流入するところで、洲崎ができていることから
阿膳の崎→膳(おも)の崎→膳の前(さき)→膳前(ぜんぜん)
が詰まって「ぜぜ」となり「阿膳の所」の意もあり「膳所」と書いて「ぜぜ」と読むようになった、と言われている》
《旧市街地の南東の膳所は関ヶ原の戦いの後、徳川氏が大津城を廃棄し諸大名に命じて、琵琶湖に突出した膳所ケ崎に膳所城を築城させた場所です。
ここは
「天智天皇の大津の都ありし時の御厨(みくりや)の地にして、おものを献る所也。故に膳所(おものどころ)といふ。
膳所神社あるを以ても明也」
(『近江輿地志略』)とあり、この浜はかつて天皇に贄を献る御物(おもの)浜といい「おもの」の「膳膳(ぜんぜん)」から「ぜぜ」になったとする説があります。
この「ぜぜ」は、マオリ語の
「テテ」、TETE(figurehead of a canoe without arms or legs,curly of hair)、「カヌーの舳先の神像(のように背後の音羽山から延びる尾根の先端にあたる場所、岬)」
の転訛と解します。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
膳所とはなんぞや?(前編)
かつてワタクシの通っていた大学は、京都の真ん中辺りという立地から大阪と京都の学生が大部分を占めていましたが、時に奈良や滋賀から来ている学生もいました。
生まれも育ちも愛知のワタクシなどは、ものの30秒も話せばヨソ者であることがバレバレになるので、必ず二言目には
「どこから来たの?」
と訊かれます。
で、答えたついでに相手にも同じ質問をしますと、ある時
「オレは膳所高校出身だべ」
と、訊きもしない誇らしげな校名の答えが返ってきて
(そういえば「近江八景」に出てくる「粟津の晴嵐」とかナントカ、そんなような名の名所があったっけ・・・)
という、おぼろげな記憶を呼び覚まされたものです。
なにせ失礼ながら大阪や京都、また神戸や奈良辺りに比べても滋賀に関してはあまり、というか殆んど知識がない。
(にしても「膳所」の読みが、なぜ「ぜぜ」になるのか?)
この不可解極まる読みは、しぶとく頭の片隅にこびり付いた疑問でもあったのため、調べてみる事にしました。
そもそも「膳所」の「膳」は、単純に食事などの「膳」とも解釈できますが
●「膳夫」(「かしわて」と読み、奈良県にこの地名もあります)
《古代、カシワの葉に食物を盛ったところから。
「で」は「手」で、それをする人の意。
または古代、宮中で食膳のことをつかさどった人。料理人》
とあるように「膳」と「膳夫」は同義語となっています。
同様に、以下はそれぞれ
●「膳司」かしわでのつかさ
《(「膳職」と書く)古代の官司の一。天皇の食膳の調理や朝廷の会食を担当。
律令制では、内膳司・大膳職に分かれた》
●「膳部」かしわでべ
《大和朝廷の品部で、律令制では、膳司に従って朝廷・天皇の食事の調理をつかさどった官人》
●「膳殿(柏殿)」かしわどの
《(1)神宮・朝廷で食事を用意する所。
(2)大嘗祭(だいじようさい)の時、神供の 酒食を準備する所》
といった意味になるそうです(いずれも「goo国語辞典」より)
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
兵(器)庫~武(器)庫~ムコ~六甲~ろっこう=4段活用(後編)
もう一説は、神功皇后が六個の甲(かぶと)を埋めたからというもの。
平安時代の『夫木集』の
『秋の夜の務古の高根にゆきふいて 津守の浦によする白波』
の務古(むこ)に「六甲」(むこ)の字をあて、これを音読みしたのが六甲(ろっこう)だとされています》
●ポリネシア語による解釈
《兵庫県南東部、神戸市街地の背後に東西に伸びる山地で、東端は宝塚から西端は明石海峡北岸の塩屋、須磨あたり、北側は大多田川、太田川の構造谷、南は屹立した断層を挟んで大阪湾に臨んでいます。
最高峰は、神戸、芦屋、西宮3市の境にある六甲山(931メートル)です。
嶮しい山地で、かつては修験の山でした。
六甲山地の東縁には、釣鐘状の特異な山容の甲(かぶと)山(309メートル)があり、西側には摩耶(まや)山(699メートル)があって、展望が良い事で知られています。
この「六甲(ろっこう)山」は
(1)元々その麓の地名をとった「武庫(むこ)の山」でしたが、これに「六甲(むこ)」の字があてられ(室町時代の『旱霖集』の僧祖応の詩に見えるのが初見で、「六甲」の文字は神功皇后が西征帰還後にここに六つの甲(かぶと)を埋めた伝説によるといいます)、後に「ろっこう」と読まれるようになったというのが通説ですが
(2)この「むこ」は、難波の地から見て「向(むこう)」の地だから、とする説などがあります。
この「むこ」は、マオリ語の
