北米 義賊

ビリー・ザ・キッド(Billy theKid)

本名ヘンリー・マッカーティ(HenryMcCarty)、後にウィリアム・H・ボニー(William HBonney)と名乗る。

1859年、ニューヨーク市のブルックリンに生まれ、辺境のニューメキシコで育つ。身長172cm、細くしなやかな身体つき、明るい色の髪、澄んだブルー・グレイの瞳、であったという。

「左利きのあどけない顔をした殺し屋」 (a baby-faced,left-handed killer)と呼ばれ、伝説では、彼が最初の殺人を犯したのは「母の名誉を守るため」であった。12歳の時に初めて殺人を犯し、13歳から15歳の間のある日、母親をレイプしようとした男を殺したといわれている。以来、21年間の短い生涯に「メキシコ人とインディアンは勘定に入れないで、21人を殺した」ということになっている。人を殺す時には笑いながら殺していたという言い伝えが残っている。

また、テキサスで悪者を殺した時、3発命中させたが、死体の傷痕は1ケ所のみであったという話もあれば、酒場の鏡に写った敵を後ろ向きのまま打ち殺したという話もある。この男が「ニューメキシコのロビン・フッド」(RobinHood in New Mexico)と言われるようになったのは、おそらく、1878年のリンカーン郡の牧場争い(the Lincoln Country Cattle War)で劣性の側に味方したからという理由らしい。

この時期キッドはジョン・タンストール(John Henry Tunstal)という牧場主に雇われ、足を洗おうとしていたのだが、彼が土地の利権争いで暗殺された為、キッドは自警団レギュレーターズを率いて報復を行った。中でも著名なメンバー10名は「アイアン・クラッド (鉄甲)」として知られている。しかしキッドが仇討ちこそ成功させたものの、勢力としては圧倒的に不利であり、最終的には拠点ザ・ハウスを包囲されてしまう。大砲やガトリング砲まで持ちだしての攻撃によって炎上したハウスから、キッドは辛くも脱出。この時に4人を殺していた為、無法者として追われることに。キッドが19歳の時の話である。

キッドは21歳の時にかつての友人であった保安官パット・ギャレット(SheriffPat Garret)に降伏したが、後に看守を殺して脱獄した。この時、トイレで看守から銃を奪ったとも、仲間が銃を隠していたともいわれる。そして最終的に、パット・ギャレットに暗闇の中で追いつめられ、1881年7月14日に射殺された。21歳の若さで死んだビリーは、その時、丸腰であったといわれている。
現在一般的に知られている英雄的なビリー・ザ・キッドのイメージは彼が殺された時には存在しない。生前から悪名高く、殺人鬼、あるいは犯罪者として扱われており、西部における法と秩序の確立を妨げる悪党であって、到底英雄とはいえなかった。肖像も実際は、身長150cmで、手足も小さく、髪は黒く、目も野獣のように黒く光っていた、とも伝えられている。家畜を奪い、駅馬車を襲った「ニューメキシコのロビング・フッド(強盗野郎)」であったともいわれている。当時は一般的には「趣味と暇つぶしは人殺し」という人物像が広まり、西部作家のエマソン・ハウは「進化の過程が生み出した失敗」と記している。

※予備知識:賭博や売春は全く地方の財源にならなかった。そこで、道徳的な面からでなく、課税の公平という点から1870年からカンザスでは全てのキャトル・タウンでの賭博や売春を法的に禁止された。当時の人々は、たとえ賭博や売春が違法行為であることは知っていても、なんらの罪悪感も持たなかった。西部では女性の数が少ないということもあってか、売春婦も後に町の有力な実業家や政治家の妻として平和に暮らした者もいた。無法なキャトル・タウンでは町の秩序を保つために、腕利きのガンマンを保安官として高給で雇った。警察の仕事の量は季節によって変動があり、時期によって増減された。腕利きの保安官がいる町には、無法者は恐れて立ち寄らなくなり、荒くれた西部のキャトル・タウンもカウボーイたちが喧嘩口論で騒ぐことのない静かな町となる。しかしながら、そうなると一般市民は保安官に対して冷淡になり、高給で雇っていることを無駄と思うようになって保安官は皮肉にも解雇されてしまったのである。そこで彼らは、新たな無法者の町を探して町から町へと旅を続けたのである。


*参考文献

・『ビリー・ザ・キッド資料アンソロジー西川秀和 著 Amazonオンデマンド刊

 

 

最終更新:2012年01月16日 16:01