城主
池田由成
別名
遺構
曲輪・石垣・堀・出丸・登り土塁・天守台
歴史
この城はいつ頃からあったかは不明だが、秀吉が朝鮮出兵をした文禄年間に宇喜多秀家が既存の小城を改修したと伝えられる。関ヶ原のあと宇喜多氏が八丈島に流されると、小早川秀秋が岡山城主になると重臣の平岡重定を下津井城に置いた。小早川家が断絶した後は、池田忠継が備前藩主になり、下津井城は藩主一門の池田長政が3万2千石で入城し城を近世城郭に大改築をする。当時豊臣秀頼は健在だったため、徳川家康は池田氏の対して西国大名に備える重要拠点にするようにと命じ、これによって大がかりな改修をすることになった。この際廃城にした
常山城の資材を活用したといわれている。寛永9年に鳥取と岡山の両池田氏の国替えにより、池田光政が備前藩主になると、一門の池田由成が3万2千石で入城する。そして島原・天草の乱を鎮圧し幕藩体制が安定した、寛永16年に廃城となった。由成は、その後現在の天城に移って
天城陣屋を構えた。その際城の建築物を使い、陣屋の近くに寺院を作った。縄張りは、東西560メートルに及び、本丸を最高所に据え、本丸の北に天守台がおいてある。本丸西に二の丸。さら西に西の出丸を置き本丸の東に三の丸を置き、その東に東の出丸をおく構造になっている。
概要
山城。岡山県で最後に築城された近世城郭で、総石垣の城跡。
遺構は、山頂の本丸を中心に東西に曲輪群が展開している。本丸は五角形の形をしており100×80mと非常に小さい。本丸北西には天守台があり、3重~5重相当の天守閣が建っていたとされる。本丸東から南には細長い二の丸があり、二の丸中央部には枡形虎口が存在する。二の丸東南隅には隅櫓が存在していた。その東には巨大な竪堀がある。東には非常に広い中曲輪が存在し中央部から東が一段高くなっている。その奥には、現在下津井荘があるが、そこも曲輪で、その奥には出丸群が存在する。
本丸西には、三の丸がありその西に堀が存在し、土橋で西の丸と連携している。西の丸には、北東に櫓台が存在し、西にも櫓台がある。さらに、本丸北にも堀や曲輪のような城跡遺構が存在する。
と、このように下津井の城山山頂部を占有した非常に巨大な城跡である。
なお、この城は、破城の跡が観察できる非常に貴重な城跡である。
縄張り図
所在地
倉敷市下津井
交通
自家用車
公共交通機関
登城口
注意
写真
遠景写真
城内写真
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本丸 奥に天守台 |
二の丸と中の丸の間の堀 |
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二の丸側面の石垣 |
二の丸側面の石垣南西方面から |
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三の丸 |
三の丸隅 |
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中の丸 |
馬場 |
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破城跡 石垣の縦四隅の隅を破壊している |
瀬戸内海を望む 右下の小山は下津井古城 |
登城記録・感想等
ぴっちゃん 06/02/15(晴)
本丸、二の丸、三の丸、西の丸、東の丸、出丸と近世城郭そのものでした。公園の入り口に入ると、立派な石垣が永遠と続いてます。天守台も確認でき、さぞりっぱな城だったんだろうなぁ・・古図には建物描いてるけど、一体どんな建物が建ってたんだろうなぁとか。
さらに、城郭学で城の破壊の参考になる、石垣の角は破壊されていて、破城の跡もきちんと確認できました。
他の岡山県にある近世城郭のどの城にも引けを取らない威圧感がありますし、建物無くても、お城の醍醐味が味わえる良いお城です。
なお、瀬戸大橋がよく見えるので、お城に興味なくても行く価値大です。もし城に興味ないのでしたら、行く時間を夕暮れ間際にしたら、瀬戸内海に沈む夕日と瀬戸大橋の絶景を是非見てくださいな~
居館推定地
近くの観光名所
参考文献
「日本城郭大系 13」「倉敷市史」
更新日
2010年04月24日
最終更新:2010年04月24日 02:57