「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」
の転訛と解します。
この「ム・コウ」は、前述の京都府向日(むこう)市の「むこう」の語源と同じです。
この甲山の「かぶと」は、「兜(かぶと)」からとされていますが、これはマオリ語の
「カプ・タウ」、KAPU-TAU(kapu=hollow of the hand,close the hand;tau=ridge of a hill)、「両手を合わせたような峰」
の転訛と解します。
この摩耶山の「まや」は、マオリ語の
「マイア」、MAIA(brave,bravery)、「勇者(のようにそそり立つ山)」
の転訛と解します。
ちなみに「兵庫県」は読んで字の如し「兵器庫のあった地」が来ているようですが、西宮市の「武庫川」も同様と思われ
「兵庫」(兵器庫)=「武庫」(武器庫)=「ムコ」=「六甲」=「ろっこう」
というリンク付けが出来上がります ( ̄ー ̄)ニヤリッ
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
兵(器)庫~武(器)庫~ムコ~六甲~ろっこう=4段活用(前編)
学生時代を京都で過ごしたワタクシにとって、京都・大阪とともに馴染み深いのが言うまでもなく、三都の一角を占める神戸です。
京都から大阪は非常に近いですが、それに比べれば神戸はチト遠いから本来ならあまり足を運ぶ事はなかったのですが、夏から秋にかけて偶然にそれぞれ芦屋と西宮の女学生と親しくなる機会に恵まれると、デートコースは当然の事ながら彼女らの勝手知ったる神戸となります。
そんな事から、この
「神戸」
という地名には深い思い入れがありますが、実はこれと同じ字の地名は結構、全国あちらこちらに見られるようです。
しかも、それらは読みが必ずしも
「こうべ」
とは限らず
「かんべ」
「かみと」
「ごうど」
「かんど」
「かのと」
などなど、実に多岐に渡ります。
そして神戸といえば、なんといっても「六甲」でしょう。
インターネットの時代となり
(そもそも「神戸」とか「六甲」ってのは、どんな意味なんや?)
と思い立ち早速調べてみると、以下のような珍説に出くわしました。
●某大学教授のHPより引用
《人文研の助手に採用されたての頃、中国科学史班の会読の際に神戸と六甲という地名は、もしかしたら中国の星座名に由来するのかも知れない・・・と思われる記事に出合ったことがあった。
中国星座としての六甲は、北極星からそう遠くないところにあって、現在のきりん座とケフェウス座にまたがる、6個の星を指すと考えられる。
唐代の瞿曇悉達(ぐどんしった)が編纂した占星術書『開元占経』(かいげんせんきょう)は、約三百個の中国星座ついても解説している。
その書の巻六九で、六甲という星座を説明して
『春秋緯(しゅんじゅうい)に曰(いわ)く、六甲中を輔と為す、物類を包羅し、神戸を為す』
とある。
六甲はまた「神戸」(しんこ)、すなわち神の戸、神様が出入りするためのドアでもあるというのだ。
通説では、地名の神戸(こうべ)は生田神社に税を収めていた、封戸・神戸(かんべ)に由来するという。
また地名の六甲には二説あって、一説は大阪の向こうに聳える山の意で、「ムコ」に六甲という漢字をあてたとするもの。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
(こもりくの)泊瀬・初瀬・長谷(後編)
●初瀬街道Webより
《大阪・奈良方面と、伊勢を結ぶ初瀬街道。
現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て初瀬へいたります。
現在の国道165号、あるいは近鉄大阪線に近いルートを通るこの道は、古代には壬申の乱の際、大海人皇子が名張に至った道であり、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた斎王が、伊勢へと赴いた道です。
近世には、おかげ参りの善男善女が旅枕を重ねた道です。
この街道沿いには今なお、多くの名所旧跡が残っており『街道』の持つ魅力を感じとる事が出来ます。》
●ポリネシア語による解釈
桜井市東部の初瀬川渓谷の総称で、泊瀬(はつせ)、長谷とも記し、現在は「はせ」と呼びます。
大和国と東国を結ぶ伊勢街道の要衝にあり、古くから開けた場所です。
『日本書紀』雄略即位前紀安康3年11月条に「壇(たかみくら)を泊瀬の朝倉に設く」とあり、武烈即位前紀仁賢11年12月条に「壇場(たかみくら)を泊瀬列城(なみき)に設く」とあり、欽明紀31年4月条に「泊瀬柴籬(しばがき)宮に幸す」とあります。
『和名抄』には大和国城上郡に長谷(はせ)郷がみえます。.
