明日のパンツと再起と差し伸べる手(前編)◆z9JH9su20Q




「――は? どうして私が、あんたの手伝いなんかしなくちゃいけないのよ」

 一世一代の哀訴嘆願に返って来たのは、明確な拒絶だった。
 けんもほろろ、というのであればまだ良かったかもしれない。単に取りつく島がないだけなら、まだ作ることができたかもしれないからだ。
 だがそこに込められた感情は、混じり気のない純粋な怒り――絶対零度でなおも燃え盛るその言葉は、カオスに向けられた徹底的な否定だった。

「あんたは、トモキを殺した……っ!」
 ニンフの口から吐き出されたのは呪詛。カオスを苛む無尽の刃が、言霊に載って突き刺される。
「トモキを……私の、私の――っ!」
 ――愛していた人を。

(…………あぁ)

 ニンフの悲しみを、苦しみを――そしてカオスに向けられた、かつて己が“愛”と呼んだドス黒い感情を。カオスは、心の底から理解できていた。
 これほど忌まわしき記憶なのに、今でも鮮明に思い出す、志筑仁美の燃え尽きる瞬間。
 彼女を喪ったその痛み――彼女を奪った、“火野映司”への熱く黒い衝動は、未だ翳ることはない。

 もし、“火野映司”に何かを懇願されたとしても。カオスは絶対に、それを受け入れない。その願いごと、踏み躙ってやりたいという想いに駆られ――その欲望に、従うことだろう。

 だから。ニンフから向けられたこの否定の感情が、覆しようのない物で。
 カオスの望みは、断ち切られて当然なのだという現実を、受け入れるしかなくて――

「――ごめんな……さい……」
 それでも掠れる声のまま、カオスは赦しを請うていた。
「……して……おねがい…………ゆるして……っ!」

 いなくなってしまえば良い、悪い子だって。否定されるのは、辛い。
 それは、孤独に繋がるから。

 もう……一人は、嫌だ。
 暗くて、冷たくて、寂しくて……もう、一人は嫌だ。

 一人では――愛さえも、苦しみなのだから。

 だから、お願い……許して――っ!

「しらなかったの……しらなかったの! わたし、わたしわるいことだって、しらなくて……!」
「あら。私はきちんとお教えしましてよ? カオスさん」
「――――――――――――え……っ?」

 その声は。
 カオスが聞き違えるはずのない、その声は。

「愛は教えることのできないもの……確かにそう言いましたのに。貴女は私に教えられた“愛”などと言い訳して、自分から大勢の人を傷つけて……殺したのではありませんか」
 はっとカオスが面を上げた時――ニンフの傍らに立っていたのは、紛れもなく。
 カオスの最愛の人――志筑仁美だった。

「――――っ!!」

 ただ……カオスに向けられたその眼差しには、あの時感じた温かみなどどこにもなく。ニンフと同じ、極寒の憎悪が燃えていた。
「ニンフさんの愛する智樹さんを。そして、私のおともだちを……まどかさんを……っ!」
「あっ……う、うぅぅぅ……っ!」

 ――言い逃れなぞ、できるはずがない。
 仁美が口にしたのは――全て、真実だったのだから。
 何よりカオスが――仁美の言葉を否定できるはずが、ないではないか。

 例え、仁美が――カオスを憎悪し、その存在を否定しているのだとしても。

「――消えなさい。皆の仇っ!」
 仁美から叩きつけられた拒絶。それと同時に、ニンフの口から『超々超音波振動子(パラダイス=ソング)』が迸り――――



「――――わぁああああああああああああああああああああああっ!?」

 絶叫と共に、カオスは蓄えてきた力を解放した。
 雨風が荒れ狂い、火炎が猛り、雷光が迸る。刃と化した翼が疾走し、周囲一体を切り刻む。
 そして二重のバリアを展開して、否定を拒絶し返した。

「はぁ……はぁ…………うぅっ……!?」

 メダルを消費して落ち着いた次の瞬間に、甘い庇護に包まれたままのカオスはまたもその胸に痛みを覚えた。

 誰かを傷つけては、ダメなのに。
 よりにもよって……仁美やニンフを、自分を否定しようとしたからと言って、自分は……!

