ヨーロッパ 義賊

シャーンドル・ロージャ (1813~78)

19世紀の中頃のオーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリーに現れた「義賊(ベチャール)」で「義賊の王様」と言う二つ名もある民族的英雄。

貧民の子として生まれ、すぐに父を亡くし、牧童の賃稼ぎなどをしながら育った。あるとき生活に困った農民のために金持ちの農家から家畜を盗み、以来、追われる身になったロージャ・シャーンドルは、金持ちや貴族から家畜や金を盗んでは貧民に恵む盗賊になったが投獄された。

その後、脱獄、1848年にエリーザベト皇后のお気に入りの人物であるアンドラーシの恩赦状と引き換えに、ハンガリー独立のためにコッシュートに協力して義勇軍《絶望団》を組織し、ラーゲルドルフの戦いで大活躍、戦利品を気前良く分け与え英雄となる。(実際には六週間で義勇軍は解散しているらしいが&&)
反権力、自由というイメージがシャーンドルについての伝承を生み、それとともに第一次大戦後、シャーンドルを主人公にした小説などが生まれている。

彼の伝説のいくつかは皇帝(国王)崇拝と絡んでいる。ハンガリーはハプスブルク家の支配にはアンビバレントな感情を抱いているようで、民族的な政府を作りたいという欲求と同時に強い皇帝崇拝の気持ちもあった。そこで生まれるのがシャーンドルが皇帝を助けるというエピソードである。

1850年7月、フランツ・ヨーゼフ帝がハンガリーを視察からの帰り、王国自由都市セゲド(シャーンドルの根拠地である)を出たあとの平原で、皇帝を乗せた馬車は狂った馬の大群に襲われた。当時はまだ革命の影響でハンガリーに反ハプスブルク感情が強く、警戒が必要だった。フランツ・ヨーゼフが脱出しようと身構えた瞬間、黒シャツを着た騎馬の一団が現れ、狂った馬を落ち着かせ、追い払った。護衛のグリュンネ男爵が彼らに道を空けるよう促すと、彼らは馬を下げ、皇帝の馬車が動き出すと、後ろから護衛するように付き随った。で、この黒シャツの一団のリーダーがシャーンドルらしいのだ。

その後、1848年の革命は忘れ去られ、自由の精神は無法者たちの中にのみ生き続けるという時代となった。当局は敗戦後もゲリラ活動を続けていた無法者の罪状を暴き、英雄視を打破するために密告を奨励し、盗賊を繰り返していたシャーンドルは刑務所に送られ、終身刑のままついに牢死することになる。

※予備知識:17世紀末にオスマントルコが撤退し、逃げ隠れていた貴族階級が戻ってきて農場経営に乗りだした。ヨーロッパは市場経済に移行する時期で、お金を持たない農民の土地は吸い上げられ、極端な貧富の差が生まれた。当時はハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝についた時期であり、エリーザベト皇后がハンガリー=マジャール人びいきだったらしく、そのため、チェコなどのスラブ人には認められなかった自治をハンガリーには認め、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立した。

参考文献:『ハンガリーに蹄鉄よ響け 英雄となった馬泥棒』南塚信吾/著(平凡社)

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最終更新:2005年07月20日 07:31