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  • 32

「間人」の高貴な由来(後編)

その2
 聖徳太子、穴穂部間人皇后をめぐる血縁関係、近親結婚関係を指して「間人(はしひと)」と言った事による、という説

その3
 聖徳太子の母である穴穂部間人媛(アナホベノハシヒトまたはハシウドヒメ)が蘇我・物部の政争を避けて落ち着いた先が、ヒメの名にちなんで後に「間人」(神と人との間を仲立ちする人の意味)と呼ばれる地だった。

 ヒメにとって、都での蘇我・物部政争に巻き込まれない様に豪族を頼ってここに避難した。

 それは短期間で済んだが、還都を「退座」といって町の名を「タイザ」にしたという言われているが、それはこじつけと思われる。

 当時、最新の製鉄技術を持って丹波王国に貢献した高句麗の人々が「間人」を古代高句麗語の発音で「タイザ」としたと考えられる。

 この言語は消失していて確認できないが、その手掛かりを現代朝鮮語で考えてみると、間の訓読みはトゥm、人の訓読みはサラm。

 トゥmサラm→トゥーサ→ターサ→タイザ

 という事になる。

その4
 凹凸の激しい海岸(磯)を指す「タギイソ」が転訛した、とする説があります。

 この「たいざ」は、旧間人町の東端、竹野川の河口左岸の後(のち)ガ浜に立岩(たていわ)という柱状節理の巨大な小山のような岩塊がそそり立っており、この立岩を指す名が地名となったもので、マオリ語の「タイタ」、TAITA(drift timber lodged in the bed of a river,snag)、「(海岸の)流木(のような岩=立岩(たていわ)。立岩がある地域)」の転訛と解します。(なお、「タイタ」の語は、「タイ・タ、TAI-TA(tai=sea,tide;ta=lay)、潮流が運んできて置いた(木、岩)」と解する事もできます。)

その5
 タイザは(tay-sa:林の浜)と言う事ではないでしょうか(「アイヌ・縄文地名から」)

 与謝郡伊根町本庄浜には鯛崎(タイサキ)という岬もあり、(tay-san-key:林の岬)と言う事ではないかなと考えています。(「アイヌ・縄文地名から」)

 個人的には「その1」説が最も信憑性が高いと考えますが、例によって様々な解釈が出てくるところがおもしろいですね。

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  • 31

「間人」の高貴な由来(前編)

 なんの予備知識もなく「間人」と書いて「たいざ」と読める人は、まずいないでしょう。

 この「間人」(たいざ)の地名には、以下に示すような様々な解釈があります。
          ↓
その1
 京都府北端の丹後半島、竹野郡丹後町北西部に間人地区があります。

 日本海に面した港で漁業の港であり、丹後縮緬の産地です。

 『和名抄』にも、竹野郡間人郷の名がみえます。

 当地には、蘇我・物部の争乱を避けて寄留した聖徳太子の生母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が御退座された事にちなむとの伝承説。

 間人(たいざ)は、昔、都との関係が深かった。

 間人という地名も、聖徳太子の母である穴穂部間人(あなほべのはしうど)皇后が蘇我・物部の争いを避けてこの地に来られ、争いがおさまり大和の斑鳩の宮へお帰りになる時、滞在中の里人の手厚いもてなしを受けられ、これに感謝された皇后が

  大浜の里にむかしをとどめてし
  間人村と世々につたえん

 と、歌を詠まれた。

 しかし里人は、皇后の名をそのまま地名に使うのは畏れ多いとして、大浜の里を御退座されたのにちなんで、その地を間人(はしうど)と書いて「たいざ」と読み、今日に伝えられた。

 また「丹後町公式ホームページ」にも、同様の記述が見られます。

 《6世紀の末、蘇我氏と物部氏との間に争いが生じた。

 用明天皇のお后で聖徳太子の生母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしうど)は、乱を逃れるために「大浜の里」に逃げてこられました。

 昔は、間人を大浜の里と呼んでいた。

 やがて争いも治まり、皇后は大和の斑鳩(いかるが)に帰ることになった。

 大浜の里を離れる時、里の人々の手厚いもてなしに感謝して、皇后は自分の名を取って「はしうど」と名付けられる。

 ところが里の人々は、皇后の名前を口にするのは畏れ多いとして、大浜の里を退座なされたのにちなみ「たいざ」と呼ぶようになった。

 「間人村濫觴記録」(弘化3年)や「丹後旧事記」に、その内容が記録されている》

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  • 30

「千駄ヶ谷」と「千駄木」(前編)

 駄とは、馬1頭が背にする荷物を数える単位です。

 千駄とは「それほど沢山」という意味です。

●「千駄木」その2
 《古くは駒込村に属しており、ここは雑木林で薪などを伐採していた。

 その数が、千駄にも及ぶという事で付いたらしい。

 駒込千駄木町、駒込坂下町、駒込動坂町、駒込林町などを合併した。

●「千駄ヶ谷」その3
  • ポリネシア語による解釈
 《JR新宿駅の甲州街道から南はもと千駄ヶ谷町で、渋谷川に沿ってさらに現在は神宮前と名を変えていますが、もと原宿村、穏田(おんでん)村、上渋谷村へと続いていました。

