城主
上野隆徳・宇喜多氏・伊岐真利・池田由利
別名
遺構
曲輪・石垣・土塁・櫓台・堀・出丸・井戸
歴史
源平時代には児島半島は独立した島であった、その後土砂の堆積などで児島は備中との陸続きとなった。この地は、四国との交通の要衝であったためこの地に城郭が築かれた。 『備前軍記』には、文明15年の第二次福岡合戦で、松田氏を応援する備中勢として上野土佐守、同豊前守、同三河守、同肥前守が見える。肥前守は、延徳2年に備中から児島に移り、常山城を本拠地とし、児島熊野社領を押領し児島北部に勢力を伸ばした。時は流れ、上野隆徳が城主の頃の備前・備中は、備中では、松山城の三村氏が備後の毛利氏と結んで勢力を増長し、備前では宇喜多直家が強大になり、両者は激しく戦闘を繰り返していた。 常山城主の上野隆徳は、三村家親の娘婿であったため三村方の最南端を領していため、宇喜多方と対立していた。ところが、宇喜多氏が毛利氏と接近したため、三村氏が毛利氏に反旗を翻したため、備中は世に言う『天正の備中兵乱』が起こる。毛利氏は、天正2年に、三村氏を討つために出兵し備中の三村氏の城を次々と落とし、翌年の天正3年には三村氏の本城である松山城を落とし、ここに三村氏は滅んだ。そして常山城は三村方の城ということで、最後に小早川隆景率いる大軍に包囲される。城内の兵は200余りで、援軍もいなかったため、隆徳は城を枕に討ち死にする覚悟で迎え撃つ。 天正3年6月6日に毛利軍は攻撃をかけ始めた。城方は寄せ手を引きつけ鉄砲・弓矢を放ち初戦は上野方が勝利するが、翌未明に籠城軍は攻め手を迎討つが、次々に城兵は討ち取られていき落城は目に見えていた。その中で隆徳の妻である、鶴姫(三村家親の娘)は鎧を纏い国平の太刀を持ち、城兵や侍女とともに敵陣に斬り込んだ。その後、鶴姫たちは、城内に戻り隆徳とともに自害し果てた。4日間の壮絶な『常山合戦』は終わった。城は、毛利氏のものになったが2年後、宇喜多氏に引き渡され城代に戸川秀安が入城した。しかし翌年宇喜多氏が毛利氏に離反し、織田氏につくと毛利氏は常山城を攻めるが失敗する。天正7年に再び攻めるも失敗する。天正9年にまた児島に兵を向け、常山の東の麦飯山城に布陣し常山城と対峙する。 この頃宇喜多氏は、直家が病死した直後であったが、喪を隠し、浮田基家が総大将となり、八浜城に入城し毛利氏と合戦(八浜合戦)し、勝利する。(その後
高松城の水攻めが起き、毛利氏と織田(羽柴)氏と宇喜多氏が和睦する)慶長5年に関ヶ原が起こると宇喜多氏が八丈島に流され、小早川秀秋が岡山城主になり、常山城には、伊岐真利が城主となるが、小早川氏も慶長8年に断絶し、備前は池田輝政の子忠継に与えられる。その年に常山城は廃城となった。その資材は、
下津井城に用いられた。
概要
常山にある連郭式山城。西から(テレビ中継塔の基地局となる)栂尾丸・栂尾二の丸です。栂尾二の丸から本丸方面には青木丸・天神丸・北三の丸・北二の丸・本丸・兵庫丸・東二の丸・東三の丸・矢竹丸・矢竹二の丸・惣門二の丸・惣門丸と続き山頂部をすべて占有する形で本丸から階段状に曲輪が『^』の字に配置される。本丸には物見櫓台(天守台)が存在し、隆徳の腹切り岩がそれだと言われる。本丸下にある兵庫丸は隠し郭といわれ、本丸の兵庫丸側には石垣が存在する。栂尾丸の側面と総門丸の側面には石垣が存在し矢竹丸は現在その名の通り矢竹が林立している。
縄張り図
所在地
玉野市宇津木・岡山市南区灘崎町追川
交通
自家用車
山頂の栂尾二の丸に駐車場有り
公共交通機関
JR宇野線 常山駅から徒歩10分で登山口に着く
登城口
宇野線『常山駅』下車徒歩10分で登城口に到着
注意
常山の車道は細いため注意すること。
写真
遠景写真
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北側 |
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城内写真
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井戸 |
腹切り岩 |
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本丸 |
兵庫丸石垣 |
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矢竹丸 |
女軍の墓 |
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栂尾丸石垣 |
碑 |
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総門丸 |
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登城記録・感想等
こた 05/07/06 (晴)
ぴっちゃん 05/8/20(晴)
300メートル級の山です。ちなみに比高が0メートルに近いところからなので・・結構きついです。それに道自身が山をぐるぐる巡って山頂に着くという道なので・・恐ろしいほどきつい・・・。しかもこの日は後輩を連れて自転車で来たのですが・・・・五合目あたりで・・後輩がくたばって・・・。というか自転車押して上るものじゃないです。ちなみに、徒歩なら一直線に上るルートもありますが・・、結構急なので注意してください。
頂上に登ると看板がありここから城内みたいです。ちなみにバスの駐車場があるところは栂尾二の丸。鉄塔が建ってるところが栂尾丸です。ちなみに栂尾丸には石垣があります。そして栂尾二の丸から本丸方面には青木丸、天神丸、北三の丸、北二の丸、本丸、兵庫丸、東二の丸、東三の丸、矢竹丸、矢竹二の丸、惣門二の丸、惣門丸と続きます。(惣門丸にも石垣があるそうですが・・見つけれませんでした)
本丸に上ると・・・・全く整備されてません。というか展望台とかあるけど・・廃墟になってるし。草が某々で荒れ地・・。一応栂尾丸から本丸までは一応整備されてるけど・・・。本丸から惣門丸までは全くの荒れ地・・堀切とかもあるみたいですが・・笹の葉がつもっていてよく分かりませんし・・。蜘蛛の巣とかたくさん貼ってましたし・・。ちなみに、矢竹丸や惣門丸には、草ぼうぼうであれ放題の場所に五輪塔とかたくさんあり、結構シュールな感じでした。 登城するなら・・冬場の方がいいです・・。
居館候補地
古図には山麓に屋舗跡・搦手屋舗跡という記入有り。
また、戸川氏時代には山麓に根小屋があった。場所は不明(幽林堂あたりだろうか?)
参考文献
「日本城郭大系 13」「岡山市史」「玉野市史」
更新日
2010年02月25日
最終更新:2010年02月25日 07:15