 仁美の教えを破って、仁美の友達を傷つけて、殺して……仁美に怒られることを、拒絶して。

「わたし……わるいこだ……」

 きっと、誰も彼もに嫌われる、悪い子。
「愛」を知る資格もない、「愛」を向けられる資格もない。皆から嫌われて、暗くて冷たくて寂しい気持ちのまま、独りぼっちで……
 ……だけどそんなの、耐えられない。



   姉と呼ぶ二人の少女は、カオスの中には存在しない。
   だから彼女が夢に見たその二人は、彼女達自身ではなく――許されるはずがないという、カオス自身の罪悪感と、その重荷に対する恐怖が形となったものだった。
   夢と現と――未熟な判断力から、あらゆる境界が曖昧な彼女にとってそれは、この上ない責め苦で。  



「――大丈夫っ!?」

 だから。
 その人が心配して、駆け寄って――手を、握ってくれていなければ。
 きっと……カオスはそのまま、壊れてしまっていたに違いなかった。



      ○○○      ○○○      ○○○      ○○○      ○○○       ○○○



「おい待て、映司っ!」
 キャッスルドランの方で起きた爆発。体を押さえ込んでいた余波が静まった途端、弾かれたまま飛び出した映司を止めたのは、虎徹の声だった。
「どこ行くつもりだ!」
「あそこには、伊達さん達がっ!」
 自分達を助けに来て、代わりに戦ってくれたという彼らがいるはずの地で、途轍もない破壊が起きた。
 伊達や、それ以外にも誰かの命が脅かされているかもしれない。その内の一つだけでも手が届く可能性があるのなら、今すぐに駆けつけなければという衝動に衝き動かされた映司を、必死の形相で追い縋った虎徹が捕らえる。
「落ち着け! ……気持ちはわかるけどな、今更行ったって着く頃には全部終わってんだろ」

 ――おまえの手は、届かない。

 暗にそう言われている気がして、映司は思わず反発していた。
「……でもっ!」
 抵抗を受けた虎徹はしかし、静かに座った目で映司を見据える。

「……あの娘を置いて行くつもりか?」
 虎徹が顎を使って背後を――眠りに落ちたままのカオスを指し示した。
 言葉にされてようやく。沸騰していた思考が、急速に冷やされて行く。
 その様子を見て取った虎徹は、深い溜息の後、改めて言葉を紡いだ。

「何もないんだったら、俺だって今すぐ駆けつけたいさ。でもな、俺達は伊達の奴に託されたんだ。助けたいあの娘のことを俺達になら託せるって、あいつが俺やおまえを信じてくれたんだ。だったらおまえも、仲間のことを信じろよ、映司。
 ……一人だけで何もかもに手を出そうとしたって、どうにもなんねえぞ」
「そう……ですね」

 ――俺は、その手が欲しかった。

 脳裏を掠めた言葉を飲み込んだまま、映司は虎徹の言葉に引き下がる。

 どこまでも、どんな場所にも届く腕。世界中の誰もを助けることのできる力。
 叶ったと思っていたそれは、まやかしだった。

 結局、映司の手の届く範囲には限りがある。その現実に変わりはなかった。
 ましてや何かを抱えたままでは、届く距離は限られる。

 そして今抱えた何かは、届くか否か、あるのかどうかも不確かなもののために、捨てられるようなものではなかった。
 智樹と、まどかと、伊達と。たくさんの人々の想いが籠められた、重く、重く、重い荷物。