 葛飾北斎『富岳三十六景』には、穏田の水車が描かれています。

 この「せんだがや」は、マオリ語の

 「テネ・タ・(ン)ガ・イア」、TENE-TA-NGA-IA(tene=be importunate;ta=dash,beat,lay;nga=breathe;ia=current,indeed)、「しつこく痛めつけられた(ために複雑な地形になっている)、潮の干満によって水が逆流する(場所)」》

 の転訛と解します。

●「千駄木」その3
  • ポリネシア語による解釈)
 《千駄木は元駒込村に属し千駄木山とも言い、汐見坂の別名がある団子坂には森鴎外の旧居にちなむ、鴎外記念本郷図書館があります。

 その南には根津神社がある根津があり、向ケ岡(本郷台を指す)の根にあって舟の泊まる所の意、とする説があります。

 さらにその南、本郷台の先端近くに、湯島天神、湯島聖堂がある湯島の地があります。

 この「せんだぎ」は、マオリ語の

 「テナ・タキ」、TENA-TAKI(tena=encourage,urge forward;taki=track,challenge)、「勇気を出して路を辿る(急崖のある場所)」》

 の転訛と解します。

 やはり、元は同じところから来ているようですねー( ̄+ー ̄)

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  • 29

「千駄ヶ谷」と「千駄木」(前編)

 東京都の新宿区に「千駄ヶ谷」(せんだがや)、文京区には「千駄木」(せんだぎ)の地名があります。

 区は違うものの、由来は恐らくは同じところから来ているのではないかとは容易に想像が付きますが、興味を引く地名なので念のため少し調べてみる事にしました。

 以下は、例によってあちこちのWebページからの引用となります(若干の修正あり)

●「千駄木」その1
  •  寛永寺への護摩の木や入用の薪を、一日千駄運び出した。
  • 太田道灌が、ここに栴檀の木を植えた。
  • 「千駄木」や「千駄ヶ谷」は、雨乞いのための「千駄炊き」から来ているのではないか(柳田国男説)

 などの説がある。

 延享三年(一七四六)開拓して畑とし、その内に宅地もできて御林跡と呼び、下駒込村に属した。

 そして明治以降、ここは東京帝国大学の後背住宅地として学者、文化人が多く住む町となってゆく。

●「千駄ヶ谷」その1
  • 元々、この地を渋谷川が流れ、一面の萱野で一日に千駄の萓がとれるようなところだったから、という説

  • 千駄木を焚いて、雨乞いした谷であったから

とも言われています。

 千駄木を焚いて雨乞いをする神事は全国のいたるところで行われているようで、天に近い場所で木を焚く事によって神が雨を降らせるというものです。

 「駄」は「馬1頭が背負う荷物の重さ」の事です。

●「千駄ヶ谷」その2
 《昔、この辺りは見渡す限りの茅野原だったそうです。

 『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間(1624)の頃、日々千駄の茅を刈り取った事からこの名が起こり、正保年間(1644)に千駄萱村と書きました。

 現在の「千駄ヶ谷」と書くようになったのは、元禄年間(1688)と伝えられています。

 また昔、太田道灌がこの辺りを巡見した時に谷間に栽培されている稲が千駄もあったので、千駄ヶ谷と名づけたとも言われます。

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  • 28

くそばかま⇒樟葉 (* ̄m ̄)ブッ

 食事中の方は、食事が終わって充分に消化が済んでからお越しください ( ´∀`)タハ

 枚方市の北東、淀川左岸に楠葉の地があります。

 『日本書紀』崇神紀10年9月27日の条に、武安埴彦の軍が敗れて

 『其の卒怖ぢ走げて、屎(くそ)、褌(はかま)より漏ちたり。
 乃ち甲を脱きて逃ぐ。
 得免るまじきことを知りて、叩頭(の)みて曰く「我君(あぎ)」といふ。
 故、時人、其の甲を脱きし処を號けて伽和羅と曰ふ。
 褌より屎ちし処を屎褌(くそばかま)と曰ふ。
 今、樟葉と謂ふは訛れるなり。
 又、叩頭(の)し処を號けて、我君(あぎ)といふ』

 とあります。

 『古事記』も

 『久須婆(くすば)の渡り』

 と記しています。

 『和名抄』には、河内国交野郡樟葉(久須波)郷がみえます。

 この「くすば」は「クズ(崖地)・ハ(端)」の意と解する説があります。

 この「くすば」は、マオリ語の

 「ク・ツパ」、KU-TUPA(ku=silent;tupa=dried up,barren,flat)、

 「静かな不毛の原野」

 の転訛と解します。

 ちなみに叩頭の「のむ」または「のみ」、我君の「あぎ」、伽和羅の「かわら」(山城国綴喜郡河原村、現城陽市河原町に比定する説があります)は、マオリ語の

 「ナウ・マイ」、NAU-MAI(nau=come,go;mai=hither)、「(やつと)ここへ到着した(逃げてきた)」

 「ア(ン)ギ」、ANGI(free without hindrance,move freely)、「(よろいを脱いで)自由になった」

 「カワ・ラ」、KAWA-RA(kawa=heap;ra=wed)、「岡が連なっている(場所)」

 の転訛と解します。

 また当地には「樟葉宮」というお宮さんがあり、関連Webページによると

 《「日本書記」には、6世紀の初め継体天皇が樟葉で即位したと記される。

 武烈天皇(ぶれつ)の死によって仁徳天皇の子孫が絶えた事で、当時の大和政権の権力者大伴金村(おおとものかなむら)が越前三国(福井県)から、男大迹王(おおどののおおきみ)と称する後の継体天皇を迎え入れ、507年2月の即位より5年間に渡り都を営んだ。