『万葉集』に「隠国(口)(こもりく)の泊瀬」と歌われた地で、渓谷中部の長谷寺が観音信仰の中心となり、『源氏物語』や『枕草子』など多くの文学に登場します。
この「はつせ」は
(1) 「ハ(長い)・ツ(助詞)・セ(狭い)」の意
(2) 「ハツ(初)・セ(瀬)」の意
(3) 「ハツ(船が泊る)・セ(瀬)」の意
(4) 「ハツ(果てる)・セ(瀬)」の意
などの諸説があって定説はありません。
この「はつせ」、「はせ」は、同義のマオリ語の
「パツ・テ」、PATU-TE(patu=strike,beat,edge;te=crack)、「(出水が)襲う割れ目(降雨によって突発的な洪水が発生しやすい川)」
「パ・テ」、PA-TE(pa=touch,reach,be struck;te=crack)、「(出水が)襲う割れ目(降雨によって突発的な洪水が発生しやすい川)」
の転訛(原ポリネシア語の「パツ」、「パ」のP音が日本語に入ってF音を経てH音に変化し、「ハツ」、「ハ」となった)と解します。
突発的な洪水を防止するため、上流に初瀬ダムが昭和62(1987)年に完成しています。
全国に散在する「長谷(はせ)」地名も同じ語源でしょう。
なお、枕詞「隠国(口)(こもりく)」の「こもりく」は、マオリ語の
「コモレ・ク」、KOMORE-KU(komore=bracelet,taproot;ku=silent)、「真っ直ぐ延びた(植物の)根のような(谷の)静かな(土地)」
の転訛(「コモレ」の語尾のE音がI音に変化して「コモリ」となった)と解します。
とまあ、ざっとこんなところが「初瀬」=「長谷」の歴史というところのようです ('ー`*)・:*:・
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
(こもりくの)泊瀬・初瀬・長谷(前編)
牡丹を求めて(5月に)大和路を旅してきた知人から、桜井市初瀬(「長谷寺」のすぐ近くの)酒屋で求めてきた《こもりくの里》という地酒を頂きました。
信楽焼の渋い陶器の徳利入りで、味の方もワタクシ好みのやや辛目の結構なものでした (*⌒▽⌒*)b
それで初めて気が付いたのですが、あの牡丹で有名な『長谷寺』の辺りの住所は「(桜井市)初瀬(はせ)」なんですね。
そもそも、この「初瀬」という地名は万葉集にも歌われている古い地名で、この地酒にも使われている《こもりくの》というのは「初瀬・長谷」の枕詞のようです。
ところがどういうわけか、以下Webで検索した通り「泊瀬」、「初瀬」、「長谷」と3種類の字が、いずれも「はせ」の読みでもあるのです(以下引用)
《『こもりくの 長谷(ハツセ)の山 青幡(アヲハタ)の 忍坂山は 走り出の よろしき山の 出で立ちの 妙クハしき山ぞ 惜アタラしき山の 荒れまく惜ヲしも(作者未詳・巻十三 ? 三三三一)』
「泊瀬の山、青鈍色の忍坂山は、出で立って見る美しい山です。
この心に沁みる山の荒れるのが惜しい。
美しい女が見守ってくれた間は山の心も賑やかでしたのに、今はその人は亡くなって山はすっかり荒れています。
人も山も霊魂遊離して、うらぶれています」
と云う挽歌です。
桜井市忍坂は、六世紀の鏡銘には固有名詞を表記した初期の万葉仮名として有名な「意柴沙加オサカ宮」などでも知られますように、古くから拓けていました。
忍坂から粟原・倉橋、更に初瀬へかけて多くの古墳も見出されています。
笹繁る雑木林に、枯葉を踏む懐かしい道です。
『こもりくの 初瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の』
『こもりくの 初瀬の山は あやにうら麗グハし あやにうら麗し』(『日本書紀』)
この古曲は、初瀬地方の山の生命を賛美したものです。
生者の賛美、死者への悲嘆、これらは元何れも「忍(シノヒ)」でした。
生あるものを称え、死者を偲ぶのです。
日や月の昇る初瀬地方の古い祭の、死と復活の神秘
死の床の石棺が、同時に豊饒の母胎なのです。
そんなところから生と死との交錯する、山の情感が生まれたのではないでしょうか。
何れにしてもこの二つの歌には、山の死と復活との観念が沈んでいます。
この忍坂の山懐・石位寺石佛の辺ホトリに舒明帝陵の森があり、鏡王女などの墓があります》