 沈黙を続ける映司の肩を、励ますように虎徹がぽんと叩く。彼に促されるまま、かつてクスクシエだった場所へ向けて一歩踏み出し――

 その瞬間、悲哀に満ちた絶叫が響き渡って。
 同時に、目指した場所が吹き飛んだ。

 いきなりの閃光に二人は目を潰され、吹き付ける烈風から反射的に身を庇う。
 ただ、体力的な問題、はたまた別の要因からか。ともかく立ち直るのは、映司の方が早かった。

「――っ!」

 気づいた時には、駆け出していた。
 それはきっと――あの娘が、泣いていたから。
 恐怖に怯え、押し潰されそうになっていたから。

「――大丈夫っ!?」

 だから映司は、考えるより先に、彼女の手を取っていた。
 もう――後悔したくは、なかったから。



      ○○○      ○○○      ○○○      ○○○      ○○○       ○○○



 繋いだその手は、あたたかくて。
 暗くて冷たいままだけれど、そこだけは凍えてなくて、寂しくなくて。
 この胸に覚えた安らぎを、カオスは知っている。

 ――――私と一緒に、あなただけの「愛」を探しに行きましょう?

 あの時カオスは、初めてこのあたたかさを知ったのだ。
 このあたたかくて、だけど大きくてゴツゴツした掌は、ずっと離したくないと思った、あの人の手ではなくて。

 でも――すごく、ほっとした。

 自分ではない、他の誰かに。この存在を、受け入れて貰えたような気がして。
 そうしてカオスは、自身の手を包むようにした掌の、その根元の腕を視線でなぞるようにして面を上げて――表情を、凍り付かせた。
 ひゅ、と。気道が縮小したかのような呼吸音が漏れる。

「あっ……あ、あぁ……っ!」
(うん?)
 訝しむようにして、震えるカオスの顔を覗き込むその人は。
 火野と呼ばれていた――カオスの傷つけた、青年だった。

「あ、あぁあああああああああああっ!?」
 思わず首を振り、仰け反る。開いた距離に呼応して、握っていたその手が解放される。
「ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい……っ!」
 遠くへ逃げる気力さえも、湧かなかった。頭を抱え耳を塞ぎ、目を閉じて。その場に蹲ったまま、カオスはそれだけを連呼する。

「そんな、そんなつもりじゃなかったの! あれがっ、愛だって……!」
 痛くして、あったかくして、殺して、食べて。
 それを、“愛”だと思っていた。
 愛。それはイカロスとニンフに、エンジェロイドにとって絶対であるシナプスを裏切らせたもの。
 シナプスよりも価値のある――きっときっと、この世で一番素敵なもの。
 それをカオスは、知りたかった。そして皆に、あげたかった。
 ――きっと喜んで、笑顔で褒めて貰えると思ったから。

「それでわたし、おにぃちゃんを……おねぇちゃんを……っ! うぅっ……みんな、みんなを……っ!」
 痛くして、あったかくして、殺して、食べた。
 それは、とっても酷いことだった。
 誰も喜ばない、してはいけないこと。

 ――それを、このおにぃちゃんにはたくさん、たくさん、してしまった!

 顔を隠した彼のことを。仁美を奪い、“愛”を教えてくれた“火野映司”だと思い込んで、張り切って。
 目一杯体を傷つけて。智樹おにぃちゃんとまどかおねぇちゃんを殺して、その心も痛くした。
 悪い子だって、怒られる。嫌われる。いなくなれって、思われる。

 そう思われて、仕方がないことはわかっている。それだけのことをカオスはしたのだから。
 夢の中でそれを認めて、きちんと謝ろうと決めていた。だけど、続いた悪夢がそんな決意を壊してしまった。

 ――己の罪と向き合う勇気を挫かれたカオスは、ただひたすらに、他者から拒絶される恐怖に怯えていた。

(……勝手な)
「ひ……っ!」
 知らず聞こえた声に、縮み上がる。そこには、静かな怒りが込められていたから。
(でも……)
「……反省してるの?」
 次の瞬間聞こえた声には、優しい色が含まれていた。
 恐る恐る、カオスはその顔をズタズタになった布団の上から覗かせた。
「……はんせい?」
 変化への戸惑いもあり、鸚鵡返しするカオスに対して、彼はゆっくりと頷いてみせる。
「そう。自分のしたことを思い出して、良くなかったことがあったらそれを認めて、もうやらないようにしようって思うこと。
 ……今の君は、反省してるんだよね?」