 樟葉宮の正式な場所は不明であるが、交野天神社(かたのあまつのみやのやしろ)の境内が推定地とされ、顕彰碑が建っている。

 昭和46年(1971)府の史跡に指定され、付近一帯の原生林は「樟葉宮跡の杜」として枚方八景にも選ばれており、古代からの風情をたたえている》

 と記述されています。

 なお 10ちゃんねる (* ̄ー ̄)y-~~~~ 『「祝園」に隠された血塗られた語源とは?』の中でも

 『崇神天皇に反逆を起こした異母兄・建波邇安王(たけはにやすおう)が戦死し、逃げまどう兵士達が楠葉で×××を漏らしたことから付いた「糞袴=くそばかま」が「楠葉」(くずは)の語源であり、続いて逃げまどう兵士達を斬って捨てた場所として「はふりその」=「ほうその(祝園)」という』

 の由来を紹介していますので、未読の方は是非併せてご覧下さい (= ̄∇ ̄=)ニィ

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  • 27

相撲町・相撲庭(後編) (*゜ο゜)ゞ

 桂離宮、仙洞御所、二条城など京都の数々の名庭の造園や建築などで知られる作庭家の小堀遠州が長浜市の出身である事から、氏に所縁の深い「庭」に置き換えられた、などという経緯でもあれば情緒があるのだが・・・

 などと勝手に妄想を逞しゅうしていますが・・・

 ところで「相撲」は「角力」という字で表される事もありますが、高知県土佐市には「角力場」(すもうば)という地名があり、某Webページにこの地名の由来が出ていました。

 《京間に隣接する地字。土佐相撲の起源地とみられる。

 元親記に、岡豊城下で家臣の久万兵庫が天下一を誇る源蔵を妻取(手首をつかむ)して、見事に投げつけるくだりが記されている。

 「兵庫の面目、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず」

 とも見える。

 元親の土佐統一後にできた、角力場だったのであろうか。

 「拒、スマフ」(観智院本名義抄)とあり

 「いひ定めたるやうに、すみやかに酒、くだ物とりやりて、このことあがへと、あつまりて、責めののしりければ、あらがひて、せじとすまひ給けれど・・・・・」(宇治拾遺)

 とある。

 互いに負けじと、抵抗し合う技がスマフ? スモウだったとされる。

 江戸時代、文字としては相撲・角力ともに用いられはしたが、古語「相舞(すまひ)」は独り相撲の型が一種の舞いとして、行われたのによるらしい。

 「池上の力士舞ひかも、白鷺の桙(ほこ)喰い持ちて飛び渡るらむ」(万葉)》

 この引用文からは新たに相撲が「舞」の一種であった事から、どうやら「すまい」読みのルーツにも辿り着いたようです ☆ヾ( ̄ー ̄ )

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  • 26

相撲町・相撲庭(前編) (*゜ο゜)ゞ

 大相撲は本日千秋楽を迎えましたが、そのものズバリ「相撲」という地名が長浜市にあります。

 ただし、読みは「すもう」ではなく「すまい」

 これは字面と読みの両方ともに「おもろい地名」と言えるでしょう。

 また長浜市のお隣にある、東浅井郡浅井町には「相撲庭(すまいにわ)」という地名もあります。

 こうなってくると、なにかこの辺りで「相撲」という地名が付くような由来がありそうですが、あまり知られていない地名のためかどうも由来が見つかりません。

 疑問を整理すると

1.なぜ相撲なのか?
2.「すもう」ではなく「すまい」という読みは、いかなる理由からなのか?
3.なぜ地名なのに相撲「庭」となるのか?

 といったところですが、例えばもっともらしい想像として

  • かつてこの地で、奉納相撲か何かが行われた?
  • その地の土俵のあった庭から?

 などとこじつける事くらいは出来る余地はありそうですが「2」については想像すら困難です。

 そこで苦し紛れに「goo国語辞典」を引いてみますと

《すまい すまひ 【〈相撲〉】
〔動詞「争(すま)ふ」の連用形から〕

(1)力や技を争うこと。すもう。[和名抄]
(2)すもうをする人。すまいとり。
「小熊権介惟遠と言ふ―、息男惟成を相具して参りたり/十訓 3」
(3)「相撲(すまい)の節(せち)」の略。
「―の折り、内・春宮のおはしませば/大鏡(兼家)」》

 と出ており、動詞「争(すま)ふ」の連用形が「相撲」に転じた事がわかりました。

 更に調べていくと

 《相撲(すまい)=奈良時代の地名。

 昔、朝廷で行なわれた相撲の儀式の費用をまかなう田地であった事からその名が出た。

 相撲の節会(せちえ)とは奈良、平安時代に、群臣に宴を腸う儀式である。

 相撲とりは、諸国へ使を出して集められる。

 毎年7月に、宮中において褌の上に狩衣・袴を着て取り組みを行なった》

 と出ており「相撲庭」の方の「庭」は、引用文中にあった「田地」を「庭」という表現に置き換えたのかな? 

