伊与部山城

城主

小早川隆景

別名

夕部山城

遺構

曲輪・土塁

歴史

この城を築いたのは、明石兵部少輔で、築城期は天正3年以前といわれているが、山裾には土居と描かれていることから、鎌倉末期か南北朝には居館か城のような物が築かれていた可能性がある。明石氏には、児島麦飯山城の明石源三郎一族とか、三村氏の重臣明石与四郎の一族とか様々な説がある。
『備中兵乱』には明石兵部少輔には嫡男がおらず、中島大炊之介の四男彦三郎を養子に迎え、明石与次郎または、余次と改称し城主を継いだとされる。天正3年の天正の備中兵乱の時には、小早川氏の繋ぎの城として重要な戦略拠点となった。

概要

伊予部山の西山頂が城跡。山頂からは、北西に鬼ノ身城、西に木村山城、北東には経山城、東には幸山城、南には南山城が望め、眼下には山陽道が通っているため、要所としては申し分ない場所に位置する。
遺構は、主郭と南に副郭の簡単な構造で良好に残っている。主郭北側と副郭南側には小降りな土塁が存在する。

縄張り図


所在地

倉敷市真備町辻田・総社市下原 

交通

自家用車

麓に伊予部山公園駐車場あり。

公共交通機関

伯備線『総社駅』下車徒歩 分

登城口

伊予部山公園入口から登る

注意


写真

遠景写真・碑

北側から

城内写真

主郭 副郭から主郭を望む

登城記録・感想等

ぴっちゃん (08/1/2)

曲輪は2つあるようで主郭のある北側の端には見づらくなってますが微かに微高地になっていて土塁がかつて存在したことを伺わせます。南には一段下がって副郭があります。こちらの端にも微かに高まりが見えます。非常に小さな城跡でした。

こた(08/1/2)



居館候補地

山裾に土居という地名あり。

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参考文献

「日本城郭大系 13」「総社市史」

更新日

2010年02月25日

最終更新:2010年02月25日 06:34
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