城主
清水宗治(清水長衛門尉)
花房氏(陣屋時代)
別名
高松陣屋
遺構
曲輪・出丸・土塁・濠
歴史
歴史は、天正年間、にさかのぼる。松山城の三村氏の有力武将であった
幸山城の石川久式により、備前の宇喜多氏に備えて築かれた。清水宗治は、久式の幕下の武将であった。高松城主は石川久孝だったが、実子が無く養子を迎えていた。しかし久孝に続きこの養子も死没した。そこで石川氏の娘婿の宗治が、長谷川氏と争い、これを殺害し高松城に入ったとされる。
三村氏が毛利氏に離反したことから起きた『天正備中兵乱』では、久式は三村氏につき、宗治は毛利陣営についた。その戦功で、幸山城を毛利氏から与えられ、宗治はこの城に一時期在城し、後に高松城を居城としている。
天正10年に。信長の武将として、播磨の平定に続き因幡の鳥取城を落とした秀吉は、備前の宇喜多氏を織田陣営に加え、そして毛利氏と雌雄を決するために高松城の攻略を始めた。
四月上旬に三万の兵力で城を包囲した織田軍は一気に落しにかかったが、沼に囲まれた城は守りが堅く、多数の犠牲者を出していた。そこで考え出されたのが世に言う『水攻め』である。
こうして、西は足守川から東は蛙ヶ鼻にかけて2.5キロの堤防が12日で完成した。季節は梅雨時堤防に足守川を流し、ダムのように水位が上がり城は浮島のように孤立した。日に日に水位は増し城は水没し始める。城内6千の城兵はなすすべもなく救援の毛利軍も南方の丘陵に陣取ったものの、戦をしかける事が出来なかった。
織田信長の出陣の情報も毛利側に伝わり、和睦の交渉が開始された。毛利輝元は安国寺恵瓊を秀吉の陣所に赴かせた。秀吉は、領地の割譲と清水宗治の切腹を求めたが、毛利氏は宗治の切腹には承伏出来ず、交渉は難航した。
しかし、その交渉中に『本能寺の変』が起き、秀吉は信長の死を伏せ急ぎ恵瓊にあい、恵瓊は城中の宗治のもとに赴いた。宗治は主家の毛利氏と城兵のために自決することを決してあわただしく交渉がまとまった。
6月4日の朝、湖上にこぎ出した小舟の上で、兄の月清と宗治らは自害した。
その後毛利氏と和議を整えた秀吉は、京に引き返し(中国大返し)明智光秀を討ち天下人に上り詰める。
その後、高松城は宇喜多氏に与え、宇喜多氏の武将花房正成が城主となる。
概要
平城。境目七城(
宮地山城・
冠山城・
高松城・
鴨庄城・
日幡城・
撫川城・
松島城)の中核城。現在は住宅地に埋もれているが、本丸を核とし南に二の丸、それらを囲むように三の丸が東側に延び、周囲を北沼・東沼・八反堀・西沼・大池が取り囲んでいたため、平城といえども難攻不落を誇っていた。
遺構は、後に花房氏によりかなり改変されているため、高松の役当時の城跡がどの程度のものだったか不明であるが、本丸の土壇・二の丸との間の堀、復元された二の丸がある。また道路を挟んだ東側も城域であり、東に少し行くと堀の跡もはっきりと確認できる。
高松の役(高松城の戦)の時には周囲に織田軍と毛利軍の両軍の陣城が多数築かれ、現在も残っている。
縄張り図
所在地
岡山市北区高松
交通
自家用車
高松城公園内に駐車場あり
公共交通機関
吉備線『高松駅』からバスで 下車徒歩 分
登城口
注意
二の丸や三の丸は私有地になっている。
また本丸・二の丸濠西側の緑地帯は(当時は沼であり)城跡ではない。
写真
遠景写真・碑
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岡の鼻陣(伝 羽柴秀勝陣)から |
鷹巣城(伝 毛利輝元陣)から |
城内写真
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本丸土壇と背面の濠 |
本丸側面の濠 |
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二の丸跡遠望(白壁のある地点) |
三の丸跡 |
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濠(西沼跡) |
案内板 |
登城記録・感想等
ぴっちゃん 08/8/4(晴)
普通の公園になってます。昔は本丸しかなかったようですが、現在は二の丸(三の丸まで)買い取り公園化して居るみたいです。
本丸西は泥田(沼)で東側に居住区があったようで、現在も本丸東側の道路を越えた辺りから先が堀状に一段下がっておりその先が再び上がっています。しかし、現状では当時の城がどのようにあったかはちょっと想像がつきません。
本丸にある、土壇ですがこれも後世(陣屋時代)に花房氏が作ったらしいです。
有名な戦場であり、有名な城ではありますが(兵庫の三木城と同じように)ほとんど現在の遺構は残ってないのが現状です。
こた 09/7/4 (晴)
居館候補地
本丸を囲むように北に家中屋敷がある。
近くの観光名所
参考文献
「日本城郭大系 13」「岡山市史」「備中高松城跡公園発掘調査概報」
更新日
2010年03月03日
最終更新:2010年03月03日 03:41