 という想像が出来ます。

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  • 25

「トアロード」という kobe ロマン(後編) ( ̄ー ̄

1.「ホテル説」
 この説が最も有力とされています。

 トアロードの最北端、現在の「神戸外国倶楽部」の場所に「トアホテル」がありました。

 19世紀末の神戸には、すでに旧外国人居留地に質・規模ともに欧米並の立派なオリエンタルホテルがありましたが、もうひとつそんなホテルが欲しいと、英・独・米・仏の人々の共同出資で1908年(明治41年)にトアホテルは完成しました。

 当時の「トアロード」は「三宮筋通」と呼ばれていました。

 しかし、この「トアホテル」から外国人居留地へと続き、外国商館の生活道路である事から「トアロード」と呼ばれるようになったとする説です。

2.「英語説」
 「トアロード」の「TOR」

 英語で発音すると「トー」もしくは「トール」となります。

 この言葉は、辞書で「(でこぼこの)岩山、小さい岩山」とあります。

 確かにトアロードの最北端「神戸外国倶楽部」は高台にあり、神戸を一望する事ができます。

 六甲山系の花崗岩の岩肌が居留地の外国人が家路に帰る時に、この坂道を上りながら母国の「TOR」を思い出して呼び出したのかもしれません。

3.「ドイツ語説」
 今度は、ドイツ語説です。

 この「TOR」、ドイツではよく使われる言葉なのです。

 それもそのはず、ドイツ語で「門」と言う意味に使われているのです。

 トアロードの南端、居留地に門があったと言われています。

 ここからはあくまでも想像の世界ですが、北に彼ら外国人たちの住まい(現在の北野異人館)があり、そこから彼らの仕事場である居留地まで馬車でご主人を迎えに、ご婦人がこの坂を下りていきます。

 勿論、帰りはご主人が馬車を操り、坂を駆け上がっていきます。

 そんな彼らを羨ましそうに見ている人々・・・居留地とトアロードを区分するこの「門」の中では、このような光景があったのではないでしょうか。

 そして、この門から続く坂を「トアロード」と呼ぶようになった・・・

 どれを採っても、やはり神戸らしいロマンが薫る素敵な名前と言えます (´-ω-`)うーん

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  • 24

「トアロード」という kobe ロマン(前編) ( ̄ー ̄

 ワタクシが18歳まで住んでいた愛知の小都市の繁華街では、田舎に良く見られるように「銀座××」、「有楽町」といったあちこちから拝借したような、つまらない名前ばかりが付いていました。

 そこへいくと京都では「祇園」、「先斗町」、「花見小路」といった洒落た地名や通り名が犇いていましたし、また大阪でも「道頓堀」、「心斎橋」、「千日前」といった印象深い地名や、水の都らしく「××橋」、また「××筋」といった独特の地名が数多く見られ、大阪らしさを醸し出していました。

 しかしながら当時の若いワタクシの感性に訴えかけたのは、何といっても神戸の「トアロード」とか「フラワーロード」とかいった横文字の地名で、神戸の女学生から

 「トアロードに行こう!」

 などと誘われた時は

 (さすがに異人街らしい、ハイカラな名前があるものやなー)

 と、いつも以上になにやら胸が高鳴ったものです (*´ー`) フッ

 では、そもそも「トアロード」とは、なんの事なのか?

 という疑問から始まり、行き着いた先が以下に引用したWebページですが、そのものズバリ懇切丁寧に解説してありこれが案外に面白かったので、今回は丸ごと引用してしまいます(決して手抜きというわけではなく・・・)

《「トアロード」という名前は、あくまでも通称です。

 そしておもしろい事に、その表記方法も様々なのです。

 トアロードを歩くと、幾つもの「トアロード」に出会います。

 9つの道路標識・6つの地図スタンド・3つのアーチ・2つの絵地図板があります。

 これらの表記はローマ字ありカタカナありで、またその表示方法も様々なのです。

 まずローマ字ですが、殆んどが

 「TOR ROAD」

 と、総て大文字で表記されています。

 ただ、ひとつだけ

 「Tor Road」

 と表記しているものがあります。

 次にカタカナですが「Road」の部分は全て「ロード」と表記されています。

 しかし、問題は「TOR」の部分です。

 「トア」、「トーア」、「トアー」とがあり「一体どの名称がほんと?」となります。

 が、初めに述べましたように「トアロード」は、あくまで「通称」なのです。

 この通りの名称は神戸市が決めたわけでもなく、法律で名称が定められているわけでもありません。

 しかし非常に神戸らしい名称で、この名称に現在の神戸の歴史が凝縮されているのです。

 ではこの名称の由来は、一体どうなっているのでしょうか?