 穏やかで、だけどどこか力強い目で。
 じっとカオスを見つめるその人の瞳に物怖じしながらも、逃げられないとカオスは悟る。
 怖かった。また、罪を認めることが。認めた後のことが。

(――頑張って)

 だけど、ふと。
 誰かに、背中を押された気がして。

 ゆるゆると。カオスは顎を引いていた。

「そっか……」
 それを見取った彼もまた、一度小さく頷いて。
(……この娘はちゃんと、悔やんで、苦しんでるんだ)
「――辛かったね」
 そんな言葉を、柔らかく吐き出した。

 ――その、たった一言で。

 カオスの胸の奥から、何かが、溢れ出た。

「うっ……うぁ、あぁあああぁ……ぁ…………っ!」
 涙を流すのは、何度目だろう。だけれど今度は、咽び泣くたびに、心が軽くなっていく。伸し掛っていた重圧が、消えていく。
 海の底のような、ゆっくり熱を奪われていく冷たさも、氷点下の世界のような、肌を刺すような寒さも、薄れていく。

(……任しといた方が、良さそうだな)
 不意に新しい声が聞こえて、カオスは少しだけ面を上げた。
 その様子を見て、話を続けて良いのかと考えたらしい青年が再び口を開いた。

「自分のしたことがとんでもない間違いだったって、後から気づいて。どうして良いかわからなくなって、すっごく怖かったと思う。
 けど、どんなに間違えた人でも。きっと、やり直せる。本当に困っている人には、手を差し伸べてくれる人がいる」
「手……?」
「そう。手を」
(桜井くんや、まどかちゃんみたいに……)

 口から出たわけではない。しかし確かに聞こえたその名を聞いて、カオスは戦慄する。
「わたし……でも、わたし……おにぃちゃんと、おねぇちゃんを……こ、ころ……」
「……そうだね。それは、とっても悪いことだ」
「――っ!」
 声が硬くなる。俄かに滲む否定の色に、カオスの身が竦む。

「だけど。きっと二人は、君に手を取って欲しいって思ってたんだと思う」

 そうして彼は、その傷だらけの掌を、もう一度――カオスへと、伸ばした。

「――だから今度は俺が、手を伸ばすよ」

「――――――あ……っ」

 差し伸べられた、手。
 一度は繋いだ、だけど今はあまりに眩しいそれに、畏れすら抱いてカオスは問う。

「わたし……ゆるしてもらって、いいの……?」
(許す、か……)
「……わからない。そういう価値は、俺には決められない。
 でも……どうしようもないって思った時でも、少しのお金と明日のパンツがあれば、人は生きていける。
 だから、きっと大丈夫。そんなに思い詰めなくても、何とかなるよ――辛い時には俺や、他の誰かが、きっと傍にいるから」
(うん……マイペンライだ)

 ……最後の言葉の意味は、わからなかったけれど。
 笑顔で語る彼に、おずおずと、微かな恐怖は残しながらも。
 ――カオスはもう一度、その手を取った。

 それに青年は、嬉しそうに頷いた。
「とりあえず、服を着よっか。パンツさえあればって言ったけど、パンツだけでもダメだよね……女の子が裸でいるなんて、いけないから」

 ――女の子が裸足で歩くなんて、いけませんことよ

 彼女を彷彿とさせる言葉を聞いて。喜びと、切なさと。幼い心では、境界の曖昧な雑多な感情が、綯交ぜのまま溢れ出て。
 カオスはまた、滂沱と涙を流していた。



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最終更新:2015年01月06日 20:03