ちなみに、歌の中にある「忍阪(おっさか)」は、現在確認されている日本で一番古い地名だそうです(^^)
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
「呉服」の語源を辿る(後編)
さらに、この呉服伝来物語には複雑な事情がある。
同じ応神天皇の「応神十四年」の段には
『百済の王、縫衣工女を貢る。真毛津という。是、今の来目衣縫の始祖なり』
とある。
また古事記には
『百済の朝貢』の段で「呉服(くれはとり=この場合、呉の国系の織工の意味らしい)の西素二人を貢上りき」
とあって、百済国経由でやってきたことになっている。
また、ややこしいことに雄略天皇の時代にも応神三十七年と同じような話があって、日本書紀の雄略十四年の段に
『身狭村主青等、呉国の使いと共に、呉の献れる手末の才伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)及び、衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊る』
とそっくりの話がある。
本居宣長の『古事記伝』では、雄略の方が本来で、応神天皇三十七年の記述は古事記の記述にもある呉服の由来を誤り伝えたものとしている。また、雄略の時に技術を伝えに渡ってきた渡来人が、応神の時に既に渡ってきていた倭漢氏(やまとのあやうじ、渡来人の氏族)に組み入れられた、という政治的な事情の反映だとみる説がある(呉服神社Webより引用)
そしてお隣の兵庫県・出石にもやはり同じ「呉服神社」があり、その由緒には
《クレハトリと訓する。織物の神として、栲幡千々姫命を祭神としている。 当地は天日槍神の拠点であり、この神の末裔の氏族は秦氏であり、土木、織物、金属採取・精錬などの長じていた。
摂津国の豊島郡にも呉服神社(クレハ)が鎮座、東の漢の阿知使主が大陸の呉の国から連れてきた織姫の神祠との社伝があるが、ここ出石も渡来人の持っていた織布技術によったものには違いない》(呉服神社Webより引用)
という記述が見られます。
それぞれを見比べると些かの食い違いがあるものの、要するに
《呉服神社に祭られているのは服媛(くれはとりのひめ)という織り姫と仁徳天皇。その由来は日本書紀に書かれた時代にさかのぼります。
当時、中国の呉の国から呉服媛と穴織(あやはとり)媛という二人の姫が船に乗って渡来し、この地を訪れた。
二人の姫は機織りや裁縫の技術に優れていた。そして、昼夜の別なく布を織り、織物の技術をわが国に伝えた。二人の死後、仁徳天皇が遺徳をたたえて建てたのが呉服神社です。
呉服媛にちなんだ「呉服」という言葉は、その後、絹布類のすべてを指す言葉として日本に定着しました》
といった解釈がまずは無難であろうかと思われます。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
「呉服」の語源を辿る(前編)
愛知の一宮市というところに「真清田神社」があります。
この神社は、かつての尾張国の中で最も古い歴史を持つ「一之宮」であり、そこからこの地が「一宮」という名になったそうですが、それはともかくとしてこの大きな神社の中に「服織(はとり)神社」という小さな神社がもう一つ存在します。
この一宮は「繊維の町」としても全国有数であり、この「服織神社」は機織の神である萬幡豊秋津師比賣命[よろずはたとよあきつりひめのみこと]を奉る神社とされています。
#苗字でお馴染みの
「服部(はっとり)」の読みは、この「服織(はとり)」が転じたものと思われます。
ちなみに「部」(べ)は「語り(部)」(かたりべ)=今風に表現すればナレーター(語りを生業とする人)=など、特定の職種等を表す修飾子のようなもので「服(部)」は平たく言えば「服飾関係に従事する人」といった意味になります。
かつての着物時代の名残からか、今でも日本中至る所に「呉服町」或いは「呉服通り」などといった地名や通り名が見受けられますが、通常はそのまま「ごふくちょう」或いは「ごふくどおり」と読むのに対し、大阪の池田市にある「呉服」地名は「くれは」と読ませます。
何故「ごふく」ではなく「くれは」なのか?