 これについては、実際のところ定かではありません。

 ここにトアロードの神秘性があり、ロマンがあります ( ̄ー ̄)ニヤリッ

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  • 23

「祝園」に隠された血塗られた語源とは?

 「しゅくえん」ではなく「ほうその」と読みます。

 木津川の西岸・相楽郡精華町に「祝園」と書いて「ほうその」の地名があります。学研都市線の「祝園」駅としても知られています。  

 「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」によりますと

 《この地は、『日本書紀』崇神紀10年9月27日の条に、武埴安彦の叛乱を鎮圧するために、大彦と彦国葺が「忌瓮(いはいべ)」を鎮坐(す)えて祈った後、輪韓(わから)河をはさんで対峙し、武埴安彦の軍を散々に破り半分の兵士の首を斬り、「屍骨多(さは)に溢れ」たので、その地を「羽振苑(はふりその)」と言ったとあります。

 『和名抄』には「はふその」の郷名が見えます。

 この「はふその」は

(1) 「ハフリ(葬る)」の約で「墓所」の意
(2) 「祝(はふり)部」の居住地の意
(3) 「ハフ(省、放)」で、「崖地、急傾斜地」

 の意などの説があります。

 この「はふその」は、マオリ語の

 「ハプ・トノ」、HAPU-TONO(hapu=section of a large tribe;tono=drive away by means of a charm)、「(敵の)部族を(まじないの力をかりて)撃退した(場所)」

 の転訛(原ポリネシア語の「ハプ・ソノ」が日本語に入って「ハプ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハフ」となり、H音が脱落して「ハウ・ソノ」から「ホウソノ」になつた)と解します》

 「屠る(ほふる)」に何故「祝」などという、まったく180度対称のようなオメデタげな字面を当てたのかを疑問に思われるところでしょうが、上記(2)の「祝部」に関する納得のいく解説を見つけましたので、以下に紹介します(「祝園神社houzono」よりの引用)

 《社地は「柞ノ森(ははそのもり)」と呼ばれる。

 古くは、ハフソノと呼ばれた。

 「ハフル」の意は、死体を投げ捨てる場所の説明されている。

 ハフルは一方では「祝部」をハフリベと読む事から神職を意味し、葬送を司る事も役割であったのだろう》

 参考までに「祝園」に関する記述として「古事記・崇神天皇の段」だったかに、崇神天皇に反逆を起こした異母兄・建波邇安王(たけはにやすおう)が戦死し、逃げまどう兵士達が楠葉で×××を漏らしたことから付いた「糞袴=くそばかま」が「楠葉」(くずは)の語源として紹介され、続いて逃げまどう兵士達を斬って捨てた場所として「はふりその」=「ほうその」の由来が紹介されていますが、「楠葉」についてはまた回を改めて採り上げていく予定です (´ー`)y━~

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  • 22

洗足と千束(後編)

●ポリネシア語による解釈
 千束の名は、平安時代末期の文献から見られます。

 由来としては、仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田で、1000束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説、大池(洗足池)が水源地として灌漑に利用されたので、稲1000束分の税が免ぜられていたとする説などがあります。

 「テ・(ン)ゴト・ク」、TE-NGOTO-KU(te=the;ngoto=be deep,be intense,head;ku=silent)、「静かで深い(沼。田圃)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、「テ・ノト・ク」が「センゾク」になった)

 しかしながら今一度、初めに戻って考えるに、何故に「洗足池」から離れたところに「洗足」があるのかとなりますが、実は某Webページによれば

 《洗足駅の近辺にある、洗足学園大学附属第一高校》

 がその駅名の由来らしい。

 《この学校名、当然洗足池の地名を冠したものかと思いきや、キリスト教の故事に基づいた命名らしいです。

 なんでもキリストは、明日は十字架の上に消えると悟った時、 12人の弟子たちの足をひとりひとり洗ってやって、最後の晩餐の席についたそうです。

 とはいっても、地名とまったく無関係に思いついたとは考えにくいです。

 この学校の創立者は敬虔なクリスチャンだったらしく、仏教系のエピソードを元に名前をつけるわけにはいかなかったのかな、と思っています。

 よって現状の洗足駅は、洗足池の洗足ではなく洗足学園の洗足から由来しています

 昭和7年(1932年)、当時の東京府荏原郡が東京市目黒区になった時、平塚村の一部で学校のあるところの地名が洗足一丁目となったのが、始まりです》

 ここまで来ると些か眉唾めいた感じもしますが、そもそも

 「日蓮さんが、ここで足を洗った事から洗足となった」

 自体が、どうやら伝承という事のようでした ( ̄д ̄)ブツブツ

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  • 21

洗足と千束(前編)

