岡谷城


城主

友野石見守高盛

別名



遺構



歴史

友野石見守高盛の居館。
天正2年(1574年)備中松山城合戦で敗れた幸山城城主石川久式は、家臣である友野高盛の居る岡谷城へと逃げ込んだ。すでに毛利方に降伏していた友野高盛であったが、元は主君の石川久式を邸内にて匿うも毛利の軍勢が岡谷城を取り囲んだため、石川久式はもはや逃げることも出来ず、邸内にあった巨石の上で切腹した。

メモ

その後の友野高盛は、石川久式を匿ったことに対してお咎めも無く毛利勢として、天正8年(1580年)9月には備中に侵攻してきた宇喜田軍を禰屋七郎兵衛や中島大炊介元行らと共に撃退し、天正10年(1582年)4月の備中高松城合戦の際には、禰屋七郎兵衛や佐野和泉らと共に冠山城に立て籠もり迎え撃つが、この戦いで負傷する。
友野家墓所は総社市岡谷にあり、高盛の墓と伝わる豊島石製の五輪塔があるという。(未確認)

概要



縄張り図



所在地

総社市岡谷

交通

自家用車

総社市山手公民館から南へ進み、山手小学校の脇を通り、友野食料品店を目印に曲がり、そのまま直進すると溜池にたどり着きます。駐車が出来るスペースがあるので止めさせてもらい、今来た道を少し戻ると左手にある石段を上ると右に古民家があり、その建物の左奥に切腹岩があります。

登城口



注意



写真

城内写真

石川久式の腹切岩。
この岩の上で切腹したという。


登城記録・感想等

こた 09/07/30

岡谷城の場所が分からなかったので、下見がてら訪れてみました。場所について山手村史には岡谷の地名しか載っておらず、うろうろしながら神社なども巡りつつ、どうにも検討がつかなかったので、山手支所の方に「腹切岩」の場所を教えてもらい辿りつくことが出来ました。
石川久式が切腹したという岩は、現在も友野氏の敷地内の母屋の脇に説明板等も無くひっそりとありました。遺構に関しては注意深く観察もしていないため分かりませんが、山手村史によると南側と西側に土塁があるそうです。
役場の方によると現在この屋敷にはどなたも住んでいないということです。

参考文献

「日本城郭大系 13」 「山手村史」

更新日

2010年01月20日

最終更新:2010年01月20日 00:18
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