池田市にある「呉服神社」由緒書によると
《第15代応神天皇(4世紀末から5世紀始め)の時、機織・裁縫の職人を求めるため猪名津彦命が中国・呉の国に渡り、呉服(くれはとり)、綾服(あやはとり)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)の4人を連れて帰ってきた。そして、仁徳天皇の時、呉服媛が死亡し、それを祀って祠を作ったのが「呉服(くれは)」神社の始まりであるという。
呉服大明神という名を後醍醐天皇が送ったのをきっかけに絹布の服を呉服というようになったという。呉服の「呉」はもともと中国の国名「呉」のことであると考えられる》
さて、この話は日本書紀にも記されている。
「応神三十七年」の段に
『阿知使生・都加使生を、呉に遣して、縫工女を求めしむ。(中略)呉の王、是に工女兄媛、弟媛、呉服、穴服、四の婦女を与ふ』
とある。
神社の由緒書とはちょっと名前が違ったりするが、この記述のことであろう。
しかし、これが機織伝来の物語というにはちょっと待ったがかかる。
機織自体は縄文・弥生の頃から行われていたと思われる遺構もあるので、これは機織に関する新技術の輸入といった方が正しいようだ。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
百万遍 ( ̄(エ) ̄)ノ
かつて京都の大学に入学したワタクシは、愛知からこの古都へ引っ越す事になりました。
なにはともあれ、まず下宿先を確保しなければならないものの、なにせそれまで京都といえば、中学生の時に修学旅行で行ったきりでまったくの不案内な土地。で、取り敢えずは北大路辺りをブラブラと歩きながら、偶然視野に入った不動産屋に相談すると
「ほな、ちょうどにエエ物件がありまっさ」
と、狸のように小太りな絵に描いたような「不動産屋のオヤジ」が真っ先に勧めてきたのが、かの有名な「大徳寺」ワキに建っていたマンションでした。
確か
「紫野大徳寺門前町」
とかいう住所で、なにしろこの
「紫野」
という名が、何故か訊いた途端に気に入りまして ヾ(⌒∇⌒*)ノ
「『紫野』なんて、なんか情緒ありげな名前だね」
とオヤジに言ったところ、即座に
「《あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る》
と、万葉の歌人・額田王の歌にも詠われているよ」
と顔に似合わぬ博学ぶりを開陳され、少なからず驚かされたものでした (;^。^
さて、この「紫野」の由来ですが
《丘を眺めた時、空の雲が紫色をしていたので、その丘を「紫野」といった》
とか
《むかしむかし禁野だった頃、染色に使う紫草を摘んだりした。紫草が生えていて、その色がたなびく雲に映って紫だった》
とかいう話を訊いた記憶があります。
「紫」というのは、大昔から高貴な藤色と言われていたようですが、紫野は歌舞伎「戻駕色相肩(もどりかご いろにあいかた)」の舞台にもなっているという話も訊いたことがあります(ワタクシ自身は歌舞伎にはサッパリ疎いので、細かいところはよくわかりませんが (^^ゞ
ちなみに「紫野」近くにある「紫竹」という土地には
《牛若丸誕生の地(産湯の場所)》
という石碑がありますが、この地名の由来は単純に
「紫色の竹が生えていたから」
という事のようです。
- あああああああああああああああああああああああああああああああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:15:25
- たのしいよ^0^ -- (うざき) 2008-01-16 15:15:58
- あんああんあんあんあんあああああん -- (うざき) 2008-01-16 15:16:27
-
最終更新:2007年05月07日 00:41