 洗足という字は「足を洗う」と書きます。

 「足を洗う」という言葉からは、なにやらヤクザ者など連想してしまいがちですが、実は足を洗ったのはヤクザ者ではなく日蓮さんという事のようです。

 洗足池は、呑川支谷の窪地の湧水を堰きとめて作った人工の池で

 《千束池が洗足池と呼ばれるようになったのは、弘安5年(1282年)に、日蓮が身延から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲のやかた(いまの池上2丁目本行寺)に立ち寄った際、千束の池半で休息し傍らの松に袈裟を掛け、池の水で手足を洗ったためといわれています》

 ところがこの「洗足池」のあるのは大田区で「洗足」が地名になっているのが目黒区。

 しかも「洗足池」のある大田区には、同じ読みの「千束」の地名もあるからややこしい。

 恐らくは区割りが出来た時に、変な具合に線引きしたためにこうしたねじれ現象が出来たものと思われますが、元々は「千束」が先のようで、意味は洗足池が灌漑用水を賄っていた為

 《税金が稲千束分、免除されていた》

 事が、そもそもの由来らしい。

 大田区の「北千束」、「南千束」はその名残りだそうです。

 平安時代からあるとされる、古い地名の「千束」の方には諸説があって

  • 稲が千束取れたことから
  • この地にある大池(洗足池)が、水源地として灌漑に利用されていたから
  • 千人の僧を招いて供養を営む法会"千僧供養"の費用に当てる免田であった

 などがあり「千束の郷」という地名が由来という説もあります。

 《名の残るくらい全くの田んぼに遊郭が誕生したのがのちの吉原で、昭和41年に「浅草新谷町」、「浅草千束町」、「浅草新吉原京町」、「浅草新吉原江戸町」、「浅草新吉原揚屋町」、「浅草新吉原角町」などを合併した地名である》

 《大田区の「南千束」、「北千束」とともに、中世にはこの辺り一帯の地名が「荏原郡千束郷」であった》

 多くの町名は、存続の希望が出たのですが叶えられず新住居表示になっていったのですが、その中で積極的に旧町名を改めて欲しいという要望が出された地域が、現在の台東区千束です。

 その旧地名は「吉原」で、やはりイメージが芳しくないとの事だったのです。

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  • 20

信楽のルーツは「紫香楽宮」 ☆ヽ(▽⌒*)

 一昨年の事ですが、奈良の「長谷寺」に牡丹を観に行った知人が「長谷寺」近くに一軒だけあったという酒屋で「こもりくの里」という地酒をお土産に買って来てくれました。

 この酒が旨かった事は言うまでもありませんが、これの入っていた武骨な「信楽焼」の風情のある徳利で、すっかり信楽焼のファンになってしまいました。

 信楽町にはまだ一度も足を踏み入れた事はありませんが、考えてみれば「しがらき」という名前は結構インパクトがありますし、第一に「信楽」の字面で「しがらき」とは読めない難読地名です。

 では、そもそも「しがらき」とはなんなのか? 

 というところから調べてみました。

 《[しがらき]その由来は、天平14年(742年)に聖武天皇が離宮を造営され[紫香楽宮]という美しい漢字の名をつけられたのですが、その[しがらき]という呼び方は遠く奈良時代に、この地が良い木材を産出するところ=山深く木々が繁ったところという意味 =繁る木 =が「しがらき」の地名になった、と言われています。

 また「山に囲まれた土地」という朝鮮語の「シダラ」という言葉が、製陶の技術とともに伝わったという説もあります》

 《しがらきの名は、既に「続日本紀」にも登場し、一説では繁る木が転じて信楽の名が生まれた、ともいわれている》

 《紫香楽宮跡(しがらきのみやあと)=紫香楽宮は奈良時代中頃、天平14年(742)に聖武天皇によって造営され、東大寺に先がけて大仏を造ろうとした都です。

 現在、黄瀬・牧の両地区にまたがる丘陵の残る礎石遺構が、天皇の宮殿跡として大正15年に国の史跡に指定されました。

 しかし近年の発掘調査の結果などから、実は宮殿でなく大仏を造ろうとした「甲賀寺」とする見方が有力です。

 深山に良質の木々が繁った地 =繁る木= 信楽となったとか、朝鮮語の「山に囲まれた土地」=シダラ= 信楽唐ついた名前だなどと伝えられています》

●ポリネシア語による解釈 
 信楽町は滋賀県最南端、甲賀郡に属し瀬田川の支流大戸(だいど)川の上流域で、標高500ー600メートルの花崗岩の山地に囲まれた、内陸盆地です。

 古代には甲賀牧が置かれ、木津川の河谷を経由して大和との関係が深く、町の北東部には聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡があります。

 また、信楽焼の産地として有名です。

 この「しがらき」は

(1)「シ(接頭語)・カラ(高地、涸れ地)・キ(場所)の意
(2)「シガ(其の所)・アラ(荒)・キ(場所)」の意
(3)「新羅人の渡来地」
(4)「繁木(しげりき)」または「柵(しがらみ)」から

 とする説があります。

 この「しがらき」は、マオリ語の

 「チ(ン)ガ・ラ(ン)ギ」、TINGA-RANGI(tinga=likely;rangi=sky,heaven)、「空のような(天上に近いところの場所)」
 の転訛と解します。

 というわけで、元々の「紫香楽(宮)(しがらき)」の由来はすっかりわかった気がしますが「紫香楽(宮)」が今日の「信楽」に転訛していった経緯は、どうにもわからずじまいに終わってしまいました。

 え?

