城主
庄氏、石川氏、小早川隆景、清水宗治、宇喜多秀家
別名
遺構
曲輪(一城別郭)・堀切・土塁・(櫓台)
歴史
延慶年間(1308年~1311年)に庄左衛門四郎資房が築城。
その後の城主石川左衛門尉久智は永禄10年(1567年)の明善寺合戦の際に討死し、その子石川源左衛門尉久式が城主となる。元亀2年(1571年)、久式が毛利氏に従い九州へ出陣している隙に尼子勝久の軍勢が幸山城を攻め取り、尼子方の城となる。その後
経山城合戦での尼子勢の敗退を機に再び毛利方に属することとなる。
天正2年(1574年)に三村氏が毛利氏に背く。久式は三村元親の妹婿であり、また父の久智は明善寺合戦で討死したので宇喜多直家に対して怨みもあり、三村元親の守る
備中松山城へ救援に向かう。城主が留守の間を家臣の友野石見守高盛、禰屋七郎兵衛、江口左京が幸山城を守ることになった。しかし備中松山城が落城し、幸山城も落城、久式は伊予で再起を計るため友野高盛を頼り
岡谷城に逃れるも、毛利勢に取り囲まれ逃れることも出来ずに自刃した。
天正3年(1575年)以降は小早川隆景が城主となり、城代として中島大炊介元行を置く。天正8年(1580年)には天野元明、後には鵜飼元辰が在城する。
慶長4年(1599年)宇喜多秀家の城代として岡家利の与力である湯浅九郎兵衛尉、岡平次郎の2名を置く。
慶長11年(1606年)に破却、廃城となる。
メモ
石川久式の墓所は総社市出井にあり、総社市門田の善根寺に位牌がある。
戒名は、「高岳院殿前備州大夫高岳源山大居士」で没日は「天正三乙亥年六月廿六日」。
概要
いかにも城跡がありそうな形で盛り上がっている、福山(北の福山山頂には
備中福山城が存在する)北尾根上に存在する山城。守護代の庄氏(庄氏は
備中猿掛城も本拠地としていた)や石川氏の居城であり、天正備中兵乱は周囲の城の主城であった当城の攻防戦により三村氏が滅亡するため非常に重要な城跡。
縄張りは『一城別郭』と非常に珍しく、片方の曲輪が敵の手に落ちてももう片方の曲輪で奪い返す事ができる縄張りになっている。
現在は、山自体がハイキングコースになってはいるが、堀の下などは藪が酷く夏場は遺構確認するのは難しい。
北にある曲輪が主郭とされ、ハイキングコース手前の南の曲輪が副郭とされ、両者の間は非常に深い堀切になっている。東の曲輪の東端には土塁が存在する。
このように当城跡は二つの曲輪しか存在せず、非常に小降りでこれが守護代の居城かと思えるほど狭く作りも簡単であるが、主郭にあがると、山陽道があった吉備路が一望できいかに戦略的に重要な地に存在していた城であったかわかる。
縄張り図
所在地
総社市西郡
交通
自家用車
登城口
注意
写真
遠景写真
城内写真
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主郭 |
主郭から副郭を望む 間は大堀切 |
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主郭東側の大堀切 |
主郭より山陽道を望む |
登城記録・感想等
参考文献
「日本城郭大系 13」「清音村誌」「山手村史」
更新日
2010年01月20日
最終更新:2010年01月20日 20:27