 「肝心な事が、わかってないじゃないか?」って?

 まあまあ・・・その辺りは、これからじっくりと調べますって εεεεεヾ(*'ー`)ノトンズラッ

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  • 19

六甲山系と空海さんの関係 (^ー^* )

 神戸でのデートスポットといえば六甲山が有名ですが、この六甲山系には六甲山と摩耶山、再度(ふたたび)山があります。
 六甲山には、以前に紹介した六甲山牧場やオルゴール博物館が、また摩耶山には布引の滝や布引ハーブ園、再度山には諏訪山ビーナスブリッジなど、それぞれが100万$の夜景を楽しめる神戸自慢のデートコースといえるでしょう。

 「六甲山」の由来は以前にご紹介しましたので、今回は「摩耶山」と「再度山」の由来に迫ってみましょう。

 《摩耶山には天上寺という、大変由緒ある寺があります。

 現在山頂にありますが、昭和51年に本堂が焼失するまではケーブル摩耶駅の少し上にあり、今も遺跡として保存されています。
元々、ケーブルはこの寺に参拝する人のために有ったようなものです。

 さて摩耶という名前も、この寺の縁起に多いに関連するところでありまして・・・

 まず摩耶とは、釈尊(仏陀)の母親である

マーヤ(摩耶夫人=まやぶにん)

 の事です。

 マーヤは、今のネパール領内にあったカピラヴァストゥという都城を治めていた、シャーキヤ族(釈迦族)のシュッドーダナ王(浄飯王)の夫人です。

 王子として釈尊を出産するのですが、産後の肥立ちが悪く七日後に亡くなってしまいました。

 釈尊はその後、王の後妻となったマーヤの妹に育てられ29歳で出家をし悟りを開いた後、42歳のとき生みの親マーヤに感謝をささげ、川の砂金(閻浮檀金=えんぶだんごん)で十一面観音像を作りました。

 その仏像を携えた法道仙人というインド人の布教師が中国を渡り、はるばる日本へやってきます。

 そして数年の間、摂津、河内、和泉の国を遍歴した後、大化2年(646年)に摩耶山上にその十一面観音像を奉ったのです。

これが、天上寺の始まり。

 その後、弘法大師(空海)が唐へ留学中にかつて梁武帝が女人の難産を哀れみ奉ったという摩耶夫人(マーヤ)像 を手に入れ、帰国してから摩耶夫人にゆかりの深い天上寺に納め、寺を山の中腹に移した・・・という事から、摩耶山の名前で呼ばれるようになったのです》

 この摩耶山にある「掬星台」の由来は、以下の通りです。

 《日本三大夜景は函館・神戸・長崎として知られていますが、神戸の日本三大夜景はここ「摩耶山」となっています。

 もっと細かく話すと「摩耶山にある、掬星台という広場」になります。

 「手で星が掬(すく)える」くらい標高が高いという事から、このような名称が付いたそうです。

 もう一つの「再度山」の由来は

 《鍋蓋山と摩耶山の間の山を古くは摩尼山と呼んでいて、その山中には奈良時代に和気清麻呂が開いた、観音霊場があった。
 空海が唐に仏教を学びに渡ろうとした時、長い船旅の航海安全と学問成就を祈ってこの霊場に登り、修行したという。

 唐から帰国した後、お礼のためまたこの山に登って修行した。

 つまり弘法大師が二度登られたので、これ以降「再度山」と呼ばれるようになった》

 という事は「摩耶山」、「再度山」ともに空海さんが名付け親となりますが、今度は

 「では空海さんがこの山に登る前は、どんな名前だったのか?」

 という、新たな疑問が出来上がってしまいました (^ー^* )

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  • 18

ケツ痛い~っ!「箸中」の由来(後編) ( ̄ω ̄;)!! アチャ-

 また『日本書紀』の、この条には

 《悔いて急居(つきう)
 即ち箸に陰(ほと)を撞(つ)きて薨(かむさ)りましぬ》

 とありますが、この「急居(つきう)」はマオリ語の

 「ツキ・ウ」TUKI-U(tuki=pound,beat,attack;u=breastof a female)、「女性の胸(乳房)を打つ(刺す)」

 の意です。

 さらに「ほと」は、マオリ語の

 「ホト」、HOTO(start,make a convulsive movement)、「衝動的に行動を起こす」

 の意です。

 これらを総合しますと、この箇所は

 「(ヤマトトトビモモソヒメは、自分の行為を)悔やんで、衝動的に槍で自分の胸を突いて死んだ」

 と解釈するのが正しく、またきわめて合理的です。

 この『日本書紀』の原文には

《而悔之急居。急居、此云菟岐于(つきう)。
即箸撞陰而薨》

 とあり

 《急居、此云菟岐于(つきう)》

 の箇所は、分注となつています。

 おそらく「はし」という音で伝えられていた言葉を「箸」と解釈し「ほと」を「陰」と解釈したために「つきう」を「急にどしんと腰を落とした」と解釈せざるをえなくなって「急居」の字を当て、その読み(本来の言葉の発音)を分注で示したものでしょう。

 この例は『日本書紀』の編集者が、神話伝説の伝承に用いられた言葉が発音は同じでも日本語とは違う意味である事を知らず、すべて日本語で解釈したために犯した誤りの代表的な例という事ができます。

 また『古事記』の、スサノオのヤマタノオロチ退治の条に

 《肥川(ひのかわ)の上流から箸が流れてくるのを見て、人が住んでいるのを知った》

 という記事がありますが、古代においては一般庶民が箸を使用する事はなかったそうで、庶民よりも早く使用したであろう朝廷の官吏でも、彼らが執務した朝堂跡から箸が発掘されるのは平安時代も中期に入ってからといいます。

 そうしますとこの話は全くの創作か、あるいはこの「はし」も「ナイフ」か「槍」であった可能性があります。

この場合の「刃物」は水に浮くわけですから青銅や鉄の刃物ではなく、木の柄に黒曜石の細刃を埋め込んだ「ナイフ」か、木の棒に黒曜石の刃先をつけた「槍」であった可能性が高いと考えられます。

 ちなみに「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命」の名は、マオリ語の

 「イア・マ・タウ・トト・ピ・モモ・ト」IA-MA-TAU-TOTO-PI-MOMO-TO(ia=indeed;ma=white,clear;tau=beautiful;toto=blood,bleed;pi=flow;momo=ingood condition;to=set,calm)、「実に清らかで美しい、大和の地の血を流して(死んで)手厚く葬られた(姫)」

 の転訛と解します。



上記に記述したような、古からの言い伝えをいまだに守り続けている桜井市では毎年、大和迹迹日百襲姫尊(やまとととひももそひめのみこと)の命日に『姫を弔うために、お尻に箸を突っ込んで町中を練り歩くという奇祭が行われている』

 という話は、残念ながら訊いた事がありません。

 悪しからず・・・にゃはは (*^m^*)ぶはは

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  • 17

ケツ痛い~っ!「箸中」の由来(前編) ( ̄ω ̄;)!! アチャ-

 「箸中」は元々は奈良県桜井市にある「箸墓古墳」から取った地名と言われるため、この地名の由来は「箸墓」から引いていきます。

 「箸墓」の由来は、日本書紀の中にある話で

 《孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、大物主神の妻となった。

 夫である大物主神は昼間姿が見えず、夜にだけ訪れる。

 姫は夫に姿を見せて欲しいと頼んだ。

 すると翌日、櫛笥(くしの箱)に入った小さな蛇となって現れた。

それを見て姫が驚いた為、大物主命は恥をかかされたと言って三輪山に隠れてしまった。

 姫は後悔して、陰部を箸で突いて自殺した。

だから人々は姫を葬ったこの墓を箸墓と呼ぶようになった》(崇神紀10年9月の条)

 という事です。

 《姫が驚いて尻餅をついたら、運悪く箸が突き刺さって出血多量で亡くなった》

 という、事故死説もあります。

 また箸は土師(はじ)の転化したもので、古代の豪族・土師氏と関係するとも言われています。

●箸(はし)墓伝説の真実(Webページより引用)
 『日本書紀』をポリネシア語で読み直す

 奈良県櫻井市箸中に、箸墓古墳(全長276m、後円部の径150m)があります。

 『日本書紀』崇神紀10年9月の条に、大物主神の妻となつたヤマトトトビモモソヒメが夫の姿が蛇である事を発見して驚き、夫の怒りをかったことを悔やんで箸で陰(ほと)を突いて死んだため、その墓を箸墓と言うとあります。

 しかし箸で自殺するというのは、伝説とはいいながらあまりにも突飛で合理性に欠けた行為です。

 この箸墓の「はし」の語源については「はし」は土師器をつくり、古墳の造営を司った「土師(はじ)」氏の「土師」に由来するとする説があります。

 しかし土師氏と磯城地方との関係や時代的関係などについて、さらに検討を要します。

また箸墓の所在する字「箸中(はしなか)」の地名は『大般若経奥書』(永保元(1081)年)に「大和国城上郡箸墓郷内」とある事から「はしのはか」の転訛であろうとする説があります。

 この「はし」は、マオリ語の

 「パチア」、PATIA(spear)、「槍」

 の転訛と解します。

 原ポリネシア語の「パシ、PASI」が、ハワイ語ではS音がH音に変化して「パヒ、PAHI(knife)、ナイフ・短刀」に、マオリ語ではS音がT音に変化して「パチア、PATIA(spear)、槍」となり、日本語に入ってP音がF音を経てH音に変化して「ハシ」となったものです。

 つまり、同じ発音ですが「はし」は食事に使う「箸」ではなく、刃物だったのです。

 通常、女性が自殺する場合に使用する刃物は「短刀、懐剣」でしょうが、短刀で自殺したのではあまりにも当たり前過ぎて話題性に欠けます。

「槍」を使用して自殺したというのが真実で「箸」よりも遥かに合理的ですし、決定的な真実味があります。

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最終更新:2007年09月30日 01:39